カテゴリー「経済・政治・国際」の記事

2015年3月20日 (金)

田中智学の八紘一宇

「八紘一宇」という言葉が いきなり話題になってる

ハフィントン・ポストの記事がすごくよいので 助かる

「八紘一宇」とは何か? 三原じゅん子議員が発言した言葉はGHQが禁止していた

まぁいろいろ論じることはあるが… 上の記事を補足する情報をちょいとメモしておこう

島薗進先生の 『日本仏教の社会倫理』 の一節である



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 では、日蓮主義および在家主義という新形態をまとった田中智学の正法理念は、国家神道とどのように関わりあったのだろうか。初期の田中智学は国体論にふれることはなく、日蓮宗による仏教国家の樹立を展望していた。ところが、一九〇〇年代の初期に智学は「国体」、すなわち神聖な天皇による統治の理念を取り込んでいく。日蓮宗の正法理念と国家神道とを折衷したような主張を展開し、そのことによって国家神道体制の下での影響力拡大に成功するのだ。

 一九〇四(明治三七)年に公表された『世界統一の天業』で、智学は『日本書紀』に記された神武天皇の即位の際の言葉に注目する。「養正」と「重暉」というあまり知られていない語(それぞれ正義と明智を表すとされる)が、徳治の理想を示すものであり、この理念に基づいてなされてきた歴代の天皇の統治は神聖だった。だから、万世一系の統治がなされてきたとする。これは万世一系の天皇による統治の神聖性が、天照大神との血縁や天照大神の神勅により神聖性として示されていないという点で、正統の国家神道の教えから逸脱している。だが、「国体」の語を積極的に用い、歴代天皇の統治を神聖なものとする点では国家神道体制を受け入れる姿勢を示すものだ。「八紘一宇」の語が国体の理想を示すという用法は、田中智学が用い始めたもので、この点からも近代の「国体」理念の展開という点で智学は無視できない存在だ。

223-24頁: ルビは省略

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 ここまで述べてきたように、その日蓮主義は在家主義という新しい考え方とも深く関わっていた。出家者=僧侶や寺院ではなく、在家信徒こそが仏法実践の主要な担い手だという立場だ。田中智学は在家主義的な法華=日蓮仏教の宣布を理想としたが、当初からそれを、国家が正法(法華=日蓮仏教)に帰することによって平和と発展を、ひいては世界統一を実現することと結びつけた。

 やがて国家神道が優勢になってくると、それに妥協しながらも、法華=日蓮仏教と世界統一国家の「理想」を追求するようになる。この転機となったのは、一九〇〇年代前半に国体論を取り込み、国体論と法華=日蓮仏教とを合体させたことである。これにより、救済論的な使命をもった国家を支える法華=日蓮仏教という政治的な理念が強力に作動することになった。

 これは元寇の危機に際して法華仏教による国家救済を唱えた『立正安国論』(一二六〇年)の日蓮の国家救済思想の側面にインスピレーションを得たものだ。ほかの仏教潮流を厳しく否定しつつ、自ら信ずるところの正統仏教による統一を主張する宗派主義的な正法で、石原莞爾や井上日召をはじめ政治的関心の高い多くの人々をひきつけた。さらに、宮沢賢治のように政治的関心というより、高度に洗練された宗教的理念と文化実践を結びつけようとした人も、また田中智学の強い影響を受けたのだった。

225頁: ルビは省略

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2015年2月26日 (木)

中華民族主義、もしくは漢民族復興主義

2015年2月25日付 朝日新聞 朝刊に

(インタビュー)「中華民族復興」 パトリック・ルーカスさん

という記事がのった。 ネット上でも読める

ナショナリズム研究者の端くれとして言わせてもらえば

これぞまさに 最も基本的なナショナリズム論!

