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2014年10月の記事

2014年10月16日 (木)

【公開講座】 インドの今を知る

こんな公開講座をさせていただきます

日本女子大学 生涯学習センター のプログラムです

ご関心の方は、ぜひぜひおいでくださいませ ⇒ 申込はこちらから (要 無料会員登録)

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インドの今を知る ―2014年総選挙から見る「立ちあがる巨象」の姿―

 世界はますます混迷の度合いを深めています。日本の不安や動揺もその一部です。政治経済、科学技術、宗教文化など、全ての面をどこかへ運び去る地球史の大きなうねりが、私たちをすでに飲みこんでいます。
 こうした時代、方向の見定めがとても難しくなるのは必然です。ひとつの抜け道は、外国の情勢に目を向けてみることでしょう。私たちと同時代を生きつつ、歴史的に別様の体験を経てきた場所について、多少なりとも踏み込んだ知識と理解を得ること、それは私たちの視野をおのずと広げ、現状と未来について豊かで鋭い理解を与えてくれるかもしれません。
 この講座では、こうした関心から「インドの今」を解説してみたいと思います。



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2014年10月 9日 (木)

「ヒンドゥー」の概念史

以前、 「ヒンドゥー教概念の誕生」 なんていうエントリを書きました

その続報になりますかね、こんな短文を書いてみました

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 インド亜大陸にはかねてから、多種多様な、ほとんど無数といってよいほどの慣習や伝統が自生してきた。しかし、その全体を包括してあらわす一単語は、ながらく存在しなかった。まさにそのような一語として、「ヒンドゥー」という語をわだかまりなく通用させることのできる現代人の感覚からすれば、これは意外なことかもしれない。「ヒンドゥー」という語が、包括的、統合的、かつ超歴史的な概念(とくに慣習・伝統・文化のカテゴリー)として成立してくるのには、千年単位のながい期間がかかっている。それは、劇的な断絶をともなわない連続的な変化であった。


 かいつまんでいえば、「ヒンドゥー」の概念史は次のような歴史絵図としてしめすことができる――


  1.  古代ペルシアで「ヒンドゥー」という語が地誌的な概念としてうまれ


  2.  当のインドで、4世紀から6世紀あたり、のちに「ヒンドゥー」という言葉に充填されることになる文化的な諸要素が標準的なワンセットとして大方とりそろい


  3.  11世紀以降、そうしたセットがゆるやかに「ヒンドゥー」という語で包摂されはじめ


  4.  13世紀から15世紀あたりをさかいに、その傾向が明確になるとともに、かなり広範囲におよび


  5.  18世紀前半、イギリス植民地支配がはじまる直前にはもう、「ヒンドゥー」という名詞はかなり一般化し、同時にインド住民の大きな部分(現代であれば迷いなく「ヒンドゥー」と自称もし他称もされるだろう人たち)のアイデンティティの一部をにないうる概念になっていた。


  6.  そして19世紀初頭、ヨーロッパ、とくにイギリスの知識人たちにより、「ヒンドゥー」という語があらたに定式化され、現在通用しているような概念カテゴリーとなった(ヒンドゥー・イズムというヨーロッパ諸語の概念もここから生まれている)。


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2014年10月 6日 (月)

コミュナリズムの友敵イデオロギー

また、こんな文章を書いてみました

「コミュナリズム」とは、インドにおけるいわゆる「宗教紛争」のことです

また、途中で「霊的原初主義」という表現がでてきますが、ボクの造語です

あんまり気にせず どうぞ読み飛ばしちゃってください _(._.)_

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 ムスリムのものであれヒンドゥーのものであれ、コミュナリズムに特徴的なのは、友敵関係の絶対化である。だれが味方でだれが敵方かという枠組みが、認知全体の根底にすえられているのだ。コミュナリストによれば、この関係は、目にみえる物理的な戦闘としてあらわれることもあれば、抑圧や差別や不正義などとして構造的にあらわれることもある。弱肉強食の闘いがいままさにくり広げられているなか、自分たちはそこにまきこまれている。しかも、劣勢におかれるか、一方的な被害者の側におかれている(コミュナリスト・イデオロギーの内容について、具体的で実証的な比較研究のためには別の一冊の本を要しよう。インド研究がもっともさかんな英語圏ですら、それにふさわしい本はまだない。ヒンドゥー・コミュナリスト・イデオロギーについては、わたしの博士論文を参照していただきたい)。


