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2014年9月の記事

2014年9月19日 (金)

宗教分類学を生きる

またひとつ、断章ができてしまいました

眠らせておくのももったいないので、公開させていただきます

ご関心の向きは どうぞご笑覧くださいませ(^^)

なお、冒頭にあります「コミュナリズム」とは、南アジア、とくにインドにおけるいわゆる「宗教紛争」のことです。

「宗教紛争」という概念はおおざっぱで、しかも間違い含みですから、ボクはまったく指示しないんですけどね、まぁ いわゆる、ってやつです

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 コミュナリズムにおいて前面へと浮上してくる集団において、その構成員はいずれも、集団名と同じ宗教的帰属をもつ。インドでは通常、宗教的帰属は親から子へと明確に受けつがれていくから、人びとは家族もしくは血族の単位でその「宗教」範疇におさまっている。「ヒンドゥー」とは「ヒンドゥーイズム」(ヒンドゥー教)の信徒であり、「ムスリム」は「イスラーム」(イスラム教)の信徒であるというわけだ。このことはインドの社会生活の常識である。自分が一族ともども「ヒンドゥー」であるとか「ムスリム」であるとかいった明確な自認は、日常生活のあたり前のことがらであり、そこにタブーにあたるものはない。

 そしてこの自認は、単なる形式的な集団分類というだけにとどまらず、人びとの生活のなかで積極的なはたらきをしている。すなわち、歴史や文化、血縁や社会、価値観や世界観などに、私という存在を結びつけ位置づけるというはたらきである。人生の喜びや悲しみを「宗教」帰属と織りあわせながら、人びとは毎日をつみ重ねていく。それはたとえば、「ヒンドゥーとしての誇り」とか「ムスリムとしての生きる道」とかいった言葉で表わしうるものによって、それぞれがそれぞれの人生をささえていくのである。「ヒンドゥーイズム」「イスラーム」などの「宗教」範疇自体は、近代の正統的な宗教分類学、およびそれをそのまま採用する政府公式の法的な「宗教」区分としてあたえられたもので、そのかぎりでは形式的な区分にすぎないのだが、一方では、国民一人ひとりのアイデンティティと呼ぶにふさわしい内面性をささえてもいるというわけだ。

 しかし、である。ここで忘れてはならないのは、こうして生きられる「宗教」範疇には「共同体」と呼ぶにふさわしい共同生活がともなっているわけではない、ということだ。インド国内だけでも「ムスリム」2億弱、「ヒンドゥー」10億超の人たちがいる。家族や村落のような、顔つき合わせ、姓名素性を承知する関係性は成りたちようがない。つまり、この「宗教」範疇には、きわめて高い程度の観念性、想像性のレベルがふくまれているのである。

 私はここで、人間の集団的生に一般的な、具体性のレベルと抽象性のレベルとの継ぎ目ない連続体のことを問題にしている。具体的に説明したほうがよかろう。たとえば、次のような人物を想定してみよう――「わたしはヒンドゥーである」。わたしは願い事をするとき、職場の近くや自宅の近くの寺院にでかける。いつもきまってシヴァの寺だ。そこでは顔見知りの「ヒンドゥー」にしばしばあい、挨拶をかわす。僧侶の「ヒンドゥー」もよく知っている人物だが、人格者だとは思わない。唱える祈りのことばは、幼い日、家族とならんで、実家つきの僧侶より教わったもの。これがわたしの「ヒンドゥー」としての人生である。さてところで、世界には、わたしが会ったこともない「ヒンドゥー」が大勢いる。その人はわたしと同じ神を崇拝しているかもしれないし、していないかもしれない。祈りのことばは同じであるかもしれないし、違うのかもしれない。「ヒンドゥーイズム」とはそのような多様性を許容する。どのような人であれ、私たちは同じ「ヒンドゥー」なのである。そこには個別具体的なふれあいや根拠なぞはなくてよい。アカデミズムの偉い学者が認めたのか、ヴェーダにそう書いてあるのか、わたしは了解していないが、とにかくわたしは、他の人たちとともに、「ヒンドゥー」という抽象的で超歴史的な集まりにもうすでにおさめられているのだ。

 宗教分類学が設定した範疇を人びとが実際に生きるということは、こうした二面性を矛盾なく生きるということである。人と人との触れあいのなかでいとなまれる具体的な考えや行い、それによってよく見知った人たちのあいだにそだつ仲間意識などがある。そして、それらの個別具体的な出来事にはいつも、超歴史的で普遍的な概念が、根拠をもたない自明の真理としてさしはさまれている。

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2014年9月18日 (木)

映画の宗教学 ―映画の層構造と《底》あるいは《魔》―

去る12日、日本宗教学会で 標記のような発表をさせていただきました

ご参加いただいた皆さま、本当にありがとうございました

当日、フロアよりいただいた質問への応答、時間切れで言えなかったこと

書き加えたものを 「配布資料 第2稿」 としてアップさせていただきます

冒頭にしゃべったのはこんな感じのことでした

  • 私は宗教学でなぜ映画論をやるのか。 《世俗》を究明できるはずだ、と考えるからです。
  • 映画を《世俗》の制度としてとらえ、映画の《世俗性》をより稠密に解明すること。
  • そうすることで、《世俗》そのものを究明すること。
  • ポスト宗教概念批判の宗教学には 「《世俗》の宗教学」 が要請されている、というのが私の考えですが、そのために映画論に精をだしているわけです。
  • しかしこうした研究は、欧米圏の Religion and Film においてすら、ほぼまったく未発達です。(というよりも、独自すぎるのかもしれません)
  • そこで本発表は、その予備的な考察をすることで満足するしかありません。
  • 具体的には、観客の映画体験から映画の成り立ちを解明することに取りくみます。
  • ハイライトは、「えも言われぬ体験」 「表しえないもの」 と私が名づけたことです。
  • しかし、発表時間は15分しかありませんから、そこへの着目が必要なんだ、と指摘するところまでで、今日のところはおわるしかありません。
  • それでは、本論に入ります。
いかがでしょう、ご興味をもたれますか?

