カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2016年2月17日 (水)

島薗進 『ポストモダンの新宗教』 (2001)

こちらのワークショップ での主要参考文献のひとつ

島薗進 『ポストモダンの新宗教―現代日本の精神状況の底流』 (東京堂出版,2001年) より

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 では、[ポストモダンの新宗教、すなわち「新新宗教」において] このように隔離型や個人参加型という両極端のタイプの教団がいくつも登場するようになったのはなぜだろうか。隔離型と個人参加型がふえてきたということは、中間型の教団の占める割合が [「旧」新宗教のなかで] かつては圧倒的多数だったのに、今ではかなり低くなってきたということでもある。いいかえると世俗生活と連続的な生活規範(「心なおし」の体系)の習得深化を目標とし、教祖や最高指導者から地域熱心家に至るヒエラルヒー的な指導者系列をもつ信仰共同体を形成することが困難になってきたということである。さらに、なぜそれが困難になってきたかといえば、世俗生活(一般生活)の道徳的秩序やそれを土台とする親密な人間関係が築く(守る)に足りるもの、守りうる(築きうる)ものと感じられなくなってきたからだろう。いいかえれば、情報化が進み、社会構造がますます複雑化・多様化し、人間関係の機能化が進んだために、人と人との絆が弱まり、それを反映して個人主義的な考え方が広まってきたということである。

 そうした状況で、一般社会に適合する方向でなお教団が形成されるとき、個人参加型の特徴を帯びるようになる。すなわち心なおしの教えが薄められ、信仰共同体も散漫なものになるという形である。こうした教団は時に、宗教書や救いの処方箋や瞑想法などの宗教商品を販売する会社のように見えることがある。一方、一般社会の趨勢に対抗し、道徳的一致や緊密な共同体の形成を目指すとき、隔離型の教団が形成される。つまり、一般社会とは断絶した強固な道徳規範と共同体を作ろうとするわけである。こうした教団は一般社会との厳しい緊張関係に立ち、社会問題を引き起こす可能性が少なくない。統一教会の霊感商法のように、他方で方便として宗教商品の販売会社的な活動を営むような場合にはなおさらのことである。


35-36頁


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2015年7月21日 (火)

クザーヌスのお勉強

ツイッターにて

私がクザーヌスを読んだことない、と申し上げたら

哲学徒・うへのさん(鍵付き)から 次のような教示をいただいた

メモ代わりに ここに記しておきます

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私は邦訳でかつ必要な範囲で読んだのみですが、面白いです。もちろんクザーヌス自身を読まれるのが、ベストですが、W.シュルツ『近代形而上学の神』(早稲田大学出版)の中に「クザーヌスと近代形而上学の歴史」という講演録が入っておりまして、これは大変面白いものです。

また同時にここでなされているイコンの議論は現代思想との関係で言えば、マリオンに響いていることが容易に見て取れるかと思います。マリオンについては、関根小織「否定神学化する哲学」(『哲学研究』576号)で、

また我らが佐藤先生の「ありてある哲学者の神」(『基督教学研究』第25号)が面白いです。西田に関して言えば、西田はとりわけ初期にクザーヌスを引きます。西田がクザーヌスをどのように考えているかについては、

旧版の『全集』第十四巻所収の「Coincidentia oppositorum と愛」という講演録に簡潔に出ております。また、手元にないのですが、藤田正勝「後期西田哲学の問い」(『日本の哲学』第6号)で、この講演録を引いて身体論の議論をしていたと記憶しています。

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2015年5月 7日 (木)

世間とは何か

今年度、ある授業で 「現代日本の道徳と宗教」 をテーマにかかげている

日本研究者でないので、今更いろいろ勉強している

山本七平・小室直樹 『日本教の社会学』 を読み終わったので

つぎは、阿部謹也 『「世間」とは何か』 に手をだした

阿部先生の思索は、じつにマイルドで馴染みやすい

教養人、文化人としての落ち着きと懐のふかさを感じさせる

(対して、山本・小室の言葉はエッジが立っていて まさに事態を切り裂いていく!)