そしてこれが全てといってよい! アルファにしてオメガである

なお、記事によれば、ルーカス先生は 中国語で 「民族主義」 という概念を使っていたらしい。 nationalism と 民族主義 (中) との異同については、別に議論する必要はあろうが、ともかく これは秀逸な 「文化ナショナリズム」 論だ

以下、部分的に抜粋しておく

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愛国主義には健康的な部分もあり、必ずしも他者を傷つけるわけではありません。民族主義はそもそもが差別意識であり、他者を必要とする。そして往々にしてその他者に害を与えます。『我々は別の人々よりも優れており、特別』、だから、『我々はやりたいことができる』。それが基本理論です。

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共産主義はいわば淘汰され、民族主義が統治に使われ始めたのです。

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民族主義を広めるのは実はびっくりするくらい簡単です。理論が簡単、というより空っぽですから。

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指導者やエリートが『我々の社会は元々こうだ』と言い出すと、人々はわりと簡単に歴史認識を変えてしまいます。それだけ民族主義は、統治者にとって使いやすい道具ということなのです。

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正確に言えば、中国の民族主義は中国人全体の民族主義ではありません。漢族の民族主義です。

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誤解のないように言っておきたいのですが、中国のすべてが民族主義というわけではありません。民族主義だけで中国を定義してはいけません。


<引用おわり>


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さて、ここでむずかしいのは 「宗教とナショナリズム」 論である

一見するとむずかしそうでないのだが、 これは本当にむずかしい問題だ

公理は次のふたつ

  • 宗教とナショナリズムとは相いれない
  • 宗教とナショナリズムをつなぐのは 「文化」と「歴史」 である

ここから、どういう論を展開していくか…

現代宗教の動態を精確にみすえた理論は 世界のどこでも出てないと思う

ユルゲンスマイヤーでは もう全く! ダメ! だと思う

2015年2月 9日 (月)

世俗人、あるいは資本家と資本主義者

近代性について考えていくと、 国民国家と資本主義のところで どうにも行き詰ります

いずれもが、近代を決定的に規定するのですが

いずれもが、近代性の原則 「人間主義・個人主義・合理主義」 とうまく合致しないからです

ここら辺は こつこつと考えてきましたが やっぱりまだ上手い答えがみつかってません

さらに こつこつと勉強していくしかなさそうです

ということで… 次の新書『セクトの宗教社会学』から、一節をご紹介します


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 リュック・ボルタンスキーとエヴ・シアペロは『新・資本主義の精神』 [邦訳は下記リンクの 『資本主義の新たな精神』] において、「近年の資本主義の変容にともなうイデオロギーの変化」を研究している。彼らによれば、資本主義は三つの時期を経験してきた。第一期は十九世紀末に現われ、それは「ブルジョワ的」で「家父長的」そして本質的に「家族的」な起業家世界の側面によって特徴づけられる。このような側面は、本研究 [ナタリ・リュカ『セクトの宗教社会学』] が扱う社会的な問題集団 [セクト/カルト] の特徴には合致しない。しかし、第二期および第三期の特徴は、これらの集団にぴったり当てはまる。第二期資本主義の精神は、一九三〇年代から一九六〇年代に発達したもので、それはとくに戦中および冷戦期の「社会的公正を目指す大企業と国家の協力」によって特徴づけられる。大企業は社会的使命の担い手を自任し、勤労の精神を強調した。その規模は「目がくらむほど巨大」で、第一期を特徴づけていた家族企業の規模とは雲泥の差である。そして「大規模な経済、製品の標準化、労働の合理的組織化、市場拡大の新技術に依拠しながら、大衆向けの商品を産み出していった」。大企業の特徴は効率という基準を追求したことで、それが年功序列の基準に代わり、昇進を正当化する唯一の基準になる。労働者は「資本蓄積の過程」において決定的な役割を担っているにもかかわらず、その「主たる享受者」ではない。

