« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »

2013年1月の記事

2013年1月29日 (火)

蕗の薹のあみ焼きと道元禅師

棚橋俊夫さん に教えていただいた精進料理の高み、深み…

その後 この本をたまたま手にし、何度も読み返してきた

最近また読んだ、1章ずつ熟読している

なんだかふかく感動してしまって

2013年、今年から 精進料理らしき料理を始めてみよう、と決意したです

部分引用しにくい文章なんですが ちょいと一節をご紹介

====================

 読者は禅宗の精進料理なるものは、はなはだケチなもので、きたならしいものだと思われるだろう。それも自由である。道元禅師ふうにやれば、大根一本の中でも捨てるところは何もないのだから、それはそのとおりである。しかし、すぐれた典座によって、どのようなところにそれがつかわれているかによって、料理はきまるのかもしれない。すなわち工夫の妙が要るのはそのせいだ。

 たとえば、ぼくが、こんどやってみた、蕗の薹のあみ焼きはおもしろいではないか。形のいいのをえらんで、串に二つ三つさし、サラダオイルにつけてから、唐辛子を焼くみたいにあみ焼きするのである。色が変ってきて、狐いろになるころ皿へ盛り、わきに甘い味噌を手もりしておくのである。酒客でよろこばぬ人はめったにいない。

 古老先徳がさきに示した料理にもし舌つづみをうつのなら、これを継承して、さらによくすべきだろう。先徳がたとえば三銭の費用で菜っぱ汁をつくったら、今日、三銭でミルク入りのあえものをつくろうと心がけるくらいの精進がなくてはならぬとは道元禅師のことばだ。ここでぼくは、精進料理の「精進」なることばをはじめて了解するのだ。

41‐42頁: ルビは省略

====================

2013年1月24日 (木)

すぐれた童話が乏しい理由、あるいは真の童話に求められるもの

エントリ 「童話は子供だましの低級な文学ジャンルなのか」 の続報

山室静先生のノヴァーリス論は 読みやすく面白いです

====================

 しかし、童話には童話としての陥穽と危険がある。その方法があまり軽やかで自由で、時間や空間の距離を容易にとびこえて、現実を思うがままに変容させたり組替えたりすることを可能にするため、どうしても思い現実と対決することがおろそかになりがちなことだ。そこで、ノヴァーリスが求めたような、なんらか絶対的必然的と受取られるごとき叙述をたどって、読者の心を深く満足させる結果に導くことは、他の文学ジャンルよりも却って困難とならざるをえない。すぐれた童話が、すぐれた詩や小説よりも乏しい理由である。童話がきびしい現実を忌避しあるいはとび越えて、手品師めいたトリックで読者をおどろかしたり、子供の遊戯のような無邪気な戯れに耽ったり、空想の翼をひろげて華麗や珍奇やの世界へ人を誘ってゆくことでつきるならば、そこには満たされないものが残るからだ。童話には遊びや驚異はつきもので、それだけでも楽しいことに相違ないが、真にすぐれた童話には、それ以上に深く人の心を打って、人生の真実にふれたと思わせるだけのものがなくてはならぬと思う。詩や劇や小説は、特定の情緒に没入したり、生の提供する特殊の問題をあつかったり、一口に言って、多様な人生のなんらかの特殊相を描きだすことで、十分に成立しうる。しかし、童話に要求されるところは、幼い人々にも理解できる、よし十分に理解はできなくとも、感受することはできるところの、もっと単純であって、それだけに本質的で全的な、万人の魂の奥底にふれるものでなくてはならないかと思う。

「すべての童話は、いたるところにあって、しかもどこにもない、かの故郷の世界の夢にすぎない」

 [ノヴァーリスの] この『断章』の中の言葉は、そんな童話の世界を、かなりみごとに示している。それはどこにもあるが、真実の意味ではどこにもない、魂があこがれる真の故郷の姿をうつすものと言いかえてもよいだろう。

「ノヴァーリス」 363-64頁

====================

2013年1月23日 (水)

