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2014年11月 6日 (木)

現代日本語における自然

2年前、わたしなりに自然論をやってみようとしたことがあります

なかなか上手くいかなくて 最初からコツコツやりなおしているのですが

そのためのメモとして 抜き書きをしておきます

大雑把な議論だとおもわれる方もおいででしょうが

比較思想史的なテクストですので、あしからず

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 このような[日本における]「自然」と「人間」との「根源的紐帯」に基づく自然観は、中国の伝統的自然観である「万物斉同」観、「天人同一」観とも異なる。この中国の自然観にあって「自然」と「人間」が分離しないのは、初期は「気」、後期の思想では「理」が両者に共有されているとされるからである。しかし日本伝統の「根源的紐帯」は、このような「理・気」の原理によって結ばれているものでは必ずしもない。またこの「根源的紐帯」の自然観はデカルト以後のヨーロッパ近代の物心二元論に対蹠的であるのみならず、この「物」と「心」の分離、「自然」と「人間」の乖離に反逆して、その間にあらためて一体化の橋を架けようとした西欧ロマンティシズムの自然観とも同じものではないことに注目しなければならない。一八世紀後半にはじまるヨーロッパのロマン主義は、一七世紀に確立された近代合理主義に対する反動として、起こったものであり、そこではすでに主観と客観、心と物、人間と自然は截然と区別され、両者は徹底的に分離されていた。この乖離と対立を前提にして、その後に一つの「感情移入」によって自然を主観的意識のなかにとり込み、そのことによって再び自然と人間のあいだを架橋しようとしたのがロマン主義である。そこにはつねにこのことが成功しないかも知れないという不安があり、従ってそれは自然に対する「憧憬」――一つの実現されない願望――という形をとることが多い。しかし「根源的紐帯」による結びつきは、このような「憧憬」ではなく、もっと端的な「一体化」が確信されているのである。

 ロマン主義と異なる第二点は、ロマン主義にあっては、この「自然」と「人間」との架橋にあたって、「神」が媒介される。しかし「根源的紐帯」においては、こうしたものは必ずしも必要とされず、その結合はいっそう直接的であり、ある意味ではアニミスティックとさえ言えるだろう。

 このように今日では当たり前になった「ネイチュア」の訳語としての、つまり森羅万象を総括する意味での「自然」という言葉の定着には、意外と長い時間を要したことがわかる。のみならず訳語としての「自然」はワーズワースなどのロマンティシズムの味わいをもっているだけでなく、今述べたように、森羅万象に関する日本に伝統的な感じ方や考え方もその中に浸透しているのである。他方、デカルト的な、生命を欠いた因果法則的「自然」も、自然科学の移入とともに潜在的に日本にとり入れられている。「自然」という日本語が複雑な内容をもっており、一筋縄ではゆかないのは、こうした事情による。

109-11頁: ルビ省略、傍点は太字で示した


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