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2015年2月の記事

2015年2月26日 (木)

中華民族主義、もしくは漢民族復興主義

2015年2月25日付 朝日新聞 朝刊に

(インタビュー)「中華民族復興」 パトリック・ルーカスさん

という記事がのった。 ネット上でも読める

ナショナリズム研究者の端くれとして言わせてもらえば

これぞまさに 最も基本的なナショナリズム論!

そしてこれが全てといってよい! アルファにしてオメガである

なお、記事によれば、ルーカス先生は 中国語で 「民族主義」 という概念を使っていたらしい。 nationalism と 民族主義 (中) との異同については、別に議論する必要はあろうが、ともかく これは秀逸な 「文化ナショナリズム」 論だ

以下、部分的に抜粋しておく

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愛国主義には健康的な部分もあり、必ずしも他者を傷つけるわけではありません。民族主義はそもそもが差別意識であり、他者を必要とする。そして往々にしてその他者に害を与えます。『我々は別の人々よりも優れており、特別』、だから、『我々はやりたいことができる』。それが基本理論です。

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共産主義はいわば淘汰され、民族主義が統治に使われ始めたのです。

==========

民族主義を広めるのは実はびっくりするくらい簡単です。理論が簡単、というより空っぽですから。

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指導者やエリートが『我々の社会は元々こうだ』と言い出すと、人々はわりと簡単に歴史認識を変えてしまいます。それだけ民族主義は、統治者にとって使いやすい道具ということなのです。

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正確に言えば、中国の民族主義は中国人全体の民族主義ではありません。漢族の民族主義です。

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誤解のないように言っておきたいのですが、中国のすべてが民族主義というわけではありません。民族主義だけで中国を定義してはいけません。


<引用おわり>


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さて、ここでむずかしいのは 「宗教とナショナリズム」 論である

一見するとむずかしそうでないのだが、 これは本当にむずかしい問題だ

公理は次のふたつ

  • 宗教とナショナリズムとは相いれない
  • 宗教とナショナリズムをつなぐのは 「文化」と「歴史」 である

ここから、どういう論を展開していくか…

現代宗教の動態を精確にみすえた理論は 世界のどこでも出てないと思う

ユルゲンスマイヤーでは もう全く! ダメ! だと思う

2015年2月11日 (水)

西ヨーロッパの宗教状況、あるいは世俗化と「見えない宗教」

ナタリ・リュカ著/伊達聖伸訳 『セクトの宗教社会学』 読了

訳者の伊達さんにご恵贈いただいた >ありがとー、伊達さん

とっても素晴しい一冊だった

 

前便 「世俗人、あるいは資本家と資本主義者」 で紹介したのもこの本

セクト論概説という、リュカのねらいとは別のところを引用させていただいたわけだが

ここでもまた リュカの本論からすれば補足的なところに興味がいったので

紹介させていただきたい

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リュカは 「西洋」 をいくつにも分けて思考をすすめる

ヨーロッパとアメリカをわけ、西欧とその他欧州をわけ、フランスとその他の国々をわける

韓国の現代宗教研究者であるリュカ (「訳者あとがき」参照) は

オクシデントをいわば人類学的な視野のなかにおいているわけだ

ということで、 次の短い一節には たくさんの研究成果が凝縮されている

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ヨーロッパの宗教状況は、次のような共通の大きな傾向によって特徴づけられていて、他の地域に見られる現象と比べても、その特殊性は目立っている。すなわち、心性の世俗化、文化の多元化、統一をもたらす大きな思想体系の喪失、大きな宗教制度の影響力の後退、信者数の顕著な減少、個人主義的な信仰の分散、規制緩和された象徴財の市場における宗教的小集団やネットワークの増殖などである。ここに掲げた現象はすべて、西欧全体に認められる。

120-21頁

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見やすいように箇条書きにしておこう

  • 心性の世俗化
  • 文化の多元化
  • 統一をもたらす大きな思想体系の喪失
  • 大きな宗教制度の影響力の後退
  • 信者数の顕著な減少
  • 個人主義的な信仰の分散
  • 規制緩和された象徴財の市場における宗教的小集団やネットワークの増殖

2015年2月 9日 (月)

世俗人、あるいは資本家と資本主義者

近代性について考えていくと、 国民国家と資本主義のところで どうにも行き詰ります

いずれもが、近代を決定的に規定するのですが

いずれもが、近代性の原則 「人間主義・個人主義・合理主義」 とうまく合致しないからです

ここら辺は こつこつと考えてきましたが やっぱりまだ上手い答えがみつかってません

さらに こつこつと勉強していくしかなさそうです

ということで… 次の新書『セクトの宗教社会学』から、一節をご紹介します


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 リュック・ボルタンスキーとエヴ・シアペロは『新・資本主義の精神』 [邦訳は下記リンクの 『資本主義の新たな精神』] において、「近年の資本主義の変容にともなうイデオロギーの変化」を研究している。彼らによれば、資本主義は三つの時期を経験してきた。第一期は十九世紀末に現われ、それは「ブルジョワ的」で「家父長的」そして本質的に「家族的」な起業家世界の側面によって特徴づけられる。このような側面は、本研究 [ナタリ・リュカ『セクトの宗教社会学』] が扱う社会的な問題集団 [セクト/カルト] の特徴には合致しない。しかし、第二期および第三期の特徴は、これらの集団にぴったり当てはまる。第二期資本主義の精神は、一九三〇年代から一九六〇年代に発達したもので、それはとくに戦中および冷戦期の「社会的公正を目指す大企業と国家の協力」によって特徴づけられる。大企業は社会的使命の担い手を自任し、勤労の精神を強調した。その規模は「目がくらむほど巨大」で、第一期を特徴づけていた家族企業の規模とは雲泥の差である。そして「大規模な経済、製品の標準化、労働の合理的組織化、市場拡大の新技術に依拠しながら、大衆向けの商品を産み出していった」。大企業の特徴は効率という基準を追求したことで、それが年功序列の基準に代わり、昇進を正当化する唯一の基準になる。労働者は「資本蓄積の過程」において決定的な役割を担っているにもかかわらず、その「主たる享受者」ではない。

