カテゴリー「01F 藝術の宗教学 改め Economimesis R&D」の記事

2016年7月29日 (金)

【シンポジウム】 「宗教」をものがたる - 宗教/文学研究のいま -

第2回「宗教・イメージ・想像力」研究会として、こんなシンポジウムやります。

ご参加希望の方、どうぞお気軽に連絡くださいませ。

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【シンポジウム】 「宗教」をものがたる-宗教/文学研究のいま-

◆ 2016年8月7日(日)13時半から17時半ごろまで
  (時間帯が多少前後するかもしれません)

◆ 日本女子大学 目白キャンパス 百年館

◆ 発表者
  • 13:30-14:10 大澤絢子(東京工業大学大学院)「新聞小説と親鸞像--石丸梧平から吉川英治へ--」 ※ 石丸梧平の新聞小説をめぐって
  • 14:10-14:50 飯島孝良(東京大学大学院)「「メディアとしての一休「像」とその禅文化史的意義」」 ※ 水上勉『一休』、唐木順三「しん女語りぐさ」、加藤周一「狂雲森春雨」、『別冊太陽 一休』などをめぐって
      <休憩>
  • 15:10-15:50 橋迫瑞穂(立教大学)「ポピュラー小説にみられる宗教/スピリチュアル的「世界」観ーー恩田陸『夢違』を事例に」 ※ 恩田陸『夢違』をめぐって
  • 15:50-16:30 茂木謙之介(東京大学大学院)「〈幻想〉の宗教学―雑誌『幻想文学』研究序説―」 ※『幻想文学』をめぐって
◆ コメンテータ 中西恭子(東京大学)

◆ 主旨 (文責:茂木)

 この企画は、「宗教と社会」学会 第24回学術大会でのテーマセッション「物語を読む、宗教を読む―宗教/文学研究の架橋のために―」(代表者:橋迫瑞穂)のフォローアップ企画です

 本シンポジウムの目的は、近現代の諸メディアの分析を通して、「宗教文学」を問い、宗教研究と文学研究の架橋を図ることにある。

 これまで宗教研究では、フィクションと宗教を問う際に、文学テクストに内在する〈宗教〉的モチーフの検討が多くなされてきた。だが、そこで扱われる〈宗教〉的モチーフとはいかなるものかについては曖昧な議論がまま見受けられ、文学テクストを扱うに際してのメディア論的な見地からの検討も十分になされてきたとは言いがたい。一方で、文学研究における「宗教文学」研究においては、特に特定の宗教への信仰を語る主体を対象とするような作家論的研究が多くを占めていると言える。

 過去二十年以上にわたり、人文諸学においては自らの学問領野の自明性・自律性を問い直す試みが行われてきた。宗教研究においては、〈宗教〉概念が俎上に載せられ、分析概念の相対化が図られてきたことは周知の通りであり、また文学研究においても、〈文学〉なるものの範囲、正典(カノン)としての〈名作〉の特権性、そしてロラン・バルト以降の作者の優位性をそれぞれ問い直す動向が生起している。だが、そのように自らの研究領野へ批判的なまなざしを向ける一方で、周辺領野の研究に関して相対化は十分に図られてきていないのではないだろうか。言うなれば物語と宗教の関わりをめぐって、宗教研究と文学研究は、互いの研究領野における学問的達成への目配りが成立しているとは言いがたく、積極的な架橋が望まれているのである。

 以上の問題意識から、本シンポジウムでは、作家論的研究を乗り越えることを一つの課題とし、宗教研究及び文学研究で共に研究領野の相対化に資しているメディアへの注目を一つの視座として検討を行う。なお、メディアはイエ、教育とならび、大衆の宗教へのアクセスの仕方として想定可能である。特に大衆が宗教性に巻き込まれる、あるいは大衆を宗教性に巻き込むといった事態を想定した際、メディアを分析する意義はきわめて大きい。これを見ることによって端的に文学の正典に寄り添うだけにとどまらない「宗教/文学」研究の可能性を探ることができるのではないだろうか。

 大正期の新聞小説における親鸞の検討を行う大澤絢子、および戦後諸雑誌における一休表象を問う飯島孝良の報告では、近世以降の出版文化の流れを踏まえつつ、近代以降の諸メディアにおける祖師像の形成過程とその意義を明らかにする。スピリチュアリティの観点から恩田陸の小説『夢違』の分析を行う橋迫瑞穂と、雑誌『幻想文学』における宗教学知の影響を論じる茂木謙之介は、1970年代のオカルトブーム以降の現代文化の文脈をおさえつつ、文学の文化的背景としての宗教を論ずる。

 コメンテーターには宗教研究と文学研究を架橋する実践者である中西恭子氏を迎え、討議を行いたい。

◆ 連絡先 近藤光博 fwih3395@mb.infoweb.ne.jp またはツイッター @mittsko

◆ 主催:「宗教・イメージ・想像力」研究会/エコノミメーシスR&D
  オーガナイザ: 茂木謙之介/橋迫瑞穂

2016年3月10日 (木)