74-75頁: 注は省略した

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「第三期資本主義の精神」 は次のようにいわれる

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 共産主義の崩壊は企業に大きな衝撃を与え、そのあり方を深いところで変えてしまった。「一九八〇年代後半、冷戦の終結にともない資本主義のみが生き残った。それに対抗しうる信憑性のある代替物が現われることはなかった」。資本主義を正当化する論理がいっそう個人主義的なものとなり、企業は国家との関係を解消する。競争の激化とグローバル化の進展のなかで、企業は人事もさることながら技術の適用性を重視する。もはや人員を丸抱えで導くだけの強力なイデオロギーがないため、企業の動員力は自分のヴィジョンを伝えて従業員を引きつけることのできるカリスマのある指導者の肩にのしかかる。このようななかで登場してきた職務に、「各人の潜在能力を伸ばすよう個人指導を行なう役割」を担う「コーチ」、チームのレベルで同様のはたらきをする「マネージャー」、情報を握っている「エキスパート」などがある。従業員全員に大きな責任が負わせられ、各人は「雇用条件を満たす能力」を最大限発揮するよう求められ、自分が携わっているすべてのプロジェクトにおいて有能であることを示さなければならない。そのためには、各人は人間関係のネットワークのなかで自分の位置を見出し、それを活用しなければならない。成功するためには、ひとつの仕事を覚えるだけではもはや不充分で、リスクを引き受けながら刷新をめざし、もはや私生活と職業生活の区別がつかなくなるくらい、自分の人柄と誠意を賭けなければならない。すると、失敗は個人的な性格を帯び、その人の価値は下落し、場合によっては孤立を招くことになる。

77-78頁: 注は省略した

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2015年1月28日 (水)

「宗教紛争」「宗教戦争」という名づけはあまりに問題含みである

いま書いている文章の一節――

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「宗教紛争」という名づけはまったく表層的で、真相はきっとおそろしいほど複雑であるにちがいない ―― 多くの人びとはどこかでこのことに気づいている。

わたしたちの調査でもそのことは十分示唆されているし、また最近の報道でも、「宗教紛争」をめぐって政治や経済、教育やメディアなどの要因を強調的に論じることで、問題がそう簡単には記述説明できるものではないことが示唆されるようになっている。

しかし、それらの語りのいずれにおいても、すっきりとした見通しが立っているわけではない。

せいぜい複数の要因を列挙して問題の複雑さをにおわせたり、ときに真の「原因」は経済なのだ(経済的な利害対立が宗教集団のかたちをとって現れている)とか、紛争において宗教は「政治に利用され」ているのだ(政治家や官僚、宗教的指導者の扇動によって宗教集団が対立へと導かれる)とかの断定がなされたりするぐらいだ。

こうした見立ては完全な的はずれではない。むしろ最も重要な理解ですらある。

しかしあまりに多くの事柄が説明されないままのこされている。政治や経済が決定的な要因としてはたらいているのは確かだとして、では「宗教」はそこにどう関わっているのか。こういう最も基本的な点はあいかわらず不明なままである。

こうして結局のところ、宗教を紛争や戦争の「原因」「主特徴」とみなす単純な言説が前面へとしゃしゃり出てきて、お茶をにごしてしまう。

そのような語りが、実際に起きている深刻な事態の理解把握からほど遠いことや、当の信仰者にとってきわめて侮辱的であることなどには、もはや十分な関心がはらわれなくなってしまう。

「宗教紛争」についての語りは明らかに、きわめて不安定なまま放置されている。

そろそろわたしたちは「宗教紛争」論を精緻化のうえ整理せねばならないだろう。そして、その整理は「宗教紛争」の特別視をひかえ、「民族紛争」や「地域紛争」との無理のないつながりを発見させるものとなるだろう。

より的確な語り(概念と理解と用語法)を提供するのは専門家の仕事である。実際、この問題は宗教学者、政治学者、地域研究者などにより熱心に取り組まれており、蓄積された成果は大きい。

しかし、理由はどうあれ、いまだ定説と呼べるようなものもコンパクトな理解の仕方も確立していない。一般の言説状況の混乱は、そうした専門家サークルの停滞を反映しているとみてよい。

