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2013年5月の記事

2013年5月30日 (木)

宗教・象徴・非宗教 ―エリアーデの「世俗の宗教学」

エリアーデは「宗教」と「非宗教」を 明確に峻別する

次の象徴論は

(近代の非宗教的な生活ならぬ)「宗教生活」の内部での差異、遷移を問題にしていますが

近代の「非宗教的」生活についても 何らかの程度で適用可能かもしれません

この点について、エリアーデの真意は ここでは明らかにされてません

なぜなら、「宗教生活」という句が その二段落後では なんのことわりもなしに

「人間」という無規定な概念に置き換えられているからです

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 最高存在に代って登場した諸神格は最も具体的な、そして最も目覚しい諸力、すなわち生の諸力を一身に集めた。しなしながらまさにそれによって彼らは〈生殖〉を〈専門に司る〉ようになり、創造神のもつ一層精妙な、〈高尚な〉、〈霊的〉諸力を失っていた。人間は生の神聖性を発見し、しだいにこの自分の発見に心を奪われていった。すなわち人間は生の聖体示現に身を委ねた結果、その日常直接の要求を超えたかの神聖性から遠ざかったのである。

      天の象徴の存続

 しかし宗教生活がもはや天神によって支配されなくなったときでも、星辰の諸領域、天の象徴、上昇の神話と祭儀等は、聖の秩序の中で卓越した地位を保持した。〈上〉なるもの、〈高きもの〉はその後も引続き、どんな任意の宗教的連関においても、超越的なものを啓示している。天はたといその信仰を失い、神話において他のものにとって代られても、その象徴的表現を通して依然として宗教生活の中に現存する。[…]

[…]

 天の神聖性が本来の宗教生活から姿を消した後も、それは象徴を通して引続きその働きを維持した。一つの宗教的象徴は、それがもはや意識して全体として理解されなくとも、その使命を達する。象徴は人間の理性にばかりでなく、人間の全存在に呼びかけるからである。

119-20頁: 傍点は太字で示した

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2013年5月24日 (金)

宗教的人間と非宗教的人間のあいだの本質的差異?――エリアーデの公理

エリアーデは 宗教的人間と非宗教的人間を 明確に区別する

そこには「本質的な差異が存する」と力説する

前者は「超人間的性質」に通じているが

後者は「神」との交わりをもたない「人間的経験」しか生きない、という

この断言(大変つよい調子だ)の根拠/論拠は 示されない

これは エリアーデ思想における無媒介の公理だ

さて、私たちは そのようにして出来上がる「宗教」理解を どう受け止めるべきだろう?

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 近代社会の非宗教的人間にとって時間が何であるか、を手短かに述べることはなお一層難しかろう。われわれはここで近代哲学の時間論についても、今日の科学の時間概念についても語ろうとは思わない。体系や哲学ではなく、実存的行動様式が当面比較対照のまとである。非宗教的な人間もまた、或る種の時間の非連続と異質性とを知っている。彼にとってもまた、たとえば比較的単調な仕事の時間と、娯楽と慰めの時間、要するに〈祭の時〉とがある。彼もまた [宗教的人間 homo religiosus と同様に] さまざまな時間リズムの中に生き、濃度を異にする時間を知っている。好きな音楽を聞くとき、恋人を待つ時、また会っている時、彼は働いたり退屈したりしている時とは別の時間リズムを感ずる。

 しかもなお宗教的人間と彼との間には本質的な差異が存する。前者は浄められた時間を知っている。それはその他の時間経過と共通点をもたず、異なった構造、異なった〈起源〉をもつ時間であり、神々によって浄められ、祭によって再現される原初の時間である。宗教的でない人間には、この祭礼の時の超人間的性質は到達し難い。非宗教的人間によって、時間には断絶もなければ〈秘密〉もない。時間は人間の最も深い生存の次元である。それは彼の生存と結びついており、したがって始めと――生存を滅する死において――終りをもつ。彼の体得する時間リズムがいかほど多種多様であろうとも、その濃度にいかほどの差異が感じられようとも、非宗教的人間は、それらが常に神の現在の入り込む余地をもたない人間的経験であることを知っている。

61-62頁

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2013年5月 6日 (月)

占領軍、政教分離、天皇制、そして靖国

ある授業で 宗教法人法の成立過程 を学生さんたちと一緒に調べている

今年度(2013年度)は 「神道指令」 にフォーカスしている

これまで、このブログに書いた関連記事としては

の三つを書いてきました

この関連で 以下、 磯前順一先生のご研究から 一節を引用いたします

学生さんが ここにたどり着いてくれるといいなぁ… (`´)

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 そして、アジア・太平洋戦争での敗北後、占領軍であったアメリカ合衆国はそのような日本の諸宗教および天皇制の侵略的・排他的性質を修正し、日本が [ママ] 冷戦体制下の極東戦略を担うのにふさわしい政体へ変えようと試みた。そのような占領期の宗教政策を集中的に研究したものとして、井門富二夫編『占領と日本宗教』(末來社、一九九三年)がある。とりわけ興味深いのが、高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書、二〇〇五年)や赤澤史朗『靖国神社――せめぎあう〈戦没者追悼〉のゆくえ』(岩波書店、二〇〇五年)が示すように、戦後における靖国神社の政治的・社会的地位の変化の軌跡である。

 それは、戦後になって占領軍によって導入された政教分離体制をどのように天皇制に節獄するか、そのもとでの戦没兵士の国家祭祀をいかに実現可能とするかという政府および民間の保守層の願望をめぐる日本社会のせめぎ合いを通して、戦後日本における「宗教」領域の社会的位置を如実に物語るものとなっている。それは戦後天皇制の性質とともに、戦後日本社会における宗教的なもののあり方を考えるさいの大きな手だてとなろう。(21) さらに、靖国論に関しては、そもそも生者による死者祭祀自体が可能なのか否か、その根源的な部分から問題が議論されなければならない時期にきていると思われる。(22)

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(21) 島園進「戦後の国家神道と宗教集団としての神社」(圭室文雄編『日本人の宗教と庶民信仰』吉川弘文館、二〇〇六年)。

(22) 磯前順一「死霊祭祀のポリティクス――慰霊と招魂の靖国」(前掲『喪失とノスタルジア』)

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