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2012年8月 2日 (木)

《映画の宗教学》 もしくは 「宗教と映画」論の課題

さっき ツイッターの方で ちょいと呟いたことを 言い直して再録しておきます

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宗教と映画が社会機能上で等価である――

なんてことを指摘するのは ほんのほんの、ほんの! 入り口にすぎない 

等価なんてことは、 ちょっと考えれば 誰にでもすぐわかるんではなかろうか…

入口はそれでいいとして、 そっから先が 本当にむずかしいんである

何がむずかしいのか、 包括的に考えてみることが必要だが

その足がかりとして ここにメモしておこう

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「映画の宗教学」 もしくは 「宗教と映画」 という問題設定について

パッと図式的に思いつくだけでも 次のような課題がある

  1. 藝術・芸能・娯楽と《宗教/世俗的近代性》という問題
  2. 宗教概念に言説論的な意味において不可避に課されている機能論的バイアス、もしくは超越性への人間学的な遡及―― これを反省・検証すること
  3. 社会機能なる概念そのものの哲学的探求

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2.の問題は、宗教概念自体を担ってきた宗教学の

(理神論とまではいかないが) ユニテリアンとの近接関係を

ボクらとしては 「あぁまたその噺ね」 と斜にかまえたりせず

ちゃんと考えなおしてみる、っていう課題につながっていくんだよなぁ (*´ω`*)

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また、 2.や 3.との関連で…

「第三者の審級」 「超越論的他者」 「超越論的シニフィアン」 「ゼロ記号」…

これらの概念はあらかじめ

(近代的) 宗教概念へとチューニングされているんじゃないか…

このように問うことが 必須であろう

例えば、 deus(羅)を語る語りが、 それらの概念のモデルとして

陰に陽に用いられている、と考えることはできよう

とすれば、 宗教概念との整合性には 実はなんの不思議もない…

ということになるではないか (´・ω・`)

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しかしこうした関心や視角は 宗教概念批判をくぐった者にだけ与えられるだろう

この批判の重要性を認識した人たちのあいだでないと

上のような議論は立ち上がることすらできない…

いや、 もっと誠実に こう云うべきだろう――

宗教概念批判論者が そういう哲学的な含意を 十分に延長できてないのがいけないんだ…

つまり、お前がちゃんと仕事をせい、ってことなんだな >オレ

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【追記 130327】

続編 「《映画の宗教学》 もしくは 「宗教と映画」論の課題 その2」

書きました どうぞご笑覧くださいませ

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