カテゴリー「04B 連載 宗教学こぼれ話」の記事

2012年7月20日 (金)

脳科学と宗教、もしくは神秘体験 【参考文献表】

先日 「脳科学と宗教、 もしくは神秘体験」 ということで

参考文献のリクエストがあったので 作りました

そのままコピペいたしますので、 どうぞご笑覧ください_(._.)_

====================

  • 脳科学を「絶対視」する傾向には 十分ご注意ください。 「脳科学神話」などという揶揄の表現もあるほどです。
  • 同時に、この分野では、(疑似)宗教的、もしくは「スピリチュアル」な関心をもつ方がたの著作が、科学者の著作と並んで語られる傾向があります。 著者の来歴だけでなく、著作の内容について、批判的な検討がつねにもとめられます。

一番のオススメ

  • ジル・ボルト・テイラー 『奇跡の脳』 竹内薫訳, 新潮社, 2009年2月. ⇒ 新潮文庫版あり

その他 (50音順)

  • 篠原菊紀 『脳は、あなたにウソをつく』 KAWADE夢新書, 河出書房新社, 2012年6月. [コンドウ未読]
  • 立花隆 『生、死、神秘体験』 講談社文庫, 講談社, 2007年5月 [原1994年].
  • 苫米地英人『洗脳原論』春秋社,2000年2月.
  • ―――― 『スピリチュアリズム』 にんげん出版, 2007年7月.
  • 中野信子 『脳科学からみた 「祈り」』 潮出版社, 2011年12月.
  • アンドリュー・ニューバーグ/ユージーン・ダギリ/ヴィンス・ロース 『脳はいかにして〈神〉を見るか ― 宗教体験のブレイン・サイエンス』 茂木健一郎訳,  PHPエディターズグループ, 2003年3月.
  • ジョン・ヒック 『人はいかにして神と出会うか ―宗教多元主義から脳科学への応答』 間瀬啓允/稲田実訳, 法藏館, 2011年3月.
  • バーバラ・ブラドリー・ハガティ 『聖なる刻印 ―脳を変えるスピリチュアル体験』柴田裕之訳,河出書房新社, 2010年12月.
  • ジョン・ホーガン 『科学を捨て、神秘へと向かう理性』 竹内薫訳, 徳間書店, 2004年11月.
  • 養老孟司/森岡正博 『対論 脳と生命』 ちくま学芸文庫, 筑摩書房, 2003年2月 [原1995年].
  • V・S・ラマチャンドラン/サンドラ・ブレイクスリー 『脳のなかの幽霊』 山下篤子訳, 角川文庫, 角川書店 (角川グループパブリッシング), 2011年3月.
  • ―――― 『脳のなかの幽霊、ふたたび』 山下篤子訳, 角川文庫, 角川書店 (角川グループパブリッシング), 2011年5月.

脳科学と精神医学

  • 岡野憲一郎 『脳科学と心の臨床 ―心理療法家・カウンセラーのために』 岩崎学術出版社,2006年11月.

====================

一番のお勧めは 上に書きましたとおり

ジル・ボルト・テイラー 『奇跡の脳』 で決まりですが

二番目は? と聞かれたら 

ニューバーグ/ダギリ/ロース 『脳はいかにして〈神〉を見るか』 をあげようかな

って思います

なお ご覧のとおり、 2000年代に入ってから バタバタバタっと出版がありました

とくに 2010年代の活況ぶりたるや!

何かを暗示しているのは 間違いないでしょうね (-。-)y-゜゜゜

それとも単に 苫米地さん登場の余波?

====================

【追記】 次の近刊書を ご紹介いただきました

  • デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ 『洞窟のなかの心』 港千尋訳,講談社,2012年8月.

版元ドットコムさん 「近刊検索β」 では こちら

====================

【メモ 120830】 この本も読まなきゃ

  • 芦名定道・星川啓慈(編) 『脳科学は宗教を解明できるか―脳科学が迫る宗教体験の謎』 春秋社,2012年8月.

