カテゴリー「02B 《神秘のインド》 という表象」の記事

2016年6月 7日 (火)

近現代の日印文化交流 ― タゴールと遠藤周作 ―

去る2016年6月4日、 青山学院大学で

「近現代の日印文化交流 ―タゴールと遠藤周作―」

という発表をさせていただきました

全国大学国語国文学会の 60周年記念大会 (第113回大会・平成28年度夏季大会)

60周年記念パネルディスカッション 「日本とインドを結ぶ―交流の過去・現在・未来―」
の二人目の登壇者として、です

当日お示ししたパワポ資料を お約束どおり、アップいたします

こちら ↓ よりダウンロードしていただけます(=゚ω゚)ノ


なお、この発表は論文にするお約束となっております

2014年10月 9日 (木)

「ヒンドゥー」の概念史

以前、 「ヒンドゥー教概念の誕生」 なんていうエントリを書きました

その続報になりますかね、こんな短文を書いてみました

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 インド亜大陸にはかねてから、多種多様な、ほとんど無数といってよいほどの慣習や伝統が自生してきた。しかし、その全体を包括してあらわす一単語は、ながらく存在しなかった。まさにそのような一語として、「ヒンドゥー」という語をわだかまりなく通用させることのできる現代人の感覚からすれば、これは意外なことかもしれない。「ヒンドゥー」という語が、包括的、統合的、かつ超歴史的な概念(とくに慣習・伝統・文化のカテゴリー)として成立してくるのには、千年単位のながい期間がかかっている。それは、劇的な断絶をともなわない連続的な変化であった。


 かいつまんでいえば、「ヒンドゥー」の概念史は次のような歴史絵図としてしめすことができる――


  1.  古代ペルシアで「ヒンドゥー」という語が地誌的な概念としてうまれ


  2.  当のインドで、4世紀から6世紀あたり、のちに「ヒンドゥー」という言葉に充填されることになる文化的な諸要素が標準的なワンセットとして大方とりそろい


  3.  11世紀以降、そうしたセットがゆるやかに「ヒンドゥー」という語で包摂されはじめ


  4.  13世紀から15世紀あたりをさかいに、その傾向が明確になるとともに、かなり広範囲におよび


  5.  18世紀前半、イギリス植民地支配がはじまる直前にはもう、「ヒンドゥー」という名詞はかなり一般化し、同時にインド住民の大きな部分(現代であれば迷いなく「ヒンドゥー」と自称もし他称もされるだろう人たち)のアイデンティティの一部をにないうる概念になっていた。


  6.  そして19世紀初頭、ヨーロッパ、とくにイギリスの知識人たちにより、「ヒンドゥー」という語があらたに定式化され、現在通用しているような概念カテゴリーとなった(ヒンドゥー・イズムというヨーロッパ諸語の概念もここから生まれている)。


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2013年4月25日 (木)

現代インドの religion 概念をめぐる言説空間 (仮説)

これはメモです

仮説を思いついたので、文字通りの「備忘録」です

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特定の語が、日常的な用法にまで拡散していくとき

(その語の 権力的=言説論的配備が 上々にすすんだとき)

その(再)定義は かなり困難になる

こういう場合、形式的な整理をおこなうのが有効だ

すなわち、 《原義・狭義・広義・比喩的用法》 という四つに

拡散し乱反射する作用体としての、特定概念の意味内容を附分けする――

これがとっても有効だ

(と、ボクは発見したけど きっと何かの教科書にはもうすでに書いてあるんだろう)

==========

まずは 「原義」 を確定すると、見通しはつけやすかろう

これも、形式的に引き出される智恵だ

例えば…

現代日本の「宗教」概念の「原義」は、「宗教法人法の前文」に対応した観念である

これがボクの研究成果だ

【130426追記】

現代日本の「宗教」概念の「原義」として もうひとつ

  • 世界各地域における諸伝統としての諸宗教(宗教分類学)

というのも加えたい

すなわち、現代日本語の「宗教」は いわば二つの核をもつのだ

==========

南アジア地域研究者のはずのボクが 何故日本のことなんかをやっているか…

それは、南アジア(とくにインド)の religion 概念をめぐる言説空間が

とにかく複雑すぎて ボクの手には負えない、

まずは 扱い慣れた日本語で、宗教概念をめぐる言説空間をとらえてみよう…

こういう研究デザインによっていたわけです

==========

そうこうしているうちに、早4年!