熱心に問われてはいるのに、まだまだ定説をもつには程遠い問い ――

  • そもそも「宗教紛争」とは何なのか。宗教が「原因」の紛争のことなのか、「主要因」の紛争のことなのか。あるいは単に、宗教となにか関わりがあるといった程度のことなのか。
  • ある紛争に「宗教(的)」という接頭辞ひとつを付すという言葉づかいは、歴史と現状についてのどのような理解にもとづいているのか。
  • 「宗教紛争」と呼ばれる事態が起こる背景や仕組みはどのように理解したらよいのか。

そして、より根底的な問いはこうだ ――

  • 「宗教紛争」という名づけは本当に妥当だろうか。
  • つまり、「宗教紛争」なるものは本当に実在しているのだろうか。
  • それは単なるラベリングにすぎないのではないか。
  • 「民族紛争」「地域紛争」などと呼ばれるものと、それは本当にことなるのだろうか。
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2014年10月16日 (木)

【公開講座】 インドの今を知る

こんな公開講座をさせていただきます

日本女子大学 生涯学習センター のプログラムです

ご関心の方は、ぜひぜひおいでくださいませ ⇒ 申込はこちらから (要 無料会員登録)

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インドの今を知る ―2014年総選挙から見る「立ちあがる巨象」の姿―

 世界はますます混迷の度合いを深めています。日本の不安や動揺もその一部です。政治経済、科学技術、宗教文化など、全ての面をどこかへ運び去る地球史の大きなうねりが、私たちをすでに飲みこんでいます。
 こうした時代、方向の見定めがとても難しくなるのは必然です。ひとつの抜け道は、外国の情勢に目を向けてみることでしょう。私たちと同時代を生きつつ、歴史的に別様の体験を経てきた場所について、多少なりとも踏み込んだ知識と理解を得ること、それは私たちの視野をおのずと広げ、現状と未来について豊かで鋭い理解を与えてくれるかもしれません。
 この講座では、こうした関心から「インドの今」を解説してみたいと思います。



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2014年10月 6日 (月)

コミュナリズムの友敵イデオロギー

また、こんな文章を書いてみました

「コミュナリズム」とは、インドにおけるいわゆる「宗教紛争」のことです

また、途中で「霊的原初主義」という表現がでてきますが、ボクの造語です

あんまり気にせず どうぞ読み飛ばしちゃってください _(._.)_

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 ムスリムのものであれヒンドゥーのものであれ、コミュナリズムに特徴的なのは、友敵関係の絶対化である。だれが味方でだれが敵方かという枠組みが、認知全体の根底にすえられているのだ。コミュナリストによれば、この関係は、目にみえる物理的な戦闘としてあらわれることもあれば、抑圧や差別や不正義などとして構造的にあらわれることもある。弱肉強食の闘いがいままさにくり広げられているなか、自分たちはそこにまきこまれている。しかも、劣勢におかれるか、一方的な被害者の側におかれている(コミュナリスト・イデオロギーの内容について、具体的で実証的な比較研究のためには別の一冊の本を要しよう。インド研究がもっともさかんな英語圏ですら、それにふさわしい本はまだない。ヒンドゥー・コミュナリスト・イデオロギーについては、わたしの博士論文を参照していただきたい)。


 こんな戦況はなぜ生じたのか。コミュナリストは明確にこたえる――「われら」の陣営が、激烈な友敵関係がそこにあることをみうしない、味方の結束がどれだけ大事であるかをわすれ、かえってそれを乱すことで、敵方に有利な状況をみずからつくり出してしまっているからだ。こうした認識がみちびき出す処方箋は、ごく簡単なものだ。すなわち、ヒンドゥーであれムスリムであれ、自陣営はまず覚醒し、それから団結して、戦闘能力をあげよ。そして、暴力のそしりをおそれず、なすべき対処はこれを断固としてなさねばならない。わたしたちは生死をかけた闘いにのぞんでいるのだから。