経産省の介入派と制度派、あるいはグローバル化の下での経済ナショナリズム

2013年1月21日付 朝日新聞朝刊に シリーズ「限界にっぽん」の記事が載った

構成がなんだかややこしいのだが、どうやら

「第2部 雇用と成長 大阪から⑤」 というのが総括タイトルのようだ

1面と6面、二つに分かれている

ネット記事に出てくる「眼中に日本なし」という句は 紙面にはない

第一記事のタイトルにある「竜」とは中国のことである

液晶パネルの分野にフィーチャーして 中国企業の台頭と日本企業の凋落をレポートする

善し悪しはべつにして、典型的な経済ナショナリズムの枠組みによる見方だ

記事の締めの段落には こうある

手厚い官の支援と巨大市場の力で台頭する新興国にどう立ち向かうか。企業の戦略とともに、政府の産業政策が問われている。

これを受けての第二記事(6面)になるわけだが

そこでの「介入政策の復活」という切り口が 僕の眼をひいた

経産省内部での路線対立の紹介だ

====================

 経産省には長年、二つの思想の対立があった。ひとつはフレームワーク派(制度派)と呼ばれ、規制緩和や金融政策などを通じて、経済成長を促すことを重視する考え方だ。もうひとつは、特定の産業や企業に介入するターゲティング派(介入派)と呼ばれ、成長が見込めそうな産業を重点支援したり、経営難の企業を救って業界再編を促したりする。

 ここ数年、介入派の成果はあがらなかった。エルピーダメモリは経産省が中心となって再建策をまとめたものの、倒産した。次々と再編を促した半導体や液晶は、どの社も青息吐息だ。

 その介入派がいま復権しようとしている。「新ターゲティング・ポリシー(介入政策)の大胆な遂行」。自民党の衆院選の公約には、そうある。アイデアを持ち込んだのは経産省だった。

==========

 子ども手当など分配政策に傾きがちだった民主党政権に代わり、自民党政権は成長政策を重視する。司令塔として日本経済再生本部を作り、その下に産業競争力会議を設けた。成長分野に税・財政を集中投入する「新ターゲティング・ポリシー」を立案する予定だ。

==========

 阿部政権が設けた日本経済再生総合事務局の約50人のうち、最大勢力が十数人を送る経産省だ。前のめりの経産省に対し「個別産業の救済を念頭においたものではない」と事務局幹部は牽制する。茂木経産相も「個別の産業というよりももっと全体を」という。

====================

具体的な制度・機構、活動する個人名なども 記されている

よくよく注目したい

2013年1月22日 (火)

「安心社会」のなかの刑務所

今日の朝日新聞の朝刊、インタビュー頁「オピニオン」

刑務所から見えるもの

犯罪学者・ 浜井浩一先生(龍谷大教授 元法務官僚) のお話だった

部分的に引用しておく

====================

[日本には] 刑事司法と福祉の連携がないため、高齢の受刑者が急増するという世界的にも異常な事態が生じているのです

==========

最大の問題は社会のセーフティネットが壊れていることです。仕事も身寄りもなく、福祉にもつながりを持たずに社会で孤立している高齢者や障害者は、ホームレスになるか万引きや無銭飲食を重ねてでも生きていくしかない。受刑者は減っていますが、刑務所内で死亡する高齢者は増加しています。 […] [刑務所は] 社会のいろんなところで拒否された人たちの最後の『居場所』になってしまっています

==========

貧困、自殺、犯罪。問題の根っこはつながっています。今は普通に生活している人だって、いつそういう状況に陥るかわからない。それは心の問題ではなく、社会に居場所があるかないかの問題です。人は一人で反省できても、一人では更生できないのです

==========

[日本人は]刑事司法を信頼していないのに、なぜ悪いことをすると罰を受けると思っているのか。欧米の常識では理解不能です。

 そこで私なりに、社会心理学者の山岸俊男さんの理論を援用して読み解いてみると、日本人がそう思うのは、地域コミュニティーや会社コミュニティーなど『仲間内』での相互監視にさらされているからだと考えられます。村八分になるのは怖い、自分が怖いのだから他人も怖いだろう、だから変なことはしないはずだという意識の集積が『安心社会』を築き、それによって日本の治安は守られてきたのかもしれません。それは他者に対する信頼をもとに築かれた社会とは根本的に違います。だからこそ、仲間ではない人間に対する警戒心は強く、排他的です

====================

この他にも 考えさせられるコトバがたくさんあった

記憶して いつかちゃんと勉強してみたいと思った

2013年1月19日 (土)