そろそろ、現代インドの religion 概念をめぐる言説空間 に手をつけてみようか…

ということで 考えてみました――

現代インドの religion 概念(英語)の「狭義」は…

  • Census(国勢調査)における調査項目のひとつとしての Religion
  • 西洋のオリエンタリズムにおける Spirituality; Meditational

という二つに対応する観念である…

====================

以上、備忘録でした

2010年3月16日 (火)

タントラとヨガ、 東洋哲学・魔法・錬金術

前便 「《神秘の東洋》、あるいはラジニーシ、マハリシ、瞑想、 タントラ、 スーフィー、チベット」 より つづく

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著者 ヒュー・ミルン氏 が 《神秘のインド》 といかにして出会ったか――

連投してきたこのテーマの記事

本便は そのエピローグになります

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 詩人、 芸術家、 性の錬金術師、 官能の自由思想家、 大魔術師、 宮廷の道化師といった性質を兼ねそなえた者としてバグワンは登場した。 それに疑いようもなく史上最高の賢者の一人といってよかった。 彼は無限を約束してくれる人、 世界の内なる世界、 知識を超えた知識をほのめかす者だった。 この人物には絶対会わなければならないと決心するまでに、 そう時間はかからなかった。

40頁

翌年の1973年、 ミルン氏はボンベイへと渡り

ラジニーシのもとに弟子入りし

コミューンの中核メンバーとなり

1981年、 師の側近としてアメリカに渡るが

「秘書」に牛耳られたコミューンの体制に反発し

翌82年、 運動から離れることになる

 ヨガを教えるグルはその教えどおり独身を貫いて苦行しなければならないが、 タントラのグルは、 もっと刺激的な教えを身をもって自由に教えることができる。 だが、 いかなる師といえども弟子になんでも要求できるわけではなく、 そこには人道上、 法律上、 また弟子を思いやる上での制限がある。 ラジニーシはそのすべてを踏みにじってしまったのだ。 もしそれがなんらかの霊的な教えであるとしたら、 それは悪いお手本だった。

439頁

====================

最後に ミルン氏によるタントラ解説を紹介する

そこには 《神秘のインド》 表象の一側面が

とてもくっきりと浮き出ているからです

それはいうなれば 《神秘のインド》 表象に対して

とくに強い強度で与えられた内容のようなもの、 と言えます

以下引用

[…] タントラはインドの神秘主義においてヨガに取って代ってあらわれた教えで、 この両者は多くの点で正反対の性格を持つ。 ヨガ (「合わせること」 「つなげること」 を意味する) は放棄の道を説くが、 タントラはあらゆる種類の耽溺を奨励する。 もっともその耽溺は自覚を保ちながら為されなければならないが。

 それまでも私は数年にわたって真理探究の努力をしてきたし、 東洋哲学に対する興味は増しこそすれ衰えることはなかったが、 どういうわけかヨガについて魅力を感じたことは一度もなく、 ヨガをやっている人にも興味が持てなかった。 ヨガの体位とかそういった身体的な側面だけではなく、 身体をねじまげたりすることにともなう心の姿勢が肌に合わなかったのだ。

 ヨガをやるのは、 マクロビオティック (自然食養生法) の信奉者にでもなりそうな、 過敏で貧血気味の人なんじゃないかと私は感じていた。 ヨガをやっていて本当に健康そうな人にそれまで会ったことがなかったのだ。 頬がこけて青白く、 元気を出すのは苦行をしているときだけ、 といった内省的なタイプの人がほとんどだった。

42頁

 それにひきかえ、 バグワンが紹介するタントラはまったく異なったアプローチによって人を悟りへ、 自己超越へと導いていく。 タントラ行者が唱道する性的苦行は禁欲ではなくセックスの中にトータルに没入することによって成し遂げられる。 […]

