偶像崇拝と映画
四方田犬彦 『映画と表象不可能性』 (産業図書, 2003年) より
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以下引用
絶対者をはたして表象行為の内側において捕えることが可能なのか。 またそれは許されているのか。 こうした問いはユダヤ=キリスト教的伝統が長らく抱え込んできた神学的問題であるとともに、 そもそもが表象行為のシステムとして開始されたシネマトグラフがけっして回避することを避けられない問題でもあった。 今日われわれを取り囲む大衆消費社会では、 映像の際限のない過剰が新たなる抑圧構造を招いているという状況が横たわっている。 映画の作者と観客は音と映像を前にして、 二つの選択肢を前に躊躇することになる。 それは表象行為の全能性の側に積極的に身を置くことによって、 物語の魅惑の秩序に沿って大衆的な啓蒙に赴くという径か、 あるいはその逆に、 どこまでも表象不可能な他者を想定し、 映像がけっして触れてはならぬ禁忌を想定する径のいずれかを採ることである。 アロンとモーゼの永遠に続く対立は、 われわれの世界にあってはスピルバーグとランズマンの対立へと持ち越される。 前者はアウシュヴィッツの悲劇をより多くの世界中の子供たちに告知し、 それを表象として存続させるために 『シンドラーのリスト』 を監督した。 後者はいかなる表象も強制収容所の悲劇を描きつくすことはできないし、 そうするべきではないという認識に基づいて、 映像の不在と欠落そのものを他者なるものの顕現の証しであると主張する。 この二律背反から逃れるには、 どうすればよいのだろうか。
ストローブとユレイはこの二つの選択を前にして、 いずれにも加担しようとしない。 彼らは対立する二つの声の競合 (と同時にその同時の破滅) を提示することによって、 さらなる別の径が可能であるかという探求に邁進する。 [ ストローブ=ユレイ演出 『モーゼとアロン』(1975年) において] モーゼとアロンは互いに永遠の神を説きつつも、 古代の劇場廃墟に閉じ込められた歴史的存在である。 だが、 それをスクリーンで眺める観客は、 けっして彼らと同じ歴史の限定を受けていない。 ストローブとユレイは観客にむかって、 さらに遠くへ、 表象作用がより解放された地点へ赴くように呼びかける。 その場所はいまだに表象されることがなく、 ひとたび表象された瞬間にはただちにそこから遠のいてしまうような空間に他ならない。 彼らは約束するが、 表象はしない。 ましてや指導者としての映像をみずから身に纏っているわけでもない。 多くの素朴な観客たちが二人のフィルムに退屈さ以外の何物をも発見できず、 それを批判するとき、 ストローブとユレイの姿は 『モーゼとアロン』 の第二幕の終わりで言葉の欠落を嘆くモーゼに似ていなくもない。 だがその指先ははるか遠方にある約束の地を差していて、 人は彼らの作品の孤独にして開かれたあり方からそれを見て取ることができるのである。
引用おわり: 133-34頁
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素敵な文章だなぁ…
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