 こんな戦況はなぜ生じたのか。コミュナリストは明確にこたえる――「われら」の陣営が、激烈な友敵関係がそこにあることをみうしない、味方の結束がどれだけ大事であるかをわすれ、かえってそれを乱すことで、敵方に有利な状況をみずからつくり出してしまっているからだ。こうした認識がみちびき出す処方箋は、ごく簡単なものだ。すなわち、ヒンドゥーであれムスリムであれ、自陣営はまず覚醒し、それから団結して、戦闘能力をあげよ。そして、暴力のそしりをおそれず、なすべき対処はこれを断固としてなさねばならない。わたしたちは生死をかけた闘いにのぞんでいるのだから。


 コミュナリズムの根底にある友敵イデオロギーは、さらに、その友敵関係を歴史的なものとみなす。かれらにとってこの闘いは、つい最近はじまったものでは決してない。個々人の生い立ちや人生をはるかにこえて、数百年にわたりつづく戦闘状態がみいだされているのだ。たとえばヒンドゥー・コミュナリストの場合、「ムスリム」こそが敵である。「ムスリム」は千年もの昔から「ヒンドゥー」とその大地インドを蹂躙しはじめ、いまもそれをつづけている。当初は勇猛にたたかった「ヒンドゥー」であったが、敗北のすえ闘志をうしない、そればかりか、非暴力の理想を云々しながら、敗北主義者としていきながらえることに慣れきってしまった。今ここでの「われらヒンドゥー」の苦境は、こうした歴史の果実である。だから「ヒンドゥー」よ、いまこそ目覚め、団結し、勝利せよ。


 ここにおいて、霊的原初主義はコミュナリズムへと、いきおいよく引きよせられていく。霊的原初主義はそれ自体なんの攻撃性もふくみもたない。しかし、友敵イデオロギーに対する免疫(それを拒絶するための論理)をもちあわせていない。一人ひとりの人生そのものであるような実在の集団(ヒンドゥーであれムスリムであれ)が危機におちいっているのに、あなたはそれをしらない、なにも行動をおこさない、そんなことで本当によいのか。このように問われたとき、善良でまじめな人物ほど、コミュナリズムの友敵イデオロギーを批判することができないどころか、その呼びかけに心を動かされてしまうだろう。


 ここに、わたしのような立場のものが、霊的原初主義への「反対」(「否定」ではなく「反対」)をしめさねばならない必然性がある。ここではとりあえず、「ヒンドゥー」についてそのことを主題的に論じているわけだが、「ムスリム」についてもまた、同様の忠言を、わたしはおこないたい。ただし、「ムスリム」の集団性の存立要件は「ヒンドゥー」のものとはかなりことなる。明確な始原が集団性の維持発展が初期条件として設定されており、なおかつその維持発展が当初から最重要課題として設定されているからである。

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2014年10月 2日 (木)

《世俗》の知、あるいは科学と啓蒙

インド研究の一環で こんな文章を書いてみました

新しいことはなにもありませんが、まさに 「《世俗》 の宗教学」!

どっかで使うことになると思いますが、どうぞご笑覧くださいませ_(._.)_

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あらたな世界の情報

 一六世紀、アジアへと進出してきたポルトガルは当初、武力をたてに、自分たちのルールをおしつけ、権益を収奪していた。中東、アフリカ、インド洋から東南アジア、極東という広大な地域には、古代より通商路がひらけ、無数の商人たちが活躍していた。そこにはながい歴史のなかでつちかわれた、独自の習慣やルールがあったわけだが、ポルトガルはそれらを理解のうえ受けいれ、新参者としてそこに参加しようとしたのではなかった。ただ無視して、必要なら破壊していったのだ。


 このように強圧的な参入により、当初こそポルトガルは利益をえたものの、やがて限界につきあたる。戦争を有力な手段とする商行為にはコストがかかりすぎる。対立相手の戦法や武器、航海技術が向上していくことで、戦闘での被害はさらにおおきくなっていく。国力の限界につき当たったポルトガルは、態度を軟化させざるをえなくなり、アジアの風俗習慣やルールにのっとった(つまり、それをよく知って受けいれたうえでの)商取引をこころみようとした。しかし時すでにおそし、ポルトガル王家は断絶し、スペインへと併合されてしまう(一五八〇-一六四〇)。


 ではスペインが、ポルトガルの失敗を教訓に、アジア交易へと有機的、平和的に参入したかといえば、そうはならなかった。ポルトガルを併合したころ、一六世紀末にはすでに、スペインの勢力もまた衰退しはじめており、彼らの海外への展開そのものが急速に縮小していったからである。