42-43頁

 タントラは、 本来汚いものはない、 善悪の性質を本質的にそなえたものは存在しないと説く。 このことを理解していたシェークスピアはこう言っている。 「考えるからそうなるのだ」 と。 人があるものを善と考え、 悪と考え、 あるいは道徳的、 不道徳的と考えるのは、 その人自身の心の姿勢にかかっている。 性行為そのものは本来よくも悪くもない中立的なものだが、 私たちはそこに肯定的ないし否定的な意味を投影するのである。 しかしタントラはただ単にセックスを通してセックスを越えた地点に人を連れていくだけのものではない。 タントラの重要な点は、 人々をその強固な条件づけから解放することにある。 タントラの究極のゴールは、 精神的/霊的な明燈性、 自分のエゴをより大きな意識の中に消滅させること、 全体性、 永遠、 空性、 至福の存在状態の中への自己の消滅である。 キリストの生まれる五百年前、 仏陀はこの空間のことを 「サマーディ」 「もはや何者の存在しない超越の超越」 と呼び、 イエスはこの同じ意識状態のことを 「神の王国」 と呼んだ。

 バグワンはそれを 「光明 enlightenment」 と呼ぶ。 彼はみずから、 二十一歳の時に光明を得たと言い、 地上で同じ時代に同じ意識状態に到達できるのは八~九人しかいないと言う。 彼は自分自身が特例であることを明確にするために、 さらにこう宣言する。 おそらく他にも九人の悟った者が存在するだろうが、 ある一定の時代に損zないする悟りを開いたマスターはただ一人しかおらず、 自分こそはその一人である、 と。

43-44頁

 今からふり返ってみて、 こうしたセッション [プネーにあったラジニーシのコミューンにおけるタントラ・セッション] を猥せつきわまりない有害無益なものと批判することは容易である。 しかし私の知るかぎり、 誰もいやな思い出を持っていないようだ。 運動の初期の頃は家族のような一体感があったし、 みんなバグワンを心の底から愛していた。 骨折や、 もっとひどい怪我をした者でさえセッションを恨んだりしなかったし、 ましてやこの組織を訴えようとする者などいなかった。 セッションは常に明るく前向きな姿勢が感じられ、 魂の探求が真剣に行われていた。 私たちにとってセッションは魔法か錬金術のようだった。 自分自身の内面的な問題、 恐怖、 抑圧と取り組んでいるという実感があったのだ。

46頁: 引用おわり

====================

非常に長い連投になってしまいました

お付き合い ありがとうございました

<この連投 おわり>

2010年3月15日 (月)

《神秘の東洋》、あるいはラジニーシ、マハリシ、瞑想、 タントラ、 スーフィー、チベット

前便 「ラム・ダス 『ビー・ヒア・ナウ』 (原1971年)」 より つづく

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著者 ヒュー・ミルン氏 が 《神秘のインド》 といかにして出会ったか――

この問いには すでに 前便 までの連続記事で

あらかた答えてしまったように思います

1938年生まれのミルン氏は

シュタイナー学校に通い

カレッジでニューエイジ/ヒッピー運動の洗礼を受け

就職後しばらくして さらにその道を突き進み

『ビー・ヒア・ナウ』 からラジニーシという

いわば 《神秘のインド》 グループとしての王道を進んだ

ということができると思います

本便では、 氏とラジニーシとの出会いを紹介しますが

《神秘のインド》 表象という観点からしますと

むしろ それは最後の仕上げといったものになりましょう

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 そんなるとき、 友人のビルが瞑想をやってみないかと誘ってきた。 疑い深いスコットランド人として育った私にはちょっと抵抗があった。 以前に心霊学とか水晶占いだとかインドのファキールといったオカルト運動を覗いてみたことはあったが、 いずれもうさん臭いものだったからだ。 しかしビルの誘いはしつこかった。