2010年8月13日 (金)

仏像が彫刻になるのは昇格なのか降格なのか、あるいは芸術と宗教

ツイッターで 美術家の 大村益三さん

大変興味ぶかい囀りをなさっていた

この前期、 「芸術と宗教」 という授業をやっておりました

この囀りが あと1ヶ月早ければ

迷うことなく重要資料として 学生さんに配布したでしょう

敬して 引用させていただきます

====================

氏のツイッタIDは @omuraji です

■ 共に 「人形 (ひとがた)」 であるものの、 時に 「人形 (にんぎょう)」 の髪の毛が伸びる事はあっても、 「人体彫刻」 の髪の毛が伸びる事はない。 「人形 (にんぎょう)」 には 「念」 が宿りもするが、 「彫刻」 に宿る事は無い。

■ 仮に、 駅前や広場など、 街中に林立している 「人形 (ひとがた)」 としての 「彫刻」 の一つ一つに 「念」 が宿っているとしたら、とてもではないが、 「怖く」てその近くを通る事など出来ないだろう。

■ しかし 「彫刻」 からは、 制作時からして予め 「念」 が追放されている為に、 その前を無防備に通っても「安心」である。 「人体彫刻」 は 「人形 (ひとがた)」 の様に見えて、 全くそうではない。 「人体彫刻」 からは 「人形(にんぎょう)」 の様な 「怖さ」 が丁寧に払拭されている。

■ この時期、 「プリミティブ」 な 「形」 の茄子や胡瓜の動物に 「霊」 は乗せられても、 「彫刻」 の動物に 「霊」 が乗る事はまず無い。 「盆送り」 に 「彫刻」 の馬が使われる事は無いし、 「彫刻」 の馬には 「霊」 は乗りたがらないだろうとも。

■ 「呪いの絵」 という存在が無いではないが、 しかしそれは 「美術」 的には、 どこかで 「美術」 から 「降格」 したものとして扱われる。 「念」 が宿る事で 「昇格」 するケースは 「美術」 的にはまず無い。

■ 「仏像」 が美術館で展示される場合、 「魂抜き」 や「 御霊抜き」で、 「魂」 を抜いて、 「彫刻」 にする儀式が欠かせない。 仏具店に並ぶ 「仏像」 も然り。 「仏像」 が 「彫刻」 になるのが 「昇格」 なのか 「降格」 なのか、 美術館で見る 「阿修羅像」 が、 「美術」 に 「昇格」 したのか 「降格」 したのかは判らない。

■ 某国の国立美術館で見た風景。 展示されている 「仏像」 に深々と一礼をし、 手を合わせて拝み、 それから再び深々と一礼して去る女子高生。 それはその場では全く 「例外」 的ではなかったが、 しかしそれは、 「美術鑑賞」 からすれば、 「昇格」 だろうか 「降格」 だろうか。

■ 「礼拝」 と 「鑑賞」。 それらは、 峻別されるべきものだろうか。

2010年8月12日深夜の囀り

=====================

2010年7月14日 (水)

立教大学の学生さんへ (HO17 「まとめ」 DL)

立教大学で 私の

「文学講義39 南アジアのコミュナリズム」

をとっている皆さんへ

本日 (7月13日) にお渡しできなかった

ハンドアウト#17 「まとめ」 です

こちらにアクセスして、 ダウンロードしてください

お時間のある方は、 今週金曜の補講にご参加ください

このハンドアウトの説明をしつつ

テストに関する質問を お受けします

  • 日時: 7月16日 (金) 3限 (13:15-)
  • 場所: いつもの教室

====================

連絡は以上です

テスト がんばってください

2010年6月24日 (木)

明治30年 真宗大谷派僧侶の《宗教体験》

授業で 神秘体験とか 回心体験とか 宗教体験とか

話はするのだが、 とにかく伝わらない

当たり前である

現代日本の若者は そういうことに触れたことが 一切ない!

話を聞いたこともない!

どんなことが 何で起こるのか まったく知らないのだ

出る質問は決まって

「霊体験とは なにか違うんですか…?」

ウベナルカナ、 ウベナルカナ!

