イラン革命イデオロギー

いくつかの本で勉強したところによれば、 イラン革命イデオロギー は 世俗的近代性に対するかなり明確な反対だということで 一致している。

実際は どこまでそうなのか、本当に そうなのか、、、一次資料にあたっていない僕としては 疑問はもちろんある。

しかし、そこに 「 世俗的近代性への反対 」 と解釈しうる余地が かなり大きくあるというのは どうもたしかなようだ。

では、ヒンドゥー・ナショナリズムの場合は どうか?

僕の見方では、そこには (イラン革命について語られるほど強烈な) 世俗的近代性への反対は 見いだせない。

たしかに 彼らイデオローグは しきりに世俗的近代性への反対を語る。 しかし それは ( 言葉においても、行動においても ) いつもどうも不徹底だ。

反でも正でもないような、どこか中途半端な位置、、、ヒンドゥー・ナショナリスト・イデオローグは そんな位置取りを選択している。

いくつかの論文でこれまでも繰り返し指摘してきたことだけど、イランの事例を学んだことで それを再確認した。

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パキスタンの現状

「 英旅客機爆破未遂事件 」 がパキスタン・コネクションであった との報道を受けて・・・

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先月18日、 ダバ・インディア にて、大使館時代の友人2人と会った。

とても楽しい時間をすごせて、なんだかまたやる気がわいてきた。

本ブログのことも話題になったのだが、こちらのエントリ について、ありがたいコメントをいただいた。

それは こんな批判だった。

「 ムスリム自己責任論 」 を外部者が軽々しく口にしてはならない、、、そのことは分かる

分かるが、、、外部からの 「 刺激 」 がどうしても必要な場合、どうするのか?

たとえば、パキスタンのような国の場合がそうだ

内部からの建設的な批判、あるいは自浄作用が 構造的にどうしても うまく働かないのが、今のパキスタンである

そういった国では、ムスリム自己責任論を待つだけの姿勢というのは、とても誠実そうに見えて、その実 後ろ向きの対応ではないのか

むしろ ある一線を踏み越えたとしても、苦言を呈したり、アクションをおこしたりすることの方が 大事な場合があるんじゃぁないのか

なるほど・・・ この点はたしかに頭になかった。 考えてみるべきポイントである。 人の意見はいつもありがたい。

さて、、、

パキスタンの現状 は たしかにそのようなものだ、と聞き及んでいる。

  • 出版の自由が 基本的にない
  • 思想信条の自由は 影に日向に抑圧されている
  • 優秀な人材は 次々に国外へ移住していき、 「 祖国 」 から できるだけ距離をとろうとする。 勢い、指導層が空洞化する
  • これに加えて、深刻な経済危機がある。 社会生活のインフラはガタガタで、国家の機能はボロボロ。 心はすさみがちで、建設的な議論を ねばり強くくみ上げていく余裕が どうしてもない。
  • 外交の分野でも いいところなし。 一躍脚光を浴びつつある 隣国で宿敵のインドとは対照的に、アメリカからもすっかり見放されつつある

事実上の軍事政権下にある 現在のパキスタン はそんな国だ。

これはもちろん 途轍もなく残念なことだ。 幾人かのパキスタン人の友人の顔が思い出される

このような場所に 外国人として関わろうとする場合、 なるほどたしかに 自己責任論の自然な立ち上がりを待つというのは どこか不十分な態度であるかもしれない。

では どうするのか?

先に結論を言ってしまえば、、、

この問いに 僕は カッコヨク答えることが どうしてもできない・・・

なぜなら、次のような疑問が どうしてもわいてきてしまうからだ。

いったい・・・ 誰がどんな権限をもって パキスタンの現状に手をくわえ、その歴史のコースをつくっていける、つくってもよいというのか?

パキスタンが どのような国になれば、パキスタンの人々が幸せになったと言えるのか?

そもそも 「 幸せ 」 ってなんだ?

自分と自分の周囲の人の幸せならまだしも ( それだって 相当大変だけど、まぁともあれ) 、日本の片隅から パキスタンの人たちにとっての幸せがどのようなものか、 誰が どんな価値観にのっとって 言い切ることができるというのか?

これは なにも難しい問いではない。

アメリカの介入政策と介入文化を想起すればよい。 その 「 嫌味 」 加減は 誰の目にも明らかだろう。 要するに 大きなお世話なのだ。

しかしながら、その全てにもかかわらず、僕は 何もしないだけの諦観主義には堕したくない、と思ってしまう。 それは とても不誠実な態度のように思われるからだ。

でもやっぱり、、、、いやいや それでも、、、だからって それは、、、しかし そうは言っても、、、、、、、、、、、

こうして答えが出ないまま、このジレンマだけがぐるぐる回る。

回りすぎてとても苦しいのだけど、これしか今の僕にはできそうにない。

<メモ>

  • 南アジア専門家のお二人にも ダバの料理は大好評であった
  • 僕は 94年から96年にかけて、在インド日本大使館で専門調査員として働いていたことがある。96年の後半分は大病をして日本に帰国していた。仕事上でも生活上でも関係者の皆さまには、多大のご迷惑をおかけしたのに、一方ならぬお世話とご心配をいただいた。この場をかりて、あらためて御礼をもうしあげたい。ありがとうございました。
  • お二人にはいずれも本ブログを読んでいただいているとの由。いろいろご意見をうかがって、参考になった。

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ガンディー読むなら

ガンディーに関する新刊書が 最近また少しずつでている。

ネット上での感想や講評をながめていて、 とてもとてもとても大事な翻訳 が ほとんど知られていないのに気づいた。

これはマズイ!! ということで、ご紹介。

  1. 『 真の独立への道 ― ヒンド・スワラージ 』
  2. 『 ガーンディー自叙伝 (1) ― 真理へと近づくさまざまな実験 』
  3. 『 ガーンディー自叙伝 (2) ― 真理へと近づくさまざまな実験 』
  4. 『 南アフリカでのサッティヤーグラハの歴史 (1) ― 非暴力不服従運動の誕生 』
  5. 『 南アフリカでのサッティヤーグラハの歴史 (1) ― 非暴力不服従運動の誕生 』

訳者はいずれも 田中敏雄先生 である。

1の本は、ガンディー唯一の単行書 ( ほどの長さをもった論文 ) である。長崎暢子先生が注目なさっている一冊ということで有名。

( なお、「 ヒンドゥ・スワラージ 」 というカタカナ表記は誤解を招く。 「 ヒンド・スワラージ Hind Swaraj 」、すなわち 「 インドの自立/独立 」 である )

2~5の本、これら4冊でガンディーの自伝である。 ( ただし、死ぬ20年前に書かれたものだから、晩年のガンディーの事跡は書かれていない )

2&3、4&5でそれぞれ別のシリーズになっている。つまり、もともとは3冊の本の全訳が、上の5冊というわけ。

2&3が子ども時代から書き起こし、途中の南アフリカ時代のことが4&5で書かれている。インド帰国後のことが、2&3で語られるという構成。

日本での普及版はいずれも、これら4冊を混ぜて編集しなおしたもの。しかも英語からの翻訳である。

さて、、、 この訳業は 本当に偉大なのです。

なぜなら、ヒンディー語文学の専門家であられ、南アジアの歴史と文化に精通した田中先生が、ガンディーの母語であり 原稿が執筆されたグジャラーティー語から訳出したものだからです。

