カテゴリー「01B 宗教政治学」の記事

2010年2月 6日 (土)

神社判決 悩む自治体

前便 「空知太神社判決 フォーローアップ」 より つづく

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朝日新聞 2010年1月27日付 朝刊に

  • 神社判決 悩む自治体

という記事が載った

例の最高裁判決 を受けて、 各地の同様事例が

あらためて注目を集めている、 ということだ

政教分離原則は 憲法上の原則だ

しかし、 その具体的な適用解釈には かなり幅がもたされてきた

それを、 公私区分の不徹底を法解釈が是認したものだとして

徹底的に脱宗教化された公共領域の確立を優先事として掲げるか

はたまた、 いわゆる 「目的効果基準」 を

近代日本の歴史のなかで 独自の仕方で

しばしばなし崩し的に構成された公私領域/聖俗領域の構成への

法的な対応だとみなすか

その辺りで ちゃんと議論がなされるべきだ、 と思う

具体的な作業には かなりの手間隙と予算が必要だろうから

原則が哲学的、 社会思想的に 合意形成がなされていないと

混乱は増すばかりだろう

この方面において 宗教学者 (とくに 宗教社会学者) が

果たすべき役割は 決して小さくない

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以下引用

http://www.asahi.com/national/update/0127/TKY201001270123.html

「違憲」 神社判決に悩む自治体 売却なら重い住民負担 (1/2ページ)
2010年1月29日19時15分

Photo

[北海道が所有する土地に立つ中の島神社 = 札幌市豊平区、 諸星晃一撮影]

  北海道砂川市が市有地を神社に無償で提供しているのは 「政教分離原則に反して違憲だ」 とした最高裁大法廷判決 (20日) の波紋が広がっている。 全国で同様のケースが次々と判明。 ただ、 提供の経緯をたどると江戸時代までさかのぼるような 「地域密着型」 の施設もある。 違憲解消のために有償に切り替えるのも容易ではなく、 各地の自治体は頭を抱えている。

■無償提供、 全国に多数

 問題の 「震源地」 となった北海道。 明治から昭和初期にかけての開拓時に道内各地で神社が建てられた経緯がある。 こうした中には、 自治体が公有地をただで貸している例が少なくない。

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2010年2月 3日 (水)

【書評会】 『民主主義と宗教』 『アメリカの公共宗教』

粟津賢太先生 のブログ 『Lab: Kenta Awazu』 に

二つの書評会のお知らせが載った

http://www.scholars-net.com/lab/index.php?e=803
「書評会ふたつ」

これは 行かねば!

一つ目 2/26 は たまたま予定の谷間で 行ける (喜)

伊達さんの仕事っぷりは ホントにすばらしい!

こちら参照 ⇒ http://d.hatena.ne.jp/kiyonobumie/20100202

  • マルセル・ゴーシェ 『民主主義と宗教』 (伊達聖伸+藤田尚志訳, トランスビュー, 2010年2月)

二つ目 3/10 は 別の予定とドンかぶりだが なんとかして・・・

以前 「アメリカの公共宗教」 というエントリ で紹介した本

インド研究者のとある先生からも この本の話題をふられたりして

静かに注目を集めている本なのだ!

  • 藤本龍児 『アメリカの公共宗教―多元社会における精神性』 (エヌティティ出版, 2009年11月)

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2010年1月26日 (火)

空知太神社判決 フォローアップ

エントリ 「「公有地神社」に違憲判決 最高裁」 のフォローアップです

と言っても、 僕の記事のほうが後だったのに

参照し忘れていた、 ということです (恥)

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KIYONOBUさん のブログ 『KIYONOBUMIE』 にて

という記事がありました (2010年1月21日付)

僕の記事 は ネット情報のコンピレーションにすぎませんが

「ライシテ」 の専門家であるKIYONOBUさん (伊達さん)

より踏み込んだ指摘をなさっています

ぜひご覧くださいませ m(_ _)m

【メモ】   「ライシテ 伊達」 で Google!

