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2013年4月の記事

2013年4月25日 (木)

あらゆる原理主義に反対する多元主義― テッサ・モーリス=スズキ(2002)より

テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために』ハードカバー版より

「あらゆる原理主義に反対!」 ――

ボク自身、掲げつづけてきたスローガンだが、それは

「原理主義者(最広義)」 の人びとを単に“ぶっ叩く”ということではない

明確に「反対」の立場をとり、そのうえで

  • 問題の本質を知的に探り当て
  • 問題の解消・低減のため具体的で、効果的な対処をおこなう

という実践をしっかり視野におさめている (歩みは亀で お恥ずかしいが)

モーリス=スズキ先生は そういうボクにはとても参考になる

全く賛成、というわけでは決してないが

(というのも、あまりに知的に洗練されすぎているので 効力に疑問があるのだが)

(また、原論文が95年刊と かなり古いということもあるのだが、それでも)

間違いなく とても参考になる

かなり長くなりますが、思い切って引用させていただきます

====================

 私が「原理主義」という名で呼ぶ第一の見方は、急速な変化と経済的な国際化を伴う世界において、政治体制の安定は一連の「伝統的な」価値の権威を復活させることによってこそ維持できるという想定に基づいている。国民の構成が多民族化の度合いを強め、物質文化が国際化すればするほど、消滅しそうな差異の境界線を強調するシンボルや思想を堅持することが重要になってくる(と原理主義者は主張する)。

 これらのシンボルや思想は「アメリカン・ドリーム」のイメージや、イラクのナショナリズムが喚起した古代バビロンの記憶のような、厳密な意味でナショナルなものである場合もあれば、イスラムの理念、儒教の社会関係、そして西欧の「偉大な文学的伝統」のような、国境を越えるものである場合もある。しかしながら、「原理主義」が守るべき伝統の核には、二つの重要な特徴がある。それは固有のもの、すなわち、何世紀にもわたる歴史によって深く刻み込まれたものであり、絶え間ない変化に応じて変わっていくものでもなければ、様々な利害集団のその時々の都合に合わせて簡単に選び取られるものでもない。またそれは、分割不能な性格を持っている。言葉を換えれば、伝統の核の様々な局面は国境を越えることができるかもしれないが、一つの国民国家の内部には、たった一つの伝統の核、すなわちアイデンティティ体系しかありえず、すべての国民が支えなければならないものである、と彼ら彼女らは考える。

<中略>

 こうした見方とは対照的な立場を、「多元主義 pluralism」と呼べるかもしれない(ここではこの言葉を通常とはいくぶん違った意味で用いている)。この立場は、個々人の文化的アイデンティティを複合的なものととらえるもので、一つの国家や単一の「文明」と結びつくだけでなく、一度に多種多様なもの――拡大家族、仕事上の集団、ジェンダー、宗教集団、世代、言語集団など――と結びつくと考える立場である。また、この立場は、異なった歴史的環境の下では、同一の人間でも異なったアイデンティティが強調され、アイデンティティを表明したり強化するために用いられる重要なシンボルは、絶えざる選択や交渉の産物であると考える。したがって、これらのシンボルは、時の経過とともに、急激に変化することが可能で、同一のシンボルが、一つの集団の中においてすら、まったく違うことを意味する可能性もある。この立場の論理によれば、アイデンティティとは不動の固定したものではなく、世代が変わるたびに形成し直され、練り直されるものである。

<中略>

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現代インドの religion 概念をめぐる言説空間 (仮説)

これはメモです

仮説を思いついたので、文字通りの「備忘録」です

====================

特定の語が、日常的な用法にまで拡散していくとき

(その語の 権力的=言説論的配備が 上々にすすんだとき)

その(再)定義は かなり困難になる

こういう場合、形式的な整理をおこなうのが有効だ

すなわち、 《原義・狭義・広義・比喩的用法》 という四つに

拡散し乱反射する作用体としての、特定概念の意味内容を附分けする――

これがとっても有効だ

(と、ボクは発見したけど きっと何かの教科書にはもうすでに書いてあるんだろう)