注: ガンディーは自ら ヒンディー語や英語になおされた 『 ヒンド・スワラージ 』 と 2部の 『 自叙伝 』 に目を通し、手直しをしました。しかしやっぱり、原著はグジャラーティー、と言えます。

訳者による用語解説や背景説明も すばらしい。

これ以上のものは、日本語ではありえません。

ガンディー読むなら まずこの本から!! と全幅の信頼をもって申し上げます。

閑話休題、、、

93年だったと思うが、田中先生がデリーの拙宅にお泊りになったことがある。

あの頃から、この訳業をずっとなさっていた。

ガンディー ( ガーンディー ) のコトバは やっぱり 「 ですます調 」 で訳さないとダメですよねぇ

などという話をしたのが なつかしい。

<メモ>

  • 1の書評は こちら
  • 2&3の感想は こちら
  • Infoseek 楽天 では 2&3が電子書籍として買える (→ こちら
  • ぱっと見、4&5の書評、ネット上ではほとんどまったく見かけない。だけど、青年から中年のガンディーが 後の 「 マハトマイズム 」 を見出し、確立していったのは、どこあろう南アフリカである。 だからこそ、こちらもぜひお忘れなく

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宗教復興とグローカル化 (6)

前便は こちら

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 グローバル化は 第一義的には、経済の問題 である。

すなわち、後期資本主義に内在的な力学と機構にしたがって生じる、地球規模での資本統合とその投下・増殖・回収のプロセスである。

このように経済を決定的な基盤とみなすのは、政治や文化や意識のレベルにおけるグローバル化が、経済 ( 資本主義 ) のグローバル化によって先導されている、との観察にもとづく。

具体的には、おそらくは70年代後半から80年代にかけて、資本の地球規模での流動化と再編成、および 移民労働者の ( 絶対数というよりは むしろ ) 本国送金の増加がおこっている、と予想される。

これはもちろん、経済学者さんたちがすでに調べているだろうから、僕も日本語で読めるものをちょっと勉強すれば、何らかの見通しが立つだろう。

 グローバル化は、したがって、近代化の延長・深化というよりは、まずもって、近代資本主義の発展段階のひとつ である。

地球史におけるグローバル化段階の新規性は、このような意味でたしかに認められる。 そしてそれは、おそらく 「 グローバル化論とは語られねばならないものだ 」 という、多くの人たちの実感により証しされる。

私たちが今生きているのは、まさにそのようなハイパー近代の資本制の世界である。

 グローバル化は ナショナルなものを弱めもするが、強めもする

各地域の政治文化・政治体制、および資本制のあり方によっては、グローバル化が ナショナルなものを媒介とせざるをえない場合がある。

インド国民国家は、その典型である。

 グローバル化は したがって、国際化 ( internationalization ) の過程を断ち切りはしないが、撹乱する

ネイション ( 国民/民族 ) と国民国家 ( ほとんど全ての近代国家 ) 、およびナショナルなものは、グローバル化のなかで新たな力を獲得する。 それらは消え去らない。 むしろ いつまでもしぶとく生き残って、グローバル化によって最も大きな恩恵をこうむる企業資本主義 ( 多国籍企業やオフショア企業体 ) を悩ませる。

 近代化/国際化からグローバル化へ、という変化において、真に新しい性格をもった変化は、 「 情報化 」 および 「 ネットワーク化 」 である。

近代資本主義の発展の一段階、と上に書いた。 しかし、90年代後半以降からは、いわゆる IT とその商業化、および国家によるインフラ整備があいまって、グローバル化には独自のツイストが加えられている。

この段階は、言葉の真の意味での 「 グローバル化 」 である。 また、情報化がネットワーク化を伴うことから、それは 「 ローカルなもの 」 の再活性化を引き起こす。

すなわち、ごく小さな ( 地理的にはローカルな ) 個人なり集団なりが、情報化とネットワーク化をインフラ ( = 下部構造 ) として、新たにチカラを結集するようになりつつある、ということ。 たとえば、新らしい社会運動や 少数民族の横の連帯 など。

 情報化・ネットワーク化としてのグローカル化は、したがって、 国民国家に挑戦する

これは、第二次世界大戦後、漸次的に確立していった 「 国際の inter-national 」 秩序に対して、チカラの再配分、チカラ構造の再構築をもとめる。

国民国家は、それに対して、多方面での対応をする。

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ポイントはまだ他にもあろうが、とりあえず 思いついたものだけ、6点でした。

では、こうした見通しが、独立インドとヒンドゥー・ナショナリズムの理解にとって、どのような意義をもつのか。 インドや 「 ヒンドゥー原理主義者 」 は、上のようなグローバル化論のうえで どのようなものとして理解されるか。

<次便につづく>

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宗教復興とグローカル化 (5)

前便は こちら

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インドにおけるナショナルなものの強大なるプレゼンスと、その再活性化 ( 具体的には、ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭 ) を、グローバル化という文脈のなかで整合的に読みきろうとする ―― そうした立論自体が、間違っていた

解けない問題を 勝手に立てていた。

3+2=6 これはなぜか? みたいな立論だった。

これが 私が I 先生のおかげで 新たに獲得した立場である。

では、あらためて、、、

グローバル ・ ナショナル ・ ローカル という図式をもとに、「 ナショナル 」 なものを グローカル化 ( グローバルなものとローカルなものの直接的結合と活性化 ) の撹乱要因、阻害要因ととらえる――

ここでのミソはおそらく、ナショナルとローカルをはっきり分けてしまうこと である。 こうすることで、グッと見通しがよくなる。僕の見方では、「 情報化 」 と 「 ネットワーク化 」 という、グローカル化の真に新しい段階が、これによって、より理解しやすくなる。

こうした立場から得られる見通しを、より仔細に検討してみよう。

先に言い訳させてもらいます。

以下の検討は、専門家でもなければ、ちゃんと勉強もしていない者が記した 単なる備忘録、よくてせいぜい 初期作業仮説 であるからして、 チャンチャラオカシイ という突っ込みは、もぉなんというか・・・ 無し!! でお願いします。

僕は、僕のなかにある グローバル化論に関するトラウマ を払拭したいがために、思索のこうした途中段階を吐露しております。 これは、自己心理療法なのです。

とまぁ 言い訳はこれぐらいにして、、、

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<以下 次便>

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宗教復興とグローカル化 (4)

すっかり間が空いてしまったが、前便は こちら

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きっかけは I 助教授 ( 創価大学 ) のコメントだった。

お名前を出してよろしければ、ぜひにご連絡をくださいませ > I 先生

私なりに要するに・・・

「 ヒンドゥー 」 を多数派として一枚岩につくりあげようとする 「 ナショナリスト 」 のことが、グローバル化論のなかで うまく議論できないのは、 むしろ当然のこと ではないか。

