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2015年9月 8日 (火)

失語体験と説話論的な磁場

これまで一生懸命考えてきた 《世俗》 概念…

文章にしては発表せず、宗教学会で数度 口頭発表してきただけ

その都度、とにかく理解をえられなくて 四苦八苦してきた

去年などは、ある大御所の先生から 「何をしようとしているかわからない」

と言われたほどだ

ボクはこのとき、「これはチャンスだ!」 と思った

「わからない」 というのは 新しいことを言えてるからだ、と思ったからだ

今年の宗教学会では、その説明を少しだけ進展させることができて

数は多くなかったけれど、聴衆の皆さんには 何かを伝えることができた(みたい)

しかし、まだまだ研鑽が必要だ

おそらく間違ってたり、見当違いだったり、ってことではなさそうなので

あとは、表現だったり 文脈だったりの問題なんだろう…

そう心に誓って なんの気なしに読みかけの本を手にしたら

ばっちり、ボクなりの 《世俗》 論と並行させうる文章をみつけてしまった

うれしい

蓮實重彦先生が、1982年、もう33年も前に書いた文章だ

まずは 「失語体験」 について

これは、ボクが 《外部》 という語で言おうとしてきたものだ

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[……] 事実、具体的に何ものかと遭遇するとき、人は、説話論的な磁場を思わず見失うほかはないだろう。つまり、なにも語れなくなってしまうという状態に置かれたとき、はじめて人は何ごとかを知ることになるのだ。実際、知るとは、説話論的な文節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得のしぐさによってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はそのつど物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。言葉が欠けてしまうのではなく、あたりにいっせいにたち騒ぐ言葉が物語的な秩序におさまりがつかなくなる過剰な失語体験。知るとは、知識という説話論的な磁場にうがたれた欠落を埋めることで、ほどよい近郊におさまる物語によって保証される体験ではない。知るとは、あくまで過剰なものとの唐突な出会いであり、自分自身のうちに生起する統御しがたいもの同士の戯れに、進んで身をゆだねることである。陥没店を充填して得られる平均値の共有ではなく、ときならぬ隆起を前に、存在そのものが途方に暮れることなのだ。この過剰なるものの理不尽な隆起現象だけが生を豊かなものにし、これを変容せしめる力を持つ。そしてその変容は、物語が消滅した地点にのみ生きられるもののはずである。


20‐21頁


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つづけて、「説話論的な磁場」 について

これは、ボクの 《世俗》 概念に対応する観念の様相とそっくり同じだ

さらにはちなみに…

ボクのナショナリズム論 (そっちが本業) ともそっくり同じだ

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 このように、物語の装置が有効かつ円滑に機能して知と同調しうる空間を、われわれは説話論的な磁場と呼んでおいた。名前はさして重要ではない。肝心な点は、この磁場が誰か特権的な存在によって組織されたものではないということだ。特定の個体なり集団なりの意志がそれを操作しているのではないという意味で、説話論的な磁場は、どこか自然の環境を思わせもする。にもかかわらず、これは普遍的な抽象空間ではない。あたかも自然なものであるかのように機能していながら、実はきわめて歴史的な時=空として限界づけられるものこそがその磁場であり、そこにあっては、すべてが具体的な運動なのである。もちろん、知は、人が歴史を語りうる限りにおいて、濃淡の差こそあれ、あらゆる瞬間に存在しただろうし、物語もまた、人類が生きた時間とともにあらゆる領域に拡がりだしてもいよう。だが、知と物語とは、いたるところで同等の資格でたがいの条件を保証しあい、均質な環境をかたちづくっていはしなかった。それらは、あるとき、しかるべきところで、何らかの具体的なできごとを契機として、それまでにはありえなかった相互補完的な関係をとり結んだのだろう。その関係が成立する以前に、人は説話論的な磁場など持ってはいなかったのである。

 こんにち、われわれは、明らかに説話論的な磁場の中に暮している。誰も、それ以外の領域に生まれることを許されてはいない。だが、ある時期まで、知と物語とは、決して同じ資格で支えあうことのない一つの階級的秩序におさまっていた。物語は、あくまで知に従属していたのである。知っていたものだけが、語りえたわけだ。 [……]


24‐25頁


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下のリンクは文庫版ですが、上の引用は1985年刊の原著からです




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〈150913 追記〉

読み進めてたら、 さらにぴったりの一節をみつけたので 書き加え

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[……] つまり、社会的な幻想として成立した「芸術」は、説話論的な制度としておのれを条件づけたというわけだ。それが複数型の単語として流通していたかぎりにおいて、「芸術」は、物語の主題とはなりえても、語るものを分節化する説話論的な機能を帯びてはいなかった。ところが、単数型として交換される記号となるや否や、「芸術」はたちどころに幻想的な説話装置へと変貌し、これを主題とする物語のすべてを、類型的に体系化する働きを持つことになるのだ。

 その体系化の運動は、まず境界線を引く。差異をきわだたせる力が、世界を二つの異なる領域に分割し、これといった正当な理由もないまま、この境界線を特権化するのである。ほかにいくらも可能な分割の条件の中からこれだけが選択され、あたかも決定的な身振りに操られたものであるかのように、そこで対立する二領域に思考を集中させる。しかも、何ものかがしかるべき意図にもとづいてその分割を統御しているわけではないのに、ごく曖昧に捏造された境界線は揺るぎなく存続する。特権化と排除の運動に従って新語が流行語になるのもそうした境界線を介してである。

62-63頁

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