 この百年の歴史をつうじて、アメリカやアフリカとならびアジアについても、あらたな情報がヨーロッパにたくさんもたらされた。カトリック教会の宣教師や、征服者、探検家、航海士などがしるした大量の記録は、当時の人びとをおおいに刺激し、征服地とそこの人びとをめぐる議論がさまざまにたたかわされた。ただし、それはまだ、カトリックの正統教義の枠組みをこえることはなかった。その「知」がいかに充実したものであろうと、「理性」と「批判」が最上級の原則としてたてられていたわけではなかったのである。それには「科学」と「啓蒙」の時代をまたねばならない。


科学と啓蒙

 スペイン・ポルトガルの衰退をうけ、権力政治の舞台では、まずオランダが台頭した。一六〇〇年ごろに事実上の独立をはたしたばかりのこの国は、革命的とすらよびうる体制をつくり上げていった。すなわち、民族や宗教の多様性をゆるし、王族貴族の支配から自由な、都市民みずからによる統治をしき、土地の収奪ではなく商取引によって経済基盤をなすという体制である。それはまさに近代国家の萌芽であった。


 こうした国家体制を、オランダは戦争にまみれながらきずいた(八〇年戦争、三〇年戦争)。それは凄惨な争いだった。伝統的な調停機関はカトリックのローマ教皇を頂点といだくものだったため、権威をうしない機能不全におちいり、戦いは泥沼化していたのだ。平和と協調をとりもどすためには、どうしたらよいのか。屈服と服従がはたせないなら、相手をひとりのこらず殲滅すればよいのか、財貨をしはらえばよいのか。話し合いの場をもうけることはできないのか。そもそも、人間(少なくとも、この時代の西ヨーロッパ人)はどうしてこうも戦いつづけるのか。こうした政治的、法的、道徳的な問いに取りくんだひとりが、オランダ出身の法学者フーゴー・グロティウス(一五八三-一六四五)である。彼は「自然法」を設定し、それにもとづくことで紛争の回避・解決をめざす、国際法の基礎をつくった。


 グロティウスの自然法は、従来の法理論をおおきく世俗化したものである。すなわち、キリスト教神学の前提によらずとも、「自然」と「理性」によって普遍的なものの存在を、人間は正確にしることができるとしたのだ。彼自身はキリスト教信仰を大切にしていたようだが、社会秩序維持をもとめる人間の「本性=自然」は、異教徒であろうと聖書解釈と教義がことなる宗派であろうとかかわりなく、共通する法則、すなわち「自然法」の存在をあかししている(シュナイウィンド『自律の創成』を参照)。



 グロティウスにこうして注目することは、しかしながら、「知」の分野における革新が、オランダという場所から限定的にはじまったということを意味しない。彼の『戦争と平和の法』(一六二五)が執筆、出版されたのは、亡命先のパリにおいてであった。この著作はラテン語で書かれたが、カトリック教会の公式言語であったラテン語は一気に権威をうしなっていく。それに代わり、事実上のヨーロッパ公用語の地位にのぼったのは、フランス語であった。さらに、他の国ぐにの知識人が、オランダという国をどこまで賛美していたかはさだかでない、その経済的繁栄は驚異をもってうけとられていたようだが、当時のオランダは一方で「守銭奴の国」のようにも思われていたのである。各国、各地域の知識人はたがいにさかんに交流し、それぞれの場所で「科学」と「啓蒙」の思想と実践をくりひろげた。グロティウスもオランダも、そうした広範なネットワークの一部をになっていたのである。


 一七世紀、法の分野の世俗化と並行し、たがいに刺激をあたえつづけた動きとして、いわゆる「科学革命」(H・バターフィールド)がある。まずはイギリスが先導役となって、自然界の研究が進み、科学の諸分野で知識の基礎と方法論が確立していったのである。象徴的な出来事としては、一六六〇年にロンドンで「王立協会」が、一六六六年にパリで「科学アカデミー」が、それぞれ設立されたことがあげられる。この時期の「科学」は、まだキリスト教の教義(それはもはやカトリック教会のものではなく、聖書のより自由な解釈にもとづくプロテスタント諸教会のものだった)から自由ではなく、「神」の存在を前提にすることがふつうであったものの、実験と観察、数学的な手法、および理性的な哲学、宇宙観や自然観などはかなり高度に発達した。