童話は子供だましの低級な文学ジャンルなのか

山室静は アンデルセン評伝 (原1975年) のなかでこう書いている

====================

 それ [ブランデスが描くアンデルセンの顔] はたしかに、多年の辛酸をへて諦念に達しながら、なお底に才気を潜めている、ある美しさをもった顔であったろう。それにしても、それが性格的な弱さをもった弱者の顔であることに変りはない。そしてこのものと彼の文学とは、ブランデスも見ているように、切っても切れない関係にあるのだ。彼は詩を書き、小説や劇も試みて、かなりの作を残しているのは事実だが、それらはいずれも優雅ではあっても、男性的な天才の特色である強烈な個性、深い思想、鋭く問題を追求する力といったものを欠いていて、第一級のものには達しえなかったと言わねばならない。

 しかし、童話という小さなジャンルでは、事情が異る。それは白日の下に赤裸な姿をさらしている世界ではなく、言わば少年時代の金色の靄をすかして眺められた世界だ。事物の鋭い輪郭はぼかされ、対立やギャップは埋められて、すべてが単純で無邪気な親しみやすい姿を呈し、そこに若々しい生命力と、その美しいあこがれだけが目立っている。重苦しさ、深刻さ、悲劇的なものなどはできるだけ避けられて、軽やかさ、ユーモア、気まぐれや移り気さえが、むしろ讃えられるべき美質になる。この世界でこそアンデルセンが、その才能を全的に展開させることができたのに、ふしぎはない。

 それはそれとして、では童話は、他のジャンルに比べて、子供だましの一段と低級なものなのだろうか。決してそうではないだろう。それは少年時代の、ブランデスのいうエレメンタルな要素からのみなっている至福状態のいわば再現であり、また未来に人間の待ち望む理想郷の予兆なのだ。そういう意味で、文学の原型あるいは故郷といっていい。ノヴァーリスが「童話はいたるところにあって何処にもない故郷の夢だ」としたのは、こんな意味からであったろう。

 アンデルセンの人間としての弱さ、大人の文学者としての弱さが、ここでは却って大きなプラスになっているのを見る。

「アンデルセンの生涯」 252-53頁

====================

2013年1月18日 (金)

アベノミクスと通貨戦争

いわゆる「アベノミクス」に対しては 賛否両論が大きく分かれている

相当に実験的な、厳密にいえば歴史的に前例のない政策であるため

万が一の場合、その責任をどうとるつもりなのか、という

慎重派の立場には 一理ある

一方、支持派の期待と熱狂も 大いに分かる

このまま真綿で首を絞められるように弱り死んでいくのではないか…

そうした恐怖は 実にリアルなものであるからだ

さて…

今日の朝日新聞(朝刊)に 小さな記事が載っていた

アベノミクス 海外から批判

ここで云われる「大きな懸念」は 国内の慎重派のものとはかなり異なる

そこで赤裸々に示されているのは

経済ナショナリズム(もしくは経済ブロック)同士の対立である

ふつう私たちは 国内の経済的な生活活動に注目するのだから

このグローバルな文脈には なかなか気づくことができない

あるいは、気づいたとしても その重要性を推しはかりかねる

だからこそ、これについては はっきりとした認識をもつべきだ、と思った

==========

記事によれば…

ドイツ財務相が公的に示した「大きな懸念」の背景には

「自分たちの通貨が割高になっていることへの不満があるようだ」とする

同相は、「世界で金余りがさらに進む」として 日本を批判した

また、ユーロ圏財務相会合の議長もまた

「ユーロ相場は危険なほど高い」としている

さらに、ロシア中銀の第1副総裁は

アベノミクスを「非常に保護主義的な金融政策」としたうえで

これが「急激な円の下落につながる」ことで

各国が自国通貨安を競う「通貨戦争」の引き金を引きかねない、との

懸念を示したという

==========

日本の国民経済と円を守ることは「政治」の真っ当な課題である

他国や他地域のことまで鑑みる余裕は 今の日本にはない――

実力や実態はともかく、意志と感情のレベルにおいてはそうだ――

これもまた大いに理解できることだ

しかしその一方で、「通貨戦争」の帰趨は 私たちの日常に直接影響する

あるいは、それが「戦争」であるからには 「人類」の幸の総量を大きく減らす

アベノミクスが 諸外国、諸地域に必然的にもたらす影響については

つねにセンサーを働かせておくべきである――

あらためてそう思ったです

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

Twitter


読書メーター

  • mittskoの今読んでる本
  • mittskoの最近読んだ本

鑑賞メーター

  • 最近観たビデオ
    mittskoの最近観たビデオ
2016年7月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

イーココロ

無料ブログはココログ