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2010年1月23日 (土)

「公有地神社」に違憲判決 最高裁

北海道砂川市の空知太神社の敷地は市の所有である

神社はそれを無償で使用してきた。 この慣例に対し

地元住民有志が 政教分離原則違反であるとして

違憲判決をもとめる訴訟をおこしていたのだそうだ

2010年1月20日、 その上告審判決で、 最高裁大法廷は

政教分離原則に違反するとの判断を示し

札幌高裁に審理をさしもどした

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これについて ネット上から いくつかの記事を集めてみました

まずは 基本情報として

  • 河北新報 「政教分離訴訟の判決要旨」

次に 各紙社説。 最初は地元紙が 筋でしょうから

  • 北海道新聞 「政教分離判決 再確認した憲法の原則」

もちろん 全北海道の代表 などと言うつもりはありません

そして この種の問題ではなんと言っても

  • 産経新聞 「政教分離判決 「違憲」の独り歩き危ぶむ」

思ったより 毒づいてはいません

さらに 『新s あらたにす』 「くらべる一面」 (2010年01月21日(木)朝刊) から

  • 朝日新聞 「神社への市有地無償提供に違憲判決 最高裁」
  • 日本経済新聞 「神社への市有地無償提供、政教分離で違憲判断 最高裁」
  • 読売新聞 「砂川市有地を神社敷地に提供、最高裁が違憲判断」

(ただし、 日経と読売の記事は 「社説」 とは言えないものです)

以上6つの記事 下に 順に 切り貼りしておきます

【追記 100126】  フォローアップ記事は こちら

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続きを読む "「公有地神社」に違憲判決 最高裁"

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2009年12月21日 (月)

西洋史記述と《宗教/世俗の二分法》

西洋史の本を読んでいると、 その記述のなかで

《宗教/世俗の二分法》 の納まりがいいなぁ、 と

そういう感想を 禁じえない

日本とかインドとかは やっぱり 簡単じゃない

イスラーム圏も もちろんそうだろう

《宗教/世俗の二分法》 を批判して 組みなおして

説明して コトバを練って・・・ そうしてやっと

現地の状況を なんとか記述できるようになる

現地のコトバをそのまま使ってもいいのだが

それがまた 説明を要する、 つまり

僕らが慣れ親しんだ 既存の理解枠組みに合わない

そういうややこしさを 嫌というほど 経験してきたから

西洋史と宗教学は 本当に 相性がいいんではないかなぁ

と つまり

宗教概念はキリスト教と 本当に 相性がいいんだよなぁ

と 素朴に思ってしまう

(もちろん 西洋とかキリスト教とか 簡単には言えない)

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  • 八塚春児 『十字軍という聖戦: キリスト教世界の解放のための戦い』 (NHKブックス, 日本放送出版協会, 2008年2月)

1095年11月、 フランドル宛の教皇の手紙から

一節を 翻訳のうえ 書きぬいた直後

著者 八塚先生は 次のように解説を加える

ここで 「指導者」 と訳したもとの言葉は dux で、 諸侯の場合は 「公」 と訳されるものである。 したがって、 世俗的な意味で十字軍全体の総指揮官の意味で用いられていると解釈することもできる。 しかし、 それに続けて具体的に述べられるのは、 「彼の命令にあたかも我らの命令の如く従い、 …… 彼の解くことやつなぐことに全く服従するように」 ということである。 「解くことやつなぐこと」 とは、 いわゆる 「鍵の権」 というもので、 キリストからペトロに与えられた天国の鍵を教皇が相伝しており、 それによって人々の来世を左右できる、 いわば教皇権を象徴する権能である。 十字軍士が服従しなければならないのがそれであるとすると、 アデマールの権限は霊的な側面に限定されているようにも見える

52頁: 「アデマール」 とは ル・ピュイ司教のこと

ここで 「世俗的」 の対語は 「霊的」 である

こうした 《世俗/霊の二分法》 において

《世俗的なもの》 が何を指すのか 具体的な説明はない

一方、 《霊的なもの》 とは 「鍵の権」、 すなわち

「人々の来世を左右できる」 教皇の 「権能」 「権限」 を指す

どこまでが 11世紀西欧の用語法なのかはわからないが

この点について 八塚先生は とくに説明を要する、 とは

考えてらっしゃらないようだ

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八塚先生は つづけて 次のように書く

古い時代にはアデマールの役割を高く評価する研究者が多かった。 つまりアデマールは、 十字軍の世俗的な指揮権をも委ねられた戦う司教として描かれていた。 しかし、 近年になるにつれ、 アデマールの役割の評価は軽くなる傾向にある。 十字軍の実際の過程において、 そのようなアデマール像は実証できず、 アデマールの仕事で確実なものは、 祈祷、 プロセッション、 幻視調査などの宗教業務が大半であったと主張されている

