データベース的消費の貧しさと時間的経過とともに変容する偶有的なもの、あるいは『ナウシカ』までの宮崎作品
- 長谷正人 『映画というテクノロジー経験』 (青弓社, 2010年11月)
この著作の核となる主張のひとつとして、 長谷先生は
もしそのような時間的経過から生じる偶有性を楽しむ余裕を持たなければ、 あらゆるイメージの 「細部」 をデータベース的に平板化させてしまうこの社会のなかで、 もう一度映像の豊かさを感じ取る感受性を私たちが取り戻すことなどできないだろう。
と述べている (92頁)
とても重要な指摘なのだが、 これだけ読んでも
なかなか意味をとらえることがむずかしい
このテーゼは、 直接には
『赤ん坊の食事』 (リュミエール兄弟, 1895年) の批評として
提出されているのだが、 それに先立って
宮崎駿作品の批評が展開されている
====================
以下引用
[……] 物語的展開が一通り終わったところから見れば、 確かに私たちは 「海賊」 や 「ラピュタ」 や 「腐海」 といった、 不透明な事物の集積として、 宮崎ワールドを認識することになる。 それは間違いない。 しかし宮崎作品を見る経験の楽しさの根源は、 決してそのような 「結果」 としての認識ではなく、 物語的展開のなかで個々のイメージの表情が次々と変容していく 「プロセス」 にあると言うべきだろう。 例えば私たちは 『天空の城ラピュタ』 の海賊たちの生き生きした労働の姿を見るとき、 それまで自分たちがほんの 「細部」 でしか彼らを見ていなかったことに気づくことになる。 しかし、 とするならば、 その時点で私たちが中心的に見ている労働のイメージもまた、 あとで 「細部」 に見えてくる可能性があることになるだろう (事実ラストでは彼らは財宝の略奪者として現れる)。 つまり私たちはここで海賊のイメージを、 まるで刻々と変化していく背景の天候のように、 時間的な偶有性に開かれたものとして楽しむのである。 だから逆に言えば、 海賊のイメージを、 そのような時間的経過とともに変容する偶有的なものとしてではなく、 最初から悪も善も含んだ矛盾した存在として一元的に提示されたとしたら、 私たちは 『天空の城ラピュタ』 をそれほど楽しめなかったに違いないだろう。 『もののけ姫』 や 『千と千尋の神隠し』 がもう一つ面白くなかったのは、 まさにそのためだと思われる。 例えば 『もののけ姫』 のタタラ場は、 銃という兵器を生産する場 (悪) でありながら、 同時にらい病患者や女性のような社会的弱者に労働する場を与えるユートピア的な共同体 (善) でもあるという不透明な表情を帯びた場所として描写されている。 しかし宮崎駿はなぜかそれをラピュタの場合のように、 あるイメージが別のイメージによってあとから次々と変容させられていくような時間的展開のなかで描写してくれないのだ。 彼はなぜか、 この場所を最初から複雑な場所として平板に描いてしまっている。 『千と千尋の神隠し』 の舞台となる湯屋もそうだ。 [……] それはまったく正しい世界認識なのかもしれない。 だがだからこそ、 この二作品はもう一つ魅惑的ではないように思う。 近年の宮崎作品は、 空間的な 「細部」 を不透明に描写しようとして、 物語的な経過のなかに生まれる 「細部」 の魅惑を忘却してしまったように思えてならない……。
引用おわり: 91-92頁: 漢数字をローマ数字にあらためた: 注は省略した (以下を参照)
====================
なるほど と思いました
なお、 リュミエールの作品は多くが
ネット上で 無料で観ることができます
« 映像の触覚的経験、 あるいは存在そのものの映像経験 | トップページ | アメリカ映画があれほど大量のホラー映画を生産しつづける理由 »
「映画・テレビ」カテゴリの記事
- 映画上映会 『マダム・マロリーと魔法のスパイス』(2015.11.11)
- [ワークショップ] 映画の撮影の現場に立ち会う!(2014.11.18)
- 映画の宗教学 ―映画の層構造と《底》あるいは《魔》―(2014.09.18)
- 『それでも夜は明ける』(12 Years A Slave) を語る(2014.03.28)
- 『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』を語る(2014.03.20)
「03A 思索」カテゴリの記事
- クザーヌスのお勉強(2015.07.21)
- 儒学を入れるしかなかった近世神道、そして尊皇倒幕へ(2015.05.04)
- 日本教における自然(2015.05.01)
- 日本教的ファンダメンタリズムの大成者(2015.04.29)
- 路上の神様―祈り(2014.11.30)
この記事へのコメントは終了しました。
« 映像の触覚的経験、 あるいは存在そのものの映像経験 | トップページ | アメリカ映画があれほど大量のホラー映画を生産しつづける理由 »
コメント