I 先生のこうしたご主旨の発言が、僕には メカラウロコ であった。

「 国民 」 の多数派であること ( あるいは、多数派形成により 「 国民/民族 」 を実体化し強化しようともくろむ人たちであること ) 、ナショナリストであること ( すなわち、国民国家へのコミットメントを強く強く有する人たちであること ) ――

僕の研究対象のそうした性格からいって、グローバル化論がうまく議論できないのは、 あらかじめ決まったこと ではないか、というのである。

なるほど!! 正解はいつもごく簡単なところにあるものだなぁ、と思った。

グローバル化の流れを多方向へと分散させ、その力の収斂をあいまいにしてしまうような水準、 「 ローカル 」 と 「 グローバル 」 の間にあってその両者のあらたな結合と活性化に水を差す 「 ナショナル 」 なものの強大な生命力 ――

ヒンドゥー・ナショナリズムはむしろ、第一義的には これらに対応する現象/運動とみなすのがよかろう。

これが 僕にとっては 本当にあたらしい発見 であった。

なにを当たり前のことを、とおっしゃる方もおられよう。しかし、 ウニャウニャ している頭 は、往々にして単純なことを発見できないものなのだ、、、と言い訳 ( 恥 )

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そうしたところのやるせなさ (2)

前便 からの完全連続投稿です ( もともと一つの文章を二つに切りました )

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榊原氏のような考え方、行き方に 親近感をおぼえる人は多かろう。 ( 本ブログの読者はそうでもないだろうが、なんと言っても 多かろう!!)

一方、小川忠さんのスタンスは これとはかなり違う。

日本から帰ってきた多くのインド人の友人が、日本で受けた小さな親切や高潔なプロ意識、責任感の強さについて語る。 そうした数字で表せない財産を日本社会はまだまだ蓄積している ( 214頁 ) 。

日本社会について語った文章だが、ここで言う 「 数字で表せない財産 」 なるもの、これへの感性の高さこそが、小川さんの本の要になっている。

ちなみに、榊原氏の本は、小川さんの別の論文 ( IT関連のもの ) を引用しているが、小川さんの 「 優しさ 」 、あるいは 「 人間くささ 」 には言及していない。

どちらが良い悪いではなかろう正解、不正解ではなかろう

ごく図式的に言ってしまえば、要は バランスの問題だ。

たとえば、 高橋英彦 『 インド発、国連職員の日々 』 ( 日本放送出版協会,1995年 ) は次のように書いている。

国や地域の経済規模の拡大が問題解決の万能薬ではないにしても根幹を癒す特効薬であることは疑う余地がない。わが国のような先進工業国の政府援助とともに企業の投資や技術移転がこの分野で多大の貢献をしてきたことも間違いない。

 その一方、それだけでは真の解決にはならない問題が山積しているのも事実である。平和と社会治安の維持、人口問題への対応、人権の尊重、教育レベルの向上、健康への配慮などについて官民による国際協力が求められているのだ。 ( 14頁 )

実際、優等生的な正解があるとしたら こんなものになるだろう。

<経済開発 → 社会開発 → 人間開発 → 開発倫理> という 例の国連的軌跡を想起のこと

そして問題は、そうした諸要素のからみ合いのなかで、 「 わたし 」 はどこに立って、なにをするか、である。 ここにこそ、この種の問題 ( 終極的には 開発倫理 の問題 ) の根底がある。

私 近藤はどうだろう・・・・・・

上記バランスのイメージを保ちつつ、小川さんの 「 ヒトくささ 」 に深ぁぁい共感をおぼえる ――

今の僕のスタンスは 到底!!そうした域を出るものではない。

あまり ミットモヨイものではないが、正直 そんなものである。長々としたエントリを書いたが、結論はそんなものである。

それでも、この問題には ずっと真剣に悩んできたし、これからも悩んでいきたい、と思うのだ。

<おわり>

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<メモ>

  • 「 開発倫理 」 で日本語頁をググってみたが、驚くほどヒットしない。専門的な頁は皆無!!こんなにも認知されていないコトバだったとは・・・
  • 一方、 「 development ethics 」 をフレーズでググってみたら、7万件オーバーのヒット。この違いは大きい!!

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そうしたところのやるせなさ (1)

インドにはたくさんの 貧困や困窮 がある。もちろん日本にもあるが、インドには おそらく質量ともに数段きびしい 貧困や困窮 がある。 だから、日本人がインドに行くということは、別の種類の、普段は気づかないままでも許されるような種類の 貧困や困窮 を目の当たりにするということだ。

そしてもちろん、インドは貧困と困窮 だけ の地ではない。 素敵なことや素晴らしいこと が これまたたくさんある。

そんなインドとちゃんと付き合おうとするのは、思いのほか 大変である。

哀れみでも蔑みでも、讃えでも侮りでもない立場 ―― むしろ、自分が 「 誰 」 なのかを 考え直させられる体験 ―― それがとても大事なのだと思う。

インドだけではないだろうが、いわゆる 「 第三世界 」 についての見聞とは、 そうしたところのやるせなさ が大事なのだと思う。

とまぁ、、、こんな書き出しをもってきたのは、、、

こちらのエントリ で紹介した 小川忠インド 多様性大国の最新事情 は、とっても優しい本である

と言いたかったから。

この種の問題に 「 正解 」 なんてないだろうが、小川さんのこの本は 彼なりに出したひとつのスタンスが、優しい優しいそのスタンスが 明確にあらわれていて、感銘をうける。

それがどういうものかを言う前に、 もうひとつ別の 「 明確なスタンス 」 を紹介しておこう。 対照例を先に示しておこう、というわけ。

すなわち、、、

こちらのエントリ で紹介した 榊原英資インド IT革命の脅威

「 明確なスタンス 」 という点では こちらも何ものにも負けてはいない。

この本 ( 著者は榊原氏だけとなっているが、実際には 榊原氏を含め3名の人がこれを書いた ) のスタンスは これ以上ないくらいスッキリしている。

インド国民経済の浮揚、 「 パイ 」 の最大化、マクロ経済指標の改善、滴下理論、雇用創出、教育の推進、先端科学技術、金融、、、 古典的な近代化論 の実際的効用を 「 情報化 」 「 ネットワーク化 」 が進む現代において主題化すること

これが著者らのスタンスだ。

ここから容易に想像されるように、そこには ヒトたる 「 わたし ( たち ) 」 が

・・・ 念のために申し上げておきますが、ここでの 「 ヒト 」 とは、文学部的/人文諸学的な感性によって想像されるような 「 ヒト 」 のことです。 そんなものがどこまで重要なのかとの異論はございましょうが、ともあれ、榊原氏の本には そうした意味での 「 ヒト 」 が

登場することは ない

政策を提言したり策定したりする者、企業活動に参与したり賛同したりする者 ( 引退組、予備軍を含む ) ―― そのような 「 仕事 」 をこなす人、あるいはそういう仕事人が関心の的としている人口 ―― これらが、この本でいう「 わたしたち 」 であり、また 「彼ら 」 である。

