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2013年3月の記事

2013年3月27日 (水)

《映画の宗教学》 もしくは 「宗教と映画」論の課題 その2

以前、「《映画の宗教学》 もしくは 「宗教と映画」論の課題」 というエントリを書きました

その続編です

今日、 ツイッタで書いたのを ちょっと手を入れて再録しました

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ある《境位》が人間の内面に生ずることは間違いない

それは厳密な分析を拒否すること自体で成立するものだから

領域や範疇という通常の理知的営みにはなじまず

結果、超領域的・脱範疇的な《なにごとか》として人的経験の臨界をになう

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その《なにごとか》がベロリと日常性のただ中に顕われ出る回路は

(こうして書くと尋常でないような印象をもたれやすいが、実のところ)

私たちの日常性そのものに複数、多様な仕方でセットインされている

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教団的宗教性、スピリチュアリティが代表的なものだが、それは

《世俗》の屹立圧力においてスケープゴート化するよう

あらかじめ定められている 一方

その圧力にあらかじめ馴化されている回路も制度的に制定されている

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「文化」の諸形態がまさにそうだ

祭りに代表される、有形無形の「伝統」はその一つ

そしてとくに「ベロリ」感そのものが称揚されるもの

(その意味で《世俗》の屹立圧力からは警戒されやすいもの)が

「表現/表出」の諸範疇である

==========

映画はその範疇の典型のひとつである

そこには「藝術」と「思想・哲学」という範疇との連接がはたらく

同時に 「商業」「娯楽」「大衆性」、

さらには「童話」「民話」「神話」などとの範疇との連接もはたらく

これら二つの筋が

映画という表現/表出の範疇(端的に形式性において定義される)に合流している

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20世紀、映画という表現/表出の新たな形式が世界を席巻したのは

そうした文明論的なリズムの賜物だった

そのことの事実性を歴史化して

あの《境位》や《なにごとか》へと

歴史/経験を超領域化・脱範疇化すること

==========

「藝術の宗教学」「映画の宗教学」としてボクは

そういうことを知的に探究している

その知がどういう役立ちをするのか――

そこまでは視野におさまってこないけれど(オレ、バカだから)

知的な営みとしてはやらざるをえない、と確信している

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2013年3月26日 (火)

リトアニアの異教の歴史

最近、思うところあって サンクトペテルブルクについて調べております

んで、入口として選んだのがこの本

すごく興味ぶかい記述が多いのですが その中から一段落をば抜粋します

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 リトワニアの異教の歴史は、スラヴの神話が示してみせた光景と似た光景を、われわれの目の前にひろげて見せる。二つの大きな区分が可能であって、その一つは田園の民衆の間に広まっているより原初的な宗教を含み、他方は、より高次の、より《組織立てられた》神話を示す。今日までよくもちこたえて民衆歌謡や民間伝承のなかに保存されているのは、前者である。後者は、キリスト教の攻撃によって、いわばより完全に、消滅してしまった。それは、特に、キリスト教が、その登場の始めに、十字架騎士団の武器によって、そのことを強行したからであった。十字架騎士団の騎士たちは、[異教の]教会を破壊し、信仰の対象を燃やし、異教の僧たちを皆殺しにした。

123頁

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本書には新版もあるようですが 図書館で借りたので ボクは旧版を参照しております

2013年3月16日 (土)

ホンモノ右翼とヘタレ右翼の違い ――宮台真司(2005)より

前便 「ホンモノの右翼とは何か」 の続便です

宮台真司先生と北田暁大先生との対談集(2005年刊)より

宮台先生の発言の一節です

少々長くなりますが お付き合いのほどを _(._.)_

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 ホンモノ右翼とヘタレ右翼の違いは「自己決定」をめぐって如実にあらわれます。ヘタレ右翼は「自己決定はいかん、伝統を守れ」と言います。この呼びかけに応じるか否かが自己決定に任されるのでは背理するので――その意味でこの命令文自体が破綻しているんですが――、ヘタレ右翼は「これが伝統だ」として言挙げされたものを強制しようとします。

 ホンモノ右翼がこういう「つくる会」的なヘタレ右翼ではあり得ないということを述べたのが、ハンナ・アーレントです。伝統や共同性が存在するのなら、むしろ人が自己決定したときこそ、それが不可避に刻印されるはず。彼女は、「伝統を守れ」「共同性を守れ」と叫ぶ輩が何かを強制すること自体、伝統や共同性がとうに存在しないことのあらわれなのだとします。

 こうした志向図式は、社会学者にも大きな影響を与えたカール・マンハイム『歴史主義・保守主義』の影響下にあります。マンハイムは、伝統が人の振る舞いにおのずと刻印されてしまうことを指す「伝統主義」とは異なり、「伝統を守れ!」という命令や強制を「再帰的伝統主義」と呼んで、それが近代主義に一変種としての「保守主義」なのだとしました。

