コミュナリズムの友敵イデオロギー
また、こんな文章を書いてみました
「コミュナリズム」とは、インドにおけるいわゆる「宗教紛争」のことです
また、途中で「霊的原初主義」という表現がでてきますが、ボクの造語です
あんまり気にせず どうぞ読み飛ばしちゃってください _(._.)_
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ムスリムのものであれヒンドゥーのものであれ、コミュナリズムに特徴的なのは、友敵関係の絶対化である。だれが味方でだれが敵方かという枠組みが、認知全体の根底にすえられているのだ。コミュナリストによれば、この関係は、目にみえる物理的な戦闘としてあらわれることもあれば、抑圧や差別や不正義などとして構造的にあらわれることもある。弱肉強食の闘いがいままさにくり広げられているなか、自分たちはそこにまきこまれている。しかも、劣勢におかれるか、一方的な被害者の側におかれている(コミュナリスト・イデオロギーの内容について、具体的で実証的な比較研究のためには別の一冊の本を要しよう。インド研究がもっともさかんな英語圏ですら、それにふさわしい本はまだない。ヒンドゥー・コミュナリスト・イデオロギーについては、わたしの博士論文を参照していただきたい)。
こんな戦況はなぜ生じたのか。コミュナリストは明確にこたえる――「われら」の陣営が、激烈な友敵関係がそこにあることをみうしない、味方の結束がどれだけ大事であるかをわすれ、かえってそれを乱すことで、敵方に有利な状況をみずからつくり出してしまっているからだ。こうした認識がみちびき出す処方箋は、ごく簡単なものだ。すなわち、ヒンドゥーであれムスリムであれ、自陣営はまず覚醒し、それから団結して、戦闘能力をあげよ。そして、暴力のそしりをおそれず、なすべき対処はこれを断固としてなさねばならない。わたしたちは生死をかけた闘いにのぞんでいるのだから。
コミュナリズムの根底にある友敵イデオロギーは、さらに、その友敵関係を歴史的なものとみなす。かれらにとってこの闘いは、つい最近はじまったものでは決してない。個々人の生い立ちや人生をはるかにこえて、数百年にわたりつづく戦闘状態がみいだされているのだ。たとえばヒンドゥー・コミュナリストの場合、「ムスリム」こそが敵である。「ムスリム」は千年もの昔から「ヒンドゥー」とその大地インドを蹂躙しはじめ、いまもそれをつづけている。当初は勇猛にたたかった「ヒンドゥー」であったが、敗北のすえ闘志をうしない、そればかりか、非暴力の理想を云々しながら、敗北主義者としていきながらえることに慣れきってしまった。今ここでの「われらヒンドゥー」の苦境は、こうした歴史の果実である。だから「ヒンドゥー」よ、いまこそ目覚め、団結し、勝利せよ。
ここにおいて、霊的原初主義はコミュナリズムへと、いきおいよく引きよせられていく。霊的原初主義はそれ自体なんの攻撃性もふくみもたない。しかし、友敵イデオロギーに対する免疫(それを拒絶するための論理)をもちあわせていない。一人ひとりの人生そのものであるような実在の集団(ヒンドゥーであれムスリムであれ)が危機におちいっているのに、あなたはそれをしらない、なにも行動をおこさない、そんなことで本当によいのか。このように問われたとき、善良でまじめな人物ほど、コミュナリズムの友敵イデオロギーを批判することができないどころか、その呼びかけに心を動かされてしまうだろう。
ここに、わたしのような立場のものが、霊的原初主義への「反対」(「否定」ではなく「反対」)をしめさねばならない必然性がある。ここではとりあえず、「ヒンドゥー」についてそのことを主題的に論じているわけだが、「ムスリム」についてもまた、同様の忠言を、わたしはおこないたい。ただし、「ムスリム」の集団性の存立要件は「ヒンドゥー」のものとはかなりことなる。明確な始原が集団性の維持発展が初期条件として設定されており、なおかつその維持発展が当初から最重要課題として設定されているからである。
