カテゴリー「00B 授業」の記事

2015年4月15日 (水)

宗教、表現作品、批評

宗教と世俗の問題のなかで 藝術をかんがえる、というのをいろいろやってきました

たとえば

「《映画の宗教学》 もしくは 「宗教と映画」論の課題」 というエントリ

なんかが一応 全体の理論的布置をまとめてたりしますし

「01F 藝術の宗教学 改め Economimesis R&D」 というカテゴリで

いろいろ書きためたりしてきました

んでもって、いま授業のひとつで 「批評」 をやっててですね

そこで 佐々木敦さんの『「批評」とは何か?』 を教科書していしてますが

その中にも 当然、ボクと同様の見立ててが出てきますので

ご紹介します



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[…]僕は小説とか映画とか、フィクションというものは、目に見えないものに対して何かが出来ると思っています。たとえばそれは人によっては、神様と呼んだり、幽霊と呼んだりするのかもしれない。僕は宗教なんか全然好きじゃないんだけども、まるで「神」の顕現みたいな感じがすることもあるのだと思います。

 たとえば、それこそメルツバウのライヴを観に行って、とんでもないノイズとかを聴いていると、会場はみんな耳をふさいでいるような状況でも、耳が慣れてくると、音が過剰に満ち満ちていて、ありとあらゆる音が重なっていて、その中に自分がいる、って感じがしてくる。そこにエクスタシーが生じてくるんです。それは単純に興奮するというよりも、体だけじゃなくて、体も頭も覚醒した状態なんですよ。要するにヤられてるんだけど、そのヤられてる感じをエクスタシーと呼ぶか、サブライム/崇高なものと出会っていると呼ぶのかは、人それぞれでしょう。そういうものをある種、神と呼んでもいいと思うこともあります。


290頁


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 それは批評だけではなくて、僕は映画を観たときによく感じるのですが、ストーリーとは無関係に、エフェクトとしかいいようがない経験がある。たとえばリヴェットの映画って三時間ぐらいあるんですが、その三時間を体験すると、身体的なことも含めて、何か不可逆的なエフェクトを与えられている気がする。それはすごく運動性があるものなんです。作品が一種のマシンみたいになっていて、そのマシンが何かをしている。その「何か」をする主体は作品であって、作品の背後にいる作者ではない。その「何か」をそのまま言葉には出来ないわけです。出来ないから、それと同じような作用をしていて、似たようなエフェクトを与えてくれる表現や作品が他にないかと考える。そうすると、違うジャンルの中に、全く同じではないにしても、何か似たような駆動、力の働きをしているものがあるような気がしてきて、それらを繋げてゆくことによって批評的なテクストが書ける、というのが僕の方法論なんです。それは映画から音楽に移って、最近また違う分野に行きつつあっても、たぶん一貫しています。

 主戦場的な現場が変わっていけばいくほど、それまで培ったものが巻き込まれていくので、ある意味では豊かになっていると思います。文芸批評みたいなことを書いてても、音楽の要素だって当然入ってくるし、映画も入ってくる。全部繋げられるというか、同じことをやっていると思えることが増えてきました。それはエフェクトというか、もっと大きな言い方で言うと世界の原理とでも呼びましょうか、「あの世って何?」みたいな。またスピリチュアルなことを(笑)。観念的なことかも知れないけど、そういうことです。物語でもないし、主題でもない。物語や主題とも深く関係があるけれども、それとはまた別の何かなんですよ。たとえばひとりの作家の小説をいっぱい読んでいくと、物語的な一貫性とか主題的な持続性とは別に、何かあるような気がしてきたりする。映画でも、たとえばアルトマンを全部観ると、一本一本は全然違うのに「何かあるな」と。その「何か」に無理やり言葉を与えようとする中で、批評的なモチベーションが起動してくるということが、僕はすごく強いんだと思います。


306-7頁


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2015年4月 5日 (日)

批評とは何か、あるいは「可能性の中心」/向こう側の世界

「批評」 とは何か

引き続き、佐々木敦 『「批評」とは何か?』 からの引用をします

前便 「批評家とは何か、あるいは佐々木敦がやりたいこと」

前便では 最終章から引用しましたので ここでは最初の章から

四つの断章をば (-"-)