36頁

ミルン氏は 《インド》 を 無条件に賛揚していたのではない

そのことが この段落からわかる

その前には使われていなかった 「オカルト」 という語も

そのことを指示していると見てよいかもしれない

ともあれ、 ミルン氏は 「ビル」 の押しに負けた

と言っても、 そのお誘いは翌日の朝におこなわれる

「ダイナミック瞑想」 のセッションへの参加

ということだったのだから、 ミルン氏の抵抗も

さほど長い期間 つづいたものだったわけではない

翌朝、 参加者十名が 建物の二階に入ると

「ヴィーナ」 と名のる女性がいた

ビルは説明した

「彼女はボンベイからもどったばかりでね、 バグワンという男から世界最初の瞑想センターを作れという命令を受けているんだ。 ヴィーナの首飾りに彼の写真がぶら下がっているから見てごらんよ」

ミルン氏の第一印象――

 彼の写真に目を向ける。 ビートルズが一時期ついていたマハリシにそっくりだなというのが私の第一印象だ。 穏やかないい顔をしているじゃないか。 もじゃもじゃの髭の中でモナリザみたいに微笑んでいる。 でも、 僕はほんとに朝一番からこんなことをしたいのだろうか。 ちゃんと瞑想するためには朝五時に起きなければいけないとヴィーナは言う。 やれやれ。 でもヴィーナってかわいいよ、 すごくかわいい。 それにあの薄いローブの下のお尻はとてもセクシーだ。

37頁

瞑想セッションがはじまった

ラジニーシの場合、 瞑想といっても かなり激しい

過換気呼吸、 感情発散などのステージがある

それらが終わると、 ラジニーシの講話がカセットで流される

[…] 最後にヴィーナは線香に火を点けた。 立ちのぼる煙が部屋の空気の中で渦を巻いた。 これから仕事にでかけるおだろう。 何人かが立ち上がり、 静かに会釈してカーテンの向こうに消えていった。

 何もかもが神秘的な雰囲気に包まれていた。

38頁

ここで いよいよ 「神秘的」 という語が登場する

肯定的なニュアンスが そこには含まされている

とみて 間違いなかろう

ミルン氏の最初のセッションはこうして終わった

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 早朝の瞑想をつづけていくにつれて、 すべてのことがシンクロしているような、 歩調を合わせているような感じが強まってきた。 カセットでバグワンがタントラという古代の哲学について語るのを聴いたのと同じ頃、 ロンドンのサウス・バンクのヘイワード・ギャラリーでタントラ美術の大展覧会が開かれた。 展覧会にでかけて私はなつかしさで一杯になった。 自分がこのような美術を創りだした人々に属する人間であるかのように感じられた。 それからウェスト・エンド・シアターでスーフィーの旋回舞踏の公演が行われた。 それは非常に優美で霊感に満ちており、 私に何か重要なことを語りかけているようでもあった。

 その頃、 ネヴィルという謎の男にも会った。 彼はチベットから骨董品の絨毯をラバの荷車でひそかに持ちだすことに情熱を傾けているようだった。

「街の連中がオフィスで一日をどのように過ごしているかなんて興味ないな」 と彼は私に語った。

「あんたがラクダを連れてサハラ砂漠を横断したら、 話を聞いてみたいがね。 さもなきゃ黙っている方がましさ」

38-39頁

こうした文化情況を ミルン氏は

人々が神秘の東洋を再発見して興奮していた (39頁)

と表現している

話題は 当時同時に進行していた 《性の自由化》 にうつる

《神秘のインド》 表象を追いかけている本連載にとっても

その動きは大切だが

(なぜなら、 その二つは欧米で密接につながっていたから)

今回はメモ書き程度にしておこうと思う

<つづく>

2010年3月14日 (日)

ラム・ダス 『ビー・ヒア・ナウ』 (原1971年)

前便 「1970年代 ロンドンのさまざまなセラピー・グループ」 より つづく

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著者 ヒュー・ミルン氏 が 《神秘のインド》 といかにして出会ったか――

