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2012年8月の記事

2012年8月30日 (木)

20世紀初頭の東京の映画事情

前便 「日本の近世における世俗的な秩序化」 でも紹介した

佐藤弘夫ら(編) 『概説 日本思想史』 (ミネルヴァ書房, 2005年)

日本思想史の一断面として 「映画」 の流行をあげている

第Ⅳ部 「近現代の思想」 中の

「第22章 都市と大衆の思想」 (渡辺和靖) の一節です

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 [20世紀の初頭] なんといっても、新しい時代の娯楽の王者は映画である。

 日本において、映画が注目されるようになったのは、日露戦争[1904~05]の進行状況を報道するニュース映画が各地で上映されたことに始まる。さらに明治40年代[1907~11]に至って、浅草を中心として商業映画が流行し始めた。その様子を、荒畑寒村(1887~1981)がその自伝において劇的なかたちで証言している。

 1908年(明治41)6月、寒村は「赤旗事件の前日」浅草に遊んだ。

唯一の常設映画館であった電気館に入り、十二階と称した凌雲閣に登って東京の市街を俯瞰し、その下の「びっくりぜんざい」で腹一杯駄汁子を食って帰って来た。それが懐かしの東京に対する私の惜別なのであった。

 二年後、赤旗事件の刑期を終えて、寒村は再び浅草を訪れる。

当分の名残りのつもりで浅草に遊んだ時、電気館一軒よりなかった映画の常設館が今では軒をつらねて、玉乗りだの改良剣劇だのの小屋はもうほとんど見られなかった。そして映画そのものの内容も昔とは一変して、長編のドラマ化された『ジゴマ』などが人気をよんでいた。

 連続活劇映画「ジゴマ」[1911年製作の仏映画、日本公開も同年]については、堀辰雄(1904~53)が初期の短編「手のつけられない子供」で次のように描写している。

「ジゴマごっこ」といふ一種の遊戯が僕らの間に流行しだしたのは、それから間もなくのことでした。/それは、僕らの中のもつとも強いものがジゴマに選ばれ、それから次に強いものがニック・カーター探偵になり、その他のものは三人がジゴマの乾分に廻される外、全部ニック探偵の部下になつて、ジゴマを捕縛するために大活躍をするといふ遊戯でした。

 また、萩原朔太郎[1886~1942]は、『月に吠える』[1917]に収録された「殺人事件」において次のように歌っている。これが浅草で映画「ジゴマ」を見た印象をもとに制作されたという指摘がある。

とほい空でぴすとるが鳴る。/またぴすとるが鳴る。/ああ私の探偵は玻璃の衣装をきて、/こひびとの窓からしのびこむ、/床は晶玉、/ゆびとゆびとのあひだから、/まつさおの血がながれてゐる、/かなしい女の屍体のうへで、/つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。(第一連)

 最先端の東京は、ラジオやレコードという新しく登場したメディアを通じて全国各地に流された流行歌「東京行進曲」[1929]にそのほとんどが取り入れられている。

昔恋しい、銀座の柳/粋な年増を 誰が知ろ/ジャズでをどつて リキュルで更けて/あけれや ダンサァのなみだあめ//恋の丸ビル あの窓あたり/泣いて文かく 人もある/ラッシュアワーに 拾つたバラを/せめてあの娘の 思ひ出に//広い東京 恋故せまい/いきな浅草 忍び逢ひ/あなた地下鉄 私はバスよ/恋のストップ まゝならぬ//シネマ見ませうか お茶のみませうか/いつそ小田急で 逃げませうか/変る新宿 あの武蔵野の/月もデパートの 屋根に出る(西条八十作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子唄)

 4番の前半部分は、初め「長い髪して マルクスボーイ/今日も抱える 赤い恋」となっていたのを、レコード会社側の自主規制によって現在のように変えられたという。スタイル自体は七七七五の都々逸を二つ合わせたような形になっているが、ジャズ、丸ビル、ラッシュアワー、地下鉄、シネマなど、内容はきわめてアップ・トゥー・デートなものであることが分かる。

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258-9頁: ルビ省略

【引用者注】 流行歌 「東京行進曲」 とは、 日本で最初の映画主題歌。 その映画も、同題の『東京行進曲』(1929)

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2012年8月26日 (日)

日本の近世における世俗的な秩序化

佐藤弘夫ら(編) 『概説 日本思想史』 (ミネルヴァ書房, 2005年)