阿部 「おわりに」 から一節を引用します

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 この書では、以上のような状況を明らかにし、私達の一人一人が自分が属している世間を明確に自覚し得るための素材を提供しようとしたに過ぎない。世間をわたってゆくための知恵は枚挙に暇がない。しあkし大切なことは世間が一人一人で異なってはいるものの、日本人の全体がその中にいるということであり、その世間を対象化できない限り世間がもたらす苦しみから逃れることはできないということである。昔も今も世間の問題に気づいた人は自己を世間からできるだけ切り離してすり抜けようとしてきた。かつては兼好のように隠者となってすり抜けようとしたのである。しかし現代ではそうはいかない。世間の問題を皆で考えるしかない状況になっているのである。そこで考えなければならないのは世間のあり方の中での個人の位置である。私は日本の社会から世間がまったくなくなってしまうとは考えていない。しかしその中での個人についてはもう少し闊達なありようを考えなければならないと思っている。

257-58頁


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2015年4月23日 (木)

近代経済人の宗教的根源

宗教と経済、宗教と資本主義 の関係については これまで

などのエントリで少しずつ考えてきました

んでもって、ここでは そのものズバリのタイトルをもつ

梅津順一 『近代経済人の宗教的根源』 を紹介したいと思います





お察しのとおり、ウエーバーの「プロ倫」テーゼ再考の一冊です





冒頭の二段落を書き抜きますね

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 本書で「近代経済人」というときには、二つの意味で使用されています。ひとつには、歴史的に西ヨーロッパで近代資本主義が発生してくる過程で、それに積極的にかかわった人間類型という意味で、もうひとつには、理論的に経済学が全tネイとする人間像という意味です。今日の世界では、政治における人権思想と同じく、経済における市場原理の普遍的意味が、体制のいかんを問わず、文化のいかんを問わず、広く承認されてるようになりました。「宗教的根源」とは、その市場原理に対応する独立した責任的主体が、禁欲的プロテスタンティズムと深い関わりの中で発生したことを意味しますが、そうした問題設定は、いささか奇異の感をもって受け取られるかも知れません。人権思想が信教の自由をその中に含むと同じく、市場原理に対応する人間もまた、特定の宗教的背景とは無関係であることが常識とされているからです。

 ここでは、近代資本主義の発生を歴史的個性的現象として見るという観点に立っています。今日普遍的と考えられている現象も、それがどのようなものであれ、歴史においては同じ時期にどこにでも同じように現れたのではなく、特定の時と所で、さまざまな諸条件の個性的組み合わせによって発生しました。近代資本主義の発生にあっては、とくにプロテスタンティズムの禁欲の系譜を引く「資本主義の精神」の積極的役割が注目されるのですが、その問いには確立した近代資本主義が暗黙のうちに前提としている人間的条件を明確にするという意味があります。個人を内面的に理解するには、本人も忘れたかも知れない性格形成期の経験を知ることが重要なように、近代資本主義を内面的に理解するには、今日では忘れられた発生期の精神的状況を知ることが有効なのです。もちろん、この本がどれだけその狙いを達成しているかは読者の判断に待つほかありませんが、文化的背景を異にする諸社会の資本主義の構造をめぐる議論や、資本主義の人間的意味とその将来をさぐる思索に、なにほどか寄与するものであって欲しいと願っています。

i-ii 頁

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2015年2月11日 (水)

西ヨーロッパの宗教状況、あるいは世俗化と「見えない宗教」

ナタリ・リュカ著/伊達聖伸訳 『セクトの宗教社会学』 読了

訳者の伊達さんにご恵贈いただいた >ありがとー、伊達さん

とっても素晴しい一冊だった

 

前便 「世俗人、あるいは資本家と資本主義者」 で紹介したのもこの本

セクト論概説という、リュカのねらいとは別のところを引用させていただいたわけだが

ここでもまた リュカの本論からすれば補足的なところに興味がいったので

紹介させていただきたい

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リュカは 「西洋」 をいくつにも分けて思考をすすめる

ヨーロッパとアメリカをわけ、西欧とその他欧州をわけ、フランスとその他の国々をわける

韓国の現代宗教研究者であるリュカ (「訳者あとがき」参照) は

オクシデントをいわば人類学的な視野のなかにおいているわけだ

ということで、 次の短い一節には たくさんの研究成果が凝縮されている

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ヨーロッパの宗教状況は、次のような共通の大きな傾向によって特徴づけられていて、他の地域に見られる現象と比べても、その特殊性は目立っている。すなわち、心性の世俗化、文化の多元化、統一をもたらす大きな思想体系の喪失、大きな宗教制度の影響力の後退、信者数の顕著な減少、個人主義的な信仰の分散、規制緩和された象徴財の市場における宗教的小集団やネットワークの増殖などである。ここに掲げた現象はすべて、西欧全体に認められる。