 コミュナリズムの根底にある友敵イデオロギーは、さらに、その友敵関係を歴史的なものとみなす。かれらにとってこの闘いは、つい最近はじまったものでは決してない。個々人の生い立ちや人生をはるかにこえて、数百年にわたりつづく戦闘状態がみいだされているのだ。たとえばヒンドゥー・コミュナリストの場合、「ムスリム」こそが敵である。「ムスリム」は千年もの昔から「ヒンドゥー」とその大地インドを蹂躙しはじめ、いまもそれをつづけている。当初は勇猛にたたかった「ヒンドゥー」であったが、敗北のすえ闘志をうしない、そればかりか、非暴力の理想を云々しながら、敗北主義者としていきながらえることに慣れきってしまった。今ここでの「われらヒンドゥー」の苦境は、こうした歴史の果実である。だから「ヒンドゥー」よ、いまこそ目覚め、団結し、勝利せよ。


 ここにおいて、霊的原初主義はコミュナリズムへと、いきおいよく引きよせられていく。霊的原初主義はそれ自体なんの攻撃性もふくみもたない。しかし、友敵イデオロギーに対する免疫(それを拒絶するための論理)をもちあわせていない。一人ひとりの人生そのものであるような実在の集団(ヒンドゥーであれムスリムであれ)が危機におちいっているのに、あなたはそれをしらない、なにも行動をおこさない、そんなことで本当によいのか。このように問われたとき、善良でまじめな人物ほど、コミュナリズムの友敵イデオロギーを批判することができないどころか、その呼びかけに心を動かされてしまうだろう。


 ここに、わたしのような立場のものが、霊的原初主義への「反対」(「否定」ではなく「反対」)をしめさねばならない必然性がある。ここではとりあえず、「ヒンドゥー」についてそのことを主題的に論じているわけだが、「ムスリム」についてもまた、同様の忠言を、わたしはおこないたい。ただし、「ムスリム」の集団性の存立要件は「ヒンドゥー」のものとはかなりことなる。明確な始原が集団性の維持発展が初期条件として設定されており、なおかつその維持発展が当初から最重要課題として設定されているからである。

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2013年4月20日 (土)

ポピュラー・ナショナリズムを支える大情況― テッサ・モーリス=スズキ(2002)より

テッサ・モーリス=スズキ先生の『批判的想像力のために』

東大での非常勤講義の参考書にあげた

その「あとがきに代えて」から引用させていただきます

なお、文庫版もありますが ボクが読んだのはハードカバー版です

スズキ先生は

「ポピュラー・ナショナリズム(大衆受けを狙うナショナリズム)にその選挙区を置くコメンテーターや政治家たちは、大衆の持つ不可視の不安を、明瞭に見ることが可能なものへの置換によって生き残りを試みる」(271頁)

との状況把握について

その「生き残り」戦略を有効にしている「大情況」を次の二点に要約する

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 一、いわゆる「グローバリゼーション」の過程が、資本・雇用・思想・宗教・情報・商品等々の越境化を急激に増大させるなか、資本から商品等々に至る越境的フローを容認し制度化するレジュームは、ここ三〇年間で、その基層において変容した。それにもかかわらず、この変容は人間のフローを制度化する部分には、ほとんど触れられていない。すなわち、各国民国家内での移民政策、国籍政策、あるいは国際的な難民条約等々の基層を成す想定や政治力学には、第二次大戦終結以降、ほとんど変化がみられなかった。

 この制度と現実間の矛盾の存在は、時間の経過とともに拡大した。したがって、新しい問題を古い制度によって解決しようとする試みが、不条理で非人道的な結果を生むのだ。

 二、いわゆる「グローバリゼーション」では、社会的経済的構造の変容が起こり、その構造が複合化することにより、全体図が見えにくくなる。その不透明感、そして個の次元で感じる不安の原因を、人々は「外部化」することにより確かな砦を築き上げ、自衛の策を取る場合が多いのではなかろうか。