芸術宗教、もしくは世俗化した世界の宗教的感受性

ウルリッヒ・ベック曰く

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 それでも、「自分自身の神」がどこまで信仰の代替物なのかという問いは残る。それはどこまで(Kunstに含まれる「芸術」と「人工」の二つの意味を込めたうえでの)「芸術〔クンスト〕宗教」が提供する偽りの約束に相当するものなのだろうか。芸術宗教は科学宗教の解体の後を継いだものであり、その科学宗教は科学宗教で(きわめて単純化すれば)宗教の解体に対する一つの反応だった。通常、その場合の「芸術」とは、高度に世俗化した社会の疑似宗教的な身振りを訓練するための教練場と考えられている。藝術体験の中で宗教的アウラが語られ、その中で世俗化した世界の宗教的感受性が自己表明を行い、その意義を認められる。そこにはパラドックスの上に立つ宗教的な決断主義が顔をのぞかせている。すなわち、一方で信仰者が「自分自身」の神を創造し、他方ではその神の自己啓示が信仰者の「自分自身」の生に主観的安心と解放を約束する。これは、自己自身を措定する自我をあらゆる超越的かつ内在的な洞察と確実性の源泉とみなしたフィヒテの自我哲学を思いださせるものだ。

135頁: ルビは 〔〕 内に示した


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「藝術の宗教学」 の今日的な問題点を 精確にいいあててると思う

2016年2月27日 (土)

[ワークショップ] オタクにとって聖なるものとは何か

新企画ライン 第6弾は 「宗教とオタク」! 皆さんのご参加、お待ちしております
 ・ 第1弾は 「映画」 でした (140302 開催)
 ・ 第2弾は 「食」 でした (140426 開催)
 ・ 第3弾は 「哲学」 でした (140517 開催)
 ・ 第4弾は 「音楽」 でした (140621 開催)
 ・ 第5弾は 「映画」でした (141122 開催)

※ 企画運営は 「エコノミメーシス R&D」。 この 「エコノ…なんとか…RD」 という集まりは 「藝術の宗教学 研究会」 を改名したものです

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エコノミメーシス R&D 第8回 ワークショップ 》


        オタクにとって聖なるものとは何か


宗教研究からするオタク論―― 意外とアカデミックな集まりになりそうです (*'▽')

○ 「オタク」 がしばしば宗教的になるのはどうして…?

○ 「オタク」 の宗教性はふつうの意味での宗教と同じなの、違うの…?

○ 「オタク」 が宗教と違うところ、むしろその独自性とはどこに…?

○ 「オタク」 はグローバルな宗教=文化動向となにか関係してるの…?

○ 「オタク」 の宗教性を語って、「オタク」 をどうしようというの…?


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日時 2016年2月27日(土) 13時30分-17時30分
           セッション終了後、18時まで 参加者の交流会をもちます

場所 日本女子大学 目白キャンパス 新泉山館 大会議室 ⇒ マップ

公開・参加費無料
事前に参加申し込みいただいた方にかぎり 当日、配布資料あり
   参加申し込み ⇒ http://www.economimesis.com/teaser/8/

   ※ 参加申し込みは 【当日 27日正午】 で打ち切らせていただきます。
     資料の印刷をする時間がこれでぎりぎりのためです。

パネリスト
  ・ 今井信治 (東京家政大学  非常勤講師)

題目(仮) 「拡張現実とアニメ「聖地巡礼」――来訪者アンケートを中心に」

キーワード 「拡張現実」「リアリティ」「ツーリズム」

主要参考文献

  • 北海道大学観光学高等研究センター文化資源マネジメント研究チーム(編)『メディアコンテンツとツーリズム―鷲宮町の経験から考える文化創造型交流の可能性』(北海道大学観光学高等研究センター、2009)
  • エドワード・ブルーナー『観光と文化――旅の民族誌』(安村克己・遠藤英樹他訳、学文社、2005=2007)
  • ディーン・マキャーネル『ザ・ツーリスト――高度近代社会の構造分析』(安村克己他訳、学文社、1999=2012)

  ・ 橋迫瑞穂 (立教大学  兼任講師)

題目 「『聖』なる少女のつくり方――『魔女っこ』と『ゴスロリ少女』」

キーワード 「少女」「モノ」「占い/おまじない」「データベース」「雑誌」

主要参考文献

  • 東浩紀『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』(講談社現代新書、2001)
  • 大澤真幸『虚構の時代の果て』(筑摩書房、1996)
  • 大塚英志『「りぼん」のふろくと乙女チックの時代――たそがれ時にみつけたもの』(筑摩書房、1995)
  • 島薗進『ポストモダンの新宗教――現代日本の精神状況の底流』(東京堂出版、2001)
  • 見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社、1995)

  ・ 茂木謙之介 (東京大学大学院  博士課程)