これにどう答えるか、 現代日本の宗教学者の腕のみせどころだ

僕なりの定型化した答えはあるのだが

まぁ それはさておき (また書く機会もありましょうから)

とりあえず ここでは、 最初の問題への情報を

学生さんたちにお伝えしておきたいと思います

すなわち

「宗教体験って なんですか…? どんなですか…?」

という問い

====================

近角常観 (ちかずみ じょうかん) さんという

浄土真宗 (大谷派) の僧侶がいらした

明治3 (1870) 年生、 昭和16 (1941)年没

このお坊さんの 《宗教体験》 が

碧海寿広さん の論文に紹介されていた

  • 碧海寿広 「哲学から体験へ ―近角常観の宗教思想―」 (『宗教研究』 364号, 2010年6月, 75-100頁)

====================

《宗教体験》 は、 その前段階として

挫折と煩悶の状態を経るのが ふつうである

近角の場合も、 まさにそうだった

 近角常観は、 明治三年四月二〇日、 滋賀県東浅井郡旭村の西源寺 (真宗大谷派) に、 父・常隋の長男として生まれた。 三歳のとき実母が死去し、 養母・雪江に育てられた。 幼少期から、 父に浄土三部経の読み方を教わった。 当人いわく 「我信仰は全く父上の授け玉ひし所也」。 明治一八年、 京都府立尋常中学校を経て、 東本願寺経営の育英教校に入学。 清沢 [清沢満之] に出会った。 明治二二年、 清沢の推薦をうけ、 東本願寺の留学生として上京。 開成中学と第一高等学校に学び、 明治二八年に東京帝国大学哲学かに入学した。 東大在学中の明治二九年、 清沢らが推進した 「白川党宗門改革運動」 に参加、 熱烈な活動を行うも、 運動は期待通りの成果を生まず、 挫折感を抱えながら、 学業に復帰。 深甚な煩悶状態に入る。

79頁

碧海さんが示唆するように

近角にとって これは大きな挫折だったのだろう

彼の内面は荒れ、 自殺願望まで芽ばえたようだ

 人とうまく付き合えない。 それが、 青年近角の悩みの根本であった。 明治三〇年七月、 改革運動からの帰還の後、 心身ともに疲れ果てていたが、 同時に人間関係もこじれ始めた。 自分は周りの人々に対し気を遣い親切にしているのに、 相手はそれに応じた好意的な態度をとってくれない。 誰かに肩入れすると、 他の誰かがそれを恨みに思う。 次第に誰に対しても心の距離が出来はじめ、 人間不信に陥った。 仏教も愛読書もつまらなく、 飲食など五感の快楽に溺れ、 自殺願望すら抱く。

若き近角にとって必要なのは 「友人」 であったようだ

しかし、 それは どうしても得られない

彼は追い詰められる

体調まで すっかり崩す

「心が入れ替わるような体験」

「回心の体験」 がおとずれたのは、 そんなときだった

 鬱屈したまま、 松島での仏教夏季講習会に参加したが、 丸々二週間、 仲間に苦悶を訴えるのみで、 周囲を不快にさせた。 この時、 どんな状況でも自分に同情し、 慰め、 認めてくれる友人が必要だと痛感した。 そこで、 中学時代の親友のところに行き、 今の苦悶を打ち明けるが、 気分は晴れない。 心の不調は体の病気をも惹起し、 腰部に筋炎が生じ激痛に苦しんだ。 療養のため帰郷し、 二週間入院していたが、 体調が少しよくなり通院していたある日の道の途中、 心が入れ替わるような体験を得る。 九月一七日のことであった。

病院から帰り途に、 車上ながら虚空を望み見た時、 俄に気が晴れて来た。 これまでは心が豆粒の如く小さであったのが、 此時胸が大に開けて、 白雲の間、 青空の中に、 吸ひ込まれる如く思はれた。

雄大な天空に向け卑小な我が心を開いた、 この瞬間の感覚は、 彼の仏教観を一変させた。

79-80頁

近角の仏教観の一変!