古代の思想・中世の思想・近世の思想・近現代の思想の4部からなる

各部の冒頭には 「概説」 がおかれている

「近世の思想」 の概説 (136-42頁) は 田尻祐一郎先生の筆による

そこでは 「世俗生活」 をキーワードに

「世俗的な秩序化」 なる事態が略述されています

以下引用――

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 中世までの人々は、恐ろしい物の怪やおどろおどろしい怪異の力、人知を超えた神仏の霊異の中に生きていた。合理的な思考や人生の冷徹な観察も、そういう怪異・霊異の世界の中で、それを前提にして獲得されていた。しかし中世の後期から近世にかけての巨大な社会変化は、世俗生活の意味を決定的に大きくし、怪異や霊異の力を、あるいは呑み込み、あるいは周辺に追いやっていくことになった。ここで言う世俗生活とは、職業を持って継続的に家族生活を営み、子や孫の成長を楽しみとし、近親の者の死を見取り、ほどほどの娯楽を味わい、自分たちの生活の安定や向上を何よりの価値として生きることである。そういう俗塵の中の暮らしは、迷いや執着として否定されることなく、人間らしい積極的な意義を持つ生き方として力強く肯定された。宗教をはじめ政治や経済など、人間の活動のあらゆる領域が、この世俗生活の側から価値づけられるようになる。世俗生活の円滑な持続のためには、社会に安定した秩序が保たれなければならない。その秩序は、超越的な宗教的世界から説明されるのではなく、世俗生活にとってそれがどのような意味を持っているのかという点から説明されるようになる。

 近世に始まって今日に至るこのような傾向を、世俗的な秩序化と名付けることにしよう。近世の思想を理解するには、まず世俗的な秩序化の構造を知る必要がある。

136頁: ルビは省略

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なお、 本書での 「中世」 は およそ11世紀~16世紀

同じく 「近世」 は およそ16世紀~19世紀

つまり、 戦国時代から江戸時代の話 ということです

2012年8月 3日 (金)

科学者は信頼できるか

2012年8月2日付 朝日新聞(朝刊)の 「オピニオン」 欄

  • 「科学者は信頼できるか」

「欧州連合(EU)の主席科学顧問 アン・グローバーさん」 との

ロングインタビュー記事だ

記名は 「編集委員・高橋真理子」

前文にはこうある

 福島原発事故の後、科学者への信頼が揺らいでいる。 これは日本だけなのか。 欧米各国は、 科学者の意見を代表して政権に伝える首席科学顧問 (チーフサイエンスアドバイザー) を持ち、 欧州連合 (EU) も昨年12月から置いた。 その初代に就任した生物学者アン・グローバーさんにダブリンで会い、科学とどう向き合うべきかを聞いた。

グローバー氏の紹介文にはこうある

 56年、 スコットランド生まれ。 専門は生化学。 アバディーン大学教授。 06年から11年までスコットランド主席科学顧問。

ネットでは 会員限定で読める

以下、 気になったところを書きぬきしておきます

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 「 […] 科学は完全無欠ではありません。 それでも、私たちが手にしているものの中で最善であり、 リスク評価に実際に役立っています」

 ―― 他の道はない?

 「その通りです。 (科学以外を頼る) 他の道ははるかに悪い」

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 ―― 福島事故後の日本では、 原子力や放射線防護の専門家が、 それまで原子力発電を推進してきた人だと見なされて、 発言が信用されない状況が生まれました。 同様のことが欧州でも起こりうるでしょうか。

 「いえ、 起こらないと思います。 人々が誰を信頼するかについては調査がたくさんあります。 それらの調査では、 欧州では一般に科学者の信頼度が高い。 私がよく知るのは英国ですが、 科学者への信頼はとても高いです。 政府研究機関の科学者は少し落ち、 政治家やジャーナリストはもっと下になる。 日本で科学者が信頼されていないと聞き、 とても残念です。 日本の市民にお勧めしたいのは、 科学者を観察し、 何を言うか聞き、 徹底的に問いただすことです。 なぜそう主張するのかを聞けば、 科学者は説明するでしょうし、 説明すべきです。 逆にお聞きしたい。 科学者が信用できないなら、 いったい誰を信用するのですか?」

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 ―― 英国で狂牛病が広がったとき、 政府は当初、 人に感染しないと言いましたが、 後になって間違いだとわかりました。 このときは英国の科学者も信頼を失いましたよね。

 「はい。 そう思います」

 ―― どうやって信頼を取り戻したのですか。

 「良い質問ですね。 私は、 間違いを認めることによってだと思います。 正直さがとても大事です。 そして、 透明性です。 当初は人に感染する証拠がなかった。 それは事実です。 その後の研究で感染しうるとわかった。 それで、 我々は間違っていたと正直に伝えたわけです」

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【以下追記 120803 14:35】

…と 以上のことを書いたところ

ツイッターの上で 島薗進先生  グローバー氏らへの批判を語られた

曰く、 「日本で起きている混乱について何も言えていない」 と…

そのまま再録させていただきます

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1 【科学者の信頼喪失問題】 Nature の Geoff Brumfiel の ”Fukushima's uncertainty problem,” July18, http://www.nature.com/news/fukushima-s-uncertainty-problem-1.11031 … は 「科学の信頼喪失」 を否定しているかに装い、 突然安全論に飛躍し読者はとまどう。

