カテゴリー「01A 宗教学」の記事

2016年2月27日 (土)

[ワークショップ] オタクにとって聖なるものとは何か

新企画ライン 第6弾は 「宗教とオタク」! 皆さんのご参加、お待ちしております
 ・ 第1弾は 「映画」 でした (140302 開催)
 ・ 第2弾は 「食」 でした (140426 開催)
 ・ 第3弾は 「哲学」 でした (140517 開催)
 ・ 第4弾は 「音楽」 でした (140621 開催)
 ・ 第5弾は 「映画」でした (141122 開催)

※ 企画運営は 「エコノミメーシス R&D」。 この 「エコノ…なんとか…RD」 という集まりは 「藝術の宗教学 研究会」 を改名したものです

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エコノミメーシス R&D 第8回 ワークショップ 》


        オタクにとって聖なるものとは何か


宗教研究からするオタク論―― 意外とアカデミックな集まりになりそうです (*'▽')

○ 「オタク」 がしばしば宗教的になるのはどうして…?

○ 「オタク」 の宗教性はふつうの意味での宗教と同じなの、違うの…?

○ 「オタク」 が宗教と違うところ、むしろその独自性とはどこに…?

○ 「オタク」 はグローバルな宗教=文化動向となにか関係してるの…?

○ 「オタク」 の宗教性を語って、「オタク」 をどうしようというの…?


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日時 2016年2月27日(土) 13時30分-17時30分
           セッション終了後、18時まで 参加者の交流会をもちます

場所 日本女子大学 目白キャンパス 新泉山館 大会議室 ⇒ マップ

公開・参加費無料
事前に参加申し込みいただいた方にかぎり 当日、配布資料あり
   参加申し込み ⇒ http://www.economimesis.com/teaser/8/

   ※ 参加申し込みは 【当日 27日正午】 で打ち切らせていただきます。
     資料の印刷をする時間がこれでぎりぎりのためです。

パネリスト
  ・ 今井信治 (東京家政大学  非常勤講師)

題目(仮) 「拡張現実とアニメ「聖地巡礼」――来訪者アンケートを中心に」

キーワード 「拡張現実」「リアリティ」「ツーリズム」

主要参考文献

  • 北海道大学観光学高等研究センター文化資源マネジメント研究チーム(編)『メディアコンテンツとツーリズム―鷲宮町の経験から考える文化創造型交流の可能性』(北海道大学観光学高等研究センター、2009)
  • エドワード・ブルーナー『観光と文化――旅の民族誌』(安村克己・遠藤英樹他訳、学文社、2005=2007)
  • ディーン・マキャーネル『ザ・ツーリスト――高度近代社会の構造分析』(安村克己他訳、学文社、1999=2012)

  ・ 橋迫瑞穂 (立教大学  兼任講師)

題目 「『聖』なる少女のつくり方――『魔女っこ』と『ゴスロリ少女』」

キーワード 「少女」「モノ」「占い/おまじない」「データベース」「雑誌」

主要参考文献

  • 東浩紀『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』(講談社現代新書、2001)
  • 大澤真幸『虚構の時代の果て』(筑摩書房、1996)
  • 大塚英志『「りぼん」のふろくと乙女チックの時代――たそがれ時にみつけたもの』(筑摩書房、1995)
  • 島薗進『ポストモダンの新宗教――現代日本の精神状況の底流』(東京堂出版、2001)
  • 見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社、1995)

  ・ 茂木謙之介 (東京大学大学院  博士課程)

題目(仮) 「〈オタク論〉と宗教学知 ― 1970~2010年代のメタヒストリー」

キーワード 「オタク論」「学説史」「大塚英志」「東浩紀」「澁澤龍彦」

主要参考文献

  • 大塚英志『「おたく」の精神史』(講談社現代新書、2004)
  • 東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001)
  • 澁澤龍彦『少女コレクション序説』(中公文庫、1985)

ファシリテータ
  ・ 川村覚文 (東京大学大学院  UTCP  特任助教)