120-21頁

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見やすいように箇条書きにしておこう

  • 心性の世俗化
  • 文化の多元化
  • 統一をもたらす大きな思想体系の喪失
  • 大きな宗教制度の影響力の後退
  • 信者数の顕著な減少
  • 個人主義的な信仰の分散
  • 規制緩和された象徴財の市場における宗教的小集団やネットワークの増殖

2015年2月 2日 (月)

宗教への考えや体験、あるいは「濃い宗教」

前便 「現代宗教学の宗教入門 ―中村圭志 『教養としての宗教入門』」 につづき

もう一冊、 宗教(学)入門を紹介してみよう

この二冊をならべてみると

いま、この分野の専門家が なにを賭け金にしているか

かなりよくわかる、 と思う

ポイントはいくつかあるのだけど ここでボクが注目したいのは

中村先生が 「濃い宗教」 と呼んでいるものをめぐる 《人間=社会=歴史》 論であります

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というわけで 紹介するのは…

加藤智見 『宗教のススメ―やさしい宗教学入門』(大法輪閣,1995年) である


著者の加藤先生は、浄土真宗大谷派のお坊さんで

東京工芸大学の先生でもいらっしゃる

そこで、先生はこの本を 次のような計画のもとに書いたのだ、とおっしゃる

 ところで宗教学とは宗教に関する学問であるが、大学で宗教学を教える私に、学生諸君はよく、「宗教学についての知識は大分頭に入りましたが、先生自身は宗教をどう思い、どのように生活に生かしているのですか」とたずねる。講演先でも、「あなた自身はどう宗教をとらえているのですか」とよく聞かれる。

 たしかに宗教学は純粋な学問だから客観的でなければならない。しかしほとんどの人は宗教学の学問性に関心があるのではなく、宗教を自分の生き方の問題としてとらえようとしているのだ。そのような人にとっては、客観的であるということは無味乾燥だということにもなる。学問としての宗教学と宗教そのものとの間で私は随分悩んだ。

 そこで今回は、宗教と宗教学の間に立って、あえて私自身の宗教への考えや体験も書き、宗教学そのものというより宗教学への道案内すなわち入門書とし、宗教と宗教学の双方に関心をもってもらうことに主眼をおいた。

 読者の方々は、本書をお読みいただいて宗教に関心をおもちになったら、学問としての純粋な宗教学も学んでいただきたいと思う。それによって、ご自身の価値観を選び取り、しかも世界のさまざまな価値観に理解を示される一助になれば、望外の喜びである。

3頁: 傍点は太字で示した

ここで加藤先生がおっしゃる 「宗教への考えや体験」 とは どういうものだろう

それはたとえば 「生命力」 といわれる

 以前私が教えていた一人の女子学生は、京都のある寺の薬師如来像にぞっこんであった。せっせとアルバイトをし、新幹線代を稼いでは京都に通っていた。なぜそんなに執心しているのか、私はたずねたことがある。すると彼女は、その薬師像を目の前にすると、その像から発散される活力のようなものが自分に伝わってくる。まるで充電されるように彼女の心の中にも体の中にも生命力が湧いていくるというのだ。像を制作させた力はどのような力であったか。独自な信仰心ではなかったのだろうか。

 私は、宗教が科学や哲学と根本的に違うのは、この生命力を引き起こす事実にこそあると思う […] 。

64頁

「宗教」 に特殊、ないしは特別ななにか… 加藤先生はそれを指し示そうとなさっている

一方、 前便で紹介した新書で 中村先生は そのような関心をまったく放棄している

「人間」には 実は、「宗教」も「世俗」もないのだ

「宗教」にだけ特別ななにか、そんなもの あったにしても希少すぎて 「人間」にとっては さして重要じゃないんじゃないの

… 中村先生は そういう立場を鮮明になされた

加藤先生と中村先生、 どちらが未来にとって より生産的、建設的だろうか…

この業界のプロは そのことをいま とても自覚的に問うております

(広く納得される答えは まだない …けどがんばって問うてる)

2015年1月30日 (金)

現代宗教学の宗教入門 ―中村圭志 『教養としての宗教入門』

前々便 「日本仏教の全体像」 でも紹介した

中村圭志先生の新刊書 『教養としての宗教入門』

ご恵贈をいただき 読み終わりました

さすが中村先生! 大変読みやすく しかもポイントを悉くはずしません!