題目(仮) 「〈オタク論〉と宗教学知 ― 1970~2010年代のメタヒストリー」

キーワード 「オタク論」「学説史」「大塚英志」「東浩紀」「澁澤龍彦」

主要参考文献

  • 大塚英志『「おたく」の精神史』(講談社現代新書、2004)
  • 東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001)
  • 澁澤龍彦『少女コレクション序説』(中公文庫、1985)

ファシリテータ
  ・ 川村覚文 (東京大学大学院  UTCP  特任助教)


趣旨

 現代日本のオタク文化のなかに、宗教的なものを見出すのはたやすい。オタクたち自身、いくらか自嘲気味に「ネタとして」、しかし内心ではかなりの真剣さをもって「ベタに」、みずからの行動や世界観を宗教用語であらわすことがある。その行動様式もまた、自覚的であろうとなかろうと、しばしば「まるで宗教のようだ」。例えば、原始宗教を思いおこさせる奇天烈な衣装、古代の崇拝(カルト)とみまがう踊りや礼拝、集団の祈りのごとき形式化された絶唱など。

 オタク文化を彩る作品群(漫画、アニメ、ゲーム、ラノベなど)にも、宗教的な表象が満ちあふれている。伝統宗教の場や象徴がそっくりそのまま採用されていることもあれば、元の文脈から引きはがされた有形無形の断片が作品に意味をあたえていることもある。また、オタク作品群につねにあらわれる超常的で霊的な存在や力は、「宗教」という固い表現になじまず、むしろ、「オカルト」「スピリチュアル」「俗信」といった表現の方がしっくりくることも多い。

 制作者と作品とオタクとが、こうした世界観において「何か」を交換しあい、多彩な文化をきずきあげているのだ。

 めくるめく伝統と霊性のオタク現象―― これをまえに、宗教研究には、重大な問いが突きつけられる。オタク文化はどうしてこうも宗教に「類似している」のだろうか。「共有されるなにか」があってこその類似のはずだが、それはなにか。はたして、オタク文化とは伝統的な宗教と「同じなにか」なのだろうか。それは「偶像崇拝」「多神教」「異教」と何が異なるのだろうか。あるいはまた、「宗教」という言葉をさけて、「スピリチュアル」「霊的」「俗信的」「空想的」などの言葉を使えば、それはうまく説明されるのだろうか。

 現在、宗教社会学の先端では、これらの問いが真摯にとりくまれている。本ワークショップでは、その潮流をけん引する4名の若手研究者を交え、「宗教研究からのオタク論」の今後について見通しをえたい。

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公式サイト http://www.economimesis.com/teaser/8/ 
参加申し込み 同上 http://www.economimesis.com/teaser/8/

企画運営 エコノミメーシス R&D
主   催  日本女子大学 文学部・文学研究科 学術交流企画

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2015年4月15日 (水)

宗教、表現作品、批評

宗教と世俗の問題のなかで 藝術をかんがえる、というのをいろいろやってきました

たとえば

「《映画の宗教学》 もしくは 「宗教と映画」論の課題」 というエントリ

なんかが一応 全体の理論的布置をまとめてたりしますし

「01F 藝術の宗教学 改め Economimesis R&D」 というカテゴリで

いろいろ書きためたりしてきました

んでもって、いま授業のひとつで 「批評」 をやっててですね

そこで 佐々木敦さんの『「批評」とは何か?』 を教科書していしてますが

その中にも 当然、ボクと同様の見立ててが出てきますので

ご紹介します



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[…]僕は小説とか映画とか、フィクションというものは、目に見えないものに対して何かが出来ると思っています。たとえばそれは人によっては、神様と呼んだり、幽霊と呼んだりするのかもしれない。僕は宗教なんか全然好きじゃないんだけども、まるで「神」の顕現みたいな感じがすることもあるのだと思います。

 たとえば、それこそメルツバウのライヴを観に行って、とんでもないノイズとかを聴いていると、会場はみんな耳をふさいでいるような状況でも、耳が慣れてくると、音が過剰に満ち満ちていて、ありとあらゆる音が重なっていて、その中に自分がいる、って感じがしてくる。そこにエクスタシーが生じてくるんです。それは単純に興奮するというよりも、体だけじゃなくて、体も頭も覚醒した状態なんですよ。要するにヤられてるんだけど、そのヤられてる感じをエクスタシーと呼ぶか、サブライム/崇高なものと出会っていると呼ぶのかは、人それぞれでしょう。そういうものをある種、神と呼んでもいいと思うこともあります。


290頁


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 それは批評だけではなくて、僕は映画を観たときによく感じるのですが、ストーリーとは無関係に、エフェクトとしかいいようがない経験がある。たとえばリヴェットの映画って三時間ぐらいあるんですが、その三時間を体験すると、身体的なことも含めて、何か不可逆的なエフェクトを与えられている気がする。それはすごく運動性があるものなんです。作品が一種のマシンみたいになっていて、そのマシンが何かをしている。その「何か」をする主体は作品であって、作品の背後にいる作者ではない。その「何か」をそのまま言葉には出来ないわけです。出来ないから、それと同じような作用をしていて、似たようなエフェクトを与えてくれる表現や作品が他にないかと考える。そうすると、違うジャンルの中に、全く同じではないにしても、何か似たような駆動、力の働きをしているものがあるような気がしてきて、それらを繋げてゆくことによって批評的なテクストが書ける、というのが僕の方法論なんです。それは映画から音楽に移って、最近また違う分野に行きつつあっても、たぶん一貫しています。