それを 碧海さんは、 近角自身の著作をたよりに

次のように要約する

 仏陀とは、 真の友のことである。 人間の世の中に存在する友人は、 こちらが心を隔てれば、 向こうも同じく心を隔てるものである。 だから友人に対しては善く振舞おうと人は心がけるが、 心の弱い凡夫にはその継続は難しく、 人間界の友情はもろい。 これに対し仏陀は、 こちらの態度が悪ければ悪いほど、 心を隔てれば隔てるほど、 逆に胸を開いてくれる、 天空のように寛大な心をもつ友である。 この様な 「真の朋友」 としての仏陀像を胸中に構成することで、 近角は煩悶から脱し、 絶対的な安心感を獲得することができたのであった。

80頁

学生の皆さん>

これがひとつの 「宗教体験」 「回心体験」 です

====================

なおちなみに

伝統宗教教団のなかに生じた、 こうした体験を

清沢らのグループは当時、 「実験」 とよんでいたそうだ

碧海論文 76-77頁

コンドウ思うに、 「じっけん」 でなく 「じつげん」 と読むべきだろう

「実際の験 (げん)」! ということなんだろう

当時の言い方としては 他にも

「内心の経験」 というのがあったそうだ (82頁)

====================

碧海さん自身は、 こうした 《体験》 の概念化として

  • 「宗教的体験」 「宗教体験」 (84, 89, 92, 94, 95頁)
  • 「信仰体験」  (78, 82, 89, 93, 96頁)

という表現を 一番おおく用いている

前者は いくらかディタッチトな表現で

後者は いくらかコミッティドな表現であろうか

その他の表現としては

  • 「回心の経験」 (80頁) 
  • 「救済体験」 (86, 89頁)
  • 「回心体験」 (87頁)

微妙に毛色のちがうところでは

  • 「仏教体験」 (89頁)

というのもある

いずれにせよ、 碧海さんは

これらの概念を区別して使ってはいないようだ

哲学的な表現では

「救済的な体験の普遍性」 (89頁) ――

あるいは、 宗教哲学/形而上学的な表現では

「至高存在の体験」 (96頁) ――

もうちょっとわかりやすい表現では

「人生上の苦難から信仰を得て安心を確立するまでの体験」 (92頁) ――

これが 碧海さんの概念化の要諦なんだろう

2010年1月22日 (金)

【研究会】 カルト問題をどう教えるか

標記研究会にて 簡単な発表をさせていただきます

授業で 《カルト》 をどう教えるか――

櫻井先生や弓山先生という その道の大家とご一緒して

私自身がやってきた ささやかな実例を 紹介させていただきます

参加の資格や手続き等について 分かり次第

こちらのブログでフォローアップさせていただきます

====================

第2回宗教文化の授業研究会
テーマ 「カルト問題をどう教えるか」

日時: 2010年2月28日(日) 13時~

場所: 国学院大学学術メディアセンター5階会議室06

発表:
◆ 櫻井義秀 「カルト問題の幅と深さ ― 受講者・科目の特徴に応じて柔軟に」
◆ 弓山達也 「カルト問題にどう対応するか ― 学生の相談に接して」
◆ 近藤光博 「カルト問題をどう教えるか ― ひとつの実践の報告」

一人につき発表30~40分、討議30分くらい

====================

2009年12月 1日 (火)

Strange Fruit @ Billie Holiday

映画を教材にしている授業 ――

今日は二本をとり上げたが、 そのうちのひとつが

  • 「マルコムⅩ」 (スパイク・リー, 1992年)

だった

発表担当の学生さんが センスあふれることに

ビリー・ホリデイのストレインジ・フルーツを

紹介してくれた

画面が動くのもあったが、 これがよかった

2009年11月22日 (日)

ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンのカッワーリー

授業中、 「踊念仏」 の話題になって

その説明を おじさんが時宗の僧侶であるという

なかなかお目にかかれない学生さんが

一生懸命してくれました

一通り 説明が終わると、 別の学生さんから

スーフィズムなんかと 同じような感じですかね

と 質問とも感想ともつかない発言

比較宗教論的には これはとても面白いポイントだが

(発達した年代も なぜか 似ている!)

それだけを追究しつづけるわけにもいかず

これまた簡単な説明と見方、 それから

南アジアの事例として 「カッワーリー」 を紹介した

そして

ブログに そのスーパーな唄い手の動画を あげとくよ

と 約束しました

====================

ということで・・・

これが!

ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンのカッワーリー です!

