天才/革命家の学問/知識/思想、あるいは『森のバロック』の射程 ※ 『森のバロック』 読書メモ②
■ 勉強会 「中沢新一は何を云っているのか? ― 『森のバロック』(文庫版) を通じて―」
- 2011年9月24日(土) 16時~
- @日本女子大学目白キャンパス
- UST中継もやります (詳細後日)
今週末にせまったので いくつかのメモを残しております
ここでは 本書の 「射程」 を見定めておきたいと思います
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たとえば、 次のような句
- 「私たちの未来を開く、思想の鍵」 (69頁)
- 「来るべき人類の学問」 (96頁)
さらには 次のような一段落
学問とは、 その様子を見て楽しむためにあるのである。 またその楽しみを、 十分に知りぬいた人のやる学問でなければ、 本当に人間を豊かにすることなどはできない。 熊楠は一生涯、 そういう学問しかやらなかった。 そうでない学問などには、 なんの関心もしめさなかった。 「南方熊楠曼陀羅」 は、 そういう人によって、 人生に至高の楽しみをあたえるための極意として、 考え出されたものなのだ。 「南方曼陀羅」。 まさに、 楽しみは尽きることがない。
105頁
『森のバロック』文庫版実際に焦点を結ぶのは、 どうやら
こうした天才/革命家の学問/知識/思想という水準のようです
さて、その 意義と限界 はどのようなものだろう?
僕の注意がこういうところに向いてしまうのは、もちろん
『森のバロック』原書が1992年、オウム事件の3年前だという事情
それだけが理由なのではありません
《思想/学問/知識にもとづく歴史形成》という
一般的な問題設定への関心にもよります
すなわち
- 天才的な革命家が 僕らの歴史にもたらしてくれるものはなんだろう?
- 学問や知識や思想の刷新は 僕らの歴史にとってどんな意義をもつのだろう?
ということです
さらに別の個所もみておきたいと思います
[熊楠は] 未来の学問の全体構造を透視しようとしていたのだ。 そういう学問は、 まだほんとうにはつくりだされていない。 あらゆるものが、 いまだに新しいものにむかっての変化の過程にある。 だが 「南方曼陀羅」 は、 その変化の過程に、 進むべき正しい方向をしめす海図を提供してくれる。
99頁
そうかもしれない(そうでないかもしれない)、 で…
もしそうなら… 学問/知識/思想は
歴史の総体的変化において どのような位置を占めるというのか…?
僕が問題にしたいのは そういった問いです
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