すごいなぁ… (>_<)

 

どういう本か。 最初の部分にまさしく書かれてあるとおりです

アマゾンの「なか見!検索」 でも読めませんので

ちょいと長めに引用させていただきます

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 本書が想定している読者は、宗教に関心はあるのだが、別に信じたいというわけではないという方々である。外国人と接する機会があり、その国の宗教について基本的知識が欲しいと思っている人は多いはずだ。あるいは日本文化を紹介するにあたって、我が国の宗教について基礎的なこともわかっていないようでは恥ずかしい、と考えている人も多いだろう。

 ただし、本書はサイズの制約もあり、諸宗教の教理や歴史や行事についてのデータをそうたくさんは盛り込めない。むしろ本書が主眼を置いているのは、宗教全般に関する見取り図を描くことと、人々が自分でデータを調べようと思ったときに迷ってしまわないための指針を提供することである。

 諸宗教に関する詳しいガイドブックはたくさんあるし、インターネット上には種々のデータがあふれている。しかし、詳しい本の多くはとっつきにくく、しばしば仏教なりキリスト教なりの信仰的な立場で書かれている。ネット上のデータは玉石混淆であり、信仰の宣伝合戦の場ともなっている。だから、距離を置いたかたちで、おもしろく知りたいという人々に向けた、シンプルなガイドが必要なのである。

 本書は「教養としての宗教」ガイドである。宗教を信じる必要はないが、その歴史や世界観についての大雑把な知識はもっていたほうがいい。そういう趣旨で書いた本だ。

中村圭志 『教養としての宗教入門』 i-ii 頁: ルビは省略

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まさしくこの宣言通りの一冊だと思う

とにかく信頼して吸収してしまってよい知見ばかりの「宗教入門」だ

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さて… ちょいと専門的な話もしておこうかな (-"-)

宗教学の学説的には、 「距離を置いたかたち」 とさらりと書いてあるところが重要

もともと宗教学は 中立客観性を標榜してスタートした学問だった

それを実現することは無論容易ではないし、理想的なことであるかどうかも不確かだ

しかし、そう宣言することで 宗教学は

桎梏な神学や教学の伝統とは異なる独自の知識体系をきずいてきた

中村先生のこの本も その宣言に立ち返っているわけだ

ただし、くぐってきた宗教論が 一段階多い

それは、宗教概念批判だ

中村先生は、ポスト宗教概念批判の宗教論の可能性を 先陣をきって模索してきた方だ

《宗教/世俗の二分法》 を批判したところに現れる問題設定とは…?

その到達点が 本書になっているのだと ボクは思う

「人間なんて所詮そんなものだろう」(153頁)――

この一節には 宗教論としての深みがこもりにこもっている

2014年11月30日 (日)

路上の神様―祈り

石井光太 『地を這う祈り』 (徳間書店,2010年) よりの引用――

この本で、いちばん好きなページを引用させていただきます

ああいった場所のああいった人たちの本当のすがた…

そういったものが本当にあるのかどうかは知りませんけど

ボク自身が そのようなものだと感得するすがたが

ここには、とってもよく表されているように思いました

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神棚の下で眠る

 インドには、数えられるだけで三億以上の神様がいると言われている。

 貧しい人々は、路上で寝起きしながらも、そうした神を信仰している。町の木や塀に神棚をつくり、思い思いの神様を祀る。食費を節約してでも、線香を用意し、朝晩は祈りを欠かさない。

「今日も一日、お父さんが仕事をして帰ってきますように」

「私が仕事にでている間、妻と娘がトラブルに巻き込まれませんように」

「いつの日か、家を借りて、家族が仲良く暮らせますように」

 そんなことを願うのである。

 ある年の夏、ムンバイでガネーシャという象の頭を持った神の祭りがあった。数日にわたって、町の人々は巨大な象をトラックの荷台に乗せて町を行進する。路上生活者たちも列に加わる。知っている人も、知らない人も握手を交わし、お互いの幸運を祈る。

 祭りの最終日、私は知り合いの路上生活をする親子を町を歩き、夜になって寝場所にもどってきた。すると、壁に掛けてあったガネーシャ神を祀った棚に、甘いお菓子が袋に入ってぶら下がっていた。

