青谷秀紀 『記憶のなかのベルギー中世』
宗教概念批判は それ自体、さほど強靭な哲学的含意をもつわけではない
だから、 それはむしろ 「宗教学の方法論」 というべきものだ――
と 僕には思われる
とまぁ 小難しい文脈はあるのではあるが、 ともかく
宗教学基礎論にとって ヨーロッパ中近世史が
近年の学的動向のせいで さらにさらに肝要になった――
このことは疑えない
ということで… コツコツ勉強しております
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たとえば こういった著作――
- 青谷秀紀 『記憶のなかのベルギー中世―歴史叙述にみる領邦アイデンティティの生成』 (京都大学学術出版会, 2011年4月)
著作紹介として 最終段落を引用させていただきます
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以下引用
さて、まとめに入ろう。 以上のように、 中世の南ネーデルラントに典礼的世界観からの脱却を見たからといって、 これはそのまま同時代のこの地域に世俗化された近代そのものの起源を確認することではない。 現代の起源を近代に見いだし、 近代の起源を中世に見いだす視点では、 結局中世は現代の起源探しの対象以上のものにはなりえない。 むしろ、 歴史にわれわれの予想を裏切るものを見いだすべきであるというのが、 中世の 「歴史的動物」 たちとの対話から教えられたことではあるいまいか。 第一部で紹介したディームがいうように、 近代のフランドルはフラマン語を話す地域としてとしてのフランドルであり、 現在の連邦制ベルギー国家のフランドル政府も言語共同体として構成されている。 当然これが中世のフランドルと異なることはいうまでもなく、 さらにここには言語境界線で分断されたブラバント北部のフラマン語地域も含まれている。 そして、 こうして近代に達成された 「歪な」 政治単位の形成が、 さまざまに学問世界の歪みをもたらすことになったのである。 前近代に独自の存在形態を擁したにもかかわらず、 近代がそれを作り変えつつ利用したことにより、 われわれが見誤ってしまっている社会と文化。 これを認識することが豊かな中世像の構築を導き、 われわれの地盤をも照らしだすことに繋がるだろう。 中世南ネーデルラントにおける領邦アイデンティティや民族意識の形成および変容のプロセスを明らかにしようという本書の実践は、 こうした前近代の社会と文化それ自体を見直し、 近代ベルギーや 「歴史的動物」 としてのわれわれの姿を考察するという試みの端緒にすぎないのである。
引用おわり: 240-41頁
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