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2011年4月 3日 (日)

映像の触覚的経験、 あるいは存在そのものの映像経験

先ほどアップしたばかりの 前便 にひきつづき

長谷先生の下のお仕事から

これまた 前便 同様、 長めの引用をさせていただきます

  • 長谷正人 『映画というテクノロジー経験』 (青弓社, 2010年11月)

長谷先生の文章は

コンパクトな引用を なかなかゆるしてくれません

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以下引用

 『列車の到着』 [リュミエール兄弟, 1895年] を見た観客たちが、 恐怖のあまり逃げ出したという、 あの 『列車の到着』 神話が意味するものは何だったのだろうか。 確かに私たちが先に分析したとおり、 この神話が当時普及していた背景には 「鉄道恐怖症」 があったことは間違いない。 鉄道への恐怖心こそが、 この映画の迫力ある列車への評判を煽り立てていたのだ。 しかしこの神話は同時に、 世界で初めて映画を見た人々の、 映像を見ること自体への衝撃をも表していたと言えるだろう。 つまり観客たちは列車の突進を、 「風」 や 「波」 の運動と同様、 日常的な認識枠組み抜きに直接的に受け取ってしまった。 だからそれが、 スクリーンから溢れ出てきてしまうようにさえ感じ、 逃げ出そうとした。 言わば彼らは、 「ある形而上学的意味における、 列車それ自体の存在」 を触覚的に感じ取ってしまったというわけだ。 だから逆に日常的な認識枠組みを通してしかこの映画を見ようとしない私たち現代の観客は、 この映画に何の恐怖心も感じない。 カメラはプラットフォームに立っているから、 線路上を走行する列車がカメラの左側をする抜けていくことなど日常世界の常識ではないか。 正面のカメラに向かってくるはずもない。 だが映画創世記 [ママ] の観客たちは違った。 彼らは私たちのように人間的・文化的視覚世界の枠組みに押し込めて 「映像」 を見るのではなく、 まさにカメラ的視覚に同一化し、 映像を 「野生」 の状態で感受してしまった。 だからこそ列車は彼らに向かって飛び出してきたのである。 それは決して 「夢想」 でも 「錯覚」 でもない。 それこそ映画という触覚的現実そのものだったのだ。

 むろん映画史の起源における映像とのこの直接的遭遇は、 さまざまなかたちで隠ぺいされ飼い馴らされなければならなかった。 それは、 そのままでは私たちの日常的な認識枠組みを破壊しかねない危険物なのだから。 そもそも当時普及していた 『列車の到着』 神話自体が、 カメラ的視覚のなまなましさの問題を被写体としての 「鉄道」 恐怖の問題にすりかえてしまっていたことを思い出さなければならないだろう。 そして 「ヘイルズ・ツアー」 もまた、 こうした 「野生」 状態の列車映像を、 乗客からの視覚という 「認識枠組み」 のなかに押し込めるための文化的試みだったのである。 こうして20世紀社会の映画受容の歴史は、 この起源における映像との直接的遭遇を、 社会や権力の側がどのように隠蔽してきたかをたどる歴史とならなければならない。 だが、 そうした飼い馴らされた映像の歴史のなかにあっても、 観客たちは常にどこかで映像の直接性とどこかで出会ってきたのだということを決して忘れてはならない。 そして実際、 この 「触覚的経験としての映像」 という問題こそ、 映画と社会との絡み合いの歴史に実に興味深い陰影を与えていくのである。

引用おわり: 77-78頁: 漢数字をローマ数字にあらためた: 注は省略した (以下を参照)

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  • 映像を見ること自体への衝撃
  • 映画という触覚的現実
  • 映像との直接的遭遇
  • 映像の直接性

などの表現は

  • 映像を 「野生」 の状態で感受
  • 「野生」 状態の列車映像

などの表現のパラフレーズだが

ここでの 「野生」 という語を、 長谷先生は

次の論考から導入していらっしゃる

  • 中村秀之 「映像の野生を解き放つ―― イメージの言説/言説の不安」 (太田省一編著 『分析・現代社会―― 制度/身体/物語』 八千代出版, 1997年)

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