そして 「 日本 」 とは、かつて アジアの雁行型発展の先頭をきっていたのが、やや後退しはじめたという、そのエコノミーである。

そうした 「 私たち 」 「 日本人 」 にとって、インドは あらたに選択されるべき外交・貿易上の戦略パートナーである。 インドの 貧困や困窮、素敵なことや素晴らしいこと に、この本が触れないということではない。しかし、それはごくごく周辺的な言及にとどまる。

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<長くなったから、ここで切ります。次便につづく>

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<メモ>

  • 本便に関連するのは こちらのエントリ です
  • ニュースによれば、榊原氏は 2006年4月から 早稲田大学インド経済研究所の所長に就任している模様 (→ こちら ) 。しかし、同研究所のHPがどうしてもみつからない

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宇宙開闢の歌

こちらのエントリ につづけて・・・

辻直四朗インド文明の曙 』 ( 99-100頁 ) よりの引用

[ 注: ルビは一部を省略、他を括弧内に示した。ママの括弧もある。漢数字はアラビア数字に変えた ]

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宇宙開闢の歌 ( 10・129 )

1 その時 ( 太初において ) 、無もなかりき、有 ( う ) もなかりき。空界もなかりき、そを蔽う天もなかりき。何物か活動せし、いずこに、誰の庇護の下 ( もと ) に。深くして測るべからざる水 ( 原水 ) は存在せりや。

2 そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識 ( 日月星辰 ) もなかりき。かの唯一物 ( 創造の根本原理 ) は、自力により風なく呼吸せり。これよりほか何物も存在せざりき。

3 太初において、暗黒は暗黒に蔽われたりき。一切宇宙は光明なき水波なりき。空虚に蔽われ発現しつつありしかの唯一物は、自熱の力によりて出生せり。

4  最初に意欲はかの唯一物に現ぜり。こは意 ( 思考力 ) の第一の種子なりき。聖賢らは熟慮して心に求め、有の親縁を無に発見せり。

* 後の文献と比較して考えれば、展開の順序は、唯一物 ―― ( 水 ) ―― 意 ―― 意欲 ―― 熱力 ( 瞑想・苦行により体内に生ずる熱で、創造力をもつ ) ―― 現象界 、となる。

5 彼ら ( 聖賢 ) の縄尺は横に張られたり。下方はありしや、上方はありしや。射精者 ( 能動的男性力 ) ありき、展開者 ( 受動的女性力 ) ありき。自存力 ( 本能・女性力 ) は下に、衝動力 ( 男性力 ) は上に。

6 誰か正しく知る者ぞ、誰かここに宣言し得る者ぞ。この展開はいずこより生じ、いずこより来たれる。諸神は宇宙の展開よりのちなり。しからば誰か展開のいずこより起こりしかを知る者ぞ。

7 この展開はいずこより起こりしや。彼 ( 最高神 ) は創造せりや、あるいは創造せざりしや。最高天にありて宇宙を監視する者のみ実にこれを知る。あるいは彼もまた知らず。

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超有名な詩歌ですが、なかなか全文を目にすることもなかろうと思い、ご紹介しました。

辻先生 の解説に曰く

宇宙がいかにして生じ、誰に創造されたかの問題は、次第に [ リグ・ヴェーダの ] 詩人の関心をひくにいたった。 最初は建造或いは出産になぞらえて神話的に扱い、その業績をもろもろの神格に帰して讃歎するにとどまった ( 91頁 ) 。

時代の進むにつれ、宇宙創造の勲業を一身に担い雑然たる神界に君臨する最高神、或いは、万有の本源として宇宙開闢の初頭に立つ唯一絶対の根本原理を探求する傾向が強まった ( 92頁 ) 。

そして、上の讃歌は、 「 宇宙の展開を、絶対の唯一物、中世の根本原理に還元し、創る神と創られる世界との対立や間隙を一掃し、リグ・ヴェーダの哲学詩人の到達しえた最高峰を示している 」 ものとして、高く評価されています ( 98頁 ) 。

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宗教復興とグローカル化 (3)

前便は こちら

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グローバル化理論について 勉強不足、、、わからない、、、 と書いてきた。

しかしもちろん、何もわかっていなかったわけではない。

前便に書いた 三つのQ は、典型的な ( 大方 単純素朴な) グローバル化理解をなぞったものだ。 つまり、なぞれる程度なら、僕にも僕なりの理解があったのだ。

その他にも、少なくともふたつ わかっていたことがある。

  1. グローバル化は画一化ではない。 ローカルなものは かえって活性化される。 そして、こうした二局面に注意をうながすため、 「 グローカル化 」 というコトバが提出された。
  2. グローバル化は 国民国家を 必ずしも弱化させない。 前便で 「 Q: グローバル化は国民国家を 相対的に弱化する? 」 と書いたのは、わざとである。 また、前便<メモ>に記した 粟津さんご紹介の議論も、 ほんとうは 知らなかったわけではない。

僕が本当にわからなかったのは、 

ローカルを活性化し、国民国家を温存する過程 を 何故に わざわざ 「 グローバル化 」 と呼ばなくてはいけないのか・・・・

その意味で、それは 近代化 ・ 国際化 ( internationalisation ) の延長 にすぎないのではないか・・・・

ということなのでした。

ここが どうしてもスッキリしなかった・・・ のだけど、6/9の研究会 では そこに風穴をあける視角を得ることができました。

<つづく>

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<メモ>

長い前置きは 本便でおしまい。

ひっぱりすぎ、とのご感想もありましょうが、ともかく 僕の ウニャウニャ感覚 をお伝えしないかぎり、 「 新しい発見 」 というときの 「 新しさ 」 がお伝えできない、と思ったのでした。

そのため、うっとぉしい程の連続投稿になりました。すいません。

いよいよ!!次便から 僕の得た新しい知見、、、をご紹介していきます。

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ヴェド・メータ 『 ガンディーと使徒たち 』

日本女子大学で ガンディーと非暴力 についての講義をもたせていただいている。 (→ こちらのエントリ 参照 )

そこで先週、次のようなプリントを配った。

本ブログにTBをはっていただいている 植村昌夫さん の翻訳本を、ぜひ紹介したいと思ったからだ。 

こちらからもTBをはらせていただきます> 植村さん

プリントには、この訳書を読むにあたって注意してもらいたい点を、次のように示した。

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ヴェド・メータ 『 ガンディーと使徒たち: 「 偉大なる魂 ( マハトマ ) 」 の神話と真実 植村昌夫訳,新評論,2004 ( 原1976 ) 年,20頁より.