 巷の通念と違って、ホンモノ右翼は、国家のごとき歴史なき人工物への「依存」を退け、国家のごときものを単なる便宜として使いこなす「自立」を賞揚します。ゆえに「自己決定」を重視します。自己決定が自己決定たるがゆえに、他なるものに貫かれてあるようなあり方――〈世界〉に感染するがゆえに〈社会〉のなかで自立するような――に価値を置くんです。

 国家のごときものを単なる便宜と見なすホンモノ右翼は、必然的に革命思想に連なります。これはまさにパトリを護持するための革命です。だから北一輝は、これを単なる破壊としての革命から区別するべく「維新」と呼びます。パトリを護持する理由は何か。一口でいえば、「〈世界〉に感染するための通路」を護持するためなんです。

 「表現」と「表出」という観念を使って説明しましょう。表現とは伝えること。表出とはエネルギーの発露。広場の真ん中でひとり叫ぶ行為は、表現でなく、表出です。でも、そうやってひとり叫び、気がつくと周囲に叫び声が澎湃として満ち満ちるような「表出の連鎖」――ミメーシス(模倣・感染)――があり得る。この表出の連鎖を支えるのがパトリです。

 もちろんパトリを護持するのは、再帰的振る舞いです。再帰性とは、自明性に浸されていた選択前提が、選択対象になることです。だから「再帰的伝統主義」という場合、気がつくと伝統に服しているのと違い、伝統に服するという選択をあえてすることを指します。でも「つくる会」的なヘタレ右翼と違い、ホンモノ右翼は「自己決定はダメ」と言いません。

 別の本でもいったけど、自己決定がおのずと「他なるもの」に貫かれるようにさせるべく、年長世代が年少世代のための生育環境をセットアップする、という意味での再帰性ならば、僕は肯定します。「これが伝統だ、自己決定は認めない」といったたぐいの再帰性ならば、僕は認めません。「近代主義と右翼性を両立させる」には論理的にはこれしかないでしょう。

35-37頁: ルビと脚注は省略

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宮台先生の右翼論 引用紹介は以上です

計3便になりました、 どうぞまとめてご参照くださいませ

2013年3月10日 (日)

ホンモノの右翼とは何か ――宮台真司(2005)より

前便 「右翼とは何か、あるいは右翼と宗教」 の続便です

ここでは 「ホンモノ」の右翼とは何か、語られています

宮台真司先生と北田暁大先生との対談集(2005年刊)より

宮台先生の発言の一節です

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 こうしたホンモノ右翼の立場が「世の中には合理的に説明できないものがある」「科学には限界がある」といった非合理主義や反近代主義と同一視されるなら問題です。なので、僕は『サイファ 覚醒せよ』(以下、『サイファ』)を著しました。そこで述べたとおり、「科学では説明できないものがある」とされる事柄のほぼすべてが、科学で説明できます。そんなことは問題じゃない。

 〈世界〉は規定可能ではないとする右翼の立場は合理的です。たとえば「〈世界〉はなぜあるのか」という問いは、根源的規定性を露呈させる。答えが〈世界〉の外にあれば、〈世界〉はあらゆる全体だから矛盾する。答えが〈世界〉のなかにあれば、〈世界〉はあらゆる全体だから全体の存在理由が一部に対応するという矛盾をきたす。なのに問いは有意味なのです。

 「なぜ私はアナタでないのか」という問いも、根源的未規定性を露呈させます。分析哲学者のクリプキが『名指しと必然性』という本で、固有名の同一性と〈世界〉の同一性が、等価であることを示しています。〈世界〉の存在理由は、さきほど述べた理由で根源的に未規定であるがゆえに、「私」が入れ替え不能である理由も未規定です。主意主義はこの事実にこだわるんです。

 したがって主意主義的=右翼的な感受性は、「私が他ならぬ私であること」「ここが他ならぬここであること」への驚きへと開かれます。だからパトリオティズム(愛郷主義)をもたらします。パトリオティズムとは入れ替え可能化に抗う思想のことです。ゆえに「たかが人為的構成物にすぎぬ国家がパトリを屠るなら、これを革命する」――これぞ右翼の本義です。

34-35頁: ルビと脚注は省略

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ここまで述べたところで 附論が一段落 つきます

ちなみに、 さらにこの後には

「ホンモノ右翼とヘタレ右翼の違い」 が解説されますが

それはまた 次便で

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 ちなみにスメント流のドイツ国法学が、入れ替え不能性を崇高な精神共同体たる国家に等置、その伝統上に国家社会主義を標榜するファシズム国家が生まれます。日本でも、後期水戸学から吉田松陰への流れが、天皇を中心に据えるかたちで似た論理を展開、維新政府が生まれる。でもこれらは近代後進性ゆえの人為的配置であって、右翼思想的には完全に傍流です。

35頁: 脚注は省略

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2013年3月 9日 (土)