74-75頁: 注は省略した

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「第三期資本主義の精神」 は次のようにいわれる

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 共産主義の崩壊は企業に大きな衝撃を与え、そのあり方を深いところで変えてしまった。「一九八〇年代後半、冷戦の終結にともない資本主義のみが生き残った。それに対抗しうる信憑性のある代替物が現われることはなかった」。資本主義を正当化する論理がいっそう個人主義的なものとなり、企業は国家との関係を解消する。競争の激化とグローバル化の進展のなかで、企業は人事もさることながら技術の適用性を重視する。もはや人員を丸抱えで導くだけの強力なイデオロギーがないため、企業の動員力は自分のヴィジョンを伝えて従業員を引きつけることのできるカリスマのある指導者の肩にのしかかる。このようななかで登場してきた職務に、「各人の潜在能力を伸ばすよう個人指導を行なう役割」を担う「コーチ」、チームのレベルで同様のはたらきをする「マネージャー」、情報を握っている「エキスパート」などがある。従業員全員に大きな責任が負わせられ、各人は「雇用条件を満たす能力」を最大限発揮するよう求められ、自分が携わっているすべてのプロジェクトにおいて有能であることを示さなければならない。そのためには、各人は人間関係のネットワークのなかで自分の位置を見出し、それを活用しなければならない。成功するためには、ひとつの仕事を覚えるだけではもはや不充分で、リスクを引き受けながら刷新をめざし、もはや私生活と職業生活の区別がつかなくなるくらい、自分の人柄と誠意を賭けなければならない。すると、失敗は個人的な性格を帯び、その人の価値は下落し、場合によっては孤立を招くことになる。

77-78頁: 注は省略した

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2015年2月 2日 (月)

宗教への考えや体験、あるいは「濃い宗教」

前便 「現代宗教学の宗教入門 ―中村圭志 『教養としての宗教入門』」 につづき

もう一冊、 宗教(学)入門を紹介してみよう

この二冊をならべてみると

いま、この分野の専門家が なにを賭け金にしているか

かなりよくわかる、 と思う

ポイントはいくつかあるのだけど ここでボクが注目したいのは

中村先生が 「濃い宗教」 と呼んでいるものをめぐる 《人間=社会=歴史》 論であります

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というわけで 紹介するのは…

加藤智見 『宗教のススメ―やさしい宗教学入門』(大法輪閣,1995年) である


著者の加藤先生は、浄土真宗大谷派のお坊さんで

東京工芸大学の先生でもいらっしゃる

そこで、先生はこの本を 次のような計画のもとに書いたのだ、とおっしゃる

 ところで宗教学とは宗教に関する学問であるが、大学で宗教学を教える私に、学生諸君はよく、「宗教学についての知識は大分頭に入りましたが、先生自身は宗教をどう思い、どのように生活に生かしているのですか」とたずねる。講演先でも、「あなた自身はどう宗教をとらえているのですか」とよく聞かれる。

 たしかに宗教学は純粋な学問だから客観的でなければならない。しかしほとんどの人は宗教学の学問性に関心があるのではなく、宗教を自分の生き方の問題としてとらえようとしているのだ。そのような人にとっては、客観的であるということは無味乾燥だということにもなる。学問としての宗教学と宗教そのものとの間で私は随分悩んだ。

 そこで今回は、宗教と宗教学の間に立って、あえて私自身の宗教への考えや体験も書き、宗教学そのものというより宗教学への道案内すなわち入門書とし、宗教と宗教学の双方に関心をもってもらうことに主眼をおいた。

 読者の方々は、本書をお読みいただいて宗教に関心をおもちになったら、学問としての純粋な宗教学も学んでいただきたいと思う。それによって、ご自身の価値観を選び取り、しかも世界のさまざまな価値観に理解を示される一助になれば、望外の喜びである。

3頁: 傍点は太字で示した

ここで加藤先生がおっしゃる 「宗教への考えや体験」 とは どういうものだろう

それはたとえば 「生命力」 といわれる

 以前私が教えていた一人の女子学生は、京都のある寺の薬師如来像にぞっこんであった。せっせとアルバイトをし、新幹線代を稼いでは京都に通っていた。なぜそんなに執心しているのか、私はたずねたことがある。すると彼女は、その薬師像を目の前にすると、その像から発散される活力のようなものが自分に伝わってくる。まるで充電されるように彼女の心の中にも体の中にも生命力が湧いていくるというのだ。像を制作させた力はどのような力であったか。独自な信仰心ではなかったのだろうか。

 私は、宗教が科学や哲学と根本的に違うのは、この生命力を引き起こす事実にこそあると思う […] 。

64頁

「宗教」 に特殊、ないしは特別ななにか… 加藤先生はそれを指し示そうとなさっている

一方、 前便で紹介した新書で 中村先生は そのような関心をまったく放棄している

「人間」には 実は、「宗教」も「世俗」もないのだ

「宗教」にだけ特別ななにか、そんなもの あったにしても希少すぎて 「人間」にとっては さして重要じゃないんじゃないの

… 中村先生は そういう立場を鮮明になされた

加藤先生と中村先生、 どちらが未来にとって より生産的、建設的だろうか…

この業界のプロは そのことをいま とても自覚的に問うております

(広く納得される答えは まだない …けどがんばって問うてる)

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