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2015年4月の記事

2015年4月29日 (水)

日本教的ファンダメンタリズムの大成者

「日本教」「空気」で有名な、山本七平の日本学を読んでいる

どうやら、小室直樹との対談 『日本教の社会学』 が定番らしいというので

それに手をつけてみた

なるほど面白い、これまでボクなりに考えてきたことが ビシビシ書いてある

これは、ボクの卓見というよりも、ボクの日本論に影響をあたえてくれた先行研究が

山本日本学の影響下にあり、そこからの間接的影響がボクにおよんでいる、

ということなんだろう

どこもかしかも引用したい部分ばかりだが、まずはひとつをば紹介しますね

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山本 このような日本教的ファンダメンタリズムをつくったのが絅斎なんです。

小室 だから、組織神学的にはこれほどファンダメンタリズムと遠いものでありながら、構造神学的にはまさに日本教的ファンダメンタリズム。これが、今日でも脈々と生きている。

山本 それでいて、なぜ、日本人が絅斎を忘れてしまったか。これは、たいへんにおもしろい問題です。というのは、浅見絅斎の話をしても、「それだ」といったのは小室先生だけで、他の人は名前も知らないんです。

小室 あ、そうですか。これこそあまりにも当たり前すぎる。

山本 浅見絅斎なんて誰も知らないんですよ、いまでは。いまの日本はやっぱり浅見絅斎によって規定されているんじゃないかと私は思うんですが、いったいみなはそれは何ですか、というわけなんです。だから現代の日本は、いかに思想史的にものを見ることができないかということですね。自分たちの規範が何に始まっているかという意識がぜんぜんない。だから「空気」なんです。

小室 自分たちのレイマ(題目)がいかなる神の口から出ているかにまず無関心(インディファレント)。日本人にとっては、どの神でもいいんです。われらが生きている日本教というもののレイマは浅見絅斎の口から出ている。みんな、これにしたがって行動しながら、いかなる神の口から出たレイマだということには無関心。

山本 おもしろいんですね、これ。自分がなぜこんなに規範にしたがっているかというkとおを考えようとしないのか。これが私にとっては戦後のいちばん大きな問題ですね。


286-87頁: ルビは括弧内に示した


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なお、『日本教の社会学』(1981年)はもともと単行本だが、今は手に入りにくい


そこで、上の引用は 『山本七平全対話4』(1985年)からのものです



2015年4月23日 (木)

近代経済人の宗教的根源

宗教と経済、宗教と資本主義 の関係については これまで

などのエントリで少しずつ考えてきました

んでもって、ここでは そのものズバリのタイトルをもつ

梅津順一 『近代経済人の宗教的根源』 を紹介したいと思います





お察しのとおり、ウエーバーの「プロ倫」テーゼ再考の一冊です





冒頭の二段落を書き抜きますね

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 本書で「近代経済人」というときには、二つの意味で使用されています。ひとつには、歴史的に西ヨーロッパで近代資本主義が発生してくる過程で、それに積極的にかかわった人間類型という意味で、もうひとつには、理論的に経済学が全tネイとする人間像という意味です。今日の世界では、政治における人権思想と同じく、経済における市場原理の普遍的意味が、体制のいかんを問わず、文化のいかんを問わず、広く承認されてるようになりました。「宗教的根源」とは、その市場原理に対応する独立した責任的主体が、禁欲的プロテスタンティズムと深い関わりの中で発生したことを意味しますが、そうした問題設定は、いささか奇異の感をもって受け取られるかも知れません。人権思想が信教の自由をその中に含むと同じく、市場原理に対応する人間もまた、特定の宗教的背景とは無関係であることが常識とされているからです。

 ここでは、近代資本主義の発生を歴史的個性的現象として見るという観点に立っています。今日普遍的と考えられている現象も、それがどのようなものであれ、歴史においては同じ時期にどこにでも同じように現れたのではなく、特定の時と所で、さまざまな諸条件の個性的組み合わせによって発生しました。近代資本主義の発生にあっては、とくにプロテスタンティズムの禁欲の系譜を引く「資本主義の精神」の積極的役割が注目されるのですが、その問いには確立した近代資本主義が暗黙のうちに前提としている人間的条件を明確にするという意味があります。個人を内面的に理解するには、本人も忘れたかも知れない性格形成期の経験を知ることが重要なように、近代資本主義を内面的に理解するには、今日では忘れられた発生期の精神的状況を知ることが有効なのです。もちろん、この本がどれだけその狙いを達成しているかは読者の判断に待つほかありませんが、文化的背景を異にする諸社会の資本主義の構造をめぐる議論や、資本主義の人間的意味とその将来をさぐる思索に、なにほどか寄与するものであって欲しいと願っています。

i-ii 頁

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2015年4月15日 (水)