[ 注: 同上書の表題中 「 マハトマ 」 は 「 偉大なる魂 」 にふられたルビである。本ブログにルビ機能がないので、括弧内にて示した ]

ガンディーが残した数万の著作と演説に展開されている彼の思想の核心は、貞潔と清潔を通じて、人間のあらゆる精神的肉体的欲求と機能の統御を通じて、個人と社会の衛生の追求を通じて、神を求めることであった。

[以下、近藤のことば]

※ 上の引用文について

  • ガンディー思想の全体を非常によくまとめた文。 これだけ手際よいまとめを、私はほかに知りません。 ひとつひとつの言葉 ( 概念 ) をよく吟味しながら、理解するとよいと思います。

※ 上の訳書について

  • この翻訳は、とてもよくできています。 お勧めの一冊。
  • ただし、翻訳はどこまでも翻訳です。 たとえば、上の引用分中で 「 著作 」 とあるのはミスリーディングです。 原語を確認していませんが、おそらくは writings かなにかでしょう。 しかし、ガンディーには著作と呼べるものは1冊しかありません。 2部に分かれている自伝を入れても3冊です。 writings は「書き残したもの」、さらにその後の 「 演説 」 は 「 語ったもの 」 ぐらいの意味にとるべきでしょう。
  • また、 「 衛生 」 という言葉がありますが、これもミスリーディングです。 こちらも原語を確認していませんが、おそらく hygiene や sanitation ではなく ( いずれも医学的な言葉 ) 、 health でありましょう。 だとすれば、それは単なる 「 衛生 」 なのではなく 「 健全さ 」 という意味ももっているわけです。
  • 他にもあります。 「 貞潔 」 はブラーフマーチャリア Brahmacharya 、すなわち性的禁欲を中心にした禁欲の行全般を、そして 「 清潔 」 は浄 'subha; 'suddhi 、すなわち霊的にケガレのない状態を、それぞれ含意するでしょう。 つまり、古代から連綿とつづく南アジア思想を背景にして、これらの言葉は読まれないといけない、ということです。
  • もう一つの注意点。 この本は、ガンディーとその 「 使徒たち 」 の、隠された暗部をあばく著作です。
  • これだけ読むと、ガンディー思想というよりもガンディー 「 現象 」 というものが、インドでなぜあんなにも急速に衰退してしまったのか、よく分かります。 また、ガンディーという人が取り組んだかなり独自な、悪く言えば 「 奇人的な 」 行動が分かります。
  • しかし、もちろんガンディーはそうした面だけで尽くされません。 彼の人生と思想の偉大さとの対比のなかで、この本は読まれるべきでしょう。

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以上が 学生さんにお配りしたプリント ( 一部 ) でございました。

<メモ>

ガンディーについての前便は こちら

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ヤマとヤミーの対話

こちらのエントリ で紹介した 辻直四朗インド文明の曙 (101-2頁) より・・・

リグ・ヴェーダの対話讃歌 のひとつ。 オモシロ。翻訳も秀逸。七五調。

[ 注: ルビは一部を省略、他を括弧内に示した。ママの括弧もある。漢数字はアラビア数字に変えた ]

「 ヤマ 」 とはもちろん 閻魔大王のことである。 (→ こちらこちら 参照 )

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ヤマとヤミーの対話 ( 10・10 )

ヤマは死者の王、死の道の開拓者。本篇は双生児ヤマ ( 語義は 「 双生児 」 ) とヤミー ( その女性形 ) との対話に託し、人間の繁殖の起原に触れつつ、詩人は不倫のそしりを避けて結末をあいまいにしている。

1 ( ヤミー ) 遙けく遠き海越えて、去りし友 ( ヤマ ) をも動かして、友の務めにいざなわん。地界の末を思いつつ、賢き者は父のため、孫生み育て残すべし。

2 ( ヤマ ) 友の務めといいながら、同じ血筋のはらからが、妹背 ( いもせ ) 契るはなが友の 許さぬ願い、おそろしの アスラの子ら ( ヴァルナ神の配下 ) は勇ましく、天を支えて地を見張る。

3 ( ヤミー ) この世に人は汝 ( な ) れ独り、跡目望むはわれのみか、神の心もまた同じ。かたくな捨てて 汝が心、われになびけて背の君の 深き契りを結べかし。

4 ( ヤマ ) かつてためしのなきことを、いかでか今に許すべき。おもてにまこと語りつつ、かげにひがごと囁くや。 われらが父はガンダルヴァ、水の乙女を母とする、これぞこよなきわが由緒。

 ヤマの父は普通ヴィヴァスヴァットとされる。水の乙女は、半神族ガンダルヴァの配偶たる水精アプサラスを指す。

5 ( ヤミー ) われらが胎 ( はら ) にあるうちに、すでに夫婦 ( みようと ) と定めしは、あらゆる形造りなし、生気をこむるトゥヴァシュトリ ( ヤマの母サラニウーの父 ) 。誰が違 ( たが ) わんその掟、神も許せし妹背仲、天さえ地さえ知るものを。

6 ( ヤマ ) この世の始め誰か知る、誰が見たりし、今ここに誰か告げ得んその秘密。ミトラ、ヴァルナの神の則 ( のり ) 、気高く浄く世をしるを。みだらの妹よ、 神の子を 言葉たくみにいつわるや。

 第2詩節に見えるアスラの子ら。

7 ( ヤミー ) ヤマにこがるるこのヤミー、つもる思いを添伏 ( そいぶし ) の、なさけの床に契りなん。心も身をもまかせては、廻る車の輪のごとく、仲むつまじくたわむれん。

8 ( ヤマ ) 神のめつけは束の間も、休むことなく見めぐりて、眼 ( まなこ ) を閉ずるひまもなし。みだらの妹よ、われをおき、あだし男にいいよりて、廻る車の輪のごとく、仲むつまじくたわむれよ。

9 ( ヤミー ) 夜と昼との分かちなく、恋しきヤマにかしずかん。くまなく照らす日の神の眼もしばしくらまさん。見よ天地 ( あまつち ) も妹背仲、ヤマの恥じらう契りさえ、いとわず堪えんこのヤミー。

10 ( ヤマ ) 聞くもうたてきはらからの 恥ずべき契りいとわざる 末世もいつかめぐりこん。汝れが腕 ( かいな ) に牡牛なす 男 ( お ) の子抱きしめわれをおき、あだし男と契れ、妹。

11 ( ヤミー ) 弱き乙女をいたわらず、情を知らぬ兄やある。女子 ( おなご ) の務めゆるがせに、血筋ほろぼず妹やある。乱れ心も恋ゆえに、くどく言の葉ききわけて、妹背の契り結べかし。

12 ( ヤマ ) 妹背の契り結ぶまじ。おのが妹 ( いもと ) を妻とせば、われあしざまにそしられん。恋のうま酒われをおき、あだし男とくみかわせ、兄はかなえじ汝が願い。

13 ( ヤミー ) 心おくれしヤマあわれ、汝れが心の深なさけ、求めて得ねばままよまま。馬の腹帯、蔓草 ( つるぐさ ) の、木にまくごとくあだしめが、汝れのからだを抱きしめん。

14 ( ヤマ ) 離れじものと蔓草の、木にまくごとく汝が寄れば、あだし男は汝れを抱く。おくるなさけの露しげみ、かえすも同じ深なさけ、たのしき妹背契れかし。

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以上です。 オモシロですよねぇ・・・

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宗教復興とグローカル化 (2)

前便は こちら

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グローバル化理論について、僕がどのように グニャグニャした 感覚をもってきたか、当日の発表レジュメから 結論部 ( 一部 ) を 補足のうえ 再録してみましょう。

もちろん!!そうしたグニャグニャ加減は、僕の勉強不足 のせいなわけで・・・

あえて!! 薄っぺらな理解 を披瀝してみた理由は、前便に書いたとおりのところです。

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Q: グローバル化は国民国家を 相対的に弱化する?