最後の四つ目の断章(「可能性の中心」をめぐる断章)へと収束するような引用になってます



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 「評論家」っていう言い方があまり僕は好きじゃなくて。「評論家」と「批評家」って同じことじゃんって思ってしまうかもしれないんですけど、「評論家」っていうのは評じて論ずるっていうことですよね。評価して論ずるっていうことは、批評と同じようなことのようにも思えるんですけど、僕は「批評」っていう言葉の方に自分がやりたいことが近いって思っているんです。「批評」っていうのは、英語だと「critic」ですね。よく言われることだけど「批判」も「critic」なんですよ。「批判」っていう言葉だと、ついネガティヴな意味合いを強く感じちゃうと思うんですけど、必ずしも「批判」っていう言葉はそういうことだけではなくて、その物事の本質的な部分っていうのを一旦解体して再吟味するみたいな意味でもあるので、それに近い言葉として、「批判家」っていうのはちょっと変だから「批評家」って言っている。かなり意識的に「批評家」って名乗ったり書いたりするように今はしています。

8頁

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「紹介」 「感想」 「分析」 「敷衍」

 「批評」っていう言葉とは別に、こういうことも大きくは批評の一種みたいに言われてる、みたいなことを幾つか挙げていくと、たとえば「紹介」っていうのがある。CDでいえば誰それのニューアルバムが発売されるよみたいな、今作はビートがより野太くなっていて、みたいな感じのね。そういうのはいわゆる「紹介」です。つまりまだ聴いていない人を対象にして書かれている。[批評の]「対象」と[その批評文の]「受け手」が繋がっちゃう前に読まれることをほぼ前提にして書かれているのが紹介です。

 それから「感想」っていうのがあります。自分が聴いてみたらこう思った、こんな感じだったっていうようなことを書く。「紹介」と「感想」って似ているんだけれども、微妙に違うところもある。たとえば資料的な意味での紹介的な要素が全然なくて、単に俺はこれを聴いてすごく感動したんだよ、みたいなことだけ書いてあって、だから聴くといいよ、っていうのもよくあったりしますよね。

 それからもう一つ「分析」っていうのがある。「感想」を超えて、もうちょっと客観的に、何曲目の何々がこうなっていて、とか、前作と比較するとこうこうで、とか、この辺からいわゆる普通に「批評」と言われるものと近くなってきますね。

 もう一つ、この言葉が妥当かどうかわからないんですけど、「敷衍」っていうか「パラフレーズ」というか、「展開」でもいいや、つまり単なる「分析」を超えて、その作品のことからさらに考えられることを自分なりにもっと押し拡げて展開していこうとする文章がある。

 でも僕は「分析」や「展開」からが「批評」で、「紹介」や「感想」だとまだ「批評」じゃないっていうような厳密な考え方もしていないんです。 [……]

17-18頁

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[……] つまり、[特定の作品が]良い悪いっていうことを扱うのが批評だっていう風には僕は思わないんです。良い悪いは批評とは別にあるもので、それは誰にとってもある。自分にとっての良い悪いというものを、そう咀嚼し吟味するかっていうことは重要だけれども、それを他人に対して説得しようとしたり転写するっていうことを、僕はやれないというか意味があるとは思わないんです。結果的にはそういうことをやってしまっていることも多いのかもしれないですけど、そういうことを目的に批評を書いていない。僕は価値判断とか良い悪いっていうことの先に「批評」があると思っています。

30-31頁

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ここまではまだ 佐々木さんの主張がよく見えません

次の断章で それがかなり明確に語られています

長くなるので ここの引用では書きませんが

柄谷行人『マルクスその可能性の中心』が直接に参照されています


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[……] 要は「可能性」っていうものをどう考えられるのか、その作品に潜在している「可能性」、言い換えるとポテンシャルというか、つまりある一つの作品から、一体どういうことが、どこまで考えられるのか、その作品を聴いちゃったり観ちゃったり読んじゃったりしたことによって、その向こう側にどれほどの世界の広がりっていうのがありうるのか、っていうのが僕は批評だって思うんですね。だからさっきの話しでいうと、「紹介・感想・分析・敷衍」っていったら、やっぱり本当の批評の醍醐味は「敷衍」、パラフレーズのところまで行ってからだと思う。たとえばある小説一本についてだけ延々書いていたとしても、その小説だけには留まらない原理的な何かを取り出すことは十分可能なわけであって、その向こう側、つまりは「世界」がありますよ、みたいなことはやれるはずで、それが僕は「批評」っていうものだと思います。