 主戦場的な現場が変わっていけばいくほど、それまで培ったものが巻き込まれていくので、ある意味では豊かになっていると思います。文芸批評みたいなことを書いてても、音楽の要素だって当然入ってくるし、映画も入ってくる。全部繋げられるというか、同じことをやっていると思えることが増えてきました。それはエフェクトというか、もっと大きな言い方で言うと世界の原理とでも呼びましょうか、「あの世って何?」みたいな。またスピリチュアルなことを(笑)。観念的なことかも知れないけど、そういうことです。物語でもないし、主題でもない。物語や主題とも深く関係があるけれども、それとはまた別の何かなんですよ。たとえばひとりの作家の小説をいっぱい読んでいくと、物語的な一貫性とか主題的な持続性とは別に、何かあるような気がしてきたりする。映画でも、たとえばアルトマンを全部観ると、一本一本は全然違うのに「何かあるな」と。その「何か」に無理やり言葉を与えようとする中で、批評的なモチベーションが起動してくるということが、僕はすごく強いんだと思います。


306-7頁


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2015年4月 5日 (日)

批評とは何か、あるいは「可能性の中心」/向こう側の世界

「批評」 とは何か

引き続き、佐々木敦 『「批評」とは何か?』 からの引用をします

前便 「批評家とは何か、あるいは佐々木敦がやりたいこと」

前便では 最終章から引用しましたので ここでは最初の章から

四つの断章をば (-"-)

最後の四つ目の断章(「可能性の中心」をめぐる断章)へと収束するような引用になってます



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 「評論家」っていう言い方があまり僕は好きじゃなくて。「評論家」と「批評家」って同じことじゃんって思ってしまうかもしれないんですけど、「評論家」っていうのは評じて論ずるっていうことですよね。評価して論ずるっていうことは、批評と同じようなことのようにも思えるんですけど、僕は「批評」っていう言葉の方に自分がやりたいことが近いって思っているんです。「批評」っていうのは、英語だと「critic」ですね。よく言われることだけど「批判」も「critic」なんですよ。「批判」っていう言葉だと、ついネガティヴな意味合いを強く感じちゃうと思うんですけど、必ずしも「批判」っていう言葉はそういうことだけではなくて、その物事の本質的な部分っていうのを一旦解体して再吟味するみたいな意味でもあるので、それに近い言葉として、「批判家」っていうのはちょっと変だから「批評家」って言っている。かなり意識的に「批評家」って名乗ったり書いたりするように今はしています。

8頁

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「紹介」 「感想」 「分析」 「敷衍」

 「批評」っていう言葉とは別に、こういうことも大きくは批評の一種みたいに言われてる、みたいなことを幾つか挙げていくと、たとえば「紹介」っていうのがある。CDでいえば誰それのニューアルバムが発売されるよみたいな、今作はビートがより野太くなっていて、みたいな感じのね。そういうのはいわゆる「紹介」です。つまりまだ聴いていない人を対象にして書かれている。[批評の]「対象」と[その批評文の]「受け手」が繋がっちゃう前に読まれることをほぼ前提にして書かれているのが紹介です。

 それから「感想」っていうのがあります。自分が聴いてみたらこう思った、こんな感じだったっていうようなことを書く。「紹介」と「感想」って似ているんだけれども、微妙に違うところもある。たとえば資料的な意味での紹介的な要素が全然なくて、単に俺はこれを聴いてすごく感動したんだよ、みたいなことだけ書いてあって、だから聴くといいよ、っていうのもよくあったりしますよね。

 それからもう一つ「分析」っていうのがある。「感想」を超えて、もうちょっと客観的に、何曲目の何々がこうなっていて、とか、前作と比較するとこうこうで、とか、この辺からいわゆる普通に「批評」と言われるものと近くなってきますね。

 もう一つ、この言葉が妥当かどうかわからないんですけど、「敷衍」っていうか「パラフレーズ」というか、「展開」でもいいや、つまり単なる「分析」を超えて、その作品のことからさらに考えられることを自分なりにもっと押し拡げて展開していこうとする文章がある。

 でも僕は「分析」や「展開」からが「批評」で、「紹介」や「感想」だとまだ「批評」じゃないっていうような厳密な考え方もしていないんです。 [……]

17-18頁

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[……] つまり、[特定の作品が]良い悪いっていうことを扱うのが批評だっていう風には僕は思わないんです。良い悪いは批評とは別にあるもので、それは誰にとってもある。自分にとっての良い悪いというものを、そう咀嚼し吟味するかっていうことは重要だけれども、それを他人に対して説得しようとしたり転写するっていうことを、僕はやれないというか意味があるとは思わないんです。結果的にはそういうことをやってしまっていることも多いのかもしれないですけど、そういうことを目的に批評を書いていない。僕は価値判断とか良い悪いっていうことの先に「批評」があると思っています。