宗教、表現作品、批評

宗教と世俗の問題のなかで 藝術をかんがえる、というのをいろいろやってきました

たとえば

「《映画の宗教学》 もしくは 「宗教と映画」論の課題」 というエントリ

なんかが一応 全体の理論的布置をまとめてたりしますし

「01F 藝術の宗教学 改め Economimesis R&D」 というカテゴリで

いろいろ書きためたりしてきました

んでもって、いま授業のひとつで 「批評」 をやっててですね

そこで 佐々木敦さんの『「批評」とは何か?』 を教科書していしてますが

その中にも 当然、ボクと同様の見立ててが出てきますので

ご紹介します



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[…]僕は小説とか映画とか、フィクションというものは、目に見えないものに対して何かが出来ると思っています。たとえばそれは人によっては、神様と呼んだり、幽霊と呼んだりするのかもしれない。僕は宗教なんか全然好きじゃないんだけども、まるで「神」の顕現みたいな感じがすることもあるのだと思います。

 たとえば、それこそメルツバウのライヴを観に行って、とんでもないノイズとかを聴いていると、会場はみんな耳をふさいでいるような状況でも、耳が慣れてくると、音が過剰に満ち満ちていて、ありとあらゆる音が重なっていて、その中に自分がいる、って感じがしてくる。そこにエクスタシーが生じてくるんです。それは単純に興奮するというよりも、体だけじゃなくて、体も頭も覚醒した状態なんですよ。要するにヤられてるんだけど、そのヤられてる感じをエクスタシーと呼ぶか、サブライム/崇高なものと出会っていると呼ぶのかは、人それぞれでしょう。そういうものをある種、神と呼んでもいいと思うこともあります。


290頁


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 それは批評だけではなくて、僕は映画を観たときによく感じるのですが、ストーリーとは無関係に、エフェクトとしかいいようがない経験がある。たとえばリヴェットの映画って三時間ぐらいあるんですが、その三時間を体験すると、身体的なことも含めて、何か不可逆的なエフェクトを与えられている気がする。それはすごく運動性があるものなんです。作品が一種のマシンみたいになっていて、そのマシンが何かをしている。その「何か」をする主体は作品であって、作品の背後にいる作者ではない。その「何か」をそのまま言葉には出来ないわけです。出来ないから、それと同じような作用をしていて、似たようなエフェクトを与えてくれる表現や作品が他にないかと考える。そうすると、違うジャンルの中に、全く同じではないにしても、何か似たような駆動、力の働きをしているものがあるような気がしてきて、それらを繋げてゆくことによって批評的なテクストが書ける、というのが僕の方法論なんです。それは映画から音楽に移って、最近また違う分野に行きつつあっても、たぶん一貫しています。

 主戦場的な現場が変わっていけばいくほど、それまで培ったものが巻き込まれていくので、ある意味では豊かになっていると思います。文芸批評みたいなことを書いてても、音楽の要素だって当然入ってくるし、映画も入ってくる。全部繋げられるというか、同じことをやっていると思えることが増えてきました。それはエフェクトというか、もっと大きな言い方で言うと世界の原理とでも呼びましょうか、「あの世って何?」みたいな。またスピリチュアルなことを(笑)。観念的なことかも知れないけど、そういうことです。物語でもないし、主題でもない。物語や主題とも深く関係があるけれども、それとはまた別の何かなんですよ。たとえばひとりの作家の小説をいっぱい読んでいくと、物語的な一貫性とか主題的な持続性とは別に、何かあるような気がしてきたりする。映画でも、たとえばアルトマンを全部観ると、一本一本は全然違うのに「何かあるな」と。その「何か」に無理やり言葉を与えようとする中で、批評的なモチベーションが起動してくるということが、僕はすごく強いんだと思います。


306-7頁


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2015年4月 5日 (日)

批評とは何か、あるいは「可能性の中心」/向こう側の世界

「批評」 とは何か

引き続き、佐々木敦 『「批評」とは何か?』 からの引用をします

前便 「批評家とは何か、あるいは佐々木敦がやりたいこと」

前便では 最終章から引用しましたので ここでは最初の章から

四つの断章をば (-"-)