 さらに、生まれたばかりの科学の哲学と手法は、自然現象から人間現象(人間そのものや社会、歴史地理)に対してもすぐに適用されていく。「啓蒙思想」である。一七世紀後半以降、やはりイギリス、そしてフランスが火つけ役となり、欧州の全域でこの思想はきわめておおきな影響力をもつようになる。こうして一八世紀は「啓蒙の世紀」とすら呼ばれる時代となる。啓蒙主義は、アジアなど世界の文物についての理解と政策をも、当然ながらみずからの仕事として引きうけていった。一七五三年、ロンドンで「大英博物館」が設立されたのは、その象徴的な出来事である。


 以上、一八世紀半ばまでの歴史を概観してきた。それ以降の時代については、簡単なスケッチをするだけにとどめておく。すなわち、このようなことだ――一八世紀末以降、イギリスをはじめとする西欧列強は、アジアなどの領域支配を本格化させていく。科学と啓蒙の精神にのっとり、現地の人びとの社会や文化について、詳細で堅実な情報分析がすすめられていき、こうした研究をになう教育研究機関がつくられはじめる。そして、一九世紀にはいるとすぐ「東洋学」が形をみせる。一八二二年にはパリで「アジア学会」が、四年後にはロンドンで「王立アジア協会」が設立されていく。


《世俗》の知

 西ヨーロッパの歴史において、あらたな「知」の原則と制度が確立するのには、数百年におよぶ前史があった。右で語ってきた過程は、その最後の部分をまとめたものにすぎない。かつて彼らの「知」はローマ・カトリック教会の正統教義によって支配されていた。「理性」はそれ自体が自律したものであり、人間にあたえられた特権的な能力であるとの思想は、西ヨーロッパに以前よりあった。しかし、一六世紀あたりをさかいに、その思想がそれまでとは比較にならないほどおおきな力をえていったのである。オランダ、イギリス、フランスなどがインドやアジアに進出していった時代、ヨーロッパ大陸には、まさにこうした「知」の大転換がおとずれようとしていたのである。


 あらたな「知」の基盤は、さまざまな方面から模索されることになる。オランダ、イギリス、フランスなどをはじめ、西ヨーロッパ各地でそうした動きが生じた。これらの国々や場所の知識人はたがいにさかんな交流をもち、一七世紀の「科学革命」、一八世紀の「啓蒙思想」などの時代をになっていく。理性と科学を中心にすえる「近代文明」の誕生である。そして科学と啓蒙は、近代国家(すなわち、西欧の国民国家とその帝国)の基本的なイデオロギーとなっていく。


 こうして、イギリスはインドに、最初は新興の異国商人として、やがてすぐ「科学」と「啓蒙」の雄として、「文明化」の使命をおびた特別な存在として、たちあらわれるようになった。一九世紀の初頭には、そうした一方的な関係のなかで、あの偉大な歴史をほこるインドは、「未明」「未開」の亜大陸と位置づけられることになる。すなわち、イギリス人にとって、あるいは西欧の科学的・啓蒙主義的な知識人にとって、さらには彼らの《世俗》の知をみずからの正当化のために全面的に採用したイギリス国家にとって、インドは、「カースト」や「宗教」によってしばりあげられた、「前近代的」な「野蛮」の土地にすぎない、というのである。


 ここまでの解説をおえたことで、わたしがこの問題をながながと論じてきたねらいを明らかにすることができる。それはふたつある。第一に、イギリスの近代文明が、インド現地の社会や文化に、科学的で啓蒙的、「文明的」な介入をおこなったこと。それは、ヨーロッパの近代知によって、あらたなインド観(インドについての情報にもとづくインド理解、あるいは単なるイメージ)が創出され、それが国家の政策へとつねに適用されていったということを意味する。「ヒンドゥー」「ムスリム」といった集団範疇、「イスラーム」「ヒンドゥーイズム」などからなる宗教分類学、そしてある現象に対する「コミュナリズム」という命名などの知的な作業は、《世俗》の知という近代の圧倒的な権威にもとづいており、それゆえ、現地の歴史やこまかな事情とはうまく調和しきれず、事態をこじらせていった。


 そして第二に、《世俗》の知が、二一世紀初頭の現時点でも、また世界の全体においても、あいかわらず権威をもちつづけ、増殖しつづけているということ。序章でのべたように、本書は「宗教紛争」というラベルに対する疑義から出発している。こうしたラベルは、《世俗》の知が数百年をかけてきずいてきた知識体系のなかにおかれているものだ。それゆえ、さしたる疑問ももたれぬまま、広い範囲で通用しているのである。コミュナリズム批判からの「宗教紛争」論は、事態のよりよい把握と解決にむけた努力のためにこそ、こうした知のあり方そのものを批判せねばならない。本書が取りくもうとしているのは、まさにこの課題なのである。
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