中国における「自然」の意味
以前、「現代日本語における自然」 というエントリを書きました
その続便でございます
日本語の概念を反省しようとするなら まずは中国語ですなぁ
===================
中国における「自然」という言葉の本来の意味は、「おのずからなる状態」をさし、「他者の作為や力によるのではなく、それ自身のうちにある働きによって、そうなること」を原義としている。ここでは、この「自然」の「自ら然る」 [おのずからしかる、とのルビ] 自律性・自発性が何よりも注目される。しかしそれがこのような自律的・自発的・自足的状態を意味するとしても、今日いわゆる「ネイチュア」としての自然が意味するような森羅万象の対象的世界一般を指していたわけではない。当時の中国語でそれを意味する言葉は、むしろ「天地」や「万物」や「造化」であった。この場合「天地」は自然界全体を総括し、「万物」はそこにおけるさまざまな具体的事物全体、「造化」はそれらが変化してゆく力を表わすことに重点がおかれていたと言えよう。さもなければ、「鳥獣草木」(『論語』)、「山沢禽獣」(『荘子』)、「山海水潦土石」(『淮南子』)のような自然界の具象的な存在の名称を列記して、あえてそれを統合する名詞を造語していないと言える。
我々が「自然」という言葉を用いるとき、それが自然性の意味と自然物の意味の両義をもっていることを、はっきりとさせておく必要がある。中国語における「自然」は本来、このうちの自然性を言うのであって、自然物を意味するものではなかった。このことに無自覚であるために、さまざまな解釈上の混乱がもたらされたと言える。
62-63頁: ルビ省略、傍点は太字で示した
====================
« 死、社会貢献、祖霊 | トップページ | 日本仏教の全体像 »
「01A 宗教学」カテゴリの記事
- 20世紀における「反近代」の変容(2016.02.24)
- 島薗進 『ポストモダンの新宗教』 (2001)(2016.02.17)
- [ワークショップ] オタクにとって聖なるものとは何か(2016.02.27)
- ヒンドゥーの霊的原初主義(2015.12.17)
- 映画上映会 『マダム・マロリーと魔法のスパイス』(2015.11.11)
「01C 宗教と世俗のあいだ」カテゴリの記事
- 芸術宗教、もしくは世俗化した世界の宗教的感受性(2016.03.10)
- [ワークショップ] オタクにとって聖なるものとは何か(2016.02.27)
- ヒンドゥーの霊的原初主義(2015.12.17)
- 宗教者と無神論者の双方に関わる問題、あるいは信への転回(2015.06.01)
- 世間とは何か(2015.05.07)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント