« すぐれた童話が乏しい理由、あるいは真の童話に求められるもの | トップページ | 宗教概念批判の哲学的基礎づけ »

2013年1月29日 (火)

蕗の薹のあみ焼きと道元禅師

棚橋俊夫さん に教えていただいた精進料理の高み、深み…

その後 この本をたまたま手にし、何度も読み返してきた

最近また読んだ、1章ずつ熟読している

なんだかふかく感動してしまって

2013年、今年から 精進料理らしき料理を始めてみよう、と決意したです

部分引用しにくい文章なんですが ちょいと一節をご紹介

====================

 読者は禅宗の精進料理なるものは、はなはだケチなもので、きたならしいものだと思われるだろう。それも自由である。道元禅師ふうにやれば、大根一本の中でも捨てるところは何もないのだから、それはそのとおりである。しかし、すぐれた典座によって、どのようなところにそれがつかわれているかによって、料理はきまるのかもしれない。すなわち工夫の妙が要るのはそのせいだ。

 たとえば、ぼくが、こんどやってみた、蕗の薹のあみ焼きはおもしろいではないか。形のいいのをえらんで、串に二つ三つさし、サラダオイルにつけてから、唐辛子を焼くみたいにあみ焼きするのである。色が変ってきて、狐いろになるころ皿へ盛り、わきに甘い味噌を手もりしておくのである。酒客でよろこばぬ人はめったにいない。

 古老先徳がさきに示した料理にもし舌つづみをうつのなら、これを継承して、さらによくすべきだろう。先徳がたとえば三銭の費用で菜っぱ汁をつくったら、今日、三銭でミルク入りのあえものをつくろうと心がけるくらいの精進がなくてはならぬとは道元禅師のことばだ。ここでぼくは、精進料理の「精進」なることばをはじめて了解するのだ。

41‐42頁: ルビは省略

====================

« すぐれた童話が乏しい理由、あるいは真の童話に求められるもの | トップページ | 宗教概念批判の哲学的基礎づけ »

03A 思索」カテゴリの記事

グルメ・クッキング」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/137899/56648997

この記事へのトラックバック一覧です: 蕗の薹のあみ焼きと道元禅師:

« すぐれた童話が乏しい理由、あるいは真の童話に求められるもの | トップページ | 宗教概念批判の哲学的基礎づけ »

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

Twitter


読書メーター

  • mittskoの今読んでる本
  • mittskoの最近読んだ本

鑑賞メーター

  • 最近観たビデオ
    mittskoの最近観たビデオ
2016年7月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

イーココロ

無料ブログはココログ