2 【科学者の信頼喪失問題】 ジェフ・ブラムフィールのコラムは実は科学の限界を認めるのが主な内容。 朝日の高橋真理子記者 8/2 「EUの首席科学顧問に聞く 科学者は信頼できるか」 http://digital.asahi.com/articles/TKY201208010571.html?ref=comkiji_redirect  … 「科学の信頼喪失」等、 間違いを認めればすぐに克服できると。

3 【科学者の信頼喪失問題】 朝日が紹介するアン・グローバーもネイチャーのジェフ・ブラムフィールの記事も日本で起こっている種類の 「科学の信頼喪失」 が彼らには未経験である事を告白しているようなもの。 あっさり打ち消そうとするが、 その根拠はきわめて薄弱。 朝日科学医療部はこれをどう展開する?

4 【科学者の信頼喪失問題】 昨年10/10日経は滝順一編集委員の 「科学者の信用どう取り戻す ―真摯な論争で合意形成を」 という記事を掲載 http://chikyuza.net/n/archives/15403 … 、 『中央公論』 本年4月号は吉川弘之学術会議元会長、 元東大総長の 「科学者はフクシマから何を学んだか」 を掲載。

5 【科学者の信頼喪失問題】 吉川論文は 「地に墜ちた信頼を取り戻すために」 の副題で容易ならぬ課題であると認めてる。 日本国内では率直に科学の信頼喪失を認める科学者も増加。 それこそ科学のモラルの基礎となる知的誠実というもの。 日本の科学者にも科学ジャーナリズムにも問題を見抜ける人は多い

6 【科学者の信頼喪失問題】 海外はどうか? Nature の Geoff Brumfiel の ”Fukushima's uncertainty problem,” 朝日の高橋真理子記者 「EUの首席科学顧問に聞く 科学者は信頼できるか」 はこの問題が世界的な波及力をもっていることを示している。

7 【科学者の信頼喪失問題】 だが、 イギリスからこの問題に参入してきたアン・グローバーもジェフ・ブラムフィールも、 日本で起きている混乱について何も言えていない。 認識できないのは当然。 BSE問題とは規模も背景も違う。 原爆被害の科学や核大国による核情報管理という大問題が関与 (了)。

2012年8月3日 9:50 から 10:01 にかけて

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2012年8月 2日 (木)

《映画の宗教学》 もしくは 「宗教と映画」論の課題

さっき ツイッターの方で ちょいと呟いたことを 言い直して再録しておきます

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宗教と映画が社会機能上で等価である――

なんてことを指摘するのは ほんのほんの、ほんの! 入り口にすぎない 

等価なんてことは、 ちょっと考えれば 誰にでもすぐわかるんではなかろうか…

入口はそれでいいとして、 そっから先が 本当にむずかしいんである

何がむずかしいのか、 包括的に考えてみることが必要だが

その足がかりとして ここにメモしておこう

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「映画の宗教学」 もしくは 「宗教と映画」 という問題設定について

パッと図式的に思いつくだけでも 次のような課題がある

  1. 藝術・芸能・娯楽と《宗教/世俗的近代性》という問題
  2. 宗教概念に言説論的な意味において不可避に課されている機能論的バイアス、もしくは超越性への人間学的な遡及―― これを反省・検証すること
  3. 社会機能なる概念そのものの哲学的探求

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2.の問題は、宗教概念自体を担ってきた宗教学の

(理神論とまではいかないが) ユニテリアンとの近接関係を

ボクらとしては 「あぁまたその噺ね」 と斜にかまえたりせず

ちゃんと考えなおしてみる、っていう課題につながっていくんだよなぁ (*´ω`*)

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また、 2.や 3.との関連で…

「第三者の審級」 「超越論的他者」 「超越論的シニフィアン」 「ゼロ記号」…

これらの概念はあらかじめ

(近代的) 宗教概念へとチューニングされているんじゃないか…

このように問うことが 必須であろう

例えば、 deus(羅)を語る語りが、 それらの概念のモデルとして

陰に陽に用いられている、と考えることはできよう

とすれば、 宗教概念との整合性には 実はなんの不思議もない…

ということになるではないか (´・ω・`)

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しかしこうした関心や視角は 宗教概念批判をくぐった者にだけ与えられるだろう

この批判の重要性を認識した人たちのあいだでないと

上のような議論は立ち上がることすらできない…

いや、 もっと誠実に こう云うべきだろう――

宗教概念批判論者が そういう哲学的な含意を 十分に延長できてないのがいけないんだ…

つまり、お前がちゃんと仕事をせい、ってことなんだな >オレ

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【追記 130327】

続編 「《映画の宗教学》 もしくは 「宗教と映画」論の課題 その2」

書きました どうぞご笑覧くださいませ

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