『虐殺器官』 における 「自然」
伊藤計劃 『虐殺器官』 より
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ぼくは一手一手を慎重に吟味するように進んでいく。 湖が味わった生物相の地獄などまるで知らないとでもいうように、 そこはある程度調和のとれた、 ごく普通のジャングルだった。 もちろん自然は、 穏やかで完璧に調和のとれた存在などではまったくない。 人間も種を滅ぼすが、 自然だって同じくらい種を滅ぼしている。 進化というのは調和ではない。 それはあくまで適応なのだ。 多くの種が生まれ、 環境という条件に試され、 あるものは生き残りあるものは滅びてゆく。
わたしという認識も、 あなたという区別も、 すべてこの進化の過程のなかで生まれてきたのだ、 とルツィアは言っていた。 言語も含めた人間の意識はすべて、 生存の適応のなかで発生し、 環境によって淘汰され、 そうして生き残った機能の集合なのだ、 と。 遺伝子によるものかミームによるものか、 それはわからないが、 良心も、 罪も、 罰も、 その進化の過程の一部であり、 完全に独立した 「魂」 の創造物ではないのだと。
けれど、 とルツィアは言った。 それでも遺伝子とミームが人間のすべてを決めているわけではない。 人間は環境に左右されるし、 それになにより、 選択はつねにひとつではないのだから。 完全に白紙の状態ではすべての可能性が許されるかもしれない。 だが、 ぼくたちはそれまで生きてきて形成した価値観、 大切に思うもの、 愛しいもの、 しなければならない義務、 そういうすべてを天秤にかけて、 どれかを選ぶことができる。
文庫版 353頁
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来年度 (2012年度) の 「宗教学の方法」 前期で
現代日本の 「自然」 概念を取り上げるので
メモがわりに
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