趣旨

 現代日本のオタク文化のなかに、宗教的なものを見出すのはたやすい。オタクたち自身、いくらか自嘲気味に「ネタとして」、しかし内心ではかなりの真剣さをもって「ベタに」、みずからの行動や世界観を宗教用語であらわすことがある。その行動様式もまた、自覚的であろうとなかろうと、しばしば「まるで宗教のようだ」。例えば、原始宗教を思いおこさせる奇天烈な衣装、古代の崇拝(カルト)とみまがう踊りや礼拝、集団の祈りのごとき形式化された絶唱など。

 オタク文化を彩る作品群(漫画、アニメ、ゲーム、ラノベなど)にも、宗教的な表象が満ちあふれている。伝統宗教の場や象徴がそっくりそのまま採用されていることもあれば、元の文脈から引きはがされた有形無形の断片が作品に意味をあたえていることもある。また、オタク作品群につねにあらわれる超常的で霊的な存在や力は、「宗教」という固い表現になじまず、むしろ、「オカルト」「スピリチュアル」「俗信」といった表現の方がしっくりくることも多い。

 制作者と作品とオタクとが、こうした世界観において「何か」を交換しあい、多彩な文化をきずきあげているのだ。

 めくるめく伝統と霊性のオタク現象―― これをまえに、宗教研究には、重大な問いが突きつけられる。オタク文化はどうしてこうも宗教に「類似している」のだろうか。「共有されるなにか」があってこその類似のはずだが、それはなにか。はたして、オタク文化とは伝統的な宗教と「同じなにか」なのだろうか。それは「偶像崇拝」「多神教」「異教」と何が異なるのだろうか。あるいはまた、「宗教」という言葉をさけて、「スピリチュアル」「霊的」「俗信的」「空想的」などの言葉を使えば、それはうまく説明されるのだろうか。

 現在、宗教社会学の先端では、これらの問いが真摯にとりくまれている。本ワークショップでは、その潮流をけん引する4名の若手研究者を交え、「宗教研究からのオタク論」の今後について見通しをえたい。

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公式サイト http://www.economimesis.com/teaser/8/ 
参加申し込み 同上 http://www.economimesis.com/teaser/8/

企画運営 エコノミメーシス R&D
主   催  日本女子大学 文学部・文学研究科 学術交流企画

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2016年2月24日 (水)

20世紀における「反近代」の変容

こちらのワークショップ での主要参考文献のひとつ

島薗進 『ポストモダンの新宗教―現代日本の精神状況の底流』 (東京堂出版,2001年) より

近代は、「反近代」をつねに内包させてきた――

この事実が、ポストモダンを論じるのをいつもむずかしくさせます

この本では、とくに近代日本の新宗教団体の歴史に注目して

「反近代」の変容について語っている箇所があります

それは、「見えにくい、しかし大変大きな変容」だと言われています


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 幸福の科学が新新宗教[1970年代以降に発展した宗教団体]による近代的価値への批判のあり方の典型だというわけではない。これは一つの例にすぎないのだが、ここにポストモダン的な近代批判という点でこの時期[1990年を前後する時期]の時代相が如実に表現されているのも確かだろう。かつての新宗教[江戸時代の末期から1960年代までのあいだに発展した宗教団体]の中にも、西洋的近代への批判や唯物思想批判を唱えるものが少なくなかった。大本教はその代表的な例である。

 しかし同じく近代批判、唯物思想批判といっても、その意味が相当に異なってきている。大本教では「われよし」の態度が告発の主たるターゲットであり、相互扶助精神の崩壊を招く利己主義、私利追求主義が厳しくとがめられた。そこではヨコの連帯の意識が基礎にあり、それを脅かすものに批判が向けられた。新新宗教においてはヨコの連帯の意識は薄く、タテの秩序を回復することに力点が置かれている。資本主義的な自由競争を是認しつつ、差異に基づく階層的秩序を再建し、悪平等がもたらす混乱に対処しようとするのである。宗教はヨコの連帯や苦悩への共感のよりどころとしてよりも、聖なるものに基づく差異を確立し、距離をもって対すべきものの場所を指し示す根拠として理解されている。

