ヒンドゥーの霊的原初主義
かれら「ヒンドゥー」の霊的原初主義の立場によれば、「ヒンドゥー」は超歴史的な実在である。「ヒンドゥー」は、起源こそはっきりしないにせよ(超越神から聖者への啓示というできごと、およびその記録としての聖典が、不明確にしか特定できないか、あるいは始原としての絶対的な意味をもっていない、という事情があるにせよ)、はじまりのわからぬ太古の昔から現時点まで、そして未来にわたっても、ひとつの集団として実在しつづけるのだ。そして、この実在は超歴史的であるのと同時に、まったく歴史的でもある。なぜなら、神がみと人びとが、インドという大地において(大地もまた女神そのものである)、具体的ないとなみを各時代の各場所でひとつひとつ、つみ重ねてきたことで、それは永続性をもちえているからだ。
こういったわけで「ヒンドゥー」は、まったくこの世的かつ霊的でもあるような諸存在のなかでも、特別な価値をもった実在になる。そして、おおくの人びとがその実在と自分との連続性、一体性をみる。ひとりの人間として、「ヒンドゥー」という偉大な実在をみずからの人生へと引きうけ、それを実際に生きるのである。その人生においては、分析的で批判的な理性をもちいて史実をこまかく確認する作業は、必要とされない。「ヒンドゥー」という実在は、根拠などもたない(というより、すべての根拠そのものであるところの)自明の真理なのであって、議論の余地はないからだ(宗教分類学が設定した「自然宗教」「創唱宗教」の区別でいえば、前者の「宗教」のあり方がこれにあたる。しかしわたしは、このような「宗教」という語の特権的使用法にまったく批判的なので、この分類学を採用しない)。
「ヒンドゥー」の霊的原初主義者にとって、本書の歴史語りは不要で余計な作業である。さらにもし、それが自分たちの世界観を否定するなら、迷惑なことである。わたしはもちろん、かれらの霊的原初主義を「否定」などしない。その人生観、世界観はわたし自身のものとは大きくことなるけれども、それとして価値があり、尊敬にあたいすると考えるからだ。しかしわたしはそれに「反対」はする。なぜなら、ヒンドゥー・コミュナリストもまた霊的原初主義の歴史観を採用するからだ。コミュナリズムへやすやすと引きよせらる歴史観に対して、わたしとしては、尊敬にもとづく慎重さをわすれることなく、チェックをいれておかないわけにはいかない。
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