宗教学の突端へ
「宗教」を枠付けしなおすために「世俗」を検討しなおさなくちゃいけない…
これが宗教概念批判の結論のひとつだとしたら
宗教学は《宗教/世俗》を、すなわち《人間的事象の全体》を
(少なくとも一度は)考察の対象とすることになる
これは何学だというのか?
学説史的にはこれは、遅くとも19世紀前半からやり直し、ということになる
しかし、どのような「伝統」のうえでやり直すのだろう…?
その「伝統」は、どの場所の、どういった時点からのものなのだろう…?
これは本当にむずかしい問いだ
そして、宗教学がいま直接取り組まなきゃならないのは、この問いだ
「宗教の宗教学」でもなく
「世俗の宗教学」でもなく
「宗教と世俗のあいだの宗教学」でもなく
この二分法の向こう側にある文明論的な基盤としての
《人間=社会=歴史》(仮称)そのものへと直接切り込む――
そんな「宗教学者」を ボクはもとめてます
宗教概念批判が ごく簡単な形式論理のうえで要請してくるのは
そのことです
それが何学か、なんて もはや大事じゃありません
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