宗教者と無神論者の双方に関わる問題、あるいは信への転回
《世俗の宗教学》 にとっての(西洋)哲学史上の基礎となるようなところ、じゃないかな
- ロベルト・デ・ガエターノ著、廣瀬純翻訳・解題「シネマ地理学」 (同編『ドゥルーズ、映画を思考する』廣瀬純・増田靖彦訳、勁草書房、2000[原1993]年、70-131頁)
この論文から一節を引用します
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[…] というのも、哲学は、全宇宙空間に対する全知全能をあきらめることで、こんどは思考されざるものから、思考そのものの力、すなわち思考を信じることの力を作り出すひとつの思考の運動となるからだ。この「信じること」への転向=回心は、「宗教的な」思考者たちだけの問題ではなく、「無神論者」たちにも関わる問題である。 「キリスト者に対しても無神論者に対しても、わたしたちの全世界的なスキゾフレニーのなかでは、この世界〔の存在〕を信じることが許されていなければならない。 [中略] こうした「信じること」への転向=回心は、すでに哲学における大きなターニングポイントとなっていた。それはパスカルからニーチェにわたって行われた転換であり、これによって知(ること)のモデルが信じることによって置き換えられた。ただしこうして信じることが知(ること)にとって代わるのは、信じることが、あるがままのこの世界を信じることになるときだけなのだ」。 [★19] [訳注五七]
(★19) L 'Image-temps, p.223-224 [2-7-2].
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(訳注五七) ドゥルーズが言う「信仰(croyance)」が極めて特異な意味を持っていることを理解するためにはこのテクストに付けられた脚注が参考になると思われるので、以下に引用する。「哲学史において、知に対して信仰を置き換えることは様々な書き手のなかに見出されるが、そのうちには経験でありつづける者たちだけでなく、無神論者へと回心した者たちも含まれる。ここから次のようなまさにカップルと呼べる存在が生じてくる。パスカル〔宗教者〕とヒューム〔無神論者〕、カント〔宗教者〕とフィヒテ〔無神論者〕、キルケゴール〔宗教者〕とニーチェ〔無神論者〕、ルキエ〔宗教者〕とルヌビエ〔無神論者〕。ただし、敬虔な者たちにおいてですら、信仰はもはや別の世界へと向けられているのではなく、この世界へと向けられているのだ。キルケゴールによる信仰、あるいはパスカルによる信仰ですら、わたしたちに人間と世界〔との紐帯〕を取り戻させるものとなっているのである」(L 'Image-temps, p.224 [2-7-2]. の脚注30)。ドゥルーズが言う「無神論」もまた極めて特異な意味をもつ。「宗教から引き出されるべき無神論が、つねに存在するのである。それは、すでにユダヤ思想においても真実であった。ユダヤ思想は、[中略] 無神論者スピノザによって、ようやく概念に達するのだ」(『哲学とは何か』一三二-一三三頁)。
112-13, 126頁
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宇野邦一らの訳『シネマ2*時間イメージ』からも 同箇所をひいておきますかね
個人的には、 上の廣瀬訳のほうがずっとわかりやすい
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[…] キリスト教徒であれ、無神論者であれ、われわれの普遍化した分裂症において、われわれはこの世界を信じる理由を必要とする。これはまさに信仰の転換なのだ。これはすでにパスカルからニーチェにいたる哲学の大いなる転機であった。(30) 知のモデルを信頼によっておきかえること。しかし信頼が知にとってかわるとすれば、それは信頼があるがままのこの世界に対する信頼となるときである。
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30. 哲学史においては,信による知のおきかえが,まだ信仰を捨てていない思想家と無神論的な転回をした思想家とのいずれにおいても行われている.パスカルとヒューム,カントとフィヒテ,キェルケゴールとニーチェ,ルキエとルヌーヴィエといった真の対関係が,そこから生じる.信仰を捨てていない思想家にあっても,信はもはや別の世界にではなく,この世界にむけられている.キェルケゴールやパスカルによれば、信仰はわれわれに人間と世界とを取り戻させるのである.
240,(62)頁: 傍点は太字で示した
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