最後の四つ目の断章(「可能性の中心」をめぐる断章)へと収束するような引用になってます



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 「評論家」っていう言い方があまり僕は好きじゃなくて。「評論家」と「批評家」って同じことじゃんって思ってしまうかもしれないんですけど、「評論家」っていうのは評じて論ずるっていうことですよね。評価して論ずるっていうことは、批評と同じようなことのようにも思えるんですけど、僕は「批評」っていう言葉の方に自分がやりたいことが近いって思っているんです。「批評」っていうのは、英語だと「critic」ですね。よく言われることだけど「批判」も「critic」なんですよ。「批判」っていう言葉だと、ついネガティヴな意味合いを強く感じちゃうと思うんですけど、必ずしも「批判」っていう言葉はそういうことだけではなくて、その物事の本質的な部分っていうのを一旦解体して再吟味するみたいな意味でもあるので、それに近い言葉として、「批判家」っていうのはちょっと変だから「批評家」って言っている。かなり意識的に「批評家」って名乗ったり書いたりするように今はしています。

8頁

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「紹介」 「感想」 「分析」 「敷衍」

 「批評」っていう言葉とは別に、こういうことも大きくは批評の一種みたいに言われてる、みたいなことを幾つか挙げていくと、たとえば「紹介」っていうのがある。CDでいえば誰それのニューアルバムが発売されるよみたいな、今作はビートがより野太くなっていて、みたいな感じのね。そういうのはいわゆる「紹介」です。つまりまだ聴いていない人を対象にして書かれている。[批評の]「対象」と[その批評文の]「受け手」が繋がっちゃう前に読まれることをほぼ前提にして書かれているのが紹介です。

 それから「感想」っていうのがあります。自分が聴いてみたらこう思った、こんな感じだったっていうようなことを書く。「紹介」と「感想」って似ているんだけれども、微妙に違うところもある。たとえば資料的な意味での紹介的な要素が全然なくて、単に俺はこれを聴いてすごく感動したんだよ、みたいなことだけ書いてあって、だから聴くといいよ、っていうのもよくあったりしますよね。

 それからもう一つ「分析」っていうのがある。「感想」を超えて、もうちょっと客観的に、何曲目の何々がこうなっていて、とか、前作と比較するとこうこうで、とか、この辺からいわゆる普通に「批評」と言われるものと近くなってきますね。

 もう一つ、この言葉が妥当かどうかわからないんですけど、「敷衍」っていうか「パラフレーズ」というか、「展開」でもいいや、つまり単なる「分析」を超えて、その作品のことからさらに考えられることを自分なりにもっと押し拡げて展開していこうとする文章がある。

 でも僕は「分析」や「展開」からが「批評」で、「紹介」や「感想」だとまだ「批評」じゃないっていうような厳密な考え方もしていないんです。 [……]

17-18頁

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[……] つまり、[特定の作品が]良い悪いっていうことを扱うのが批評だっていう風には僕は思わないんです。良い悪いは批評とは別にあるもので、それは誰にとってもある。自分にとっての良い悪いというものを、そう咀嚼し吟味するかっていうことは重要だけれども、それを他人に対して説得しようとしたり転写するっていうことを、僕はやれないというか意味があるとは思わないんです。結果的にはそういうことをやってしまっていることも多いのかもしれないですけど、そういうことを目的に批評を書いていない。僕は価値判断とか良い悪いっていうことの先に「批評」があると思っています。

30-31頁

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ここまではまだ 佐々木さんの主張がよく見えません

次の断章で それがかなり明確に語られています

長くなるので ここの引用では書きませんが

柄谷行人『マルクスその可能性の中心』が直接に参照されています


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[……] 要は「可能性」っていうものをどう考えられるのか、その作品に潜在している「可能性」、言い換えるとポテンシャルというか、つまりある一つの作品から、一体どういうことが、どこまで考えられるのか、その作品を聴いちゃったり観ちゃったり読んじゃったりしたことによって、その向こう側にどれほどの世界の広がりっていうのがありうるのか、っていうのが僕は批評だって思うんですね。だからさっきの話しでいうと、「紹介・感想・分析・敷衍」っていったら、やっぱり本当の批評の醍醐味は「敷衍」、パラフレーズのところまで行ってからだと思う。たとえばある小説一本についてだけ延々書いていたとしても、その小説だけには留まらない原理的な何かを取り出すことは十分可能なわけであって、その向こう側、つまりは「世界」がありますよ、みたいなことはやれるはずで、それが僕は「批評」っていうものだと思います。

32頁

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2015年4月 4日 (土)

【公開講座】 インド現代史

昨年秋、 「インドの今を知る」 という講座をさせていただきました

受講者の皆さんにご好評をいただいた、ということで(^^)

この春にも 同様のものをさせていただくことになりました 感謝です

ぜひご参加くださいませ ⇒ 申し込みはこちらから (要 無料会員登録)