32頁

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2015年4月 3日 (金)

批評とは何か、あるいは佐々木敦がやりたいこと

今年、佐々木敦さん 『「批評」とは何か? 批評家養成ギブス』 を

ひとつの授業の教科書に指定しました

もはや入手困難は一冊なので、いくつか抜き書きをしておきたいと思います

受講生の皆さんに 届け!


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 「批評って何なのか」ということを、ずっと「よくわからない」って感じで十回話してきたんですけど、依然として批評っていうものはよくわからない。批評という言葉でカヴァー出来る範囲は本当はすごく広いし、「これは批評、これも批評」ということが矛盾してくる場合もある。それぞれの中で「批評って一体何なのだろう?」と問い続けていくことが批評なのかもしれない。ベタな言い方もするとそういう気もします。

 ボクも、批評、批評って言い始めたのは割と最近で、ずっと批評家というよりは映画ライター、音楽ライターと呼んだ方がいいような仕事がメインでした。批評家になろうと思ってなったわけでもないし、自分には批評的なことをやれると思ってなったわけでもない。色々やってきた中で、批評っていう言葉が自分の中でしっくりする状況に立ち至ったというのが本心に近い。

 僕は今自分のやっていることは全部、「批評」と呼んでいいと思っています。でも「こんなのは批評じゃない」って思う人もいるかもしれないし、その人が間違ってるとも僕は思わないから、皆さんは皆さんの中での批評観を育てながら、今後も書いていっていただけたらいいなと。そしてそれを読める機会があったらいいなと思っています。

347頁

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この文章は 何も言っていないに等しい

批評とは何か、わからない、皆それぞれで考えましょう、というのだから

ただし、本書(連続講義の記録)の最終部分にあたる

ここに至るまで、340頁あまりを費やした語り(その運動、その音楽)に

その答えは 行為遂行的に示されているのだ、というのが好意的な読みだ

それはそれでまったく十分なことである

しかし佐々木さんは、そのことで満足しきってしまわない

上の段落に続けてすぐ 自分自身が「やりたい」ことを語りはじめるのだ

たしかに、批評という言葉でくくりこまれるような空間は

たった一つの本質と 一様な構成体から成っているわけではない

そしてその境界面は 多くの孔がうがたれている、もしくは半透膜状になっている

「批評」という開放的な場―― そこで佐々木さん個人が「やりたい」こと

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 僕が最近思うのは、たとえばいわゆる浅田彰的な知性というか東浩紀的な知性というか――何か対象が与えられた時に即座に「これってこういうことね」って言えちゃう類の知性というものがあると思うわけです。それは反射神経と呼んでも、ある種の批評的センスと呼んでもいいのかもしれないけれども、そういうものって、生まれついてのものもあるし、訓練されて育ってくる場合もある。そういう種類の知性によってはぐくまれる豊かさというものもあるでしょう。

 僕はたぶん、ある時期までは「これってこういうことね人間」だったと思うし、今でもある部分はかなりそうだと思います。何かが起こると「これってこういうことね」とひとりごちてしまうというか、すぐに納得してしまって、わかったような気になっているというか。

 「ひとりごちてるだけで、世界はもっと複雑だよ」とか、そういうことを言いたいわけではないんです。意外とわかっちゃうものなんですよ。ある意味で、世界は意外と単純なものだと思う。だから「これってこういうことね」は意外と当たってるのだとも思います。

 複雑で多様で恐ろしく豊かであるのかもしれない世界なりなんなりを、何らかのマトリックスやチャートとかを作って整理して、「それってこういうことだよね」って断言することが批評だっていう見方はあるし、その中での正しさを競う世界もあるのだとは思うんだけれども、僕はたぶん今はそういうことをやりたいとは思っていません。「これってこういうことだよね」と簡単に言えるからこそ、他のことをやりたい、ってい気持ちがすごく強い。つまり、ある意味でわかりやすい単純なこと、「これってこういうことだよね」によって還元されて出てくる真理とか原理みたいなことがあるとするならば、それをもう一度ものすごく複雑にしていきたいんです。
347-48頁
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佐々木さんの「やりたいこと」が 見えてきました