ずいぶんな連投になって ご関心のない方には無遠慮だが

いよいよ物語も佳境に入ってきました

もう少し お付き合いをお願いいたします

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1972年12月ごろの話であるそうだ

 その頃、 私はリチャード・アルパートという人の手になる一冊の本と出会った。 彼はニームカロリ・ババと呼ばれるインド人グルの弟子になり、 自分の名前をラム・ダスと変え、 私の考えにぴったりくるような生き方を唱道していた。 『ビー・ヒア・ナウ』 というその本は、 戦争、 浪費、 残忍性の不毛を説き、 内なる平和を得るための探求の旅について語っていた。 一九七〇年前半の大ベストセラーになった本だ。 […]

35頁

段落の途中だが 『ビー・ヒア・ナウ』 について

ヒッピー文化のなかで とにかくよく読まれた本

原著は Remember Be Here Now  1971年初版

もともとはパンフレット形式で

1977年から あらためて書籍スタイルでの頒布がはじまった

 ※ 「ビー・ヒア・ナウ ラム・ダス」 で検索

 ※ 「リチャード・アルパート -LOST」 で検索 

たとえば 上のリンクから検索していただくと

本当にいろいろと面白い話が出てきます

《神秘のインド》 表象との関連でいえば

『ビー・ヒア・ナウ』 になると もはやそればっかりで

あまりにも豊富すぎて… といったことになってきます

現代日本で流通する 《神秘のインド》 表象の

明確な源泉のひとつはこれだ、 と特定できそうです

もちろん この本自体

より大きな 《神秘のインド》 表象の製作過程のなかに

あるわけですから、 むしろ それ自体で

一つの研究対象とみなすべきなんでしょうね

====================

さて、 先の引用のつづき です

[…] 私は他にもユングの本や、 ゲシュタルト、 サイコドラマのパイオニアたちの著作に接し、 エンカウンター・グループにも参加したりした。 この宇宙の秘密を一足飛びに知って、 すべてに片をつけたかった。 子供の頃スコットランドの山でかいま見たあの空間をもう一度経験したかった。 患者の悪いところがすぐわかる治療師としての経験のすべてが、 私を知への旅、 答えを求める度へと導きつつあった。

35-36頁

「そんなあるとき…」 と 次の段落につづきます

いよいよ ラジニーシのセッションに参加することになるわけです

====================

<つづく>

2010年3月13日 (土)

1970年代 ロンドンのさまざまなセラピー・グループ

前便 「1960年代後半 ロンドンのニューエイジャーたち」 より つづく

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著者 ヒュー・ミルン氏 が 《神秘のインド》 といかにして出会ったか――

1970年代 30代半ばになっていたミルン氏は

整骨医として 大きな成功をおさめていた

しかし、 彼は 根っからのニューエイジャーだった

 しかし順調な生活の中にも、 内なる声が私にささやきつづけていた―― だから、 どうなんだ。 おまえは一生をこんな調子で送りたいのか……。 私の心の無情なほど正直な部分は、 別の訓練法、 別の治療法、 人と触れあう別のやり方が存在することに気づいていたが、 私にはそれが何なのか、 どこで身につけられるのかわからなかった。 多くの友人たちがLSDなどのドラッグで体験しているような、 あの内なる空間、 心の平和、 超越的感覚を、 どうしたら見出すことができるだろう。 私のまわりでは、 誰もが瞑想やスーフィーの旋回舞踏 (デルウィーシュ) をしたり、 当時の大衆誌が 「集団愛撫」 と読んでいた、 カリフォルニア生まれのグループ・セラピーを受けたりしているようだった。 すべての根底にあるものを探しだそうと決心した私は、 それから一年半の間、 人間性心理学やエンカウンター・グループ等のありとあらゆる運動に参加した。

32-33頁

もちろん こうした実践が

ラジニーシのセッションへと彼を連れていくことになる

その経緯に触れる前に

 こうしたグループの運動は六十年代後半は盛んだったが、 現在 [原著刊行は1986年] では勢いを失い、 なくなってしまっているものもあるので、 ここで少しそれらについて説明しておこう

33頁

と述べ、 当時かかわったグループの様子を記す

具体的には

の四つのことが書かれている (33-34頁)