30-31頁

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ここまではまだ 佐々木さんの主張がよく見えません

次の断章で それがかなり明確に語られています

長くなるので ここの引用では書きませんが

柄谷行人『マルクスその可能性の中心』が直接に参照されています


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[……] 要は「可能性」っていうものをどう考えられるのか、その作品に潜在している「可能性」、言い換えるとポテンシャルというか、つまりある一つの作品から、一体どういうことが、どこまで考えられるのか、その作品を聴いちゃったり観ちゃったり読んじゃったりしたことによって、その向こう側にどれほどの世界の広がりっていうのがありうるのか、っていうのが僕は批評だって思うんですね。だからさっきの話しでいうと、「紹介・感想・分析・敷衍」っていったら、やっぱり本当の批評の醍醐味は「敷衍」、パラフレーズのところまで行ってからだと思う。たとえばある小説一本についてだけ延々書いていたとしても、その小説だけには留まらない原理的な何かを取り出すことは十分可能なわけであって、その向こう側、つまりは「世界」がありますよ、みたいなことはやれるはずで、それが僕は「批評」っていうものだと思います。

32頁

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2015年4月 3日 (金)

批評とは何か、あるいは佐々木敦がやりたいこと

今年、佐々木敦さん 『「批評」とは何か? 批評家養成ギブス』 を

ひとつの授業の教科書に指定しました

もはや入手困難は一冊なので、いくつか抜き書きをしておきたいと思います

受講生の皆さんに 届け!


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 「批評って何なのか」ということを、ずっと「よくわからない」って感じで十回話してきたんですけど、依然として批評っていうものはよくわからない。批評という言葉でカヴァー出来る範囲は本当はすごく広いし、「これは批評、これも批評」ということが矛盾してくる場合もある。それぞれの中で「批評って一体何なのだろう?」と問い続けていくことが批評なのかもしれない。ベタな言い方もするとそういう気もします。

 ボクも、批評、批評って言い始めたのは割と最近で、ずっと批評家というよりは映画ライター、音楽ライターと呼んだ方がいいような仕事がメインでした。批評家になろうと思ってなったわけでもないし、自分には批評的なことをやれると思ってなったわけでもない。色々やってきた中で、批評っていう言葉が自分の中でしっくりする状況に立ち至ったというのが本心に近い。

 僕は今自分のやっていることは全部、「批評」と呼んでいいと思っています。でも「こんなのは批評じゃない」って思う人もいるかもしれないし、その人が間違ってるとも僕は思わないから、皆さんは皆さんの中での批評観を育てながら、今後も書いていっていただけたらいいなと。そしてそれを読める機会があったらいいなと思っています。

347頁

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この文章は 何も言っていないに等しい

批評とは何か、わからない、皆それぞれで考えましょう、というのだから

ただし、本書(連続講義の記録)の最終部分にあたる

ここに至るまで、340頁あまりを費やした語り(その運動、その音楽)に

その答えは 行為遂行的に示されているのだ、というのが好意的な読みだ

それはそれでまったく十分なことである

しかし佐々木さんは、そのことで満足しきってしまわない

上の段落に続けてすぐ 自分自身が「やりたい」ことを語りはじめるのだ

たしかに、批評という言葉でくくりこまれるような空間は

たった一つの本質と 一様な構成体から成っているわけではない

そしてその境界面は 多くの孔がうがたれている、もしくは半透膜状になっている

「批評」という開放的な場―― そこで佐々木さん個人が「やりたい」こと

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 僕が最近思うのは、たとえばいわゆる浅田彰的な知性というか東浩紀的な知性というか――何か対象が与えられた時に即座に「これってこういうことね」って言えちゃう類の知性というものがあると思うわけです。それは反射神経と呼んでも、ある種の批評的センスと呼んでもいいのかもしれないけれども、そういうものって、生まれついてのものもあるし、訓練されて育ってくる場合もある。そういう種類の知性によってはぐくまれる豊かさというものもあるでしょう。

 僕はたぶん、ある時期までは「これってこういうことね人間」だったと思うし、今でもある部分はかなりそうだと思います。何かが起こると「これってこういうことね」とひとりごちてしまうというか、すぐに納得してしまって、わかったような気になっているというか。

 「ひとりごちてるだけで、世界はもっと複雑だよ」とか、そういうことを言いたいわけではないんです。意外とわかっちゃうものなんですよ。ある意味で、世界は意外と単純なものだと思う。だから「これってこういうことね」は意外と当たってるのだとも思います。