右翼とは何か、あるいは右翼と宗教 ――宮台真司(2005)より

ボクの専門は 宗教ナショナリズム ですから

「宗教と右翼」 という問題、 そもそも 「右翼とは何か」 という問題

これは中核的な関心事です

さてここで確認しておきたい当たり前のことは

右とは左との対であり、 さらに左右の中間領域がある、ということです

こうした左右に開く構図のなかで 「右翼」 は考えられねばならない

つまり、 右翼を考えるものは 左翼をよく考えねばならない

(さらには 中道をも)

ということで…

宮台真司先生と北田暁大先生との対談集(2005年刊)より

宮台先生の発言の一節を書きぬきしておきます

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 アメリカのルーツ右翼と日本のルーツ右翼は、人事を最高価値とする思想を否定し、神や天を最高価値と見なして人事――コロラリーとしての国家――を相対化する点で共通します。右翼とは何かを考える場合、この共通性が重要です。右翼とは何ぞや。別著で記したように、一次近似としては集権的再配分の是(左)/非(右)をめぐる政策的差異です。

 でもそれは、派生的帰結の差異にすぎません。正確には、そうした政策的差異を蓋然的に(必然的にではない)導く思想的差異――主知主義(左)/主意主義(右)――にかかわります。主意主義(右)の立場が、弱者への集権的再配分を推奨することもあり得るということです。この思想的差異はスコラ神学に由来し、元来は神が不合理を意思するか否かにかかわります。

 神が不合理を意思しないなら〈世界〉(あらゆる全体)は合理的に記述でき、意思するなら記述できません。前者がアリストテレス=アクィナス的な主知主義、後者がプラトン=アウグスティヌス的な主意主義です。主知主義は、人間的理性を信頼するので計画万能主義を帰結しやすく、規定不能なものや未規定なものを不安がる心性に結びつきます。

 こうした心性を、ヘタレ(依存)として退ける初期ギリシア思想をルーツにするのが主意主義。主意主義は、神と同じく人間の意思をも理性に還元できない端的なものと見なすので、不条理や規定不能性をあらかじめ前提とする態度を帰結します。実存的には不安ではなく内発性を、コミュニケーション的には不信ではなく信頼を――総じて飛躍を――推奨します。

33-34頁: ルビと脚注は省略

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とりあえずここで一区切り

以上のように左右の違いが説明されたうえで

次に 「ホンモノ」の右翼の立場が説明されていきます

それはまた 次便にて

2013年3月 2日 (土)

1970年代後半~80年代の東京 ―シラケ世代、もしくは輝かしさに裏切られた世代

先日 「1970年の東京 ―浅田次郎 『霞町物語』 より」 というエントリを書きました

それへの補足です

宮台真司先生(59年生)は 『終わりなき日常を生きろ』 のなかで

70年代の若者文化について書いています

そこで披歴される記憶/感覚と 浅田次郎さんのものとは

きれいにつながっているように思われます

なお、上の文庫は98年刊ですが 原著は95年に出されたものです

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 ところが、彼ら[95年本書執筆時の元ブルセラ聴講生、20歳前後?]と同じ年ごろだったとき、私たちの世代は対照的だった。私が小学校三年のときアポロが月に着陸し[69年、四年生の間違いか?]、五年のときに万博があった[70年]。一〇年たてば人類は火星に行き、二〇年もたてばスペース・コロニーに植民すると言われていた。未来は輝かしかったのだ。少女マンガにも「やさしいママと頼りがいのあるパパと誰からも好かれる良い子」からなる輝かしい家族が描かれ、究極の恋愛とは、そういう家族を営む永遠のパートナーを見つけることだと思われていた。確かに私たちは上の世代と比べられ、七〇年代前半には「シラケ世代」と呼ばれている。だが、むしろ「輝かしさ」を夢見た世代だったからこそ、革命幻想を生きた団塊の世代への羨望のゆえに、屈折したのである。革命のまぶしき輝かしさの「代わり」に、等身大のちょっとした輝かしさを――というわけだ。

 かくして私たち世代は、本当にほしかった輝かしさの「代替物」として、のちに「八〇年代バブル」のシンボルとして記憶されることになるさまざまな等身大の動きを立ち上げた。七七年のサーファーブーム、七八年の第一次ディスコブーム、八一年のハイソカーブーム、八三年の女子大生ブームとブランドブーム、八四年の第二次ディスコブーム……。これらを立ち上げた一部の者たちはあくまで「諦念」と共にあったし(田中康夫)、本気でノッた者たちも八七年ごろからブームが下火になると急速に「虚脱」し(中尊寺ゆつこ)、バブル崩壊で決定的に「梯子を外される」(山本コテツ)。そもそもバブルのお祭り騒ぎをリアルに生きられたのは少数で、「なんか周りは楽しそうだけど、俺はどうせこんなだし」という者たちが大半だったのだ。だからこそこの時代、私たちは、ネアカ/ネクラという区別や、新人類/オタクという区別によって脅迫されたのである。結局のところ、未来の輝かしさを信じた私たちは、「輝かしさに裏切られた世代」だったということだ。

99-101頁

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なお、この本について書いた私の短評は こちら  です

コメント欄がとても有益ですので どうぞそちらもご覧下さいませ

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