 こうした相違は「反近代」、すなわち近代的価値への抵抗のモメントが、二〇世紀を通り過ぎる間にこうむった、見えにくい、しかしたいへん大きな変容を反映している。[1970年代以降]新宗教において地域の小集団が発展しにくくなってきたことは、第二章で述べた。これは身近な生活感覚を分かち合う人々のヨコの連帯の感覚が弱まってきたことと関わりがある。暖かい共同性の中に住まおうとしても、身近な生活空間の中では容易に実現しそうではなくなってきた。砂漠の砂粒のような孤立感に脅かされるとき、メディアを媒介としたゆるやかな連帯意識[たとえば、「新霊性運動=文化」にみられる]はとりあえずの落ち着き場所と見える。しかし、それは安定した秩序や根の降ろしどころを示してくれるものではない。

 自由競争が生活の隅々にまで浸透するとともに、画一的な平等主義の抑圧性が自覚されるようになり、相互扶助に根ざした共同性が現実性を失い、イメージすることも難しくなってきた。無理にそれを実現しようとすれば、内閉的な集団を構成することになってしまい、安定感を提供するように見えながら、実は抑圧性を強化するしかないというように見える。また、その方向をとるにせよとらないにせよ、ヨコの連帯よりも差異と階層性を強調する方向で、近代への抵抗を組織化する傾向が目立つようになってきた。秩序の元基をヨコの連帯よりも、聖なる中心と階層性の方に見出す考え方が力を得てきたのである。


236-237頁: 注は省略


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2016年2月17日 (水)

島薗進 『ポストモダンの新宗教』 (2001)

こちらのワークショップ での主要参考文献のひとつ

島薗進 『ポストモダンの新宗教―現代日本の精神状況の底流』 (東京堂出版,2001年) より

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 では、[ポストモダンの新宗教、すなわち「新新宗教」において] このように隔離型や個人参加型という両極端のタイプの教団がいくつも登場するようになったのはなぜだろうか。隔離型と個人参加型がふえてきたということは、中間型の教団の占める割合が [「旧」新宗教のなかで] かつては圧倒的多数だったのに、今ではかなり低くなってきたということでもある。いいかえると世俗生活と連続的な生活規範(「心なおし」の体系)の習得深化を目標とし、教祖や最高指導者から地域熱心家に至るヒエラルヒー的な指導者系列をもつ信仰共同体を形成することが困難になってきたということである。さらに、なぜそれが困難になってきたかといえば、世俗生活(一般生活)の道徳的秩序やそれを土台とする親密な人間関係が築く(守る)に足りるもの、守りうる(築きうる)ものと感じられなくなってきたからだろう。いいかえれば、情報化が進み、社会構造がますます複雑化・多様化し、人間関係の機能化が進んだために、人と人との絆が弱まり、それを反映して個人主義的な考え方が広まってきたということである。

 そうした状況で、一般社会に適合する方向でなお教団が形成されるとき、個人参加型の特徴を帯びるようになる。すなわち心なおしの教えが薄められ、信仰共同体も散漫なものになるという形である。こうした教団は時に、宗教書や救いの処方箋や瞑想法などの宗教商品を販売する会社のように見えることがある。一方、一般社会の趨勢に対抗し、道徳的一致や緊密な共同体の形成を目指すとき、隔離型の教団が形成される。つまり、一般社会とは断絶した強固な道徳規範と共同体を作ろうとするわけである。こうした教団は一般社会との厳しい緊張関係に立ち、社会問題を引き起こす可能性が少なくない。統一教会の霊感商法のように、他方で方便として宗教商品の販売会社的な活動を営むような場合にはなおさらのことである。


35-36頁


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2015年12月17日 (木)

ヒンドゥーの霊的原初主義

こちらのエントリ「コミュナリズムの友敵イデオロギー」

「霊的原初主義」という謎めいた造語を使いました

その簡単な説明文です

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 かれら「ヒンドゥー」の霊的原初主義の立場によれば、「ヒンドゥー」は超歴史的な実在である。「ヒンドゥー」は、起源こそはっきりしないにせよ(超越神から聖者への啓示というできごと、およびその記録としての聖典が、不明確にしか特定できないか、あるいは始原としての絶対的な意味をもっていない、という事情があるにせよ)、はじまりのわからぬ太古の昔から現時点まで、そして未来にわたっても、ひとつの集団として実在しつづけるのだ。そして、この実在は超歴史的であるのと同時に、まったく歴史的でもある。なぜなら、神がみと人びとが、インドという大地において(大地もまた女神そのものである)、具体的ないとなみを各時代の各場所でひとつひとつ、つみ重ねてきたことで、それは永続性をもちえているからだ。


