蕗の薹のあみ焼きと道元禅師
棚橋俊夫さん に教えていただいた精進料理の高み、深み…
その後 この本をたまたま手にし、何度も読み返してきた
最近また読んだ、1章ずつ熟読している
なんだかふかく感動してしまって
2013年、今年から 精進料理らしき料理を始めてみよう、と決意したです
部分引用しにくい文章なんですが ちょいと一節をご紹介
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読者は禅宗の精進料理なるものは、はなはだケチなもので、きたならしいものだと思われるだろう。それも自由である。道元禅師ふうにやれば、大根一本の中でも捨てるところは何もないのだから、それはそのとおりである。しかし、すぐれた典座によって、どのようなところにそれがつかわれているかによって、料理はきまるのかもしれない。すなわち工夫の妙が要るのはそのせいだ。
たとえば、ぼくが、こんどやってみた、蕗の薹のあみ焼きはおもしろいではないか。形のいいのをえらんで、串に二つ三つさし、サラダオイルにつけてから、唐辛子を焼くみたいにあみ焼きするのである。色が変ってきて、狐いろになるころ皿へ盛り、わきに甘い味噌を手もりしておくのである。酒客でよろこばぬ人はめったにいない。
古老先徳がさきに示した料理にもし舌つづみをうつのなら、これを継承して、さらによくすべきだろう。先徳がたとえば三銭の費用で菜っぱ汁をつくったら、今日、三銭でミルク入りのあえものをつくろうと心がけるくらいの精進がなくてはならぬとは道元禅師のことばだ。ここでぼくは、精進料理の「精進」なることばをはじめて了解するのだ。
41‐42頁: ルビは省略
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