 複雑で多様で恐ろしく豊かであるのかもしれない世界なりなんなりを、何らかのマトリックスやチャートとかを作って整理して、「それってこういうことだよね」って断言することが批評だっていう見方はあるし、その中での正しさを競う世界もあるのだとは思うんだけれども、僕はたぶん今はそういうことをやりたいとは思っていません。「これってこういうことだよね」と簡単に言えるからこそ、他のことをやりたい、ってい気持ちがすごく強い。つまり、ある意味でわかりやすい単純なこと、「これってこういうことだよね」によって還元されて出てくる真理とか原理みたいなことがあるとするならば、それをもう一度ものすごく複雑にしていきたいんです。
347-48頁
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佐々木さんの「やりたいこと」が 見えてきました

さらに具体的な説明が入ります、ここらが大事なところになりましょう

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 たとえばわれわれがある表現と出会った時に「こういうことを言おうとしてるんだな、こういう意味だったんだな」という還元を行なった後に出てくるものは、ものすごくシンプルなことなのね。それはすごく単純なことなんだけど、そんな単純なことがいつのまにか色々と面倒臭いことになってゆくのが人生だったり世界だったりするのだから、それを語るために、ものすごく複雑で手の込んだ方法論が必要になってくるのだと思うのです。

 小説にしても映画にしても、そういうことをやってる人って意外と多いような気がするんです。「結局こういうようなことを言ってるだけじゃん。それって難しいことじゃなくて、誰でも知ってるようなこと。ある意味では取るに足らないようなことじゃないか」ってことだとしても、ならば何故そんなにややこしい手の込んだ方法論で、それを語らなきゃいけなかったのかということの方を考えなきゃいけないと思うんです。

 おそらく、還元した時に出てくるシンプリシティってのは、しょうがない。それはそういうものだと思う。でもそれを最終的にわからせたいわけじゃなくて、向きが逆なんだと思うんです。ある意味では取るに足らないシンプルな真実っていうものを、絶えず再確認するためにこそ、複雑な手続きが必要なんです。メッセージとしては極めて単純なことを言っているのにすぎないんだけれど、それを言うためにものすごく面倒臭いことをやってるっていう、そういう表現をしている人が今は多いような気がしているので、それに対して批評の言葉でいかにして応接していけるのか、そういうことを最近は考えているところです。

348-49頁

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引用は以上です

最初に述べたように、入手しづらい本なので 長く引用させていただきました

2015年4月 2日 (木)

収容所の女の子、もしくは宗教起源論

石井光太さん、『戦場の都市伝説』 より抜粋

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収容所の女の子

 ナチスの強制収容所に、捕虜となったフランスの兵士たちが閉じ込められることとなった。彼らはガス室での処刑を待つばかりの身となり絶望で発狂しそうになった。そこで彼らは話し合い、正気を保つためにあるルールを決めた。

 まず、収容所の部屋の隅にある椅子に、「架空の女の子」がすわっていると仮定した。フランス兵たちはその女の子に名前を付け、毎日話しかけたり、世話をしたりする。全員でその子をかわいがることで恐怖を薄めて混乱を避け、団結して生き延びようとしたのである。

 フランス兵の捕虜たちは約束通りに「架空の女の子」をみんなで世話した。誕生日を決めてその日になるとお祝いをし、クリスマスの日はプレゼントを用意して女の子も交えて一緒に讃美歌をうたった。夜にはかならず「おやすみ」と言い、朝には「おはよう」と声をかけた。

 兵士たちはそれをつづけているうちに、いつの間にか本当に「架空の女の子」がいると思い込むようになった。つらいことがあれば女の子に愚痴を言い、部屋の中で無礼なふる舞いをすれば女の子の前に行って頭を下げて謝った。いつしか彼らにとって女の子はいなくてはならない存在になっていった。別の部屋では囚人たちが次々と発狂したり、仲間の非を密告してナチスにとり入ろうとしたりしたのに、この部屋のフランス兵たちだけは正気を保って平和に暮らせたのはそのお蔭だったのだろう。

 やがて連合軍がやってきてドイツ軍を追い払い、収容所を解放した。フランス兵たちはようやく収容所を出て祖国に帰れることになった。その日、フランス兵たちは収容所を出る時、一人ずつ部屋の隅に置いてある椅子に腰かけているはずの「架空の女の子」に感謝の言葉を述べて去っていった。



 この話は、第二次世界大戦の強制収容所で起きた「実話」として世界中に知れわたった。だが、実際はこの話はもととなっているフィクションがあるそうだ。小説のモチーフが実話として広まって語り継がれたらしい。

 おそらくこの話が世界中の人々に「実話」として信じられたのは、それだけリアリティーに満ちていたからだろう。人間なら誰もが寂しさをまぎらわすために、想像の中で話しかけたり、慰めてもらったりする経験を持っている。だからこそ、人々はフランス人捕虜の話に共感し、それを「実話」として信じ込んだのではないか。



189-90頁



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欧米のキリスト教圏で この物語はきっと

「宗教起源論」として認識されることだろう

2014年11月18日 (火)

[ワークショップ] 映画の撮影の現場に立ち会う!