53頁: 「祈祷」 に付された 「きとう」 のルビは省略

ここで 《世俗的》 の対語は 接頭辞 《宗教》 である

例によって 《世俗的なもの》 とは何か、 説明はない

一方、 司教の 「宗教業務」 は 具体例が示されている

すなわち、 「祈祷、 プロセッション、 幻視調査など」 である

ここでの 《世俗/宗教の二分法》 が 11世紀のものなのか

八塚先生のものなのか、 説明はない

【注】

もちろんこれは! 叙任権闘争、 ヴォルムス条約における

スピリトゥアーリア と テンポラーリア の二分

教皇権 と 皇帝権 の二分 に淵源する!

淵源しつつ 近代パラダイムの構築過程で

また独自の発展をして 21世紀初頭の日本にまで

こうして辿り着いた、 そんな観念=制度=理解=用語法

なのであります!

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現代日本語による西洋キリスト教世界の歴史記述においては

かように、 《宗教 (霊) /世俗の二分法》 が シックリくる

説明がなくても 多くの読者に了解をもってもらえる

くり返すが、 インドではそうはいかない・・・

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なお、 八塚先生が 《世俗的なもの》 の具体的な内実の一例を

示している個所が 別にある

これについては

前便 「神事・宗教・経済」

にてお知らせしたところです

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2009年12月10日 (木)

世俗的戦争と宗教的戦争

  • 山内進 『十字軍の思想』 (ちくま新書, 筑摩書房, 2003年7月)

十字軍にはいかにも西洋的、 欧米的な特性がこびりついている。 先走っていえば、 その特性はなによりもキリスト教的武力行使、 つまり聖性と暴力の結合にある。 十字軍は西洋の 「聖戦」 であり、 その思想の核心は独自の 「聖戦」 論にあるといってよい。 西洋には別に 「正戦論」 と呼ばれる 「正しい戦争」 の思想があるが、 間単にいえば 「正戦」 論は世俗的戦争論であり、 「聖戦」 は宗教的戦争論である。

 正戦は、 個人や集団の権利、 身体、 財産、 名誉の侵害に対する武力行使、 その意味での正義の執行という思想を本質とし、 一定の法的制約を受ける。 これに対して聖戦は神の命令、 神の怒りに呼応するもので、 戦いは熾烈である。 聖なる戦いは神の報酬を得る作業であり、 とりわけ十字軍にあっては、 聖地への巡礼の思想と結合した贖罪の契機が強く含まれた。 聖戦は、 神の恩恵を得る行為だった

14頁

これは 「プロローグ」 の中の一節

とくに用語の整理と説明をする箇所 の一節である

したがって、 正戦を 「世俗的戦争」

聖戦を 「宗教的戦争」 と言いなおすのは

著者 山内先生 である

この意味で、 ここでの 《宗教/世俗の二分法》 は

現代日本 (2003年時点) での 用語法=理解であって

「古代から二一世紀まで及ぶ」 (15頁)

「西洋」 の 「十字軍の思想」 (同) のそれではない (はず)

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ということで あらためて

《世俗》 とは

個人や集団の権利、 身体、 財産、 名誉

などであり、 「法的制約」 のもとにある

そして

《宗教》 とは

「神」 の御心と それへの人間の応答であり

人間に対する 「神」 からの 「贖罪」 と 「恩恵」 である

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山内先生は 次のようにつづけます

正戦と聖戦、 この二つは絡み合う形で西洋の戦争観と戦争法およびその思想史を構成してきた。 とりわけ正戦の論理は、 ビトリアやグロティウスなど近世の初期国際法学者によって国際法の世界に組み込まれ、 現代国際法にも深いところで影響を及ぼしている。

14-15頁

「ビトリアやグロティウス」 の国際法学、 とりわけその戦争法は

《正戦=世俗的戦争》 理論 と 《聖戦=宗教的戦争》 理論

の双方に もとづく

【注記】

もちろんこれは! 叙任権闘争、 ヴォルムス条約における

スピリトゥアーリア と テンポラーリア の二分

教皇権 と 皇帝権 の二分 に淵源する!

淵源しつつ 近代パラダイムの構築過程で

また独自の発展をして 21世紀初頭の日本にまで

こうして辿り着いた、 そんな観念=制度=理解=用語法

なのであります!