 また、それに加えて、国民国家内部での、実際の経済諸条件ならびに資本の流出入等は、国民国家の次元での政策のみでは、ほとんど統轄不可能な状態であるという現実が存在する。

 この実際的権力の侵蝕作用に際し、政府は多くの場合、象徴的権力の強迫的補強により埋め合わせを狙おうと企てる。その好例が、一九九九年、日本における「国旗・国歌法」の制定であり、「強制はしない」と閣議決定をしながら、公立学校の入学し、卒業式での君が代斉唱、日の丸掲揚の実質的「強制」だった。一方、これは、オーストラリアにおいては、ジョン・ハワードが興味深くも名付けた国家の「絶対主権 absolute sovereignty」という、水の上に引かれた想像の境界線によって囲われた神聖なる「固有の領域」を条件なしに保持し続けることでもあった。

269-71頁

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2013年1月23日 (水)

経産省の介入派と制度派、あるいはグローバル化の下での経済ナショナリズム

2013年1月21日付 朝日新聞朝刊に シリーズ「限界にっぽん」の記事が載った

構成がなんだかややこしいのだが、どうやら

「第2部 雇用と成長 大阪から⑤」 というのが総括タイトルのようだ

1面と6面、二つに分かれている

ネット記事に出てくる「眼中に日本なし」という句は 紙面にはない

第一記事のタイトルにある「竜」とは中国のことである

液晶パネルの分野にフィーチャーして 中国企業の台頭と日本企業の凋落をレポートする

善し悪しはべつにして、典型的な経済ナショナリズムの枠組みによる見方だ

記事の締めの段落には こうある

手厚い官の支援と巨大市場の力で台頭する新興国にどう立ち向かうか。企業の戦略とともに、政府の産業政策が問われている。

これを受けての第二記事(6面)になるわけだが

そこでの「介入政策の復活」という切り口が 僕の眼をひいた

経産省内部での路線対立の紹介だ

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 経産省には長年、二つの思想の対立があった。ひとつはフレームワーク派(制度派)と呼ばれ、規制緩和や金融政策などを通じて、経済成長を促すことを重視する考え方だ。もうひとつは、特定の産業や企業に介入するターゲティング派(介入派)と呼ばれ、成長が見込めそうな産業を重点支援したり、経営難の企業を救って業界再編を促したりする。

 ここ数年、介入派の成果はあがらなかった。エルピーダメモリは経産省が中心となって再建策をまとめたものの、倒産した。次々と再編を促した半導体や液晶は、どの社も青息吐息だ。

 その介入派がいま復権しようとしている。「新ターゲティング・ポリシー(介入政策)の大胆な遂行」。自民党の衆院選の公約には、そうある。アイデアを持ち込んだのは経産省だった。

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 子ども手当など分配政策に傾きがちだった民主党政権に代わり、自民党政権は成長政策を重視する。司令塔として日本経済再生本部を作り、その下に産業競争力会議を設けた。成長分野に税・財政を集中投入する「新ターゲティング・ポリシー」を立案する予定だ。

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 阿部政権が設けた日本経済再生総合事務局の約50人のうち、最大勢力が十数人を送る経産省だ。前のめりの経産省に対し「個別産業の救済を念頭においたものではない」と事務局幹部は牽制する。茂木経産相も「個別の産業というよりももっと全体を」という。

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具体的な制度・機構、活動する個人名なども 記されている

よくよく注目したい

2013年1月18日 (金)