 こういったわけで「ヒンドゥー」は、まったくこの世的かつ霊的でもあるような諸存在のなかでも、特別な価値をもった実在になる。そして、おおくの人びとがその実在と自分との連続性、一体性をみる。ひとりの人間として、「ヒンドゥー」という偉大な実在をみずからの人生へと引きうけ、それを実際に生きるのである。その人生においては、分析的で批判的な理性をもちいて史実をこまかく確認する作業は、必要とされない。「ヒンドゥー」という実在は、根拠などもたない(というより、すべての根拠そのものであるところの)自明の真理なのであって、議論の余地はないからだ(宗教分類学が設定した「自然宗教」「創唱宗教」の区別でいえば、前者の「宗教」のあり方がこれにあたる。しかしわたしは、このような「宗教」という語の特権的使用法にまったく批判的なので、この分類学を採用しない)。


 「ヒンドゥー」の霊的原初主義者にとって、本書の歴史語りは不要で余計な作業である。さらにもし、それが自分たちの世界観を否定するなら、迷惑なことである。わたしはもちろん、かれらの霊的原初主義を「否定」などしない。その人生観、世界観はわたし自身のものとは大きくことなるけれども、それとして価値があり、尊敬にあたいすると考えるからだ。しかしわたしはそれに「反対」はする。なぜなら、ヒンドゥー・コミュナリストもまた霊的原初主義の歴史観を採用するからだ。コミュナリズムへやすやすと引きよせらる歴史観に対して、わたしとしては、尊敬にもとづく慎重さをわすれることなく、チェックをいれておかないわけにはいかない。

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2015年11月11日 (水)

映画上映会 『マダム・マロリーと魔法のスパイス』

大学の公式サイトには告知が出てないようですが…

映画上映会やります (。・ω・。)

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インドって、どういう国? 映画で知るインド事情

映画 『マダム・マロリーと魔法のスパイス』 を通して

日時 2015年11月12日(木) 14:30~17:30

場所 日本女子大学 目白キャンパス ランゲージ・ラウンジ

※ 予約不要、無料
※ 非営利 研究教育目的



留学生など学生さんの企画で お声かけいただきました ('ω')

この映画、実は 「アヨーディヤー暴動」 を背景にしておりまして

私の研究テーマそのものなのであります

簡単な背景説明などをしながら、たのしく映画鑑賞したいと思います

学外の方でお越しになりたい方、いらっしゃれば 私にお声かけを!

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<追記 151113>

うえで「アヨーディヤー暴動」云々と書きました

しかし、映画を実際にみたら アヨーディヤーかどうかはわからないな、と気づきました

「ボンベイ」ではなく「ムンバイ」という語を易々ともちいるなど(改名は1995年)

むしろ、「アヨーディヤー暴動」ではないのかな、その後の暴動かな、と

劇場で一回観ただけだったため、勝手な思い込みをしてたようです

インド研究者の端くれとして、お詫びして訂正します

2015年11月 9日 (月)

公開講座 「生きられる宗教 ―世界のなかの日本の宗教」

公開講座、やっております

うっかり、こちらでの告知をし忘れておりました…

平日の真昼間、しかも有料ということで お誘いするのも心苦しいのですが

ゼッタイ損はさせません

ご都合のつく方は、ぜひともおいでくださいませ

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日本女子大学生涯学習センター(目白) 公開講座

生きられる宗教 ―世界のなかの日本の宗教―

  • 第一回 11月4日(水) 13:30~15:00
  • 第二回 11月11日(水) 13:30~15:00

日本には独特な宗教文化があります。科学と合理主義の時代となった今も、それはこの列島にたしかに息づいています。/本講座では、「日本の宗教」を、世界各地との比較から描きだしてみたいと思います。この極東の島国に、これまでどんな宗教が流れこみ、それらはどんな組みあがりをしたのでしょうか。その様は、他の場所とどこが異なり、どこが同じなのでしょうか。こうした問いから「生きられる宗教」を理会することは、今を生きる私たちの視野を豊かに、そして広くしてくれるはずです。