新企画ライン 第5弾は ふたたび「映画」ッ! 皆さんのご参加、お待ちしております
 ・ 第1弾は 「映画」 でした (140302 開催)
 ・ 第2弾は 「食」 でした (140426 開催)
 ・ 第3弾は 「哲学」 でした (140517 開催)
 ・ 第4弾は 「音楽」 でした (140621 開催)

※ 大変急なのですが、開催五日前の告知となってしまいました

※ 16時半から17時のあいだにセッションが終了します。その後、18時ごろまで 参加者の交流会をもちます。どうぞふるってご参加くださいませ。

※ 企画運営は 「エコノミメーシス R&D」。 この 「エコノ…なんとか…RD」 という集まりは 「藝術の宗教学 研究会」 を改名したものです

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エコノミメーシス R&D 第7回 ワークショップ 》


        映画の撮影の現場に立ち会う!


日頃からご協力頂いている

榎本憲男監督の長編最新作『森のカフェ』撮影現場を見学します。

参加希望を表明頂いた方には、

当日撮影予定部分の「脚本」と「絵コンテ」を事前にお渡しします。

どのように「脚本」から「絵コンテ」になっているのか、

どのように「脚本」と「絵コンテ」が、映像になっていくのか、

この2つを実際の撮影現場に立ち会い、考察してゆきましょう。

スケジュールが急ですが、奮ってご参加ください。

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日時 2014年11月22日(土) 14時-17時
           セッション終了後、18時まで 参加者の交流会をもちます

場所 日本女子大学 目白キャンパス 百年館 高層棟 ⇒ マップ

公開・参加費無料
Peatix  http://emrdspecial.peatix.com  ← 参加申し込みはこちら

コーディネータ
  ・ 榎本憲男 (映画監督・日本大学非常勤講師)
  ・ 近藤光博

趣旨

 私たちは日ごろ、さまざまな「作品」に接しています。作者たち(作り手)と私たち(受け手)とは、「作品」を介して、実はとても密な、そして複雑な関係を、いくつもいくつも交わしつづけています。「メディア社会」という言い方もあります。

 作り手は自由です。自分たちの作りたいものを、かかる経費や時間とのかねあいのなかで、一生懸命に生み出します。そして受け手もまた自由です。「作品」をどのようにあつかおうと、だれも、なにも、それを止めることはできません。無視してもいいし、命がけの応援をしてもいいし、するりと消費してみせるだけでもよいわけです。

 さて、ここで考えてみたいことがあります。メディア作品であふれかえる私たちの人生において、当の「作品」はどこにあるのでしょうか。

 なるほど、フィルムやブルーレイディスクやスクリーン、あるいは印刷物、それらの媒体のうえにあらわれる、あの視聴覚情報こそが「作品」なのだ、ということでよいような気もします。

 しかし、それは少々単純すぎる考え方ではないでしょうか。もう一歩さきにすすんだとき、こんな見方があらわれてきます――「作品」とは、作り手(オーサー、パブリッシャー、エンジニアなど)のねらいと主張と技術の表現である。

 いかがでしょう、この見方は、受け手を文字どおりの単なる「受け手」においてしまうわけですが、私たちはそれで本当に満足できるでしょうか。受け手と作り手が微妙に、あるいは大胆にすれ違うことのほうが、私たちの「作品」経験において、むしろ多いのではないでしょうか。実は、受け手はもっともっと能動的に、「作品」を生み出す役割をはたしているのではないでしょうか。

 社会のメディア化がますます深まっていくなか、私たちは、じぶんの人生を、「作品」との関わりにおいて決定づけています。意識的にであれ、無意識的にであれ、個人的にであれ、集団的にであれ、そうなのです。だからこそ、もうすでに日常的にもたれている「作品」経験をとらえなおしてみることは、きっと、この混沌とした時代を上手にきりぬけていくための、たしかな足がかりになるはずです。

 私たちのワークショップは、映画撮影の現場にお邪魔します。そこで私たちは、滅多にもつことのないタイプの「作り手と作品と受け手との関係」をもつことになるでしょう。そこでなにかが生まれれば、こんなに嬉しいことはありません。皆さまのご参加をお待ち申し上げます。

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公式サイト http://www.workshop.economimesis.com/
Peatix    http://emrdspecial.peatix.com ← 参加申し込み

企画運営 エコノミメーシス R&D
主   催  日本女子大学 文学部・文学研究科 (仮)

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2014年9月18日 (木)

