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2015年1月28日 (水)

「宗教紛争」「宗教戦争」という名づけはあまりに問題含みである

いま書いている文章の一節――

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「宗教紛争」という名づけはまったく表層的で、真相はきっとおそろしいほど複雑であるにちがいない ―― 多くの人びとはどこかでこのことに気づいている。

わたしたちの調査でもそのことは十分示唆されているし、また最近の報道でも、「宗教紛争」をめぐって政治や経済、教育やメディアなどの要因を強調的に論じることで、問題がそう簡単には記述説明できるものではないことが示唆されるようになっている。

しかし、それらの語りのいずれにおいても、すっきりとした見通しが立っているわけではない。

せいぜい複数の要因を列挙して問題の複雑さをにおわせたり、ときに真の「原因」は経済なのだ(経済的な利害対立が宗教集団のかたちをとって現れている)とか、紛争において宗教は「政治に利用され」ているのだ(政治家や官僚、宗教的指導者の扇動によって宗教集団が対立へと導かれる)とかの断定がなされたりするぐらいだ。

こうした見立ては完全な的はずれではない。むしろ最も重要な理解ですらある。

しかしあまりに多くの事柄が説明されないままのこされている。政治や経済が決定的な要因としてはたらいているのは確かだとして、では「宗教」はそこにどう関わっているのか。こういう最も基本的な点はあいかわらず不明なままである。

こうして結局のところ、宗教を紛争や戦争の「原因」「主特徴」とみなす単純な言説が前面へとしゃしゃり出てきて、お茶をにごしてしまう。

そのような語りが、実際に起きている深刻な事態の理解把握からほど遠いことや、当の信仰者にとってきわめて侮辱的であることなどには、もはや十分な関心がはらわれなくなってしまう。

「宗教紛争」についての語りは明らかに、きわめて不安定なまま放置されている。

そろそろわたしたちは「宗教紛争」論を精緻化のうえ整理せねばならないだろう。そして、その整理は「宗教紛争」の特別視をひかえ、「民族紛争」や「地域紛争」との無理のないつながりを発見させるものとなるだろう。

より的確な語り(概念と理解と用語法)を提供するのは専門家の仕事である。実際、この問題は宗教学者、政治学者、地域研究者などにより熱心に取り組まれており、蓄積された成果は大きい。

しかし、理由はどうあれ、いまだ定説と呼べるようなものもコンパクトな理解の仕方も確立していない。一般の言説状況の混乱は、そうした専門家サークルの停滞を反映しているとみてよい。

熱心に問われてはいるのに、まだまだ定説をもつには程遠い問い ――

  • そもそも「宗教紛争」とは何なのか。宗教が「原因」の紛争のことなのか、「主要因」の紛争のことなのか。あるいは単に、宗教となにか関わりがあるといった程度のことなのか。
  • ある紛争に「宗教(的)」という接頭辞ひとつを付すという言葉づかいは、歴史と現状についてのどのような理解にもとづいているのか。
  • 「宗教紛争」と呼ばれる事態が起こる背景や仕組みはどのように理解したらよいのか。

そして、より根底的な問いはこうだ ――

  • 「宗教紛争」という名づけは本当に妥当だろうか。
  • つまり、「宗教紛争」なるものは本当に実在しているのだろうか。
  • それは単なるラベリングにすぎないのではないか。
  • 「民族紛争」「地域紛争」などと呼ばれるものと、それは本当にことなるのだろうか。
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