それはそれでとても面白い記録なのだが

《神秘のインド》 表象に 直接にはつなげられていない

ミルン氏がはっきりとそれに出会うのは

一冊の本を通じてであった

『ビー・ヒア・ナウ』

====================

<つづく>

2010年3月12日 (金)

1960年代後半 ロンドンのニューエイジャーたち

前便 「1950年代初頭 スコットランドのシュタイナー学校の思い出」 より つづく

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著者 ヒュー・ミルン氏 が 《神秘のインド》 といかにして出会ったか――

この本では 実は最初の出会いがはっきりしません

シュタイナー学校を途中退学し

地元の中学・高校に入りなおしたミルン氏は

大学には行かずに

「ロンドンの整骨医療のカレッジに入った」 そうです (29頁)

そのカレッジについての回想のなかで突然

《神秘のインド》 らしき表象があらわれます

 カレッジですごした数年間に、 私はクリシュナムルティやグルジェフなどの多くの精神的教師の教えに接することができた。 幸運なことにカレッジには何人か非凡な教師がいて、 通常の解剖学や病理学のクラスの間に形而上学の授業をはさんだりして私たちの視野を広げてくれた。 私より年上のあるクラスメイトは、 十年間クリシュナムルティを学んでいた。 当時から私は新しいものの考え方に接していたのだ。

30頁

「精神的」 と訳されているのは おそらく spiritual でしょう

「霊的」 と訳してもいいわけです

カレッジの教師は 「形而上学」 の話をしたようですが

文脈上 そこにはインド哲学も大幅に取り入れられていた

と見て そんなに大きな間違いはないでしょう

つまり、 ここでの関心にとって重要なのは

当時 教師の年齢に達していた人たち

察するに 20世紀前半に生まれたのであろう人たちが

すでに 《神秘のインド》 の導入者として存在していたということ

当時 「正当な医療とは認められていなかった」 整骨であればこそ

なのか、 ともあれ そのような年長者が

ロンドンの整骨カレッジで 《神秘のインド》 を

学生たちに伝授していた、 という事実です

====================

年長のクラスメイトの話が 上の段落に出てきていますが

その他にも カレッジの友人に ミルン氏は大きな影響を

与えられた模様です (30-31頁)

「菜食主義レストラン」 「スーフィーをやっている者」

「LSD」 そして 「ストライキ」 「学生革命」 ――

こうした “若者の季節” のなかのロンドンに

《神秘のインド》 表象は しっかり場を保っていたようです

====================

その後 ミルン氏は整骨医として 若くして成功をおさめます

その 「順調な生活の中」 (32頁)

いよいよ ラジニーシに出会うことになります

<つづく>

2010年3月11日 (木)

1950年代初頭 スコットランドのシュタイナー学校の思い出

前便 「ラジニーシがあらわれる1960年代末のイギリスという舞台」 より つづく

====================

著者 ヒュー・ミルン氏 が 《神秘のインド》 といかにして出会ったか――

そういう話をしております

まず目につくのは 「シュタイナー学校」 です

ミルン氏は 一時期 両親に通わされていたそうです (27-29頁)

「シュタイナー インド 神秘」 で検索してみれば わかるように

この学校で 氏が 《神秘のインド》 と出会ってもおかしくはない

と、 想像されるわけですが

氏自身の回想には そのような出会いには一切触れられていません

むしろ教師の人格や 自分の成績といった

ありふれた学校生活の思い出が 書き記されます

ただ 次のような一段落は 目をひきます

 子供のころの私は、 自分が丘に住む賢者とか哲学者とか聖人になっている、 なんとも不可解な夢をよく見た。 おそらくこれは、 インド人が言うような前世の記憶なのかもしれない。 あるいは私がこの世で一番なりたいと望むことだったのだろう。 十三歳のとき、 私は学校の作文で、 大きくなったら哲学者になりたいと書いたことがある。 同級生のほとんどは、 運転手になりたいとか近衛兵になりたいとか書いていた。 担任の先生は私の作文を教室でみんなに読んで聞かせ、 同僚たち [ママ: 同級生たち?] にも見せた。 作文は好意的な評価を得た。 なんだかとても妙な気分だったのを覚えている。 まるで自分の心の秘密がとうとう明るみに出されたような感じがした。 厳密なスコットランド地方では、 哲学者になりたいなどというのはとても恥かしいことだった。 たがて私は治療師になったが、 その後の私の真理探究において重要な役割を演じることになるのがラジニーシだった。

