視覚の近代史、 あるいは映画と世俗
映画論を 《世俗の宗教学》 の一環として構想できないか――
そのための一つのヒントをいただきました
- 長谷正人 『映画というテクノロジー経験』 (青弓社, 2010年11月)
ちょっと長いですが、 引用させていただきます
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以下引用
[…] 19世紀初めの西欧社会で、 視覚をめぐる認識的布置が大きく変貌した。 それ以前には、 視覚に関する認識モデルの中心を占めていたのは 「カメラ・オブスキュラ」 であった。 ルネサンス以来の数々の画家が、 遠近法的に正確に世界を写し取るために利用したこの装置が視覚のモデルであるということは、 その時代には、 「人間自身がどのように世界を見ているか」 という問題には注意が払われていないことにほかならない。 問題は 「カメラ・オブスキュラ」 という装置を使っていかに 「正しく」 世界を知覚するかということなのである。 しばしば幻影を見てしまうような人間の眼など、 不完全な装置でしかない。 ところが、 19世紀初めになると、 まったく反対に、 この不完全な器官による 「主観的な」 視覚の方が、 認識モデルの中心を占めるようになる。 いまや問題は、 「正しい」 視覚ではなく、 人間にとっての視覚 (主観的な視覚) がどのようなものであるかなのだ。 その結果、 例えばそれまで事実としては知られていても幻影的現象として無視されてきた網膜残像現象が脚光を浴び、 逆に光学的真理の地位を得る。 なぜなら、 この現象は外的対象物がない、 純粋に 「主観的な」 視覚だからである。
こうして、 19世紀初めに、 視覚の問題は 「真理」 の問題から 「主観」 の問題になった。 とするならば、 その論理的帰結として当然、 主観的能力としての視覚の失調が問題にされなければならないだろう。 それが、 19世紀末に起きたことだと言える。 もちろん、 「主観的視覚」 が問題となった当初から幻影的現象 (網膜残存現象のような) は問題になっていた。 しかし、 それは所詮コントロール可能な問題 (規律訓練の対象としての眼) として提出されていたにすぎなかったのだ。 それに対して、 19世紀後半に現れた 「失認症」 の問題は、 光学的には見えていても 「主観的」 にはまったく見えていないという、 「主観的視覚」 の根本的な機能不全だと言えるだろう。 視覚を 「神」 から 「人間」 の側に取り戻すことが、 かえって視覚不全の可能性を示唆してしまうというパラドックスに、 西欧社会はさいなまされることになったのだ。 そして、 映画の登場はまさにこの視覚不全の可能性を誰の眼にも明らかなかたちで具現化したのである。 したがって、 いささか奇妙に聞こえるかもしれないが、 映画とは視覚の新しい可能性の発現どころではなく、 その不可能性の発現として登場したと言わなければならないだろう。
クレーリーはしかし、 視覚の統合機能の喪失の可能性は同時に、 その再統合の可能性の開示であり、 19世紀末における視覚のパラダイム・チェンジとは、 そうした解体と再統合の反復の軌跡を追う弁証法的でダイナミックな理論の登場だと論じている。 そして映画もまた、 この新しい視覚のパラダイムのなかにあると言うのだ。 確かに映画を見る私たちは、 ある対象に強く固着していた視線を、 次のシーンではいともややすく他の対象に移してしまう。 あるいは一つのシーンに対してでも、 ある対象 (例えば、 主人公の姿) だけを注意深く見て、 他の対象 (背景の街の光景) にはぼんやりとした視線しか与えていない。 ここには確かに 「注意」 深い視線と 「不注意」(散漫) な視線との動的な弁証法が成立していると言えるだろう。 しかし、 こんぉような弁証法が成立するのは、 映画の 「意味」 を一義的に確定できるという前提に立った、 あるいはコミュニケーションの手段としての 「映画」 が成立しているという前提に立ったうえでのことにすぎない。 実際私たちは、 ちょっとした不注意ですぐにシーンの 「意味」 がわからなくなってしまうことがあるだろう。 カメラは常に世界を失認症の視線で捉えているのだから、 そこにはもともと一義的な 「意味」 などなかったはずなのだ。
引用おわり: 29-31頁: 漢数字をローマ数字にあらためた: 注は省略した (以下を参照)
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長谷先生がここで依拠しているのは
ジョナサン・クレーリーの次の二つの仕事
- 「解き放たれる視覚―― マネと 「注意」 概念の出現をめぐって」 長谷正人/岩槻歩訳 (長谷正人/中村秀之編訳 『アンチ・スペクタクル―― 沸騰する映像文化の考古学』 東京大学出版会, 2003年)
- 『視覚の宙吊り―― 注意、 スペクタクル、 近代文化』 (岡田温司監訳, 石谷治寛/大木美智子/橋本梓訳, 平凡社, 2005年)
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