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2013年2月 5日 (火)

宗教概念批判の哲学的基礎づけ

来年度後期の演習では 新田義弘先生の『現象学と解釈学』 を読もうと思う

宗教概念批判はすでに十分一周した感があるので

あらためてその哲学的基盤について この辺りから基盤固めをしておこう

というわけだ

演習の表題はしたがって 「宗教概念批判の哲学的基盤」 とでもなろうか

現象学も解釈学も ある重大な限界をもっているが

1) まずは入口として これは全く適当だ

2) 新田先生が その限界をどう処理するかを知りたい

ということで…

新田先生によるフッサールの議論の要約(一部)を 書きぬいておきます

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 フッサールでは知とは、その原初的形態についていえば、意識の主観の作用によって意味として構成されたものであり、この相関関係の対象項として成り立つ。意識作用と対称意味との相関性は、志向性(Intentionalität)という概念で言い表わされる。志向性の概念は「~に向かっている」という意識の特性を表わすものとしてすでに伝統的な概念であり、とくに彼の師のブレンターノによって、個々の意識を心理学的に分類するさいに使用されていたが、フッサールはこの志向性そのものの原理を問い、これを意識の全体的な本質連関を形成する原理的機能として捉えた。すなわち志向された対象が単に思念されるだけでなく、直観において充実される仕方、つまり明証(Evidenz)の問題にまで深めたのである。明証とは、存在者が自ら現われ出ること、すなわち存在者の自己能与(Selbst-gebung)のことであり、意識の側からいえば意識に対して「自ら与えられているもの」の傍に立ち臨み、存在者が現われ出るままに存在者を規定していることであり、存在者への真の近みから存在者について原初的に知を形成する理性の機能を意味する。ところが明証は、フッサールによると、対象があるがままに自らを与える原理的明証(例えば知覚)を原様態としてさまざまの派生様態(例えば想起とか想像)をもち、段階的体系を形成している。したがって、意識の全体的連関の志向的分析とは、根源的明証を原点として構成されている明証の体系の露呈なのであり、フッサールの企てる知の体系的基礎づけとはまさにこの志向的分析の体系的実施にほかならなかったのである。

 自己能与とはいいかえると理性の「視る」働きであり、フッサールは『イデーン』Ⅰ(Iden zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie, 1913)において、「いかなる種類であるかを問わず、根源的能与としての視ること一般は、あらゆる理性的主張の究極的源泉である」と述べている。この究極的源泉にまで戻ってそこから「哲学および学的認識一般の究極的基礎づけ」を果たすことが、厳密なる学としての哲学の課題であった。

23-24頁

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この引用、しばらくつづけたいと思います

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