A: インドではそうでもない

インドにおいて ネイションと国家はいずれも 最重要の制度=実在である

  • ナショナリスト運動のすえ建国されたインドにおいては、ナショナリズムと国家への忠誠心は 支配的な政治文化である
  • インドでももちろん 「 グローバル化 」 は進展しているが、そのプロセスにおいては 実際上も政策上でも 国家の介入と主導が不可欠である

Q: グローバル化は 「 トライバル 」 な、あるいは 「 エスニック 」 な紐帯を強化する?

A: インドではそうでもない

独立インドの政治文化において正統的なのは、 「 民族 」 としてのネイション理解

  • ネイションを 「 国民 」 と理解しうる ( しようとする ) リベラルの立場は、インドにももちろんある
  • もちろんあるが、きわめて少数。 都市インテリの 「 左派 」 に限られる
  • つまり、インドの公共性は 全然リベラルではない

私的領域はもちろん、公共領域においてすら 宗教は尊重されてきた

  • 独立インドの世俗化は 表面的なものにとどまった

インド国民の私的、公的生活は、大半、地縁と血縁でがんじがらめ

独立インドでは ずっとそんなんだったのだから、いまさら グローバル化でどうのこの、グローカル化でなんだかんだ、、、と言われたって、ピンとこない

Q: 遠隔地ナショナリズムが とくに活性化した?

A: そういう面はたしかにある。 しかし・・・

ヒンドゥー・ナショナリズム理解にとって、そして
独立インドの政治経済・社会の変容過程の理解にとって
それがどれほど重要かは 大いに疑問

   ↓

むしろ そんなんじゃなくて、、、

  • 低開発、不平等、不正に満ちたインドの状況
  • ナショナリスト国家たる縁起
  • 宗教、エスニシティの変わらぬ影響力

これらが 独立インドの政体HNの勢力拡大・維持 を説明する

   ↓

近年の情報化/ネットワーク化としてのグローバル化は そこに付け加わった新ステージではないのか・・・

  • 例えば、IT開発にきわめて積極的なインド人民党
  • しかし、これはIT企業の大成長期に たまたま インド人民党が政権与党であったため
  • 90年台初頭の経済自由化の開始期には 「 反グローバリズム 」 が強かった
  • 今や その力関係は完全に逆転
  • インド国民国家の発展が第一目標であり、グローバル化がそれに有効なら、それを追求する ―― ヒンドゥー・ナショナリストとは 結局 そういう人たちなのだ

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とまぁ こんな感じで

既存のグローバル ( グローカル ) 化理論 を インドとヒンドゥー・ナショナリズムの事例に、どういう風につなげたらいいのか、、、

ぜんぜん見通しが立っていなかったわけです。

<つづく>

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<メモ>

  • もうお一人の発表者だった粟津さんのブログ、 こちらのエントリ ご参照
  • そこでご紹介いただいた訳書では、僕の ウニャウニャした疑問など、綺麗さっぱり 議論されずみ ということのようです。
  • ねっ!! だから 勉強不足だ って言ったでしょ ( 恥 )

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4冊目の現代インド本

去る 6月2日、 「 オモシロ現代インド本 」 というエントリを立てた。

昨年10月27日、 「 お勧めの現代インド本 」 というエントリを立てた。

このリストへの追加として、、、

単に 「 オモシロ 」 ではない 「 お勧め 」 現代インド本として 次の本を ご紹介。

小川忠インド 多様性大国の最新事情 角川書店 ( 角川選書 ),2001年.

聞くところでは、そっち業界では 「 オガチュー 」 の名でとても有名だという著者。 他にも著作はあるが、上の本は とくによいなぁ、と思った。

気づいたことを 列挙しておこう。

①  Japan Foundation のデリー駐在所所長として、「 印日文化交流 」 の達成、課題、見通しを 等身大に描いている 。 「 ならでは 」 の話しが たくさん聞ける。 いずれも興味深い。

②  自分の体験と印象を 研究書など 「 大学型知識 」 とすり合わせている。 ( 実際、本書の大きな部分が、有名なインド人学者の研究の要約で占められています ) アカデミズムがいつも優秀・・・なんてことは 決して!! ありません。 しかし、真剣に南アジアに向き合おうとしている地域研究者のことばは、もっと尊重されてよいと思う。 インドのように 先行理解 ならぬ 先行誤解 がたんまりとある地域を知ろうとするときは、なおさらそうだ。 その意味で、 オガチューさんのとった行き方は とても有効だ。

③  インド人としてインドに生きることの大変さを、「 かわいそー 」 という同情でも、 「 やっぱりねぇ 」 という蔑みでもない、 微妙な立場から できるだけ そのままに抉り出そうとする。 オガチューさんが立ちえた場所についていえば、その試みは十分に成功している、と評価できる。

④  そしてそこから、現代日本の姿を 批判的に とらえなおす。

以上、4冊目の現代インド本 紹介でした。

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分厚い交渉経験

佐藤啓介さん のブログ 「 pensie_log 」 こちらのエントリ を介して、 内山田康先生 のHP 「 人類学的断片... 」 にたどり着いた。

こちらのサイト、頁数は少ないのだけど、いずれも興味深く拝読した。

とくに面白かったのは、 田中雅一先生 の著作をとりあげた 書評論文

ところで、、、

人類学者に対し 僕はつよいコンプレックスをもつ。

諸般の事情で、フィールドにどっぷり漬かりこんだ研究が、これまでできていない僕は、インド人の生活との 分厚い交渉経験 をもつ方々が うらやましくて仕方ない。

たとえば、上記書評論文のなか、 「 私はこのような経験から、キリスト教徒やイスラーム教徒に比べるとヒンドゥー教徒のほうがよその宗教に対して開放的であるという著者の主張には賛成しない 」 ( 13頁 ) なんて立場表明の、なんと力強いことか・・・

インド・ジモティの生活感覚 をより深く強く了解できる、人類学者をはじめとする方々――そうした方々の知見を拝借しながら、 また それを損なわないように、僕のささやかな経験を加味して、相当気を使って インドについて言ったり書いたりする、、、それが 僕の南アジア研究のスタンス である。

こうしたスタンスは 特殊であるからこそ、重宝がられたりもするが、自分としては やはり満足できない。 いつか マイ・フィールドをもつ日がくるといいなぁ、、、

<メモ>

佐藤さんのブログはもちろん、宗教哲学系として 疑いなく 日本最高峰のもののひとつであるからして、いつも慎重に読んで 勉強させていただいている。

お世話になってます> 佐藤さん

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宗教復興とグローカル化 (1)

前便 からの続報です。

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グローバル化 ( グローカル化 ) 理論 が、、、いつも引っかかっていた。