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インド現代史 ―政治や経済のうごき、社会や文化のしくみ―

 インドへの関心が高まっています。きっかけは経済。巨大な市場として、有望な投資先として、以前とはくらべものにならないほどの注目を、インドはいま集めつづけています。その余波でしょうか、旅行、映画、料理など、より身近な興味をかきたててもいます。日本とインドとの距離は、日一日と近づいているようにわたしには感ぜられます。

 この講座は、インドの現代史の入門です。わたし自身があの亜大陸で見聞きしてきたことをおりまぜて、わかりやすい解説を心がけます。複雑で多様なインドのすがたを、できるだけコンパクトに、具体的にお伝えできたら、と願っています。



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A511_2



2015年4月 3日 (金)

批評とは何か、あるいは佐々木敦がやりたいこと

今年、佐々木敦さん 『「批評」とは何か? 批評家養成ギブス』 を

ひとつの授業の教科書に指定しました

もはや入手困難は一冊なので、いくつか抜き書きをしておきたいと思います

受講生の皆さんに 届け!


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 「批評って何なのか」ということを、ずっと「よくわからない」って感じで十回話してきたんですけど、依然として批評っていうものはよくわからない。批評という言葉でカヴァー出来る範囲は本当はすごく広いし、「これは批評、これも批評」ということが矛盾してくる場合もある。それぞれの中で「批評って一体何なのだろう?」と問い続けていくことが批評なのかもしれない。ベタな言い方もするとそういう気もします。

 ボクも、批評、批評って言い始めたのは割と最近で、ずっと批評家というよりは映画ライター、音楽ライターと呼んだ方がいいような仕事がメインでした。批評家になろうと思ってなったわけでもないし、自分には批評的なことをやれると思ってなったわけでもない。色々やってきた中で、批評っていう言葉が自分の中でしっくりする状況に立ち至ったというのが本心に近い。

 僕は今自分のやっていることは全部、「批評」と呼んでいいと思っています。でも「こんなのは批評じゃない」って思う人もいるかもしれないし、その人が間違ってるとも僕は思わないから、皆さんは皆さんの中での批評観を育てながら、今後も書いていっていただけたらいいなと。そしてそれを読める機会があったらいいなと思っています。

347頁

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この文章は 何も言っていないに等しい

批評とは何か、わからない、皆それぞれで考えましょう、というのだから

ただし、本書(連続講義の記録)の最終部分にあたる

ここに至るまで、340頁あまりを費やした語り(その運動、その音楽)に

その答えは 行為遂行的に示されているのだ、というのが好意的な読みだ

それはそれでまったく十分なことである

しかし佐々木さんは、そのことで満足しきってしまわない

上の段落に続けてすぐ 自分自身が「やりたい」ことを語りはじめるのだ

たしかに、批評という言葉でくくりこまれるような空間は

たった一つの本質と 一様な構成体から成っているわけではない

そしてその境界面は 多くの孔がうがたれている、もしくは半透膜状になっている

「批評」という開放的な場―― そこで佐々木さん個人が「やりたい」こと

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 僕が最近思うのは、たとえばいわゆる浅田彰的な知性というか東浩紀的な知性というか――何か対象が与えられた時に即座に「これってこういうことね」って言えちゃう類の知性というものがあると思うわけです。それは反射神経と呼んでも、ある種の批評的センスと呼んでもいいのかもしれないけれども、そういうものって、生まれついてのものもあるし、訓練されて育ってくる場合もある。そういう種類の知性によってはぐくまれる豊かさというものもあるでしょう。

 僕はたぶん、ある時期までは「これってこういうことね人間」だったと思うし、今でもある部分はかなりそうだと思います。何かが起こると「これってこういうことね」とひとりごちてしまうというか、すぐに納得してしまって、わかったような気になっているというか。

 「ひとりごちてるだけで、世界はもっと複雑だよ」とか、そういうことを言いたいわけではないんです。意外とわかっちゃうものなんですよ。ある意味で、世界は意外と単純なものだと思う。だから「これってこういうことね」は意外と当たってるのだとも思います。

 複雑で多様で恐ろしく豊かであるのかもしれない世界なりなんなりを、何らかのマトリックスやチャートとかを作って整理して、「それってこういうことだよね」って断言することが批評だっていう見方はあるし、その中での正しさを競う世界もあるのだとは思うんだけれども、僕はたぶん今はそういうことをやりたいとは思っていません。「これってこういうことだよね」と簡単に言えるからこそ、他のことをやりたい、ってい気持ちがすごく強い。つまり、ある意味でわかりやすい単純なこと、「これってこういうことだよね」によって還元されて出てくる真理とか原理みたいなことがあるとするならば、それをもう一度ものすごく複雑にしていきたいんです。
347-48頁
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佐々木さんの「やりたいこと」が 見えてきました