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2009年12月 8日 (火)

近現代の宗教的暴力の歴史的研究

<読む本>

  • 西村明 読書案内 暴力のかたわらで 池上良正・小田淑子・島薗進・末木文美士・関一敏・鶴岡賀雄 (編) 『岩波講座 宗教 第8巻 暴力』 (岩波書店, 2004年9月, 280-99頁)

要点を的確におさえた とてもよいブックガイド!

中でも 自分の関心に 一番近いところをば

おそらく彼 [ユルゲンスマイヤー] が理解しようとしている宗教が前近代的なモデルに基づいており、 科学やテクノロジーが高度化し、 一個人が他の人間な自然環境にふるいうる暴力性の度合いが格段に増している現代における宗教と暴力の関係を考える際には、 彼の議論はそのままでは応用が難しいように思われる。 その際には、 軍事力の歴史的展開や戦争の工業化などを議論の視野に納めたアンソニー・ギデンスの 『国民国家と暴力』 (松尾精文・小幡正敏訳、 而立書房、 1999年、 原著1985年) や、 社会を 〈力〉 のネットワーク群と捉え、 宗教などのイデオロギー的 〈力〉 を政治的・経済的・軍事的 〈力〉 に関連させつつ世界史の展開を論じたマイケル・マンの 『ソーシャルパワー ―― 社会的な 〈力〉 の世界歴史Ⅰ』 (森本醇・君塚直隆訳、 NTT出版、 2002年、 原著1986年) における議論などを参照しつつ、 宗教的暴力の展開を歴史的に位置づける作業が必要となるだろう

287頁: 年号はアラビア数字に変えた。 また書誌情報はフォントを小さくした

なお、 西村さんのこの読書案内が出た後

マイケル・マンの本、 後編 (上下巻) が出た

したがって、 『ソーシャルパワー』 は全部で3巻本です

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2009年12月 5日 (土)

神事・宗教・経済

  • 八塚春児 『十字軍という聖戦: キリスト教世界の解放のための戦い』 (NHKブックス, 日本放送出版協会, 2008年2月)

こちらの本の用語法で

《宗教》 や 《霊》 (カトリック的意味での) と対になる

《世俗》 とは何か・・・ という点について

一部の 「代々の十字軍家系」 について述べるくだり――

十字軍に参加することは多大の出費を伴うものであり、 決して割に合う仕事ではなかった。 また、 参加者を取り巻く政治的情況が、 必ずしも長期の外征を赦すものではなかったこともしばしばであった。 それでも彼らは十字軍が宣布されると当然のごとくに参加したのである。 おそらくその理由は、 十字軍が 「神のみ業」 であり、 まさに 「神事」 であったからではあるまいか

169頁

「神事」 は 著者 八塚先生ご自身の用語法である (同頁参照)

日本の読者に向けて、 ここでの 「神事」 は 「祭り」 のようなもの

との説明が加えられている

ここで 「神事」 と対比されているのは

「政治的情況」 と 「多大の出費」 である

すぐ後の段落では 次のように言われる

一般に行われている図式、 十字軍は時代を経るにつれ宗教的情熱が消え、 経済的利害が優先するようになったという図式は、 正しくない。 経済的負担がますます参加者を圧迫するようになっても、 まさに宗教的義務意識から彼らは参加したのである

169-70頁

《宗教的なもの》 は 「経済的利害」 「経済的負担」 と区別される

「宗教的情熱」 「宗教的義務意識」 とは 「神事」 に向かう

したがって、 《経済》 と 「政治的情況」 とは併置されてよい

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ということで・・・ 

前便での整理と 本便での整理から見えてきた用語法は 

《宗教・霊・神事》 と 《世俗・政治・経済》 との区別と対比

さらに、 そう言ってよければ 二分法 である

そして・・・

これはもちろん! 叙任権闘争、 ヴォルムス条約における

スピリトゥアーリア と テンポラーリア の二分

教皇権 と 皇帝権 の二分 に淵源する!

淵源しつつ 近代パラダイムの構築過程で

また独自の発展をして 21世紀初頭の日本にまで

こうして辿り着いた、 そんな観念=制度=理解=用語法

なのであります!

