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2014年10月 2日 (木)

《世俗》の知、あるいは科学と啓蒙

インド研究の一環で こんな文章を書いてみました

新しいことはなにもありませんが、まさに 「《世俗》 の宗教学」!

どっかで使うことになると思いますが、どうぞご笑覧くださいませ_(._.)_

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あらたな世界の情報

 一六世紀、アジアへと進出してきたポルトガルは当初、武力をたてに、自分たちのルールをおしつけ、権益を収奪していた。中東、アフリカ、インド洋から東南アジア、極東という広大な地域には、古代より通商路がひらけ、無数の商人たちが活躍していた。そこにはながい歴史のなかでつちかわれた、独自の習慣やルールがあったわけだが、ポルトガルはそれらを理解のうえ受けいれ、新参者としてそこに参加しようとしたのではなかった。ただ無視して、必要なら破壊していったのだ。


 このように強圧的な参入により、当初こそポルトガルは利益をえたものの、やがて限界につきあたる。戦争を有力な手段とする商行為にはコストがかかりすぎる。対立相手の戦法や武器、航海技術が向上していくことで、戦闘での被害はさらにおおきくなっていく。国力の限界につき当たったポルトガルは、態度を軟化させざるをえなくなり、アジアの風俗習慣やルールにのっとった(つまり、それをよく知って受けいれたうえでの)商取引をこころみようとした。しかし時すでにおそし、ポルトガル王家は断絶し、スペインへと併合されてしまう(一五八〇-一六四〇)。


 ではスペインが、ポルトガルの失敗を教訓に、アジア交易へと有機的、平和的に参入したかといえば、そうはならなかった。ポルトガルを併合したころ、一六世紀末にはすでに、スペインの勢力もまた衰退しはじめており、彼らの海外への展開そのものが急速に縮小していったからである。


 この百年の歴史をつうじて、アメリカやアフリカとならびアジアについても、あらたな情報がヨーロッパにたくさんもたらされた。カトリック教会の宣教師や、征服者、探検家、航海士などがしるした大量の記録は、当時の人びとをおおいに刺激し、征服地とそこの人びとをめぐる議論がさまざまにたたかわされた。ただし、それはまだ、カトリックの正統教義の枠組みをこえることはなかった。その「知」がいかに充実したものであろうと、「理性」と「批判」が最上級の原則としてたてられていたわけではなかったのである。それには「科学」と「啓蒙」の時代をまたねばならない。


科学と啓蒙

 スペイン・ポルトガルの衰退をうけ、権力政治の舞台では、まずオランダが台頭した。一六〇〇年ごろに事実上の独立をはたしたばかりのこの国は、革命的とすらよびうる体制をつくり上げていった。すなわち、民族や宗教の多様性をゆるし、王族貴族の支配から自由な、都市民みずからによる統治をしき、土地の収奪ではなく商取引によって経済基盤をなすという体制である。それはまさに近代国家の萌芽であった。


 こうした国家体制を、オランダは戦争にまみれながらきずいた(八〇年戦争、三〇年戦争)。それは凄惨な争いだった。伝統的な調停機関はカトリックのローマ教皇を頂点といだくものだったため、権威をうしない機能不全におちいり、戦いは泥沼化していたのだ。平和と協調をとりもどすためには、どうしたらよいのか。屈服と服従がはたせないなら、相手をひとりのこらず殲滅すればよいのか、財貨をしはらえばよいのか。話し合いの場をもうけることはできないのか。そもそも、人間(少なくとも、この時代の西ヨーロッパ人)はどうしてこうも戦いつづけるのか。こうした政治的、法的、道徳的な問いに取りくんだひとりが、オランダ出身の法学者フーゴー・グロティウス(一五八三-一六四五)である。彼は「自然法」を設定し、それにもとづくことで紛争の回避・解決をめざす、国際法の基礎をつくった。


 グロティウスの自然法は、従来の法理論をおおきく世俗化したものである。すなわち、キリスト教神学の前提によらずとも、「自然」と「理性」によって普遍的なものの存在を、人間は正確にしることができるとしたのだ。彼自身はキリスト教信仰を大切にしていたようだが、社会秩序維持をもとめる人間の「本性=自然」は、異教徒であろうと聖書解釈と教義がことなる宗派であろうとかかわりなく、共通する法則、すなわち「自然法」の存在をあかししている(シュナイウィンド『自律の創成』を参照)。



 グロティウスにこうして注目することは、しかしながら、「知」の分野における革新が、オランダという場所から限定的にはじまったということを意味しない。彼の『戦争と平和の法』(一六二五)が執筆、出版されたのは、亡命先のパリにおいてであった。この著作はラテン語で書かれたが、カトリック教会の公式言語であったラテン語は一気に権威をうしなっていく。それに代わり、事実上のヨーロッパ公用語の地位にのぼったのは、フランス語であった。さらに、他の国ぐにの知識人が、オランダという国をどこまで賛美していたかはさだかでない、その経済的繁栄は驚異をもってうけとられていたようだが、当時のオランダは一方で「守銭奴の国」のようにも思われていたのである。各国、各地域の知識人はたがいにさかんに交流し、それぞれの場所で「科学」と「啓蒙」の思想と実践をくりひろげた。グロティウスもオランダも、そうした広範なネットワークの一部をになっていたのである。


