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2014年11月の記事

2014年11月30日 (日)

路上の神様―祈り

石井光太 『地を這う祈り』 (徳間書店,2010年) よりの引用――

この本で、いちばん好きなページを引用させていただきます

ああいった場所のああいった人たちの本当のすがた…

そういったものが本当にあるのかどうかは知りませんけど

ボク自身が そのようなものだと感得するすがたが

ここには、とってもよく表されているように思いました

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神棚の下で眠る

 インドには、数えられるだけで三億以上の神様がいると言われている。

 貧しい人々は、路上で寝起きしながらも、そうした神を信仰している。町の木や塀に神棚をつくり、思い思いの神様を祀る。食費を節約してでも、線香を用意し、朝晩は祈りを欠かさない。

「今日も一日、お父さんが仕事をして帰ってきますように」

「私が仕事にでている間、妻と娘がトラブルに巻き込まれませんように」

「いつの日か、家を借りて、家族が仲良く暮らせますように」

 そんなことを願うのである。

 ある年の夏、ムンバイでガネーシャという象の頭を持った神の祭りがあった。数日にわたって、町の人々は巨大な象をトラックの荷台に乗せて町を行進する。路上生活者たちも列に加わる。知っている人も、知らない人も握手を交わし、お互いの幸運を祈る。

 祭りの最終日、私は知り合いの路上生活をする親子を町を歩き、夜になって寝場所にもどってきた。すると、壁に掛けてあったガネーシャ神を祀った棚に、甘いお菓子が袋に入ってぶら下がっていた。

 私が「これは?」と尋ねると、父親が答えた。

「町の人が、わしらにくれたんだろ。祭だからな」

 それを聞いた時、この町にはたしかに神様がいるのかもしれない、と思った。

ペーパーバック版184頁; ルビ省略

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この本は フォトエッセイ集でして…

発展途上国の物乞い、貧者たちの あられもない姿がいっぱい収められています

インドで多少なりと慣れているボクでも (あるいは、そんなボクだからこそ)

直視するのがとってもつらくなる写真がおおいです

ぜひぜひ読んでほしいのですが

慣れない方、怖いなって思う方は まずテクストのみの

石井光太 『物乞う仏陀』  からお手にとるのをおすすめします

2014年11月18日 (火)

[ワークショップ] 映画の撮影の現場に立ち会う!

新企画ライン 第5弾は ふたたび「映画」ッ! 皆さんのご参加、お待ちしております
 ・ 第1弾は 「映画」 でした (140302 開催)
 ・ 第2弾は 「食」 でした (140426 開催)
 ・ 第3弾は 「哲学」 でした (140517 開催)
 ・ 第4弾は 「音楽」 でした (140621 開催)

※ 大変急なのですが、開催五日前の告知となってしまいました

※ 16時半から17時のあいだにセッションが終了します。その後、18時ごろまで 参加者の交流会をもちます。どうぞふるってご参加くださいませ。

※ 企画運営は 「エコノミメーシス R&D」。 この 「エコノ…なんとか…RD」 という集まりは 「藝術の宗教学 研究会」 を改名したものです

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エコノミメーシス R&D 第7回 ワークショップ 》


        映画の撮影の現場に立ち会う!


日頃からご協力頂いている

榎本憲男監督の長編最新作『森のカフェ』撮影現場を見学します。

参加希望を表明頂いた方には、

当日撮影予定部分の「脚本」と「絵コンテ」を事前にお渡しします。

どのように「脚本」から「絵コンテ」になっているのか、

どのように「脚本」と「絵コンテ」が、映像になっていくのか、

この2つを実際の撮影現場に立ち会い、考察してゆきましょう。

スケジュールが急ですが、奮ってご参加ください。

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日時 2014年11月22日(土) 14時-17時
           セッション終了後、18時まで 参加者の交流会をもちます

場所 日本女子大学 目白キャンパス 百年館 高層棟 ⇒ マップ

公開・参加費無料
Peatix  http://emrdspecial.peatix.com  ← 参加申し込みはこちら

コーディネータ
  ・ 榎本憲男 (映画監督・日本大学非常勤講師)
  ・ 近藤光博

趣旨

 私たちは日ごろ、さまざまな「作品」に接しています。作者たち(作り手)と私たち(受け手)とは、「作品」を介して、実はとても密な、そして複雑な関係を、いくつもいくつも交わしつづけています。「メディア社会」という言い方もあります。

 作り手は自由です。自分たちの作りたいものを、かかる経費や時間とのかねあいのなかで、一生懸命に生み出します。そして受け手もまた自由です。「作品」をどのようにあつかおうと、だれも、なにも、それを止めることはできません。無視してもいいし、命がけの応援をしてもいいし、するりと消費してみせるだけでもよいわけです。

 さて、ここで考えてみたいことがあります。メディア作品であふれかえる私たちの人生において、当の「作品」はどこにあるのでしょうか。

 なるほど、フィルムやブルーレイディスクやスクリーン、あるいは印刷物、それらの媒体のうえにあらわれる、あの視聴覚情報こそが「作品」なのだ、ということでよいような気もします。