さらに具体的な説明が入ります、ここらが大事なところになりましょう

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 たとえばわれわれがある表現と出会った時に「こういうことを言おうとしてるんだな、こういう意味だったんだな」という還元を行なった後に出てくるものは、ものすごくシンプルなことなのね。それはすごく単純なことなんだけど、そんな単純なことがいつのまにか色々と面倒臭いことになってゆくのが人生だったり世界だったりするのだから、それを語るために、ものすごく複雑で手の込んだ方法論が必要になってくるのだと思うのです。

 小説にしても映画にしても、そういうことをやってる人って意外と多いような気がするんです。「結局こういうようなことを言ってるだけじゃん。それって難しいことじゃなくて、誰でも知ってるようなこと。ある意味では取るに足らないようなことじゃないか」ってことだとしても、ならば何故そんなにややこしい手の込んだ方法論で、それを語らなきゃいけなかったのかということの方を考えなきゃいけないと思うんです。

 おそらく、還元した時に出てくるシンプリシティってのは、しょうがない。それはそういうものだと思う。でもそれを最終的にわからせたいわけじゃなくて、向きが逆なんだと思うんです。ある意味では取るに足らないシンプルな真実っていうものを、絶えず再確認するためにこそ、複雑な手続きが必要なんです。メッセージとしては極めて単純なことを言っているのにすぎないんだけれど、それを言うためにものすごく面倒臭いことをやってるっていう、そういう表現をしている人が今は多いような気がしているので、それに対して批評の言葉でいかにして応接していけるのか、そういうことを最近は考えているところです。

348-49頁

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引用は以上です

最初に述べたように、入手しづらい本なので 長く引用させていただきました

2013年5月 6日 (月)

占領軍、政教分離、天皇制、そして靖国

ある授業で 宗教法人法の成立過程 を学生さんたちと一緒に調べている

今年度(2013年度)は 「神道指令」 にフォーカスしている

これまで、このブログに書いた関連記事としては

の三つを書いてきました

この関連で 以下、 磯前順一先生のご研究から 一節を引用いたします

学生さんが ここにたどり着いてくれるといいなぁ… (`´)

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 そして、アジア・太平洋戦争での敗北後、占領軍であったアメリカ合衆国はそのような日本の諸宗教および天皇制の侵略的・排他的性質を修正し、日本が [ママ] 冷戦体制下の極東戦略を担うのにふさわしい政体へ変えようと試みた。そのような占領期の宗教政策を集中的に研究したものとして、井門富二夫編『占領と日本宗教』(末來社、一九九三年)がある。とりわけ興味深いのが、高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書、二〇〇五年)や赤澤史朗『靖国神社――せめぎあう〈戦没者追悼〉のゆくえ』(岩波書店、二〇〇五年)が示すように、戦後における靖国神社の政治的・社会的地位の変化の軌跡である。

 それは、戦後になって占領軍によって導入された政教分離体制をどのように天皇制に節獄するか、そのもとでの戦没兵士の国家祭祀をいかに実現可能とするかという政府および民間の保守層の願望をめぐる日本社会のせめぎ合いを通して、戦後日本における「宗教」領域の社会的位置を如実に物語るものとなっている。それは戦後天皇制の性質とともに、戦後日本社会における宗教的なもののあり方を考えるさいの大きな手だてとなろう。(21) さらに、靖国論に関しては、そもそも生者による死者祭祀自体が可能なのか否か、その根源的な部分から問題が議論されなければならない時期にきていると思われる。(22)

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(21) 島園進「戦後の国家神道と宗教集団としての神社」(圭室文雄編『日本人の宗教と庶民信仰』吉川弘文館、二〇〇六年)。

(22) 磯前順一「死霊祭祀のポリティクス――慰霊と招魂の靖国」(前掲『喪失とノスタルジア』)

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2013年3月16日 (土)