 一七世紀、法の分野の世俗化と並行し、たがいに刺激をあたえつづけた動きとして、いわゆる「科学革命」(H・バターフィールド)がある。まずはイギリスが先導役となって、自然界の研究が進み、科学の諸分野で知識の基礎と方法論が確立していったのである。象徴的な出来事としては、一六六〇年にロンドンで「王立協会」が、一六六六年にパリで「科学アカデミー」が、それぞれ設立されたことがあげられる。この時期の「科学」は、まだキリスト教の教義(それはもはやカトリック教会のものではなく、聖書のより自由な解釈にもとづくプロテスタント諸教会のものだった)から自由ではなく、「神」の存在を前提にすることがふつうであったものの、実験と観察、数学的な手法、および理性的な哲学、宇宙観や自然観などはかなり高度に発達した。



 さらに、生まれたばかりの科学の哲学と手法は、自然現象から人間現象(人間そのものや社会、歴史地理)に対してもすぐに適用されていく。「啓蒙思想」である。一七世紀後半以降、やはりイギリス、そしてフランスが火つけ役となり、欧州の全域でこの思想はきわめておおきな影響力をもつようになる。こうして一八世紀は「啓蒙の世紀」とすら呼ばれる時代となる。啓蒙主義は、アジアなど世界の文物についての理解と政策をも、当然ながらみずからの仕事として引きうけていった。一七五三年、ロンドンで「大英博物館」が設立されたのは、その象徴的な出来事である。


 以上、一八世紀半ばまでの歴史を概観してきた。それ以降の時代については、簡単なスケッチをするだけにとどめておく。すなわち、このようなことだ――一八世紀末以降、イギリスをはじめとする西欧列強は、アジアなどの領域支配を本格化させていく。科学と啓蒙の精神にのっとり、現地の人びとの社会や文化について、詳細で堅実な情報分析がすすめられていき、こうした研究をになう教育研究機関がつくられはじめる。そして、一九世紀にはいるとすぐ「東洋学」が形をみせる。一八二二年にはパリで「アジア学会」が、四年後にはロンドンで「王立アジア協会」が設立されていく。


《世俗》の知

 西ヨーロッパの歴史において、あらたな「知」の原則と制度が確立するのには、数百年におよぶ前史があった。右で語ってきた過程は、その最後の部分をまとめたものにすぎない。かつて彼らの「知」はローマ・カトリック教会の正統教義によって支配されていた。「理性」はそれ自体が自律したものであり、人間にあたえられた特権的な能力であるとの思想は、西ヨーロッパに以前よりあった。しかし、一六世紀あたりをさかいに、その思想がそれまでとは比較にならないほどおおきな力をえていったのである。オランダ、イギリス、フランスなどがインドやアジアに進出していった時代、ヨーロッパ大陸には、まさにこうした「知」の大転換がおとずれようとしていたのである。


 あらたな「知」の基盤は、さまざまな方面から模索されることになる。オランダ、イギリス、フランスなどをはじめ、西ヨーロッパ各地でそうした動きが生じた。これらの国々や場所の知識人はたがいにさかんな交流をもち、一七世紀の「科学革命」、一八世紀の「啓蒙思想」などの時代をになっていく。理性と科学を中心にすえる「近代文明」の誕生である。そして科学と啓蒙は、近代国家(すなわち、西欧の国民国家とその帝国)の基本的なイデオロギーとなっていく。


 こうして、イギリスはインドに、最初は新興の異国商人として、やがてすぐ「科学」と「啓蒙」の雄として、「文明化」の使命をおびた特別な存在として、たちあらわれるようになった。一九世紀の初頭には、そうした一方的な関係のなかで、あの偉大な歴史をほこるインドは、「未明」「未開」の亜大陸と位置づけられることになる。すなわち、イギリス人にとって、あるいは西欧の科学的・啓蒙主義的な知識人にとって、さらには彼らの《世俗》の知をみずからの正当化のために全面的に採用したイギリス国家にとって、インドは、「カースト」や「宗教」によってしばりあげられた、「前近代的」な「野蛮」の土地にすぎない、というのである。


 ここまでの解説をおえたことで、わたしがこの問題をながながと論じてきたねらいを明らかにすることができる。それはふたつある。第一に、イギリスの近代文明が、インド現地の社会や文化に、科学的で啓蒙的、「文明的」な介入をおこなったこと。それは、ヨーロッパの近代知によって、あらたなインド観(インドについての情報にもとづくインド理解、あるいは単なるイメージ)が創出され、それが国家の政策へとつねに適用されていったということを意味する。「ヒンドゥー」「ムスリム」といった集団範疇、「イスラーム」「ヒンドゥーイズム」などからなる宗教分類学、そしてある現象に対する「コミュナリズム」という命名などの知的な作業は、《世俗》の知という近代の圧倒的な権威にもとづいており、それゆえ、現地の歴史やこまかな事情とはうまく調和しきれず、事態をこじらせていった。


 そして第二に、《世俗》の知が、二一世紀初頭の現時点でも、また世界の全体においても、あいかわらず権威をもちつづけ、増殖しつづけているということ。序章でのべたように、本書は「宗教紛争」というラベルに対する疑義から出発している。こうしたラベルは、《世俗》の知が数百年をかけてきずいてきた知識体系のなかにおかれているものだ。それゆえ、さしたる疑問ももたれぬまま、広い範囲で通用しているのである。コミュナリズム批判からの「宗教紛争」論は、事態のよりよい把握と解決にむけた努力のためにこそ、こうした知のあり方そのものを批判せねばならない。本書が取りくもうとしているのは、まさにこの課題なのである。

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