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「コミュナリズム」とは、インドにおけるいわゆる「宗教紛争」のことです
また、途中で「霊的原初主義」という表現がでてきますが、ボクの造語です
あんまり気にせず どうぞ読み飛ばしちゃってください _(._.)_
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ムスリムのものであれヒンドゥーのものであれ、コミュナリズムに特徴的なのは、友敵関係の絶対化である。だれが味方でだれが敵方かという枠組みが、認知全体の根底にすえられているのだ。コミュナリストによれば、この関係は、目にみえる物理的な戦闘としてあらわれることもあれば、抑圧や差別や不正義などとして構造的にあらわれることもある。弱肉強食の闘いがいままさにくり広げられているなか、自分たちはそこにまきこまれている。しかも、劣勢におかれるか、一方的な被害者の側におかれている(コミュナリスト・イデオロギーの内容について、具体的で実証的な比較研究のためには別の一冊の本を要しよう。インド研究がもっともさかんな英語圏ですら、それにふさわしい本はまだない。ヒンドゥー・コミュナリスト・イデオロギーについては、わたしの博士論文を参照していただきたい)。
こんな戦況はなぜ生じたのか。コミュナリストは明確にこたえる――「われら」の陣営が、激烈な友敵関係がそこにあることをみうしない、味方の結束がどれだけ大事であるかをわすれ、かえってそれを乱すことで、敵方に有利な状況をみずからつくり出してしまっているからだ。こうした認識がみちびき出す処方箋は、ごく簡単なものだ。すなわち、ヒンドゥーであれムスリムであれ、自陣営はまず覚醒し、それから団結して、戦闘能力をあげよ。そして、暴力のそしりをおそれず、なすべき対処はこれを断固としてなさねばならない。わたしたちは生死をかけた闘いにのぞんでいるのだから。
コミュナリズムの根底にある友敵イデオロギーは、さらに、その友敵関係を歴史的なものとみなす。かれらにとってこの闘いは、つい最近はじまったものでは決してない。個々人の生い立ちや人生をはるかにこえて、数百年にわたりつづく戦闘状態がみいだされているのだ。たとえばヒンドゥー・コミュナリストの場合、「ムスリム」こそが敵である。「ムスリム」は千年もの昔から「ヒンドゥー」とその大地インドを蹂躙しはじめ、いまもそれをつづけている。当初は勇猛にたたかった「ヒンドゥー」であったが、敗北のすえ闘志をうしない、そればかりか、非暴力の理想を云々しながら、敗北主義者としていきながらえることに慣れきってしまった。今ここでの「われらヒンドゥー」の苦境は、こうした歴史の果実である。だから「ヒンドゥー」よ、いまこそ目覚め、団結し、勝利せよ。
ここにおいて、霊的原初主義はコミュナリズムへと、いきおいよく引きよせられていく。霊的原初主義はそれ自体なんの攻撃性もふくみもたない。しかし、友敵イデオロギーに対する免疫(それを拒絶するための論理)をもちあわせていない。一人ひとりの人生そのものであるような実在の集団(ヒンドゥーであれムスリムであれ)が危機におちいっているのに、あなたはそれをしらない、なにも行動をおこさない、そんなことで本当によいのか。このように問われたとき、善良でまじめな人物ほど、コミュナリズムの友敵イデオロギーを批判することができないどころか、その呼びかけに心を動かされてしまうだろう。
ここに、わたしのような立場のものが、霊的原初主義への「反対」(「否定」ではなく「反対」)をしめさねばならない必然性がある。ここではとりあえず、「ヒンドゥー」についてそのことを主題的に論じているわけだが、「ムスリム」についてもまた、同様の忠言を、わたしはおこないたい。ただし、「ムスリム」の集団性の存立要件は「ヒンドゥー」のものとはかなりことなる。明確な始原が集団性の維持発展が初期条件として設定されており、なおかつその維持発展が当初から最重要課題として設定されているからである。
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