大事なのは分かるけれど、インドのこと 、とりわけ ヒンドゥー・ナショナリズムのこと をどうしてもうまく説明できない、、、と感じていたから。 

現代世界の都市インテリ・エリート について それはよく当てはまるだろうけど、、、 「 第三世界 」 については どうなんだろう、、、 そんなものが 「 いまの、これからの世界 」 の姿だと言われたって、どうもピンとこない、、、理論の立て方が間違っているのか、、、「 グローバル化/グローカル化 」 なる概念自体がぐにゃぐにゃなのか、、、いやいや、僕の理解が間違っているのか、、、一体どういうことなんだろう、、、

そんな感覚をもっていた。

これは7年前からの感覚であった。 「 宗教と社会 」 学会 の第7回学術大会 ( 1999年 ) でのシンポジウム 「 グローバル化とアイデンティティ・クライシス 」 で発表をしたとき以来のことだ

(→ こちら より 「 過去の学術退会 」 参照。ただし、大会の詳細は未記載 )

あの時は、既存のグローバル化理論に対する 僕の強烈な違和感 を、上手に伝えられなかったように思う。 だからこそ、その後 グローバル化論をぜんぜん勉強しなかった。いやな気分がして、意図的に避けてきた。 はっきり言えば、、、トラウマになっていた。

今回、 グローカル化研究会 での発表を引き受けたときも、だから グローカル化について論じるつもりは 全然なかった 。 インド内在的な文脈の紹介をして、質疑応答のなかで なにか出てくればいいなぁ、、、と思っていた。 もぉ、参加者の皆さんだよりだぁ、、、と。

しかし、レジュメを作っていくなかで、 「 それでは あんまりだ 」 との思いを強くし、 思い切って この不勉強なままの違和感 を吐き出すことに決めた。

僕はもぉ、、、こんなにも ワケワカンナイ 状態におちいっております。

そんな告白をするつもりで、 「 宗教復興とグローカル化 」 という大テーマを掲げることにした。

そしたら この目論見は大当たり。 新しい視点を 僕は得ることができた。

<つづく>

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建設プログラム

こんなサイトがある (→ こちら )。

ガンディーの言葉を集めた ある小冊子 『 建設プログラム 』 の全訳だ。

こちらのエントリ で 僕は ガンディー思想を4点にまとめた。 「 建設プログラム 」 とはその第2点 ( 文明論 ) と 第3点 ( 社会改革 ) に対応するものである。 自らの社会活動の総称として 彼自身が選んだのが 「 建設プログラム 」 という名である。

ちなみに 非暴力闘争は 「 サティヤーグラハ 」 と名づけられた。

「 サティヤーグラヒー 」 とは 「 サティヤーグラハを行なう人 」 の意である。

こうした資料の全訳が ネットで読めるというのは、なんともありがたい。翻訳にちょっと注文があるけれど、 「 仮訳 」 ということであるから、ヘタなツッコミは よす。

興味のある方も ない方も ぜひお読みいただきたい文章です。

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ヴェーダとIT企業

思うところあって、新書ばかり 読んでいる。

こちらのエントリ で紹介した次の本、12~3年ぶりに読み直している。

  • 辻直四朗インド文明の曙 』 岩波新書,1967年

辻先生、その 「 まえがき 」 に曰く

インド研究のいかなる時代、いかなる分野に志すにしろ、関係の粗密の程度に従い、多かれ少なかれヴェーダの知識を欠くことは許されない ( i 頁 ) 。

まったくその通り、、、と痛感する。 とくに僕は、ヒンドゥー・ナショナリズムなんてのをやっているので、南アジア古典の知識・教養の不足 に しばしば心底悩まされる。

今さら 印文印哲の研究者にはなれないので、 独学で学んだサンスクリット超初歩 を足がかりに、少しでも知識を仕入れていくしかない、、、 大変ではあるけれど、これはとても楽しい作業だ。

さて、辻先生の言葉が とくに心に残ったのは、並べて読んでいるもう一冊が、たまたま次の本であったからだ。

  • 榊原英資インド IT革命の脅威 』 文春新書,2001年

90年代末以降のインドIT産業の振興ぶりは、ここであらためて述べるまでもない。日本での注目も大だ。

この状況、インドに渡ってみて 肌では実感していたが、ちゃんと本で確認していなかった。そこで手始めに、まだ読んでいなかった同上書を手に取ったというわけ。

こんな本を読みながら、3500年前の祭式書のマントラに興奮したりもする―― ヴェーダとIT企業 、、、 これが僕の接しているインドだ。

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ガンディー思想

「 マハトマ 」 の尊称で有名な M・K・ガンディー

僕の修士論文、、、 実は ガンディー思想 の分析でした。 その後 ガンディーについての論文はあまり書いてはいませんが、まぁ 地道に研究だけはつづけています。

さて、ガンディーは膨大な量の言葉をのこしました。 彼の全集は分厚いものが なんと 百巻 もでています ( いまは DVD版あり )。 この分量は世界最大級でありましょう。

これだけデカくなりますと、なかなかその全容がつかめません。 そこで 今の日本人の関心に沿って 全体をまとめあげるなら、次の4点になるかな、、、と思います。

  • 宗教思想
  • 非暴力
  • 文明論 ( いわゆる開発問題など LOHASな関心 )
  • 社会改革 ( カースト問題など )

この四つに整理すると、僕らの頭には入りやすく、なおかつ ガンディー思想をかなりもれなく網羅できると思います。

なお、宗教思想を最初にあげたのは、彼の思想は もうどこまでも徹底的に 宗教思想なのだ、 その意味では、 「 宗教思想 」 だけが大項目で、あとの三つは中項目だ、、、ぐらいに考えているからです。

<メモ>

今年度前期、日本女子大学で ガンディーの非暴力 についての講義をもたせてもらっている。 後期には、世田谷市民大学で 同様の講義をもつ予定。 ガンディーの話をさせてもらえるのは、本当にうれしい。

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インド哲学チョー入門

九州大学のインド哲学史研究室のサイト、、、 「 新入生のための研究室ガイド 」 というページがある (→ こちら ) 。

そのトップ、、、 原田泰教 さんが、学部新入生の皆さんのために 「 読んでおきたい本 」 5冊を紹介している。

  • 『インド思想史』東京大学出版会
  • 『インド思想史』中村元、岩波書店
  • 『インド文明の曙』辻直四朗、岩波新書
  • 『初めてのインド哲学』立川武蔵、講談社現代新書
  • 『古代インドの神秘思想』服部正明、講談社現代新書

インド哲学チョー入門 ということで、ここに紹介させていただきます。

僕もあらためて勉強しなおします。

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インドって本当に広いなぁ

辺境といえるかどうかは別にして、インド滞在中 僕はインドの東北地域に行ったことがある。

「 北東諸州 」 と呼びならわされる地域、、、ミャンマーと国境を接する地域で、インパール作戦で日本軍がなだれこんだ インパールやコヒマがある地域、、、と言えば、お分かりの方もいらっしゃるだろう。