ホンモノ右翼とヘタレ右翼の違い ――宮台真司(2005)より

前便 「ホンモノの右翼とは何か」 の続便です

宮台真司先生と北田暁大先生との対談集(2005年刊)より

宮台先生の発言の一節です

少々長くなりますが お付き合いのほどを _(._.)_

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 ホンモノ右翼とヘタレ右翼の違いは「自己決定」をめぐって如実にあらわれます。ヘタレ右翼は「自己決定はいかん、伝統を守れ」と言います。この呼びかけに応じるか否かが自己決定に任されるのでは背理するので――その意味でこの命令文自体が破綻しているんですが――、ヘタレ右翼は「これが伝統だ」として言挙げされたものを強制しようとします。

 ホンモノ右翼がこういう「つくる会」的なヘタレ右翼ではあり得ないということを述べたのが、ハンナ・アーレントです。伝統や共同性が存在するのなら、むしろ人が自己決定したときこそ、それが不可避に刻印されるはず。彼女は、「伝統を守れ」「共同性を守れ」と叫ぶ輩が何かを強制すること自体、伝統や共同性がとうに存在しないことのあらわれなのだとします。

 こうした志向図式は、社会学者にも大きな影響を与えたカール・マンハイム『歴史主義・保守主義』の影響下にあります。マンハイムは、伝統が人の振る舞いにおのずと刻印されてしまうことを指す「伝統主義」とは異なり、「伝統を守れ!」という命令や強制を「再帰的伝統主義」と呼んで、それが近代主義に一変種としての「保守主義」なのだとしました。

 巷の通念と違って、ホンモノ右翼は、国家のごとき歴史なき人工物への「依存」を退け、国家のごときものを単なる便宜として使いこなす「自立」を賞揚します。ゆえに「自己決定」を重視します。自己決定が自己決定たるがゆえに、他なるものに貫かれてあるようなあり方――〈世界〉に感染するがゆえに〈社会〉のなかで自立するような――に価値を置くんです。

 国家のごときものを単なる便宜と見なすホンモノ右翼は、必然的に革命思想に連なります。これはまさにパトリを護持するための革命です。だから北一輝は、これを単なる破壊としての革命から区別するべく「維新」と呼びます。パトリを護持する理由は何か。一口でいえば、「〈世界〉に感染するための通路」を護持するためなんです。

 「表現」と「表出」という観念を使って説明しましょう。表現とは伝えること。表出とはエネルギーの発露。広場の真ん中でひとり叫ぶ行為は、表現でなく、表出です。でも、そうやってひとり叫び、気がつくと周囲に叫び声が澎湃として満ち満ちるような「表出の連鎖」――ミメーシス(模倣・感染)――があり得る。この表出の連鎖を支えるのがパトリです。

 もちろんパトリを護持するのは、再帰的振る舞いです。再帰性とは、自明性に浸されていた選択前提が、選択対象になることです。だから「再帰的伝統主義」という場合、気がつくと伝統に服しているのと違い、伝統に服するという選択をあえてすることを指します。でも「つくる会」的なヘタレ右翼と違い、ホンモノ右翼は「自己決定はダメ」と言いません。

 別の本でもいったけど、自己決定がおのずと「他なるもの」に貫かれるようにさせるべく、年長世代が年少世代のための生育環境をセットアップする、という意味での再帰性ならば、僕は肯定します。「これが伝統だ、自己決定は認めない」といったたぐいの再帰性ならば、僕は認めません。「近代主義と右翼性を両立させる」には論理的にはこれしかないでしょう。

35-37頁: ルビと脚注は省略

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宮台先生の右翼論 引用紹介は以上です

計3便になりました、 どうぞまとめてご参照くださいませ

2013年3月10日 (日)

ホンモノの右翼とは何か ――宮台真司(2005)より

前便 「右翼とは何か、あるいは右翼と宗教」 の続便です

ここでは 「ホンモノ」の右翼とは何か、語られています

宮台真司先生と北田暁大先生との対談集(2005年刊)より

宮台先生の発言の一節です

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 こうしたホンモノ右翼の立場が「世の中には合理的に説明できないものがある」「科学には限界がある」といった非合理主義や反近代主義と同一視されるなら問題です。なので、僕は『サイファ 覚醒せよ』(以下、『サイファ』)を著しました。そこで述べたとおり、「科学では説明できないものがある」とされる事柄のほぼすべてが、科学で説明できます。そんなことは問題じゃない。

