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2011年8月 5日 (金)

ラディカルなモンタージュ、 あるいは映画そのものが宿らせている本質的な宗教性

石原陽一郎さんは 「ラディカルなモンタージュ」 と題された次の節で

「映画そのものが宿らせている本質的な宗教性」

に言及します。 それはどうやら

「現実が潜在的に秘めているもろもろの相を、 日常生活の桎梏から解放して明るみに出す」

という働きのことを指すようです

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 ブレッソンの映画は、 例えばルノワールやロッセリーニの映画がそうであるように、 途切れのないショットによって観客にありのままの現実をじっくり観察させるというものではない。 むしろ、 そのショットの持続は極端に短いことが多く、 身体部位のクロースアップ (スリたちの手、 ジャンヌの足、 バルタザールの眼…) や、 首から上をフレームからはずした人物のショットに典型的なように、 現実を意図的に断片化して切り取っている。 ショットが断片化され、 それじたい無意味であればあるほど、 モンタージュによって無限に多くの意味へと開かれることになるからだ。 大胆な省略に代表される、 自由で思いがけないショット繋ぎがこの動きを加速することになるだろう。 モンタージュは現実の操作であると考えられることが多いが、 モンタージュによって、 現実が潜在的に秘めているもろもろの相を、 日常生活の桎梏から解放して明るみに出すという点で、 ブレッソンの映画は、 本質的にモンタージュの映画でありながら、 モンタージュを退けるルノワールらの映画よりもある意味でラディカルなリアリズムを実現していると言えるのだ。 ともかくも、 宗教的な題材を内容としてもつにとどまらず、 作品の構造そのものによってその宗教思想を語るブレッソンの映画は、 ある意味で、 映画そのものが宿らせている本質的な宗教性を顕現させているとさえ言える。

石原陽一郎 「ロベール・ブレッソン」 (服部弘一郎・編集部 『シネマの宗教美学』 フィルムアート社, 2003年4月) 35頁

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