講座全体の紹介 https://llc.jwu.ac.jp/jitukouza.html
わたしの担当講座の紹介 https://llc.jwu.ac.jp/jitukouza2015/an_B508.html

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2015年7月21日 (火)

クザーヌスのお勉強

ツイッターにて

私がクザーヌスを読んだことない、と申し上げたら

哲学徒・うへのさん(鍵付き)から 次のような教示をいただいた

メモ代わりに ここに記しておきます

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私は邦訳でかつ必要な範囲で読んだのみですが、面白いです。もちろんクザーヌス自身を読まれるのが、ベストですが、W.シュルツ『近代形而上学の神』(早稲田大学出版)の中に「クザーヌスと近代形而上学の歴史」という講演録が入っておりまして、これは大変面白いものです。

また同時にここでなされているイコンの議論は現代思想との関係で言えば、マリオンに響いていることが容易に見て取れるかと思います。マリオンについては、関根小織「否定神学化する哲学」(『哲学研究』576号)で、

また我らが佐藤先生の「ありてある哲学者の神」(『基督教学研究』第25号)が面白いです。西田に関して言えば、西田はとりわけ初期にクザーヌスを引きます。西田がクザーヌスをどのように考えているかについては、

旧版の『全集』第十四巻所収の「Coincidentia oppositorum と愛」という講演録に簡潔に出ております。また、手元にないのですが、藤田正勝「後期西田哲学の問い」(『日本の哲学』第6号)で、この講演録を引いて身体論の議論をしていたと記憶しています。

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2015年6月 1日 (月)

宗教者と無神論者の双方に関わる問題、あるいは信への転回

《世俗の宗教学》 にとっての(西洋)哲学史上の基礎となるようなところ、じゃないかな

  • ロベルト・デ・ガエターノ著、廣瀬純翻訳・解題「シネマ地理学」 (同編『ドゥルーズ、映画を思考する』廣瀬純・増田靖彦訳、勁草書房、2000[原1993]年、70-131頁)

この論文から一節を引用します

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[…] というのも、哲学は、全宇宙空間に対する全知全能をあきらめることで、こんどは思考されざるものから、思考そのものの力、すなわち思考を信じることの力を作り出すひとつの思考の運動となるからだ。この「信じること」への転向=回心は、「宗教的な」思考者たちだけの問題ではなく、「無神論者」たちにも関わる問題である。 「キリスト者に対しても無神論者に対しても、わたしたちの全世界的なスキゾフレニーのなかでは、この世界〔の存在〕を信じることが許されていなければならない。 [中略] こうした「信じること」への転向=回心は、すでに哲学における大きなターニングポイントとなっていた。それはパスカルからニーチェにわたって行われた転換であり、これによって知(ること)のモデルが信じることによって置き換えられた。ただしこうして信じることが知(ること)にとって代わるのは、信じることが、あるがままのこの世界を信じることになるときだけなのだ」。 [★19] [訳注五七]

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(★19) L 'Image-temps, p.223-224 [2-7-2].

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(訳注五七) ドゥルーズが言う「信仰(croyance)」が極めて特異な意味を持っていることを理解するためにはこのテクストに付けられた脚注が参考になると思われるので、以下に引用する。「哲学史において、知に対して信仰を置き換えることは様々な書き手のなかに見出されるが、そのうちには経験でありつづける者たちだけでなく、無神論者へと回心した者たちも含まれる。ここから次のようなまさにカップルと呼べる存在が生じてくる。パスカル〔宗教者〕とヒューム〔無神論者〕、カント〔宗教者〕とフィヒテ〔無神論者〕、キルケゴール〔宗教者〕とニーチェ〔無神論者〕、ルキエ〔宗教者〕とルヌビエ〔無神論者〕。ただし、敬虔な者たちにおいてですら、信仰はもはや別の世界へと向けられているのではなく、この世界へと向けられているのだ。キルケゴールによる信仰、あるいはパスカルによる信仰ですら、わたしたちに人間と世界〔との紐帯〕を取り戻させるものとなっているのである」(L 'Image-temps, p.224 [2-7-2]. の脚注30)。ドゥルーズが言う「無神論」もまた極めて特異な意味をもつ。「宗教から引き出されるべき無神論が、つねに存在するのである。それは、すでにユダヤ思想においても真実であった。ユダヤ思想は、[中略] 無神論者スピノザによって、ようやく概念に達するのだ」(『哲学とは何か』一三二-一三三頁)。