28頁

シュタイナー学校が 非明示的にであれ

ミルン氏の哲学志向を刺激し涵養したのかもしれない

シュタイナーが 《インドの神秘》 からは 最終的に

距離をおくことになったのを勘案すれば

むしろこのような生徒こそが その学校にはふさわしい

のかもしれない

いずれにせよ、 ミルン氏はこの時点ではまだ

《神秘のインド》 に それとしては出会っていない

====================

<つづく>

2010年3月10日 (水)

ラジニーシがあらわれる1960年代末のイギリスという舞台

前便 「ラジニーシから入り やがて抜け出る 《神秘のインド》」 にて紹介した本

前便 では 訳者の 鴫沢立也さん

ラジニーシとの出会い、 《神秘のインド》 との出会い

そして別れについて紹介したので

本便では 著者 ヒュー・ミルンさん の場合をば――

====================

まずは端的に、 当時の時代状況の回想

 なぜこの男とその教えが、 私や、 のちには数千の西洋人にこれほどまでの大きな影響を与えることになったのだろう。 その答えの一部は、 六十年代後半から七十年代前半にかけて世の中を覆っていた性的および社会的風潮に見出せるのではないだろうか。 フリーセックスの教義を引っさげてバグワン・シュリ・ラジニーシが登場したのは、 多くの若者たちが社会を抑圧的で自己中心的、 うつろで時代遅れのものとみなし、 その制約を振り捨てようとしていた時代だった。 当時は、 自由を求めるさまざまな声がいたるところで沸き起こっていた。 誰もが自分を自由に表現しようと欲し、 親や祖父の世代から踏襲されたものではない、 自分の気持にぴったりくるライフ・スタイルを捜していた。 若者だった私たちは、 感情を自由に発散させることのできる機会を求めていた。 感情を押し殺すのではなく、 不安と恐怖の拘束衣から開放されたかった。 六十年代風の言い方をすれば、 「気ままにやろうぜ」 ということだ。

22-23頁

よく知られたカウンターカルチャー運動の風潮を

一スコットランド人が 想起しつつ書き記したものである

この回想の中にはまだ 《神秘のインド》 表象は登場していない

「自由」 とか 「解放」 とか、 そちらが前景化している

23頁から 己のこととして赤裸々に強調されるのは

「性の自由」 (23頁) ということだ

「人生の目的や意味を探求しようという欲求」 とともに

「初期の女性信者たち」 が

「若くて魅力にあふれ、 実に挑発的な服装をしていた」 こと

これが 何としても魅力だった、 というのである

ここに わずかに 《インド》 という表象があらわれる

バグワンがインド人であり、 セックスや裸にやかましい国でフリーセックスを説いているという事実が、 たしかに魅力の中核にあった。 […] ここにいる人物は権威をもってこう語る。 苦行などするな、 自分自身を否定してはいけない。 覚醒した意識をもって行うかぎり、 性への耽溺と快楽の充足は悟りに至る道となりうる。 性の快楽を通して人は真の精神的超越を実現することができるのだ、 と。

23-24頁

ここでの 《インドの神秘》 とは

「真の精神的超越を実現することができる」 道を

示してくれるものだということだが、 それだけではない

「セックスや裸にやかましい国」 ではない、 ということ

そこと連続している

そのようなものとしての 《神秘のインド》 であった――

====================

さらに著者 ミルン氏は

「バグワン自身の個性とカリスマ」 に言及している

とてつもない彼の魅力、 その影響力に無感動でいられる人はほとんどいなかった

24頁

それはたしかに重要なことであったろう

しかし、 《神秘のインド》 表象の問題でもあるまい

ラジニーシと出会う以前のミルン氏、 そして氏をとりまく環境――

このあたりを あらためて見てみる必要がある

<つづく>

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