チョビヒゲの 茶色っぽい服を着た

巨漢の男が ヌスラト です

コンサート・ホールの舞台上で

着席の大観衆の前でやる―― それも まぁありますが

こんなこじんまりとした場所で 皆で

ギュウギュウ詰めで 汗かきまくって 踊って・・・ というのが

僕らなんかからすると いかにもなカッワーリーです

あと 聖者廟の大理石の床石の上 とかね

ちなみに 上の動画は ヨーロッパのようです

現地のパキスタン・コミュニティか パンジャーブ・コミュニティが

招聘したんだろうか、、、 と想像します

ところで・・・ 上の動画

終わり方が バッツリ 突然終わっちゃうのが残念です

カッワーリーは ノンストップで 何時間もつづきますから

まぁ こういう編集になっちゃうんでしょう

2009年11月18日 (水)

統一教会の犯罪認定

久しぶりの 「連載 宗教学こぼれ話」 への投稿です

前の連続エントリもまだ 完結していないというのに (汗)

====================

ある授業で いわゆる 「カルト」 の話をしている

いろいろ説明し終わったら 学生さんが一言

なるほど 「カルト」 って 詐欺商法とかもやるんですね

これには ちょっとアセッた

いやいやいや それこそが 中心的な問題のひとつなんだよ

授業内で配布した資料では

  • オウム
  • マンソン・ファミリー
  • 聖神中央教会

などがとり上げられていて、 説明もそちらに偏りがちなせいだろう

殺人、 傷害、 ドラッグ、 人権侵害、 性的暴行・・・ などに

どうしても注意がむかってしまって

おそらくは 件数的には格段に多いであろう 金銭被害、 および

それに伴う 家庭内・親族間の問題が どうもうまく

印象づけられなかったようだ

このテーマの講義は さまざまな気遣いが必要で難しいなぁ、 と

ひとしきり 反省

====================

ということで・・・

誰もが知っていたのに 十分には断罪されてこなかった 「霊感商法」!

統一教会主導の詐欺商法に はじめて懲役刑が出された

という、 きわめて重大なニュースを紹介します

正確には 詐欺罪はまだ適用されたことがありません・・・

法律用語ではなく 日常用語の 「サギ」 です

「それって サギじゃん」 の 「サギ」 です

紹介は あえて 日本共産党機関紙 『赤旗』 より

これはもちろん、 統一教会と同党が

(最近は いろんな動きがあるのかもしれませんが)

対立というのをはるかに超えた、 怨讐といってもいいほどの関係

にあるからです

下に記事を切り貼りしておきます

その他の媒体での報道は こちらを参照してください

なお、 『赤旗』 は 「統一協会」 と書きますが

教団側は 「統一教会」 と書きます

正式名称が 「世界基督教統一神霊協会」 で

「協会」 なわけですが、 「教会」 なんかじゃない

こんなの 「協会」 だよ、 という批判側と

私たち立派な 「教会」 です、 という協会側――

つばぜり合いがあるわけですね

====================

そして二番目に テレビでもおなじみの 紀藤正樹弁護士

そのブログ記事も 紹介しておきます

  警察によるさらなる徹底捜査を希望する!「統一教会はなぜ霊感商法との関わりを否定する!」

紀藤さんは 「全国霊感商法対策弁護士連絡会」

主要メンバーのお一人でもあります

====================

<以下、 『赤旗』 からの記事転載につづく>

続きを読む "統一教会の犯罪認定" »

2009年8月23日 (日)

童話と神話 (2/3)

前便は こちら

====================

すっかり間が開いてしまったが、 前便にて

現代日本における 《宗教的なもの》 を考えるとき

なぜ 《神話と童話》 は 直結し同一化するのか?

《神話=童話》 の特質とは何か?

