歴史的闘争、制度化、具体性
ウルリッヒ・ベック曰く
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したがってわれわれが今日、そして未来において関わることになる (1) 個人化の歴史的主観形式は、イマヌエル・カントが考えていたような 抽象的な 意味で人間の決断の自由を表現したものではない。カントは個人的な行動動機を悪の源泉とみなしていた。私の道徳原則が一般化可能な場合にのみ、そして私の行動の格率が私の社会的立場や、私の利害や、私の情熱から発していない場合にのみ、それは道徳的に善とされる。この立場からすれば、行動者の主観性から切り離された行動だけが「善」とみなされる。ルソーもまた似たような議論をしている。ルソーにとっては、特殊利害を洗い流した 一般化可能な 意志だけが社会契約の基盤となりうる。こうした高級道徳は一方では個人的なものから切り離され、他方では一般化された個人にとらわれている。これに対して、個人化はこうした高級道徳を越える何かを意味している。個人的な個人主義が、また一般的な道徳的個人主義が、ここでは 制度化された個人化 によって置き換えられる。それは一連の歴史的闘争の成果として解読されねばならない。すなわち宗教的寛容を、あるいは市民的、政治的、社会的基本権を、そして何よりも一般的人権を求めてきた闘争の成果として。一般的人権とは、一般化されたものとして考えられた個人に対して自由を保証するものであり、その要求は、現実における絶えざる人権侵害によっても無力化されることはない。こうしてみるならば個人化は決してアナーキズムに流れ込むことはない。むしろ逆に、それはナショナルな防壁に抵抗し、国境を越えて道徳的統一性を保証しうる価値体系となり、信念体系となる。
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(1) しかもこれは John W. Meyer 2005 [Weltkultur. Wie die westlischen Prinzipen die Welt durchdringen, hg. von Georg Krücken. Frankfurt a. M.: Suhrkamp.] の拡散とグローバル化の分析に従えば全世界的現象だ。
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144-45頁: 傍点は太字で示した
すごく大事な、そして大好きな一段落(*'▽') 力づよいなぁ
ボクが 《世俗の宗教学》 と呼んでるものの重要なピースになる言葉
こういうのに出会うと、 なんかやっててよかったな、って思う
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