 〈世界〉は規定可能ではないとする右翼の立場は合理的です。たとえば「〈世界〉はなぜあるのか」という問いは、根源的規定性を露呈させる。答えが〈世界〉の外にあれば、〈世界〉はあらゆる全体だから矛盾する。答えが〈世界〉のなかにあれば、〈世界〉はあらゆる全体だから全体の存在理由が一部に対応するという矛盾をきたす。なのに問いは有意味なのです。

 「なぜ私はアナタでないのか」という問いも、根源的未規定性を露呈させます。分析哲学者のクリプキが『名指しと必然性』という本で、固有名の同一性と〈世界〉の同一性が、等価であることを示しています。〈世界〉の存在理由は、さきほど述べた理由で根源的に未規定であるがゆえに、「私」が入れ替え不能である理由も未規定です。主意主義はこの事実にこだわるんです。

 したがって主意主義的=右翼的な感受性は、「私が他ならぬ私であること」「ここが他ならぬここであること」への驚きへと開かれます。だからパトリオティズム(愛郷主義)をもたらします。パトリオティズムとは入れ替え可能化に抗う思想のことです。ゆえに「たかが人為的構成物にすぎぬ国家がパトリを屠るなら、これを革命する」――これぞ右翼の本義です。

34-35頁: ルビと脚注は省略

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ここまで述べたところで 附論が一段落 つきます

ちなみに、 さらにこの後には

「ホンモノ右翼とヘタレ右翼の違い」 が解説されますが

それはまた 次便で

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 ちなみにスメント流のドイツ国法学が、入れ替え不能性を崇高な精神共同体たる国家に等置、その伝統上に国家社会主義を標榜するファシズム国家が生まれます。日本でも、後期水戸学から吉田松陰への流れが、天皇を中心に据えるかたちで似た論理を展開、維新政府が生まれる。でもこれらは近代後進性ゆえの人為的配置であって、右翼思想的には完全に傍流です。

35頁: 脚注は省略

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2013年3月 9日 (土)

右翼とは何か、あるいは右翼と宗教 ――宮台真司(2005)より

ボクの専門は 宗教ナショナリズム ですから

「宗教と右翼」 という問題、 そもそも 「右翼とは何か」 という問題

これは中核的な関心事です

さてここで確認しておきたい当たり前のことは

右とは左との対であり、 さらに左右の中間領域がある、ということです

こうした左右に開く構図のなかで 「右翼」 は考えられねばならない

つまり、 右翼を考えるものは 左翼をよく考えねばならない

(さらには 中道をも)

ということで…

宮台真司先生と北田暁大先生との対談集(2005年刊)より

宮台先生の発言の一節を書きぬきしておきます

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 アメリカのルーツ右翼と日本のルーツ右翼は、人事を最高価値とする思想を否定し、神や天を最高価値と見なして人事――コロラリーとしての国家――を相対化する点で共通します。右翼とは何かを考える場合、この共通性が重要です。右翼とは何ぞや。別著で記したように、一次近似としては集権的再配分の是(左)/非(右)をめぐる政策的差異です。

 でもそれは、派生的帰結の差異にすぎません。正確には、そうした政策的差異を蓋然的に(必然的にではない)導く思想的差異――主知主義(左)/主意主義(右)――にかかわります。主意主義(右)の立場が、弱者への集権的再配分を推奨することもあり得るということです。この思想的差異はスコラ神学に由来し、元来は神が不合理を意思するか否かにかかわります。

 神が不合理を意思しないなら〈世界〉(あらゆる全体)は合理的に記述でき、意思するなら記述できません。前者がアリストテレス=アクィナス的な主知主義、後者がプラトン=アウグスティヌス的な主意主義です。主知主義は、人間的理性を信頼するので計画万能主義を帰結しやすく、規定不能なものや未規定なものを不安がる心性に結びつきます。

 こうした心性を、ヘタレ(依存)として退ける初期ギリシア思想をルーツにするのが主意主義。主意主義は、神と同じく人間の意思をも理性に還元できない端的なものと見なすので、不条理や規定不能性をあらかじめ前提とする態度を帰結します。実存的には不安ではなく内発性を、コミュニケーション的には不信ではなく信頼を――総じて飛躍を――推奨します。