映画の宗教学 ―映画の層構造と《底》あるいは《魔》―

去る12日、日本宗教学会で 標記のような発表をさせていただきました

ご参加いただいた皆さま、本当にありがとうございました

当日、フロアよりいただいた質問への応答、時間切れで言えなかったこと

書き加えたものを 「配布資料 第2稿」 としてアップさせていただきます

冒頭にしゃべったのはこんな感じのことでした

  • 私は宗教学でなぜ映画論をやるのか。 《世俗》を究明できるはずだ、と考えるからです。
  • 映画を《世俗》の制度としてとらえ、映画の《世俗性》をより稠密に解明すること。
  • そうすることで、《世俗》そのものを究明すること。
  • ポスト宗教概念批判の宗教学には 「《世俗》の宗教学」 が要請されている、というのが私の考えですが、そのために映画論に精をだしているわけです。
  • しかしこうした研究は、欧米圏の Religion and Film においてすら、ほぼまったく未発達です。(というよりも、独自すぎるのかもしれません)
  • そこで本発表は、その予備的な考察をすることで満足するしかありません。
  • 具体的には、観客の映画体験から映画の成り立ちを解明することに取りくみます。
  • ハイライトは、「えも言われぬ体験」 「表しえないもの」 と私が名づけたことです。
  • しかし、発表時間は15分しかありませんから、そこへの着目が必要なんだ、と指摘するところまでで、今日のところはおわるしかありません。
  • それでは、本論に入ります。
いかがでしょう、ご興味をもたれますか?

下記リンクより、この資料をご笑覧いただければ幸いです

2014年6月 5日 (木)

[ワークショップ] 音楽の突端、辺境の音楽

新企画ライン 第4弾は 「音楽」ッ! 皆さんのご参加、お待ちしております
 ・ 第1弾は 「映画」 でした (140302 開催)
 ・ 第2弾は 「食」 でした (140426 開催)
 ・ 第3弾は 「哲学」 でした (140517 開催)

※ ただし今回は、会場が手狭なため 申込制とさせていただくかもしれません。近日中に決定します

※ 16時半から17時のあいだにセッションが終了します。その後、18時まで 参加者の交流会をもちます。どうぞふるってご参加くださいませ。

※ 企画運営は 「エコノミメーシス R&D」。 この 「エコノ…なんとか…RD」 という集まりは 「藝術の宗教学 研究会」 を改名したものです

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エコノミメーシス R&D 第6回 ワークショップ 》


          音楽の突端、辺境の音楽


日時 2014年6月21日(土) 14時-17時
           セッション終了後、18時まで 参加者の交流会をもちます

場所 日本女子大学 目白キャンパス 百年館 低層棟 百503教室 ⇒ マップ

公開・参加費無料
Peatix  http://emrdworkshop4.peatix.com ← 参加申し込みはこちら

パネリスト
  ・ 安田芙充央 (ピアニスト・作曲家)
  ・ 中尾勇太 (デザイナー・㈱スサビ 副社長)
  ・ 近藤光博

コーディネータ
  ・ 榎本憲男 (映画監督・日本大学非常勤講師)

趣旨

 人間はものを作る。しかも「よりよいもの」を作ろうとする。私たちはこの事実をどうとらえればよいだろうか。

 それは藝術なのか。しかし、藝術という観念から締め出されるあまりに多くのものをどう考えればよいか。製作なのか。なるほどそれは端的にものを作ることだ。しかし、この言葉では「よさ」や「すごさ」、「高尚さ」などの観念を取りこぼしてしまいそうである。表現なのか。この言葉は、個人的内面性の自由な湧き上がりを示唆する点で有意義だろうが、やはり伝統や正統性の観念を見失いかねない。

 さらに問いはつづく。《藝術・製作・表現》に織り込まれた歴史性や社会性を、私たちはどうとらえたらよいのか。「よりよいもの」はどこからもたらされ、どこの誰によってそれと認められるのか。もの作りへの志向は、歴史や社会がもたらす諸条件の束との間でどのような関係を取り結んでいるのだろうか、等々。

 さて、今回のワークショップで私たちは、これらの問いを念頭に「音楽」を取り上げてみたいと思う。

 デジタル技術が音楽制作の簡易化を決定的にうながすとともに、音楽ソフト販売が商業として成立しづらくなった今ここにおいて、それでも音楽を作り出しつづける人は、どんな考えと行いをおもちなのだろう。

 あるいは、分厚い伝統と苛烈な社会的要請のなかで、「音楽の先端」「音楽の新しさ」を追求するとは、一体どういう事態なのか。商業に最適化された作品の単なる複製、伝統や正統性や格式をになった作品群の解釈合戦、ジャズや前衛音楽や現代音楽が嬉々として参入していった端的な難解さ――これらの何れでもあり、何れでもないような《あいだ》。そこにこそ《藝術・製作・表現》の全般にわたる「突端」を見出すことができないか、と私たちは直感するのだが、現代の音楽家はそれにどうお応えになるだろう。

 今回、ピアニストで作曲家の安田芙充央氏をお招きし、こうした問いを率直にぶつけさせていただきたいと願う。というのも、氏こそは、私たちと同様の問いをもち、自らの創作活動を通じてそれらに取り組くむなかで、「辺境」に一つの道を見出しておられる方であるからだ。

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公式サイト http://www.workshop.economimesis.com/
Peatix    http://emrdworkshop4.peatix.com ← 参加申し込み

企画運営 エコノミメーシス R&D
主   催  日本女子大学 文学部・文学研究科

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2014年6月6日 加筆修正 1回目
2014年6月9日 加筆修正 2回目
2014年6月19日 加筆修正 3回目
2014年6月20日 加筆修正 4回目

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