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2015年1月の記事

2015年1月30日 (金)

現代宗教学の宗教入門 ―中村圭志 『教養としての宗教入門』

前々便 「日本仏教の全体像」 でも紹介した

中村圭志先生の新刊書 『教養としての宗教入門』

ご恵贈をいただき 読み終わりました

さすが中村先生! 大変読みやすく しかもポイントを悉くはずしません!

すごいなぁ… (>_<)

 

どういう本か。 最初の部分にまさしく書かれてあるとおりです

アマゾンの「なか見!検索」 でも読めませんので

ちょいと長めに引用させていただきます

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 本書が想定している読者は、宗教に関心はあるのだが、別に信じたいというわけではないという方々である。外国人と接する機会があり、その国の宗教について基本的知識が欲しいと思っている人は多いはずだ。あるいは日本文化を紹介するにあたって、我が国の宗教について基礎的なこともわかっていないようでは恥ずかしい、と考えている人も多いだろう。

 ただし、本書はサイズの制約もあり、諸宗教の教理や歴史や行事についてのデータをそうたくさんは盛り込めない。むしろ本書が主眼を置いているのは、宗教全般に関する見取り図を描くことと、人々が自分でデータを調べようと思ったときに迷ってしまわないための指針を提供することである。

 諸宗教に関する詳しいガイドブックはたくさんあるし、インターネット上には種々のデータがあふれている。しかし、詳しい本の多くはとっつきにくく、しばしば仏教なりキリスト教なりの信仰的な立場で書かれている。ネット上のデータは玉石混淆であり、信仰の宣伝合戦の場ともなっている。だから、距離を置いたかたちで、おもしろく知りたいという人々に向けた、シンプルなガイドが必要なのである。

 本書は「教養としての宗教」ガイドである。宗教を信じる必要はないが、その歴史や世界観についての大雑把な知識はもっていたほうがいい。そういう趣旨で書いた本だ。

中村圭志 『教養としての宗教入門』 i-ii 頁: ルビは省略

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まさしくこの宣言通りの一冊だと思う

とにかく信頼して吸収してしまってよい知見ばかりの「宗教入門」だ

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さて… ちょいと専門的な話もしておこうかな (-"-)

宗教学の学説的には、 「距離を置いたかたち」 とさらりと書いてあるところが重要

もともと宗教学は 中立客観性を標榜してスタートした学問だった

それを実現することは無論容易ではないし、理想的なことであるかどうかも不確かだ

しかし、そう宣言することで 宗教学は

桎梏な神学や教学の伝統とは異なる独自の知識体系をきずいてきた

中村先生のこの本も その宣言に立ち返っているわけだ

ただし、くぐってきた宗教論が 一段階多い

それは、宗教概念批判だ

中村先生は、ポスト宗教概念批判の宗教論の可能性を 先陣をきって模索してきた方だ

《宗教/世俗の二分法》 を批判したところに現れる問題設定とは…?

その到達点が 本書になっているのだと ボクは思う

「人間なんて所詮そんなものだろう」(153頁)――

この一節には 宗教論としての深みがこもりにこもっている

2015年1月28日 (水)

「宗教紛争」「宗教戦争」という名づけはあまりに問題含みである

いま書いている文章の一節――

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「宗教紛争」という名づけはまったく表層的で、真相はきっとおそろしいほど複雑であるにちがいない ―― 多くの人びとはどこかでこのことに気づいている。

わたしたちの調査でもそのことは十分示唆されているし、また最近の報道でも、「宗教紛争」をめぐって政治や経済、教育やメディアなどの要因を強調的に論じることで、問題がそう簡単には記述説明できるものではないことが示唆されるようになっている。

しかし、それらの語りのいずれにおいても、すっきりとした見通しが立っているわけではない。

せいぜい複数の要因を列挙して問題の複雑さをにおわせたり、ときに真の「原因」は経済なのだ(経済的な利害対立が宗教集団のかたちをとって現れている)とか、紛争において宗教は「政治に利用され」ているのだ(政治家や官僚、宗教的指導者の扇動によって宗教集団が対立へと導かれる)とかの断定がなされたりするぐらいだ。

こうした見立ては完全な的はずれではない。むしろ最も重要な理解ですらある。

しかしあまりに多くの事柄が説明されないままのこされている。政治や経済が決定的な要因としてはたらいているのは確かだとして、では「宗教」はそこにどう関わっているのか。こういう最も基本的な点はあいかわらず不明なままである。

こうして結局のところ、宗教を紛争や戦争の「原因」「主特徴」とみなす単純な言説が前面へとしゃしゃり出てきて、お茶をにごしてしまう。

そのような語りが、実際に起きている深刻な事態の理解把握からほど遠いことや、当の信仰者にとってきわめて侮辱的であることなどには、もはや十分な関心がはらわれなくなってしまう。

「宗教紛争」についての語りは明らかに、きわめて不安定なまま放置されている。

そろそろわたしたちは「宗教紛争」論を精緻化のうえ整理せねばならないだろう。そして、その整理は「宗教紛争」の特別視をひかえ、「民族紛争」や「地域紛争」との無理のないつながりを発見させるものとなるだろう。

より的確な語り(概念と理解と用語法)を提供するのは専門家の仕事である。実際、この問題は宗教学者、政治学者、地域研究者などにより熱心に取り組まれており、蓄積された成果は大きい。

しかし、理由はどうあれ、いまだ定説と呼べるようなものもコンパクトな理解の仕方も確立していない。一般の言説状況の混乱は、そうした専門家サークルの停滞を反映しているとみてよい。

熱心に問われてはいるのに、まだまだ定説をもつには程遠い問い ――

  • そもそも「宗教紛争」とは何なのか。宗教が「原因」の紛争のことなのか、「主要因」の紛争のことなのか。あるいは単に、宗教となにか関わりがあるといった程度のことなのか。
  • ある紛争に「宗教(的)」という接頭辞ひとつを付すという言葉づかいは、歴史と現状についてのどのような理解にもとづいているのか。
  • 「宗教紛争」と呼ばれる事態が起こる背景や仕組みはどのように理解したらよいのか。

そして、より根底的な問いはこうだ ――

  • 「宗教紛争」という名づけは本当に妥当だろうか。
  • つまり、「宗教紛争」なるものは本当に実在しているのだろうか。
  • それは単なるラベリングにすぎないのではないか。
  • 「民族紛争」「地域紛争」などと呼ばれるものと、それは本当にことなるのだろうか。
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日本仏教の全体像

先日、学生さんに 「日本仏教の全体像」 を説明できなかった

ボクがよく理解してなかったのである

… なんてことが頭の片隅にのこっていたので 次の一節には大いに膝をうった

今度からは これを元にいろいろ説明することにしよう (>_<)

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 中国の仏教が結局、禅と浄土信仰に集約されたことはすでに述べた。これは日本でも踏襲された。ただ、日本では、チベット仏教と共通する密教も盛んであり、また、大乗の精神を集約したとされる法華経を奉じる天台系の思想、その中世版である日蓮宗も重要であり続けている。

 ①マジカルな密教、②自力で悟ることをめざす禅、③阿弥陀仏の他力を信じる浄土信仰、④社会全般の救済を強調する法華信仰、と、ある意味で日本仏教は、信仰形態の基本パターンをまんべんなく具えているのである。

中村圭志 『教養としての宗教入門』 202頁

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中村先生のこの本は ポスト宗教概念批判の宗教学による宗教入門として 画期的である、とボクは思う

ご恵贈いただいた一冊で まだ読んでる途中

読み終えたら あらためて紹介してみよう

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