112-13, 126頁



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宇野邦一らの訳『シネマ2*時間イメージ』からも 同箇所をひいておきますかね

個人的には、 上の廣瀬訳のほうがずっとわかりやすい

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[…] キリスト教徒であれ、無神論者であれ、われわれの普遍化した分裂症において、われわれはこの世界を信じる理由を必要とする。これはまさに信仰の転換なのだ。これはすでにパスカルからニーチェにいたる哲学の大いなる転機であった。(30) 知のモデルを信頼によっておきかえること。しかし信頼が知にとってかわるとすれば、それは信頼があるがままのこの世界に対する信頼となるときである。

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 30. 哲学史においては,信による知のおきかえが,まだ信仰を捨てていない思想家と無神論的な転回をした思想家とのいずれにおいても行われている.パスカルとヒューム,カントとフィヒテ,キェルケゴールとニーチェ,ルキエとルヌーヴィエといった真の対関係が,そこから生じる.信仰を捨てていない思想家にあっても,信はもはや別の世界にではなく,この世界にむけられている.キェルケゴールやパスカルによれば、信仰はわれわれに人間と世界とを取り戻させるのである.


240,(62)頁: 傍点は太字で示した



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2015年4月15日 (水)

宗教、表現作品、批評

宗教と世俗の問題のなかで 藝術をかんがえる、というのをいろいろやってきました

たとえば

「《映画の宗教学》 もしくは 「宗教と映画」論の課題」 というエントリ

なんかが一応 全体の理論的布置をまとめてたりしますし

「01F 藝術の宗教学 改め Economimesis R&D」 というカテゴリで

いろいろ書きためたりしてきました

んでもって、いま授業のひとつで 「批評」 をやっててですね

そこで 佐々木敦さんの『「批評」とは何か?』 を教科書していしてますが

その中にも 当然、ボクと同様の見立ててが出てきますので

ご紹介します



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[…]僕は小説とか映画とか、フィクションというものは、目に見えないものに対して何かが出来ると思っています。たとえばそれは人によっては、神様と呼んだり、幽霊と呼んだりするのかもしれない。僕は宗教なんか全然好きじゃないんだけども、まるで「神」の顕現みたいな感じがすることもあるのだと思います。

 たとえば、それこそメルツバウのライヴを観に行って、とんでもないノイズとかを聴いていると、会場はみんな耳をふさいでいるような状況でも、耳が慣れてくると、音が過剰に満ち満ちていて、ありとあらゆる音が重なっていて、その中に自分がいる、って感じがしてくる。そこにエクスタシーが生じてくるんです。それは単純に興奮するというよりも、体だけじゃなくて、体も頭も覚醒した状態なんですよ。要するにヤられてるんだけど、そのヤられてる感じをエクスタシーと呼ぶか、サブライム/崇高なものと出会っていると呼ぶのかは、人それぞれでしょう。そういうものをある種、神と呼んでもいいと思うこともあります。


290頁


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 それは批評だけではなくて、僕は映画を観たときによく感じるのですが、ストーリーとは無関係に、エフェクトとしかいいようがない経験がある。たとえばリヴェットの映画って三時間ぐらいあるんですが、その三時間を体験すると、身体的なことも含めて、何か不可逆的なエフェクトを与えられている気がする。それはすごく運動性があるものなんです。作品が一種のマシンみたいになっていて、そのマシンが何かをしている。その「何か」をする主体は作品であって、作品の背後にいる作者ではない。その「何か」をそのまま言葉には出来ないわけです。出来ないから、それと同じような作用をしていて、似たようなエフェクトを与えてくれる表現や作品が他にないかと考える。そうすると、違うジャンルの中に、全く同じではないにしても、何か似たような駆動、力の働きをしているものがあるような気がしてきて、それらを繋げてゆくことによって批評的なテクストが書ける、というのが僕の方法論なんです。それは映画から音楽に移って、最近また違う分野に行きつつあっても、たぶん一貫しています。