==========

まずは 「原義」 を確定すると、見通しはつけやすかろう

これも、形式的に引き出される智恵だ

例えば…

現代日本の「宗教」概念の「原義」は、「宗教法人法の前文」に対応した観念である

これがボクの研究成果だ

【130426追記】

現代日本の「宗教」概念の「原義」として もうひとつ

  • 世界各地域における諸伝統としての諸宗教(宗教分類学)

というのも加えたい

すなわち、現代日本語の「宗教」は いわば二つの核をもつのだ

==========

南アジア地域研究者のはずのボクが 何故日本のことなんかをやっているか…

それは、南アジア(とくにインド)の religion 概念をめぐる言説空間が

とにかく複雑すぎて ボクの手には負えない、

まずは 扱い慣れた日本語で、宗教概念をめぐる言説空間をとらえてみよう…

こういう研究デザインによっていたわけです

==========

そうこうしているうちに、早4年!

そろそろ、現代インドの religion 概念をめぐる言説空間 に手をつけてみようか…

ということで 考えてみました――

現代インドの religion 概念(英語)の「狭義」は…

  • Census(国勢調査)における調査項目のひとつとしての Religion
  • 西洋のオリエンタリズムにおける Spirituality; Meditational

という二つに対応する観念である…

====================

以上、備忘録でした

2013年4月20日 (土)

ポピュラー・ナショナリズムを支える大情況― テッサ・モーリス=スズキ(2002)より

テッサ・モーリス=スズキ先生の『批判的想像力のために』

東大での非常勤講義の参考書にあげた

その「あとがきに代えて」から引用させていただきます

なお、文庫版もありますが ボクが読んだのはハードカバー版です

スズキ先生は

「ポピュラー・ナショナリズム(大衆受けを狙うナショナリズム)にその選挙区を置くコメンテーターや政治家たちは、大衆の持つ不可視の不安を、明瞭に見ることが可能なものへの置換によって生き残りを試みる」(271頁)

との状況把握について

その「生き残り」戦略を有効にしている「大情況」を次の二点に要約する

====================

 一、いわゆる「グローバリゼーション」の過程が、資本・雇用・思想・宗教・情報・商品等々の越境化を急激に増大させるなか、資本から商品等々に至る越境的フローを容認し制度化するレジュームは、ここ三〇年間で、その基層において変容した。それにもかかわらず、この変容は人間のフローを制度化する部分には、ほとんど触れられていない。すなわち、各国民国家内での移民政策、国籍政策、あるいは国際的な難民条約等々の基層を成す想定や政治力学には、第二次大戦終結以降、ほとんど変化がみられなかった。

 この制度と現実間の矛盾の存在は、時間の経過とともに拡大した。したがって、新しい問題を古い制度によって解決しようとする試みが、不条理で非人道的な結果を生むのだ。

 二、いわゆる「グローバリゼーション」では、社会的経済的構造の変容が起こり、その構造が複合化することにより、全体図が見えにくくなる。その不透明感、そして個の次元で感じる不安の原因を、人々は「外部化」することにより確かな砦を築き上げ、自衛の策を取る場合が多いのではなかろうか。

 また、それに加えて、国民国家内部での、実際の経済諸条件ならびに資本の流出入等は、国民国家の次元での政策のみでは、ほとんど統轄不可能な状態であるという現実が存在する。

 この実際的権力の侵蝕作用に際し、政府は多くの場合、象徴的権力の強迫的補強により埋め合わせを狙おうと企てる。その好例が、一九九九年、日本における「国旗・国歌法」の制定であり、「強制はしない」と閣議決定をしながら、公立学校の入学し、卒業式での君が代斉唱、日の丸掲揚の実質的「強制」だった。一方、これは、オーストラリアにおいては、ジョン・ハワードが興味深くも名付けた国家の「絶対主権 absolute sovereignty」という、水の上に引かれた想像の境界線によって囲われた神聖なる「固有の領域」を条件なしに保持し続けることでもあった。

269-71頁

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2013年4月 5日 (金)