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2009年12月 2日 (水)

ムンバイ襲撃事件から1年

去る2009年11月26日

ムンバイ襲撃事件 または ムンバイ同時テロ

から1年がたった

同27日付 朝日新聞 朝刊には

ムンバイ同時テロ 遠い解明
事件から1年 対応鈍いパキスタン

という記事が載った。 記者は 「武石英史郎」 さん

残念ながら ネット上では読めない

■  ただ一人生き残った実行犯の裁判が インドで大詰めをむかえていること (早ければ 年明けにも判決)

■  インド政府が 四つの大都市に精鋭実戦部隊をあらたに配置したこと

■  一方、 パキスタン政府が 事件の組織的背景の解明にどうも積極的でないこと

■  アメリカ、カナダ、イタリアなどで 事件の共謀者と思しき人物が逮捕等されていていること

などを紹介している

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この事件については 実は 僕も一本エッセイを書いた

ホントに ホントに 気の重くなる執筆だった

  • 「ムンバイ襲撃事件の背景とその余波: インドとパキスタンのムスリム」 (渡邊直樹 (編) 『宗教と現代がわかる本 2009』 , 平凡社, 124-27頁).

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2009年12月 1日 (火)

外からはうかがい知れない土着の相互扶助社会

前便 より つづく

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2009年11月27日 朝日新聞 朝刊ではじまった

不定期連載 探訪保守 (南彰記者)

内容を 見ていきたいと思います

紙面掲載から5日目

本文は ネット上で まだ読めないようですね

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記事は 出雲大社の 神迎えの神事から説き起こします

そしてすぐ、 「遷宮」 の話題になります

出雲の遷宮は 伊勢の式年遷宮とはちがって

おおむね60年に一度1の 大屋根の葺き替え

をいうのだそうです

現在おこなわれている遷宮 (葺き替え) について

その費用は どこから どのように捻出されたのか――

昭和の遷宮は宮司が中心となって出雲ゆかりの人を頼りに寄付を募った。 平成の遷宮 [現在進行中の遷宮: 引用者注] の音頭をとるのは、 伊勢神宮のある三重県出身の奥田硯トヨタ自動車相談役。 氏子総代で自民党の青木幹雄氏が招聘したといい、 80億円を集める計画だ

1面: 招聘には 「しょうへい」 のルビ

日本最古、 最大の神社のひとつ

その 「氏子総代」 が青木幹雄氏であること――

そして 「氏子総代」 としての青木氏が

寄付集めの旗振りとして招聘したのが

世界に冠たる 超優良企業トヨタの相談役であること――

筆者 南彰記者 は まずそこに注目するわけです

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以上が1面に載った部分の要点です

これは単なるイントロですから、 まだ

南記者が何を言おうとしているのか 論点がわかりません

とりあえず 4面掲載のつづきの文章を みてみましょう

氏子の話題が 引きつづきます

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「旧大社町の住民は、 みんな氏子でございます」

4面

出雲大社の神職の言葉が引用された後

次のように書かれる

島根県出雲市大社町は、 日本海に突き出た島根半島の西のはしにある。 町民およそ1万5千人は全員、 出雲大社の氏子だ

このことを指摘することで、 南記者が何を言いたいのか

やはり 明言されることはないのだが

どうやら 「共同体」 というのが キーワードになりそうだ

これは 「出雲研究の第一人者である藤岡大拙さん」

のコトバであり、 南さん自身は 「頼母子講」 を念頭に

外からはうかがい知れない土着の相互扶助社会

と言っている

これがおそらく 南記者が言いたいことなのだろう

なかなか工夫された表現で、 的を射ていると思う

「氏子」 である町民たちの暮らしのあり方――

南記者は これを描き出すために

  • だんさん
  • 言い継ぎ
  • 常会 (じょうかい)
  • 頼母子講 (たのもしこう)
  • 無常講

などのキーワードを 矢継ぎ早にくりだす

そして 最後の段落で 「遷宮」 の話題にもどる

南記者は再び 出雲大社の拝殿前に立つ

「御浄財」 を募る看板を、 傾いた日が照らしていた。 宮司と並んで寄付を呼びかける名は、 いまやトヨタ自動車相談役の奥田硯氏である。 平成の遷宮は出雲人だけでは支えきれぬ事業となったのだ

このように 「保守」 の土着の基盤の衰退を示唆して

一本目のこの記事は閉じられる

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記事全体は おおよそ以上のような構成になっている

こうした関心を名づけるなら

政治民俗学

ということになるだろう

少なくとも日本で そういう分野はあまり聞かないけれど

南記者の先達は いなくはないのである

政治民俗学という視点から 次便以降 記事内容を

もう少し 細かく 検討していくことにしよう

<つづく>

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