33-34頁: ルビと脚注は省略

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とりあえずここで一区切り

以上のように左右の違いが説明されたうえで

次に 「ホンモノ」の右翼の立場が説明されていきます

それはまた 次便にて

2013年2月 6日 (水)

フッサールの自然主義批判

前便 「宗教概念批判の哲学的基礎づけ」 の 直接のつづきです

フッサール(とくに『イデーン』まで)の哲学を 新田先生が要約なさってます

2013年度後期の「宗教学演習」のためのメモになります

長くなりますが お付き合いをばお願いいたします

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 哲学的認識とは、「視ること」一般の成り立つ純粋なありさまを、「視ること」そのことによって捉えることであるといってよいであろう。哲学的認識とは反省としての「視ること」であり、何ものにもまして明証的であらねばならず、いかなる媒介的な手順や偏見をもそこにもちこむことを許さないものである。ところが、このようにして原初的知の形成の仕方を問い知のの総体性を基礎づけようとする哲学的認識には一挙に近づくことはできない。それゆえまず何よりもわれわれは哲学的認識にいたる道そのものを探さねばならない。この点でフッサールがたえず対決しなければならなかった相手が自然主義の方法的態度なのであった。というのは、自然主義もまた同様に直接的な所与に変えることを標榜し、それに無縁のあらゆる先入見を拒けようとするからである。ところが、自然主義は、「事象自体への帰行という基礎的要求を、自然的事物に関わる経験によってすべての認識を基礎づけようとする要求と同一視し、もしくは混同している」(『イデーン』Ⅰ)ところに、原理的誤謬を犯している。事象を自然的事象にのみ限局することによって、その結果、論理的対象を自然的経験に解体したり、経験そのものを自然的事象に組み入れたりして、「理念の自然化」や「意識の自然化」に陥っている。こうした自然主義の態度は、本来は科学のひとつの方法的態度なのではあるが(『イデーン』Ⅱ)、しかし方法であることを忘れてしまうと精神的なものや理性的なものまでも自然的なものであるかのように断定するひとつの形而上学的独断に陥ってしまう。なぜこにょうな方法的偏見や科学的先入見が発生してくるのか。フッサールは、このような先入見の発生の根拠となるものを、人間の意識につきまとう最も自然的であり基本的ともいえる「自然的態度」(natürliche Einstellung)に見出している。

 自然的態度とは意識が実施態におかれ、対象に関わり続けているときに、おのずからとる構えかたである。この態度の特徴を、フッサールは、第一に対象の意味と存在を自明的とする捉えかた、第二に世界の存在の不断の革新を世界関心の枠組の暗黙の前提、第三に世界関心への没入による意識の本来t系機能の自己忘却という点に見ている。自然的態度に生きる限り、ものごとはいつも自明的なものとしてなじまれている。存在者が何であるかはつねに習慣的に了解され、それが在るということ自体については不問に付されている。科学的方法的態度もまた、すでに前提された存在者を一定の方法的視角から一義的に規定しようとする態度であり、改めて存在者の存在を問うものではない。要するに意識が実施態におかれる限り、こうした自明性は避けることができないのであって、そこからさまざまの実体化的把握の傾向が発生する。フッサールが掲げた有名な研究格率「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst!)は、このように近さの仮象をもつがじつは媒介されているものを直接的な所与とみなしている態度に対する批判を含んでおり、真に存在者への近みにいたるためにはまず自然的態度に生きること自体を問題としなければならないことを説こうとしたものでもある。フッサールが自然的態度の最も根本的な特性とみなすのは、この態度に生きる限り、どんな場合でもつねに世界の存在が暗黙理に前提されていることであり、この世界確信を一般定立(Genralthesis)とよんでいる。さらに自然的態度におけるしべての対象関係は、世界という枠の内で行なわれ、科学的認識もすべて世界関心に含まれるという意味で世界関係的、世界拘束的である。したがってこの世界関心の内で意識が自らを反省するにしても、自らを「世界の内のひとつの存在者」として見出すだけであって、純粋な理性機能としての自己に気づくことはできない。