1970年代~90年代の日本サブカル史― 要約『サブカルチャー神話解体』

以前

という二つの記事を書きました

その続報です

次の対談記録における宮台真司先生の発言です

ちょっと長くなりますが、思い切って引用します

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 簡単な話です。同じ「内容の距離化」だとしても、「追い込まれたもの=依存的なもの=オブセッシブなもの」か、「内発的なもの=自立的なもの=ノンオブセッシブなもの」か、の違いが重要だということ。ところが、近代が成熟期を迎え、生活世界が空洞化するにつれて、「ベタなアイロニー」「オブセッシブなアイロニズム」が支配的になってくる。

 『サブカル』 [宮台ら著『サブカルチャー神話解体』 原1993年・増補版2007年] では、マンガと音楽を素材にして、[がきデカ的なもの/マカロニほうれん荘的なもの] [原新人類的なもの/新人類的なもの] [新人類的なもの/団塊ジュニア的なもの] [シャレ的なもの/オシャレ的なもの] などという対立として、[オブセッシブなもの/ノンオブセッシブなもの] の差異を描き出しています。

 そこで細かく議論したように、サブカルチャーの画期は七三年、七七年、八三年、八八年、九二年、九八年です。七三年からは「若者的なもの」「政治的なもの」「団塊世代的なもの」が空洞化し、かわりに「シラケ文化的なもの」「アングラ的なもの」「シャレ的なもの」「諧謔的なもの」「原新人類=原オタク的なもの」が上昇します。

 七七年からはこの「原新人類的=原オタク的なもの」が空洞化し、かわりに「韜晦的(オタク的)なもの」「オシャレ的(新人類的)なもの」が分化しつつ上昇します。でも「アングラ的なもの」「シャレ的なもの」もかろうじて残る。ところが八三年からは「アングラ的なもの」「シャレ的なもの」も一掃されて、「記憶が消去された新人類の時代」になります。

 ちなみに七三年は北田さん [対談相手の北田暁大氏] のいう「反省の時代」と「抵抗としての無反省」の時代の境目です。八三年は「抵抗としての無反省」と「抵抗としての無反省」の境目です。ディスコブームや湘南ブームが起き、『ポパイ』がカタログ雑誌からマニュアル雑誌へと変化する七七年前後の頃から、「抵抗の忘却」が進みはじめます。年少世代から徐々にね。

 『サブカル』の時代区分をつづけると、八八年からは「オシャレ的(新人類的)なもの」の席巻がオタク差別をもたらす時代が終わり、「新人類的なもの」と「オタク的なもの」がトライブ(小集団)として横並びになる。僕の言葉では「島宇宙化」「総オタク化」「団塊ジュニア的なもの」です。彼らは地味で、メディアや街との相性があまりよくない。

 そして九二年からは、ブルセラ&援交の上昇に象徴されるように、「団塊ジュニア的なもの」が衰退し、かわりにメディアや人間関係の流動性をうまく乗りこなす(かのように見える)派手な「ポスト団塊ジュニア的なもの」が席巻します。ちなみに「ポスト団塊ジュニア手なもの」という場合に、僕は取材経験をベースにして、七七年生まれより若い世代を指します。

 最後に九八年からは、社交的な子たちが「第四空間」である街に繰り出すくぁりに友達の部屋にタムロする「お部屋族化」が進み、街に繰り出すことと結びついた常習援交が衰退します。並行して、ひきこもり化・鬱病化・メンヘラー化・2ちゃんねる化が進みます。これが八三年生まれよりも若い「ポスト・ポスト団塊ジュニア的なもの」です。

 「自由闊達なアイロニー」から「オブセッシブなアイロニー」への頽落は、すべての段階で進みます。この頽落は、いろいろに表現できます。「開かれた諧謔」から「閉じられた韜晦」への頽落。「ズレること」から「ズラすこと」への頽落。「わかる奴にしかわからないシャレ(非シャレ)」から「誰にでもわかるオシャレ(非オシャレ)」への頽落。「敷居の高いもの」から「誰でも参入できるもの」への頽落。

 『サブカル』では、七七年から四回の画期を経て段階的にアイロニーが「大衆化」すると同時に「オブセッション化」していく動きを、明確に「頽落」だとしています。それ以前の七三年から七七年までの原新人類=原オタク的なアイロニーは、「文化エリート」にしかわからないと同時に、きわめて「自由闊達」なものでした。質はこちらが上です。

349-52頁: ルビは省略

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