下記リンクより、この資料をご笑覧いただければ幸いです

2014年9月17日 (水)

宗教概念批判の要諦

いま久しぶりに、ほぼ8年ぶりに ちょっとまとまった文章を書いています

この8年で、僕の文体はすっかり変わってしまったところがあって

かなり悪戦苦闘しております

文脈がうまく作れないまま、放り出すしかない断章がたくさん生まれてます

もったいないので、ブログにアップしておこうかなと思います

最初の断章は、「宗教概念批判の要諦」 です

こいつはもしかすると、利用しなおすことになりそうですけど

なかなかこういう文章もないので、 ご関心の向きに参考にしていただければ幸いです

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 よく指摘されるように、「宗教」という言葉には宗教学者ですらいまだ十分な定義をあたえることができていない。しかし、そうした現状を専門家らの怠慢や無能力によるものととらえるのは正しくない。もはや日常語となったせいであろうか、滅多に気づかれないのではあるが、「宗教」なる概念には、思想上ひいては文明論上の負荷が大変おおきくかかっており、それゆえ専門家であるほど、この概念のあつかいに苦慮するというのが実情なのである。

 「宗教」は、明治初頭、religion(Religion)の訳語としてあらたに採用された語である。漢字で表記され、近代日本語の基本的な語彙にふくまれてはいるが、もともと生粋の外来語である。そしてこの語には、ヨーロッパの近代文明を構成する基本的な考え方が凝縮してこめられていた。その考え方は少なくともふたつの発想からなる。

 第一に、キリスト教と隣接あるいは類似する現象を、キリスト教の絶対視をさけたうえで、ひとつの範疇におさめるとの発想である。具体的には、イスラム教(イスラーム)とユダヤ教、ヨーロッパ・地中海世界の古代文明の一部、世界中であらたに、あるいはあらためて認知されるようになった文化現象、これらの三つをひとつの仲間としてくくってよいだろう、くくるのは無理のないことだろうという発想である。こうした視点から諸現象を理解するべく発展させられたのが、宗教分類学である。「宗教」という類のもと、「キリスト教」「イスラム教」「ヒンドゥー教」などの種が、有限個、設定されるという、形式的な知識が形づくられていったわけだ。

 第二に、「宗教」とは、前近代性(古きもの、伝統的なもの)の残存または継続を指示する語として設定された。近代のヨーロッパとその影響圏においてますます完成の度合いをつよめていく近代性(人間主義、個人主義、合理主義をとくに重視する文明のあり方)との対比においてそうされたのである。すなわち、「宗教」として一括されるようになったのは、キリスト教の言葉でいえば、人間ではなく神を、個人ではなく教会や信徒共同体などの集団を、そして理性ではなく感情や直観、とくに「信仰」を、世界を成りたせる核心的な要素とみなす世界観・価値観、およびその諸現象なのであった(そして、これに近接または類似する諸現象が世界各地に見いだされ、それらは宗教分類学という組織化された知識に成形されていった)。この過程においては「宗教」と「世俗」の分離が是認あるいは促進され、さらには「宗教」に対する「世俗」の上位性がひろく認められるようになった。ここで「宗教」は単なる桎梏とみなされもすれば、近代というあらたな時代においてあらたな生命力を獲得しうるともされた。

 これらふたつの発想が、互いに互いを参照しあい、数百年をかけて安定化をはたしたところに「宗教」概念が成立した。宗教学という専門分野はその過程の最終段階に誕生し、「世俗」と「宗教」をめぐるヨーロッパの近代文明を総括する役割をはたした。

 「宗教」概念とは、近代ヨーロッパの知識人があたらしい時代にふさわしい知識(宗教と世俗を二分する文明原理)として果敢に、必死に案出したものなのである。彼らの知的誠実さ、能力の高さ、悪意のなさはうたがうべくもない。しかし、できあがった「宗教」概念にはどうしても、行きすぎた一般化や根拠なき断定、主観的な願望とより客観的な認識との混同などがまぎれこむことになった。情報量のすくなさや、急を要する法的=政治的な必要性などが、認識のゆがみとその固定化をもたらしたのである。したがって、あらためて述べれば当然のことながら、「宗教」という類概念それ自体は自明な真理(疑いの余地なく正しいこと)の表現などではない。むしろそれは、理性ある個々人の集まりたる人間が「近代」と名づけられたあたらしい時代をみずから作り上げようとする、その意志のために用意されたロードマップなのだ。

 それゆえに、「宗教」という概念はつねに批判的な検討にさらされねばならないし(それをしないのは近代主義イデオローグだけだ)、この一般名詞にぴたりと対応する普遍的な特徴(本質)の実在を当然視してはならない(本質主義的な宗教論はすでに近代地球史によって決定的に拘束されている)。宗教/世俗的近代性(宗教/世俗の二分法にもとづく文明原理)をのりこえて、その先に文明論上の原理をあらたに模索すること、それが「ポスト世俗主義の段階」と呼ばれる現代の課題なのである。

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我ながら、あいかわらず小難しい文章をかくなぁ、と思います

けどこれでも、一生懸命わかりやすく書いたつもりなのです

修行が足りませんね、精進したいです
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