日本教の教義としての「空気」
前便 「日本教における自然」
前々便 「日本教的ファンダメンタリズムの大成者」
とつづけてきた山本日本学の引用、三つ目になります
「空気」 を「日本教のドグマ」として位置づける小室先生の整理は お見事
各論としてはよくわかるのに、組織的な理解にはなかなかできないのが
山本日本学なわけですが
それを、小室先生がみごとに構造化してくれます
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小室 […] そうした観点で、日本教に教義[キリスト教におけるドグマ]と同じ機能をするものはないかと探ってゆくと、山本さんが提起された「空気」につきあたるわけですね。
山本 そうです。正に「空気」ですね。つまり、キリスト教が日本に入ってくると、その宗教本来の意味が骨抜きになってしまう。この場合、よくいわれる“骨を抜く”というのは、こちら側に排除の原則があるということです。日本に来ると、なんでもこっちにもっと徹底的な「原則なき原則」があるがゆえに、この原則に反するものは全部骨を抜かれてしまう。その原則を私は、「空気」と定義したわけです。
小室 なんとなれば、「空気」(Anima, p[n]euma)はその内容が一義的に明示されず、なんらの原則を有しないという意味で、組織神学的にはこれほど教義から遠いものはない。また常に社会状況や人間関係にも依存しており、それから析出された存在になることはできませんから、この意味でもキリスト教的な教義とは正反対である。ところが、構造神学的てきにいえば、「空気」は規範的に絶対であって所与性をもちます。「それが空気だ!」ということになると誰も反対はできず、「空気」に逆らうことは、とんでもなく悪いことだとされる。人間は「空気」の前ではいとも弱き存在であって、どんなに「空気」に抵抗しても無駄です。これを変えることなどできようがない。
で、ここまでは、「空気」が日本教の教義であるための、いわば必要条件です。つぎに、問題は、それが日本教の教義であるための十分条件をいわないといけないのですが、これは少々難しい。日本教以外には「空気」はない、ということをいわないといけない。私はすべての宗教を研究したわけではありませんので、このことを完全にいうことはできませんが、これに近いことはいえるのではないかと思います。
「空気」は、無条件にいかなる社会にも発生するというのではなしに、発生のための条件がいくつかある。まず、絶対的一神との契約という考え方がある社会では、絶対に「空気」は発生のしようがない。その契約のみが規範性を有し、それ以外に規範あり得ませんからね。この考え方をさらにひろめると、一般的規範が一義的に明示され、それが社会的状況からも人間関係からも析出されている社会にも、「空気」はあり得ません。つぎに、歴史という考え方のある社会でも「空気」は発生しない。なんとなれば、現在の「空気」によって是非善悪がきめられても、いつそれが歴史の審判によってくつがえるか分かりませんから、おそろしくて、「空気」などが暴威をふるいようがない。これが歯止めとなって「空気」の発生がおさえられるのではないでしょうか。日本で「空気」が発生しうるのは、規範が存在しないのに加えて、歴史的「時間」という考え方もない[から]。
山本 ええ、常にもう「今」しかないわけですから。だから「空気」は教義になり得るんですよ。
前々便 「日本教的ファンダメンタリズムの大成者」
とつづけてきた山本日本学の引用、三つ目になります
「空気」 を「日本教のドグマ」として位置づける小室先生の整理は お見事
各論としてはよくわかるのに、組織的な理解にはなかなかできないのが
山本日本学なわけですが
それを、小室先生がみごとに構造化してくれます
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小室 […] そうした観点で、日本教に教義[キリスト教におけるドグマ]と同じ機能をするものはないかと探ってゆくと、山本さんが提起された「空気」につきあたるわけですね。
山本 そうです。正に「空気」ですね。つまり、キリスト教が日本に入ってくると、その宗教本来の意味が骨抜きになってしまう。この場合、よくいわれる“骨を抜く”というのは、こちら側に排除の原則があるということです。日本に来ると、なんでもこっちにもっと徹底的な「原則なき原則」があるがゆえに、この原則に反するものは全部骨を抜かれてしまう。その原則を私は、「空気」と定義したわけです。
小室 なんとなれば、「空気」(Anima, p[n]euma)はその内容が一義的に明示されず、なんらの原則を有しないという意味で、組織神学的にはこれほど教義から遠いものはない。また常に社会状況や人間関係にも依存しており、それから析出された存在になることはできませんから、この意味でもキリスト教的な教義とは正反対である。ところが、構造神学的てきにいえば、「空気」は規範的に絶対であって所与性をもちます。「それが空気だ!」ということになると誰も反対はできず、「空気」に逆らうことは、とんでもなく悪いことだとされる。人間は「空気」の前ではいとも弱き存在であって、どんなに「空気」に抵抗しても無駄です。これを変えることなどできようがない。
で、ここまでは、「空気」が日本教の教義であるための、いわば必要条件です。つぎに、問題は、それが日本教の教義であるための十分条件をいわないといけないのですが、これは少々難しい。日本教以外には「空気」はない、ということをいわないといけない。私はすべての宗教を研究したわけではありませんので、このことを完全にいうことはできませんが、これに近いことはいえるのではないかと思います。
「空気」は、無条件にいかなる社会にも発生するというのではなしに、発生のための条件がいくつかある。まず、絶対的一神との契約という考え方がある社会では、絶対に「空気」は発生のしようがない。その契約のみが規範性を有し、それ以外に規範あり得ませんからね。この考え方をさらにひろめると、一般的規範が一義的に明示され、それが社会的状況からも人間関係からも析出されている社会にも、「空気」はあり得ません。つぎに、歴史という考え方のある社会でも「空気」は発生しない。なんとなれば、現在の「空気」によって是非善悪がきめられても、いつそれが歴史の審判によってくつがえるか分かりませんから、おそろしくて、「空気」などが暴威をふるいようがない。これが歯止めとなって「空気」の発生がおさえられるのではないでしょうか。日本で「空気」が発生しうるのは、規範が存在しないのに加えて、歴史的「時間」という考え方もない[から]。
山本 ええ、常にもう「今」しかないわけですから。だから「空気」は教義になり得るんですよ。
113-115頁
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上の引用は 『山本七平全対話4』(1985年)から
『日本教の社会学』(1981年)はもともと単行本です
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