と書いて、 稿を閉じた

なんとも大きなことを書き散らかしたものだ

これだけでも もぉ、 一冊どころか数冊の本が書けそうだ

まぁ この方面の専門家ではないということで

開き直って 自分が気になるポイントだけ 走り書きしてみよう

====================

問題はおそらく単純で

やわらかなまとまりとつながりで いまここにいきる

人間にはそのようなモードが もうすでに備わっているのだ

中沢新一先生のようなヴィジョナリーは、 それを

人間の脳の仕組みからの直接の、 不可避の様態とみなすが

全てのひとが それを認めるとはかぎらない。 それはむしろ

《前近代》 あるいは 《原始》 の遺物

《子ども》 や 《女性》 や 《余暇》 にだけゆるされる余儀

などとみなされることが少なくない

そのようにして 《世俗的近代》 の市民生活を形づくるわけだ

神話や童話は 《世俗的近代》 の いわばゴミ捨て場だ

そこには、 性や暴力、 転倒や越境、 拡散と凝集などが

ぎっしりと詰まっていて、 相かわらず グリングリンと息づいている

現代日本も含みこむ 《世俗的近代のアーキテクチャ》 とは

そのようなものになっている、 と言えそうだ

童話も神話も、 マンガも小説も、 性も暴力も

そうしたもののなかで あるひとつの力場を形づくっているのだろう

====================

では、 《神話=童話》 は 《宗教》 とどう関係するか・・・?

これまた、 簡単に言ってしまったほうがよいだろう

《世俗的近代のアーキテクチャ》 において

これらは 同じ穴の狢 として範疇づけられ、 位置づけられ

構造化され、 言説化されている――

僕にはそう視えるのだが・・・ どんなもんだろうか・・・

<つづく>

2009年7月 5日 (日)

童話と神話 (1/3)

授業をやっていると 思わぬところで

受講者の心を 傷付けることがある

「波立たせる」 ぐらいだったら、 むしろ願ったりなのだが

「傷付ける」 になってくると、 ちょっとさすがに 反省させられる

とくに、 僕が理解するところの 《宗教論》 は

人間の狂気や 「影」 に根ざしていないとどうしようもないものだから

(もっと穏当な、 「市民的秩序にかなった」 宗教論もあるだろうが・・・)

(そのようなものは、 僕の得意とする 宗教論 ではないものだから・・・)

不用意に発言すると、 思わぬ反応を呼びおこす

そうすると 僕は、、、 とても反省して、 少々落ち込むことになる

「かわいそうなこと しちゃったなぁ・・・」 とか

「失礼なこと しちゃったなぁ・・・」 とか

====================

先日の授業で、 まさに そういうことが起こった

《童話と神話》 というテーマに触れたときのことである

現代日本で (その他の 「先進国」 都市社会においてもそうだが)

《神話》 というジャンルが 自律的に存在することはむずかしい

そういう時空間で、 では、 《神話的想像力》 が消失したかといえば

もちろん 決してそんなことはなく

むしろ それは きわめてさかんに活性化し、 発露している

その代表格が 「文学」 「音楽」 「漫画」 などの 「芸術」 であり

僕ら以降の世代になじみ深いところでは、 「アニメ」 がある

「アニメ」 にも まぁ いろいろあるわけだが

《神話的想像力》 を意図的に、 直接的に 召還するものとして

ジブリディズニー がある

この二つの会社の作品における 《神話的想像力》 の起動――

これだけでも、 ちょっとしたエッセイぐらい書けそうだが

さらに もう一つの要素を 急いで付け加えないわけにはいかない

それは、この二つの会社が 「子ども」 のための映画を作っていることだ

すなわち、 「童話」 !

《神話と童話》 というテーマは、 二つの会社の製作過程において

意図的かつ明示的に 根本的な推進力になっている/されている――

このことに気づくのは、 宗教学への入門として まったく適している

====================

なぜ 《神話と童話》 は 直結し同一化するのか?

童話という まったく 「近代的な」 ジャンルはなぜ しばしば神話的なのか?

現代の神話はなぜ 童話というジャンルにおいて花開くのか?

そして

《童話=神話》 とは何か?

《神話=童話》 の特質とは何か?

<つづく>

====================

【メモ】

《宗教と芸術》 というテーマで 一年の講義かゼミをやってみたい――

以前から そう公言してきた

しかし、 これがなかなか難しい・・・

よい参考書がない! からだ

誰かご存知の方、、、 教えていただけませんでしょうか m(_ _)m

しかしそれにしても・・・

《宗教と芸術》 って、、、 ここでもまた 中沢先生が、、、

<連載 中沢新一論> は こちら

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

Twitter


読書メーター

  • mittskoの今読んでる本
  • mittskoの最近読んだ本

鑑賞メーター

  • 最近観たビデオ
    mittskoの最近観たビデオ
2021年10月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

イーココロ

無料ブログはココログ