アベノミクスと通貨戦争

いわゆる「アベノミクス」に対しては 賛否両論が大きく分かれている

相当に実験的な、厳密にいえば歴史的に前例のない政策であるため

万が一の場合、その責任をどうとるつもりなのか、という

慎重派の立場には 一理ある

一方、支持派の期待と熱狂も 大いに分かる

このまま真綿で首を絞められるように弱り死んでいくのではないか…

そうした恐怖は 実にリアルなものであるからだ

さて…

今日の朝日新聞(朝刊)に 小さな記事が載っていた

アベノミクス 海外から批判

ここで云われる「大きな懸念」は 国内の慎重派のものとはかなり異なる

そこで赤裸々に示されているのは

経済ナショナリズム(もしくは経済ブロック)同士の対立である

ふつう私たちは 国内の経済的な生活活動に注目するのだから

このグローバルな文脈には なかなか気づくことができない

あるいは、気づいたとしても その重要性を推しはかりかねる

だからこそ、これについては はっきりとした認識をもつべきだ、と思った

==========

記事によれば…

ドイツ財務相が公的に示した「大きな懸念」の背景には

「自分たちの通貨が割高になっていることへの不満があるようだ」とする

同相は、「世界で金余りがさらに進む」として 日本を批判した

また、ユーロ圏財務相会合の議長もまた

「ユーロ相場は危険なほど高い」としている

さらに、ロシア中銀の第1副総裁は

アベノミクスを「非常に保護主義的な金融政策」としたうえで

これが「急激な円の下落につながる」ことで

各国が自国通貨安を競う「通貨戦争」の引き金を引きかねない、との

懸念を示したという

==========

日本の国民経済と円を守ることは「政治」の真っ当な課題である

他国や他地域のことまで鑑みる余裕は 今の日本にはない――

実力や実態はともかく、意志と感情のレベルにおいてはそうだ――

これもまた大いに理解できることだ

しかしその一方で、「通貨戦争」の帰趨は 私たちの日常に直接影響する

あるいは、それが「戦争」であるからには 「人類」の幸の総量を大きく減らす

アベノミクスが 諸外国、諸地域に必然的にもたらす影響については

つねにセンサーを働かせておくべきである――

あらためてそう思ったです

2012年4月21日 (土)

貨幣論

ツイッターで相互フォローさせていただいている Satoruさん

話の流れで 「貨幣論」について ご紹介をいただきました

ツイッター上を流れて消えてしまうのは とても勿体ないので

以下に コピペさせていただきます

    • 2012年4月18日付
    • アマゾンのリンクは 私が貼りました

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<以下引用>

御要望もあったので、貨幣論に関することを少し。古典ともいえる『貨幣論』(岩井克人著、ちくま学芸文庫)、ケインズの『貨幣論』はどうしても通る書ですが、「貨幣」は当然、コンセンサスと言いますか、共通認識で成立するものであり、「貨幣は貨幣たるからこそ、貨幣だ。」ということを示します。

近年は、ナイジェル・ドッド著『貨幣の社会学』(青土社)辺りが既存の貨幣「制度」の枠組みへの疑義を示しますが、あくまでの視角変換の呈示でした。価値・交換・保蔵と三機能としての「貨幣」とはでは、どこに由来してゆくのか、と言いますと、完璧には決着していない部分もあります。

汎的強制通用力を持つ「貨幣」の定義に向かいますと、日本の場合、「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」に照応しますと、「通貨とは、貨幣及び日本銀行法 (平成九年法律第八十九号)第四十六条第一項 の規定により日本銀行が発行する銀行券をいう。」(同法2条3項)と記載されています。

「(中銀の発行する)銀行券=貨幣」と置くのならば、貨幣商品説と貨幣法制説の鬩ぎ合いになりますが、前者はシステム整備後の現代要素も含まれ、後者は近代以降の「共通認識」ベースで成立するものでもあります。『貨幣進化論』(岩村充著、新潮選書)などではその際のお金の不全性にも触れています。

「貨幣」を巡るには時代背景がありますので、ここから、というラインを敷くには艱難で、いまだに論議は交わされていますし、等価交換としての「それ」を指すものを、となりますと、時代を遡っていかないといけないでしょう。更には現代の金融経済システム下の「貨幣論」はまた特殊な意味も帯びます。

<引用おわり>

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