インパールはマニプール州、コヒマはナガランド州、それぞれの州都だ。その二つの町を訪れたのである。

インドの州区分 こちら 参照。

マニプール、ナガランドはいずれも 「 部族民 」 地域である。

このときの旅の思い出は またいつか書くこともあろう。

ここに書いておきたいのは、もっともっと単純なことだ。

それは、インドは バカミタイニ 広い・・・ということ。

たとえば、僕は タミル・ナードゥとケーララに行ったことがない。JKにも、ミゾラムにも、トリプラにも、メガラヤにも行ったことがない。アルナーチャルには行きたくても、なかなか行けない。N先生がインド一の場所とおっしゃっていたシッキムにも行ったことがない。チャッティスガール、ジャールカンド、こちらも未踏破だ。

州の名前だけ言っても こんなだから、郡や県になれば ほとんど行ったことがない。あるはずがない。

インドって本当に広いなぁ

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オモシロ現代インド本

お勧めの現代インド本 」 ということで かつて こんなエントリ を書いた。

そのリストに加える、、、まではいかないけれど、、、もう一冊 オモシロ現代インド本 をみつけた。

NHK取材班・岡田正大 『 NHKスペシャル 神秘のインド大紀行 神々の台座・デカン高原 天空の王国・ザンスカール 』 日本放送出版協会,1991年. (→ こちら @アマゾン)

長たらしい表題はご愛嬌。 要するに、岡田さんが中心で書いた 『 神秘のインド大紀行 』 という本なわけです。

岡田さんについては 後述。

この本、街角の古本屋で見つけた。表題だけを見て、怒るつもりで手にした。学生さんたちに 「 浅薄なインド観 」 の代表として紹介するつもりで。

「 神秘 」 なんて・・・まぁ・・・私たち地域研究者には・・・ちょっと・・・

だが、中身はぜんぜん違った。

インドの辺境を二つ、紹介した記録だった。その辺境こそ、長たらしい表題に含まれるデカン高原と、ザンスカールである。

「 デカン高原 」 のどこが秘境なんだよ!! 

事情通のあなた の叫びが聞こえてきます。もちろんこれは、ネーミングがひどすぎるだけのこと。NHK取材班が赴いたのは、旧マディヤ・プラデーシュ州の東端、最南東端 ( 現チャッティスガール州 ) の部族民保護地域なのです。ここに入ったことのある日本人は、ほとんどいないはず。 

「 デカン高原 」 とあるのは、少しでもキャッチーな言葉を使おうとする マスコミ人のならいなのだ と思われるのです。

一読 とても面白い。僕も知らなかったことが、分かりやすく 読みやすく書かれている。初期の人類学者の著作は ちょうど こんな読み物だったのだろう。

「 お勧め 」 までいかない理由は、地域研究者として見過ごしにできない 誤認があるからだ。

「 ヒンズー語 」 なんてのは まだよい。これは明らかに、分かってて書いている。一般の言い方にあわせようというのだ。

しかし、インドでは何千年も前から牛が食べられなかった、、、みたいな記述を読むと、、、フーー、、、ため息が出る。 とてもではないが、そんなことは言えない。食べられにくかった、、、ぐらいのことだろう。牛肉の忌避が ここまで広範に規範となったのは、おそらく19世紀前半のことであり、たかだか200年弱の伝統だ。

小谷先生の本 参照 (→ こちら @Amazon )

言いたいことは他にもあるけれど、まぁ 揚げ足とりになるだけなので、よす。とにかく面白いのだから、読んでみる価値はある。

ポイントは、もちろん!! 「 辺境 」 からのインド・ウォッチ。 通俗的なインド理解の浅薄さに 誰もが気づくだろう。 

<メモ>

  • 『 神秘のインド大紀行 』 に言及している 興味深い文章として こちら
  • 岡田ディレクター、、、 「 やらせ 」 等々の問題が浮上したムスタン取材のチーフだったようだ。残念なことだ。イケイケドンドンのディレクターのようにお見受けするが、、、さて 『 神秘のインド大紀行 』 の方は どこまで信用して読んだらいいものか。。。面白い本なだけに、こういう余計な騒動は惜しまれる。

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6/9 グローカル研究会

久々に 研究会で発表をさせていただきます。

グローカル研究会 」 というもので、詳細は こちら ご参照ください。

発表題目に 「 概論 」 と銘打ってますが、、、 これは なかなか発表内容のイメージが固まらなかったからです。 

そこに書かれているとおり、主催者側の問題意識は、次の2つです。

  • グローバル化のもたらす「国民」意識の相対化
  • 「国家」概念の再構築とナショナリズムとしての展開

こうした大きな問題設定のなかで、インドの事例を僕がしゃべったら、ご参加の方々がそれをどのような関心でお聞きになり、どのような問題をえぐり出してくださるのか、、、

むしろ 僕の方がそれをうかがいたいと思い、それで 「 概論 」 としたわけです。 他地域の研究者の方々から、忌憚ない意見やアイディアをお聞かせいただけたら、と願っています。

(平日の夕刻なので、ターンアウトはちょっとよくないかもなぁ・・・)

まぁしかし 問題提起一切なし ではあんまりだ、、、と 自分でも思いますから、後半部では いくらか理論的な話題を出したい、と考えています。

すなわち、、、

インドの世俗化と公私区分という文脈からみたヒンドゥー・ナショナリズム

という問題設定です。

国民社会の世俗化、、、宗教の脱私事化、、、このふたつこそ、比較宗教的な現代宗教論にとって もっとも重要な点である、 との理解がそこにはあります。

以上、お知らせでした。 お時間のある方、ぜひともおいでくださいませ。

<補足>

今年秋に予定されている2つの学会での発表とコメントも 上と同様の関心からおこなおうと考えています。 それらの学会とは、、、

前者のパネル発表では、宗教社会学の視点から (とくに社会経済的要因に注目して) 80年代以降のインドのいわゆる「ヒンドゥー化」について 再考します。

後者では、現代フランスの公共宗教論のパネルに 「 司会 」 として登壇させていただく予定。 公共性について、フランスはおそらく インドとは対極にあります。 そうした事例から、いわゆる 「 宗教復興論 」 の再検討をおこなうパネルということで、 僕にも勉強になるところ大です。

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杉谷滋 編 『 アジアの近代化と国家形成 』

久々の投稿、、、と思ったら、またもや 読書メモ。

まだまだ仕事と生活のペースがつかめなくて、、、忙しいだけ忙しいのに、、、自分でもどうしたもんだか、、、なんだか困ってます。

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先便 で書いたニーチェ 『 道徳の系譜 』 ( 今風に訳せば 道徳の系譜学 ) は、一昨日に読了。 いろいろ心に残るフレーズがあったので、いつか紹介したい。

いま読みはじめているのは、、、

杉谷滋 編 『 アジアの近代化と国家形成 ―― 経済発展とアジアのアイデンティティ ( 御茶の水書房、1996 )

奥付に 「 関西学院大学産研叢書 (20) 」 とあるように、同大学産業研究所の共同研究 「 アジアの中の日本 」 ( 1993~95年度 ) の成果をまとめたもの。

近所の図書館 に行ったら、借りたかった本がなかった、、、せっかく来たからと 他の書棚を物色していて みつけた本だ。

インドの政治史について、ちゃんとまとめなおさなくてはならず、政治学のアジア論を読みなおし、勉強しなおそうと思ったので、借りた。</