さらに具体的な説明が入ります、ここらが大事なところになりましょう

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 たとえばわれわれがある表現と出会った時に「こういうことを言おうとしてるんだな、こういう意味だったんだな」という還元を行なった後に出てくるものは、ものすごくシンプルなことなのね。それはすごく単純なことなんだけど、そんな単純なことがいつのまにか色々と面倒臭いことになってゆくのが人生だったり世界だったりするのだから、それを語るために、ものすごく複雑で手の込んだ方法論が必要になってくるのだと思うのです。

 小説にしても映画にしても、そういうことをやってる人って意外と多いような気がするんです。「結局こういうようなことを言ってるだけじゃん。それって難しいことじゃなくて、誰でも知ってるようなこと。ある意味では取るに足らないようなことじゃないか」ってことだとしても、ならば何故そんなにややこしい手の込んだ方法論で、それを語らなきゃいけなかったのかということの方を考えなきゃいけないと思うんです。

 おそらく、還元した時に出てくるシンプリシティってのは、しょうがない。それはそういうものだと思う。でもそれを最終的にわからせたいわけじゃなくて、向きが逆なんだと思うんです。ある意味では取るに足らないシンプルな真実っていうものを、絶えず再確認するためにこそ、複雑な手続きが必要なんです。メッセージとしては極めて単純なことを言っているのにすぎないんだけれど、それを言うためにものすごく面倒臭いことをやってるっていう、そういう表現をしている人が今は多いような気がしているので、それに対して批評の言葉でいかにして応接していけるのか、そういうことを最近は考えているところです。

348-49頁

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引用は以上です

最初に述べたように、入手しづらい本なので 長く引用させていただきました

2015年4月 2日 (木)

収容所の女の子、もしくは宗教起源論

石井光太さん、『戦場の都市伝説』 より抜粋

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収容所の女の子

 ナチスの強制収容所に、捕虜となったフランスの兵士たちが閉じ込められることとなった。彼らはガス室での処刑を待つばかりの身となり絶望で発狂しそうになった。そこで彼らは話し合い、正気を保つためにあるルールを決めた。

 まず、収容所の部屋の隅にある椅子に、「架空の女の子」がすわっていると仮定した。フランス兵たちはその女の子に名前を付け、毎日話しかけたり、世話をしたりする。全員でその子をかわいがることで恐怖を薄めて混乱を避け、団結して生き延びようとしたのである。

 フランス兵の捕虜たちは約束通りに「架空の女の子」をみんなで世話した。誕生日を決めてその日になるとお祝いをし、クリスマスの日はプレゼントを用意して女の子も交えて一緒に讃美歌をうたった。夜にはかならず「おやすみ」と言い、朝には「おはよう」と声をかけた。

 兵士たちはそれをつづけているうちに、いつの間にか本当に「架空の女の子」がいると思い込むようになった。つらいことがあれば女の子に愚痴を言い、部屋の中で無礼なふる舞いをすれば女の子の前に行って頭を下げて謝った。いつしか彼らにとって女の子はいなくてはならない存在になっていった。別の部屋では囚人たちが次々と発狂したり、仲間の非を密告してナチスにとり入ろうとしたりしたのに、この部屋のフランス兵たちだけは正気を保って平和に暮らせたのはそのお蔭だったのだろう。

 やがて連合軍がやってきてドイツ軍を追い払い、収容所を解放した。フランス兵たちはようやく収容所を出て祖国に帰れることになった。その日、フランス兵たちは収容所を出る時、一人ずつ部屋の隅に置いてある椅子に腰かけているはずの「架空の女の子」に感謝の言葉を述べて去っていった。



 この話は、第二次世界大戦の強制収容所で起きた「実話」として世界中に知れわたった。だが、実際はこの話はもととなっているフィクションがあるそうだ。小説のモチーフが実話として広まって語り継がれたらしい。

 おそらくこの話が世界中の人々に「実話」として信じられたのは、それだけリアリティーに満ちていたからだろう。人間なら誰もが寂しさをまぎらわすために、想像の中で話しかけたり、慰めてもらったりする経験を持っている。だからこそ、人々はフランス人捕虜の話に共感し、それを「実話」として信じ込んだのではないか。



189-90頁



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欧米のキリスト教圏で この物語はきっと

「宗教起源論」として認識されることだろう

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