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2011年4月10日 (日)

アメリカ映画があれほど大量のホラー映画を生産しつづける理由

  • 内田樹 『映画の構造分析 ―ハリウッド映画で学べる現代思想―』 (晶文社, 2003年6月)

僕が参照・引用したのは上記ハードカバー版

別に 文庫版があります (リンクは下記)

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以下引用

 アメリカの文化史的文脈ではトラウマを語る物語は (それこそが 「物語の王道」 なのですが) 「恐怖譚」 のかたちをとることになりました。 「モンスター」 あるいは 「ゴースト」 をめぐる無数の説話群がそれです。 抑圧されたものが症候として回帰するとき、 それは必ず 「不気味なもの」 という形姿をまとう、 というのがフロイトの洞見でした。 これはハリウッド・ホラー映画にそのままあてはまります。

 なぜ、 アメリカ映画があれほど大量のホラー映画を生産しつづけているのか、 その理由は簡単です。

 ホラー映画は 「抑圧されたものの回帰」(revenant = 回帰するもの/不気味なもの) についてのアメリカ的な決着のつけ方なのです。

 ですから、 『13日の金曜日』(Friday the 13th, by Sean J. Cuningham, 1980) も 『エルム街の悪夢』Nightmare on Elm Street, by Wes Crare, 1984) も、 本質的にはエンドレスなのです。

 「怪物」 は人間そのものが生み出すのだ、 ということについてアメリカのフィルムメーカーは満場一致しています。 フランケンシュタインは博士が作りだした怪物ですし、 ドラキュラ伯爵もペンシルヴェニアまでおせっかいな人間がやってきて伯爵を揺り動かさなければ甦ることはなかったでしょう。 ジェイソンがあんなに暴れるのはもとはといえばキャンプ場のアルバイトの若者たちの無責任な任務放棄が原因ですし、 フレディが夢の中で子どもたちを殺し回るのは、 エルム街の連中が彼を焼き殺したからです。

 ホラー映画では、 モンスターをゆり起して活動させるのは人間の側の働きかけです (もちろん例外もあります。 人間が名にもしないのに発動する邪悪なもの ――それがおそらく究極のホラーの主題なのですが―― を語った物語作家はあまりいません。 ヒッチコックや村上春樹はその例外的な人々です)。

 モンスターの活動は人間が解錠する。 このことについてはおそらくハリウッド映画関係者は全員が了解しています。 しかし、 ゴーストそのものが人間自身の欲望の代理的表象であり、 その出現を人間は激しく欲望していたのである、 というところまで踏み込んだ物語は 『ゴーストバスターズ』 をもって嚆矢とします。 アメリカ映画ははじめてトラウマの本質に触れた、 という意味ではこれは歴史的傑作と名付けるべき映画でしょう。

引用おわり: 162-65頁: ルビ省略

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精神分析の理論を援用した映画解釈の まさに典型、 といえます

これはこれで、きっと当たっているのでしょう

しかし、 これは 単なる 「足がかり」 にすぎないんだ

と僕は申し上げたいと思います

一番大きな枠組みにすぎないのであって、つまり

それだけでは 何も言ってないのに等しい、 ってことです

==========

考えてみるべきことが たくさん残されているんじゃないでしょうか

たとえば、 アメリカでホラー映画が爆発的に量産された

すなわち 圧倒的に 「観客をひきつけた」 のは

1950年代~60年代にかけてですが

その背景として ベトナム戦争や公民権運動等

激動するアメリカ同時代史が決定的であったのは

すでに当時から、 制作者にも観客にも

十分に意識のうえ了解されていたのでした

意識されたものとされないもの――

制作者と観客――

無意識の 「抑圧」 機構と政治権力の関係――

この複雑な現象を説明することができたとき、 やっと

精神分析による映画解釈の有効性が 議論の俎上にのるでしょう

(が、 内田先生は それをしません)

==========

あるいは、 内田先生が絶賛する 『ゴースト・バスターズ』 は

1984年の作品ですが、 この時代ならではの特徴はないんでしょうか

あるとすれば、 それは一体 どのようなものなのでしょうか

(内田先生は この問いに一切、答えていません)

他にも 残された論点はあります

ドラキュラもフランケンシュタインも

19世紀初頭のイギリス浪漫主義の発明です

それが、 20世紀になって 欧州大陸でリバイバルし

その後 アメリカに渡ったわけです

(内田先生は こうしたことをご存じでしょうが、一切触れません)

こうした ジャンル・ホラーの歴史も 一緒に解釈されたとき

深層心理学による映画解釈の意義がどういったものか

僕らは 皆で考えてみることができる

それまでは、 なんとも手の下しようがない――

ということではないでしょうか

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以上のような意味で 本書は たしかに面白いけど

単なる 足がかり、 手がかりにすぎない ということを

読者としては しっかりわきまえておくべきだと思うんです

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