 しかし、それは少々単純すぎる考え方ではないでしょうか。もう一歩さきにすすんだとき、こんな見方があらわれてきます――「作品」とは、作り手(オーサー、パブリッシャー、エンジニアなど)のねらいと主張と技術の表現である。

 いかがでしょう、この見方は、受け手を文字どおりの単なる「受け手」においてしまうわけですが、私たちはそれで本当に満足できるでしょうか。受け手と作り手が微妙に、あるいは大胆にすれ違うことのほうが、私たちの「作品」経験において、むしろ多いのではないでしょうか。実は、受け手はもっともっと能動的に、「作品」を生み出す役割をはたしているのではないでしょうか。

 社会のメディア化がますます深まっていくなか、私たちは、じぶんの人生を、「作品」との関わりにおいて決定づけています。意識的にであれ、無意識的にであれ、個人的にであれ、集団的にであれ、そうなのです。だからこそ、もうすでに日常的にもたれている「作品」経験をとらえなおしてみることは、きっと、この混沌とした時代を上手にきりぬけていくための、たしかな足がかりになるはずです。

 私たちのワークショップは、映画撮影の現場にお邪魔します。そこで私たちは、滅多にもつことのないタイプの「作り手と作品と受け手との関係」をもつことになるでしょう。そこでなにかが生まれれば、こんなに嬉しいことはありません。皆さまのご参加をお待ち申し上げます。

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公式サイト http://www.workshop.economimesis.com/
Peatix    http://emrdspecial.peatix.com ← 参加申し込み

企画運営 エコノミメーシス R&D
主   催  日本女子大学 文学部・文学研究科 (仮)

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2014年11月14日 (金)

宗教学名著選 刊行開始

国書刊行会より 『宗教学名著選』 というシリーズの刊行がはじまっています

その第2巻 (↓) を御恵贈いただきました。ありがとうございます

 

大変重要で、今後は宗教学研究の基本文献になることまちがいなし!

全六巻の構成が なかなかネットのうえで一瞥できません

国書刊行会のサイトのなかに リーフレット(PDF 注意)が埋まってました

http://www.kokusho.co.jp/catalog/978336056887.pdf

いかがでしょう、わくわくしますよね(*´Д`)

すでに刊行された二つの巻については こちら

http://www.kokusho.co.jp/np/result.html?ser_id=179

第一巻は こちらです (amazon)

 

2014年11月 6日 (木)

現代日本語における自然

2年前、わたしなりに自然論をやってみようとしたことがあります

なかなか上手くいかなくて 最初からコツコツやりなおしているのですが

そのためのメモとして 抜き書きをしておきます

大雑把な議論だとおもわれる方もおいででしょうが

比較思想史的なテクストですので、あしからず

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 このような[日本における]「自然」と「人間」との「根源的紐帯」に基づく自然観は、中国の伝統的自然観である「万物斉同」観、「天人同一」観とも異なる。この中国の自然観にあって「自然」と「人間」が分離しないのは、初期は「気」、後期の思想では「理」が両者に共有されているとされるからである。しかし日本伝統の「根源的紐帯」は、このような「理・気」の原理によって結ばれているものでは必ずしもない。またこの「根源的紐帯」の自然観はデカルト以後のヨーロッパ近代の物心二元論に対蹠的であるのみならず、この「物」と「心」の分離、「自然」と「人間」の乖離に反逆して、その間にあらためて一体化の橋を架けようとした西欧ロマンティシズムの自然観とも同じものではないことに注目しなければならない。一八世紀後半にはじまるヨーロッパのロマン主義は、一七世紀に確立された近代合理主義に対する反動として、起こったものであり、そこではすでに主観と客観、心と物、人間と自然は截然と区別され、両者は徹底的に分離されていた。この乖離と対立を前提にして、その後に一つの「感情移入」によって自然を主観的意識のなかにとり込み、そのことによって再び自然と人間のあいだを架橋しようとしたのがロマン主義である。そこにはつねにこのことが成功しないかも知れないという不安があり、従ってそれは自然に対する「憧憬」――一つの実現されない願望――という形をとることが多い。しかし「根源的紐帯」による結びつきは、このような「憧憬」ではなく、もっと端的な「一体化」が確信されているのである。

 ロマン主義と異なる第二点は、ロマン主義にあっては、この「自然」と「人間」との架橋にあたって、「神」が媒介される。しかし「根源的紐帯」においては、こうしたものは必ずしも必要とされず、その結合はいっそう直接的であり、ある意味ではアニミスティックとさえ言えるだろう。

 このように今日では当たり前になった「ネイチュア」の訳語としての、つまり森羅万象を総括する意味での「自然」という言葉の定着には、意外と長い時間を要したことがわかる。のみならず訳語としての「自然」はワーズワースなどのロマンティシズムの味わいをもっているだけでなく、今述べたように、森羅万象に関する日本に伝統的な感じ方や考え方もその中に浸透しているのである。他方、デカルト的な、生命を欠いた因果法則的「自然」も、自然科学の移入とともに潜在的に日本にとり入れられている。「自然」という日本語が複雑な内容をもっており、一筋縄ではゆかないのは、こうした事情による。

109-11頁: ルビ省略、傍点は太字で示した


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