 主戦場的な現場が変わっていけばいくほど、それまで培ったものが巻き込まれていくので、ある意味では豊かになっていると思います。文芸批評みたいなことを書いてても、音楽の要素だって当然入ってくるし、映画も入ってくる。全部繋げられるというか、同じことをやっていると思えることが増えてきました。それはエフェクトというか、もっと大きな言い方で言うと世界の原理とでも呼びましょうか、「あの世って何?」みたいな。またスピリチュアルなことを(笑)。観念的なことかも知れないけど、そういうことです。物語でもないし、主題でもない。物語や主題とも深く関係があるけれども、それとはまた別の何かなんですよ。たとえばひとりの作家の小説をいっぱい読んでいくと、物語的な一貫性とか主題的な持続性とは別に、何かあるような気がしてきたりする。映画でも、たとえばアルトマンを全部観ると、一本一本は全然違うのに「何かあるな」と。その「何か」に無理やり言葉を与えようとする中で、批評的なモチベーションが起動してくるということが、僕はすごく強いんだと思います。


306-7頁


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2015年3月20日 (金)

田中智学の八紘一宇

「八紘一宇」という言葉が いきなり話題になってる

ハフィントン・ポストの記事がすごくよいので 助かる

「八紘一宇」とは何か? 三原じゅん子議員が発言した言葉はGHQが禁止していた

まぁいろいろ論じることはあるが… 上の記事を補足する情報をちょいとメモしておこう

島薗進先生の 『日本仏教の社会倫理』 の一節である



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 では、日蓮主義および在家主義という新形態をまとった田中智学の正法理念は、国家神道とどのように関わりあったのだろうか。初期の田中智学は国体論にふれることはなく、日蓮宗による仏教国家の樹立を展望していた。ところが、一九〇〇年代の初期に智学は「国体」、すなわち神聖な天皇による統治の理念を取り込んでいく。日蓮宗の正法理念と国家神道とを折衷したような主張を展開し、そのことによって国家神道体制の下での影響力拡大に成功するのだ。

 一九〇四(明治三七)年に公表された『世界統一の天業』で、智学は『日本書紀』に記された神武天皇の即位の際の言葉に注目する。「養正」と「重暉」というあまり知られていない語(それぞれ正義と明智を表すとされる)が、徳治の理想を示すものであり、この理念に基づいてなされてきた歴代の天皇の統治は神聖だった。だから、万世一系の統治がなされてきたとする。これは万世一系の天皇による統治の神聖性が、天照大神との血縁や天照大神の神勅により神聖性として示されていないという点で、正統の国家神道の教えから逸脱している。だが、「国体」の語を積極的に用い、歴代天皇の統治を神聖なものとする点では国家神道体制を受け入れる姿勢を示すものだ。「八紘一宇」の語が国体の理想を示すという用法は、田中智学が用い始めたもので、この点からも近代の「国体」理念の展開という点で智学は無視できない存在だ。

223-24頁: ルビは省略

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 ここまで述べてきたように、その日蓮主義は在家主義という新しい考え方とも深く関わっていた。出家者=僧侶や寺院ではなく、在家信徒こそが仏法実践の主要な担い手だという立場だ。田中智学は在家主義的な法華=日蓮仏教の宣布を理想としたが、当初からそれを、国家が正法(法華=日蓮仏教)に帰することによって平和と発展を、ひいては世界統一を実現することと結びつけた。

 やがて国家神道が優勢になってくると、それに妥協しながらも、法華=日蓮仏教と世界統一国家の「理想」を追求するようになる。この転機となったのは、一九〇〇年代前半に国体論を取り込み、国体論と法華=日蓮仏教とを合体させたことである。これにより、救済論的な使命をもった国家を支える法華=日蓮仏教という政治的な理念が強力に作動することになった。

 これは元寇の危機に際して法華仏教による国家救済を唱えた『立正安国論』(一二六〇年)の日蓮の国家救済思想の側面にインスピレーションを得たものだ。ほかの仏教潮流を厳しく否定しつつ、自ら信ずるところの正統仏教による統一を主張する宗派主義的な正法で、石原莞爾や井上日召をはじめ政治的関心の高い多くの人々をひきつけた。さらに、宮沢賢治のように政治的関心というより、高度に洗練された宗教的理念と文化実践を結びつけようとした人も、また田中智学の強い影響を受けたのだった。

225頁: ルビは省略

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