 私が「これは?」と尋ねると、父親が答えた。

「町の人が、わしらにくれたんだろ。祭だからな」

 それを聞いた時、この町にはたしかに神様がいるのかもしれない、と思った。

ペーパーバック版184頁; ルビ省略

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この本は フォトエッセイ集でして…

発展途上国の物乞い、貧者たちの あられもない姿がいっぱい収められています

インドで多少なりと慣れているボクでも (あるいは、そんなボクだからこそ)

直視するのがとってもつらくなる写真がおおいです

ぜひぜひ読んでほしいのですが

慣れない方、怖いなって思う方は まずテクストのみの

石井光太 『物乞う仏陀』  からお手にとるのをおすすめします

2014年11月14日 (金)

宗教学名著選 刊行開始

国書刊行会より 『宗教学名著選』 というシリーズの刊行がはじまっています

その第2巻 (↓) を御恵贈いただきました。ありがとうございます

 

大変重要で、今後は宗教学研究の基本文献になることまちがいなし!

全六巻の構成が なかなかネットのうえで一瞥できません

国書刊行会のサイトのなかに リーフレット(PDF 注意)が埋まってました

http://www.kokusho.co.jp/catalog/978336056887.pdf

いかがでしょう、わくわくしますよね(*´Д`)

すでに刊行された二つの巻については こちら

http://www.kokusho.co.jp/np/result.html?ser_id=179

第一巻は こちらです (amazon)

 

2014年11月 6日 (木)

現代日本語における自然

2年前、わたしなりに自然論をやってみようとしたことがあります

なかなか上手くいかなくて 最初からコツコツやりなおしているのですが

そのためのメモとして 抜き書きをしておきます

大雑把な議論だとおもわれる方もおいででしょうが

比較思想史的なテクストですので、あしからず

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 このような[日本における]「自然」と「人間」との「根源的紐帯」に基づく自然観は、中国の伝統的自然観である「万物斉同」観、「天人同一」観とも異なる。この中国の自然観にあって「自然」と「人間」が分離しないのは、初期は「気」、後期の思想では「理」が両者に共有されているとされるからである。しかし日本伝統の「根源的紐帯」は、このような「理・気」の原理によって結ばれているものでは必ずしもない。またこの「根源的紐帯」の自然観はデカルト以後のヨーロッパ近代の物心二元論に対蹠的であるのみならず、この「物」と「心」の分離、「自然」と「人間」の乖離に反逆して、その間にあらためて一体化の橋を架けようとした西欧ロマンティシズムの自然観とも同じものではないことに注目しなければならない。一八世紀後半にはじまるヨーロッパのロマン主義は、一七世紀に確立された近代合理主義に対する反動として、起こったものであり、そこではすでに主観と客観、心と物、人間と自然は截然と区別され、両者は徹底的に分離されていた。この乖離と対立を前提にして、その後に一つの「感情移入」によって自然を主観的意識のなかにとり込み、そのことによって再び自然と人間のあいだを架橋しようとしたのがロマン主義である。そこにはつねにこのことが成功しないかも知れないという不安があり、従ってそれは自然に対する「憧憬」――一つの実現されない願望――という形をとることが多い。しかし「根源的紐帯」による結びつきは、このような「憧憬」ではなく、もっと端的な「一体化」が確信されているのである。

 ロマン主義と異なる第二点は、ロマン主義にあっては、この「自然」と「人間」との架橋にあたって、「神」が媒介される。しかし「根源的紐帯」においては、こうしたものは必ずしも必要とされず、その結合はいっそう直接的であり、ある意味ではアニミスティックとさえ言えるだろう。

 このように今日では当たり前になった「ネイチュア」の訳語としての、つまり森羅万象を総括する意味での「自然」という言葉の定着には、意外と長い時間を要したことがわかる。のみならず訳語としての「自然」はワーズワースなどのロマンティシズムの味わいをもっているだけでなく、今述べたように、森羅万象に関する日本に伝統的な感じ方や考え方もその中に浸透しているのである。他方、デカルト的な、生命を欠いた因果法則的「自然」も、自然科学の移入とともに潜在的に日本にとり入れられている。「自然」という日本語が複雑な内容をもっており、一筋縄ではゆかないのは、こうした事情による。

109-11頁: ルビ省略、傍点は太字で示した


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