一途な情熱は石ころを宝石に変える場合もある
僕は1990年に大学を卒業した、立派なバブル世代
その頃と今現在―― 「虚仮の一念」 「器用貧乏」、 この慣用句の意義は
少しも変わっていないように思う
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自分自身のそうした人生に思いを致せば、より豊かにより公平になった今の社会に生きる青年たちは、むしろ不幸なのではあるまいか。つまり自分の未来を托すべき選択肢が余りに多すぎて、一途になれぬのではなかろうかと思う。
未来ばかりではあるまい。やることできることが多すぎて、「今やらねばならぬこと」が選別しづらいはずである。たとえば、いわゆるフリーターと称する職業の存在などは、景気だの社会の構造だのを論ずる以前に、そうした生活の手段が可能になったからで、彼ら彼女らをまるで犠牲者か落ちこぼれのように言うのは誤りであろう、それだけけっこうな世の中になったのはたしかなのである。
ただし、選択肢が多すぎて一途な人生をなかなか発見できぬというのは、やはり不幸というほかはない。才能を発揮するべき職業を選んでいるうちに、才能を発揮するべきj間が失われてしまう。磨きもせぬのに輝く才能などはありえないから、大切な時間を空費してしまえば、はなからないに等しい。一方、才能の有無にはさほど関係なく、一途な情熱は石ころを宝石に変える場合もある。
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――あれもこれもやろうとしてはいけない。できると思っても、やってはならない。神様はマルチタレントなどという便利な人間を、この世にひとりも造ってはいない。仮にあれもこれもやったところで、結果的にはひとつのことだけをやり続けた人間には、まったくかなわない。勝ち負けどころではなく、まったくかなわない。他人の才能をけっして羨むな。多才な人間ほど一芸を物にすることができないから、それはむしろハンディキャップだ。わけめもふらず、一途に。誰に何を言われようと、愛想をつかされようと、君の人生なのだから、ひたすらひとつのことを、一途に。いつまでもどこまでも、君に才能を与えてくださらなかった神様が、不憫に思って何とかしてくれるまで。
261-63頁: ルビ省略
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