 このように世界拘束的態度のなかでは、存在者の存在の意味を問うことや、存在者の総体としての世界の意味やその起源を問うことはできない。そこでフッサールは、「現象学的還元」(phanomenologische Reduktion)とよばれる態度変革の方法を唱えたのである。 […後略、次便につづく…]

25-27頁

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2013年2月 5日 (火)

宗教概念批判の哲学的基礎づけ

来年度後期の演習では 新田義弘先生の『現象学と解釈学』 を読もうと思う

宗教概念批判はすでに十分一周した感があるので

あらためてその哲学的基盤について この辺りから基盤固めをしておこう

というわけだ

演習の表題はしたがって 「宗教概念批判の哲学的基盤」 とでもなろうか

現象学も解釈学も ある重大な限界をもっているが

1) まずは入口として これは全く適当だ

2) 新田先生が その限界をどう処理するかを知りたい

ということで…

新田先生によるフッサールの議論の要約(一部)を 書きぬいておきます

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 フッサールでは知とは、その原初的形態についていえば、意識の主観の作用によって意味として構成されたものであり、この相関関係の対象項として成り立つ。意識作用と対称意味との相関性は、志向性(Intentionalität)という概念で言い表わされる。志向性の概念は「~に向かっている」という意識の特性を表わすものとしてすでに伝統的な概念であり、とくに彼の師のブレンターノによって、個々の意識を心理学的に分類するさいに使用されていたが、フッサールはこの志向性そのものの原理を問い、これを意識の全体的な本質連関を形成する原理的機能として捉えた。すなわち志向された対象が単に思念されるだけでなく、直観において充実される仕方、つまり明証(Evidenz)の問題にまで深めたのである。明証とは、存在者が自ら現われ出ること、すなわち存在者の自己能与(Selbst-gebung)のことであり、意識の側からいえば意識に対して「自ら与えられているもの」の傍に立ち臨み、存在者が現われ出るままに存在者を規定していることであり、存在者への真の近みから存在者について原初的に知を形成する理性の機能を意味する。ところが明証は、フッサールによると、対象があるがままに自らを与える原理的明証(例えば知覚)を原様態としてさまざまの派生様態(例えば想起とか想像)をもち、段階的体系を形成している。したがって、意識の全体的連関の志向的分析とは、根源的明証を原点として構成されている明証の体系の露呈なのであり、フッサールの企てる知の体系的基礎づけとはまさにこの志向的分析の体系的実施にほかならなかったのである。

 自己能与とはいいかえると理性の「視る」働きであり、フッサールは『イデーン』Ⅰ(Iden zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie, 1913)において、「いかなる種類であるかを問わず、根源的能与としての視ること一般は、あらゆる理性的主張の究極的源泉である」と述べている。この究極的源泉にまで戻ってそこから「哲学および学的認識一般の究極的基礎づけ」を果たすことが、厳密なる学としての哲学の課題であった。

23-24頁

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この引用、しばらくつづけたいと思います

2012年9月15日 (土)

自然概念にまつわる言説空間 -現代日本の場合-

去る2012年9月9日、 宗教学会で発表してきました

ここ数年、 私は

《宗教にまつわる現代日本語の言説空間》 の解析に取り組んでおります

  • 2009年度は、 パイロットスタディとして 「宗教」 概念とその周辺を包括的に
  • 2010年度は、 世俗概念を念頭に 《宗教でないもの》 の観念を
  • 2011年度は、 「神」 概念をそれぞれ取り上げました

今年は、 「自然」 という言葉をめぐって やってみました

当日配布した資料は、 15分の発表時間に合わせたヴァージョンでしたが

1週間かけて 大幅に書きなおしたものを 下からダウンロードいただけます

【DLはこちらから】 自然概念にまつわる言説空間 ― 現代日本の場合 ―

結論は ほぼ変えてありませんが

本論は かなり長くなり、 内容にも大幅な変更があります

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この論考は、 DL先の資料にも明記してありますように

日本女子大学での前期授業 「宗教学の方法―1」 の成果です

学生さんの参加なくしては この研究はありえませんでした

記して 心より感謝いたします m(__)m

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なお、 今回の発表は きちんとした論文にして雑誌に投稿するつもりです

お恥ずかしながら 数年ぶりの雑誌論文ということになります

その際には どうぞまたご笑覧くださいませ

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