幸福実現党 (2/2)

前便 よりつづく

====================

「ヒンドゥー教とインド政治」 が僕の研究テーマである

「マハトマ」 ガンディー の研究に集中していたころは

近代世界において宗教と政治が肯定的に結びつく可能性を

薄っすらと見通すことができた

もちろんガンディーは完璧な人ではないので

たくさんの過ちや誤解、 迷惑や当惑、 怒りや苦しみを

人びとに与えることがあった

彼が暗殺されたのは、 もちろん不穏当で不当な暴力と言わざるをえない

ただし、 暗殺犯は、 無差別にターゲットを選んだのではなかった

それほどまでに ガンディーは人を怒らせたのである!

それほどまでに ガンディーは人を当惑させたのである!

このことは明確にしておくべきだと思う

こうした限界と苦難にもかかわらず、 ガンディーにとっての宗教とは

政治に 道徳性と精神性をもたらすのに 不可欠なのであった

僕は、 僕自身と周囲とを見渡して、切実にほっするのである

解放的で 建設的な 公的な価値観を!

====================

その後、 ガンディー暗殺犯へと 僕の興味は移っていった

「ヒンドゥー至上主義」 「ヒンドゥー原理主義」 「ヒンドゥー民族主義」

専門家が 「ヒンドゥー・ナショナリズム」 と呼ぶ勢力が、 それである

そこにはいつも 暴力がまとわりついていた

「現実」 や 「正義」 というコトバで糊塗された、 小さな諦念と激情・・・

それらが あっという間に連なることで生み出す 破壊と絶望・・・

研究をはじめてわかったのは、 彼らには彼らなりの道義がある、 ということだ

それはもちろん、 僕には全く受けいれられないものなのだけれど

それが、 南アジアの近現代史から 生えるべくして生えたあだ花であることは

たしかに理解できるようになった

そこでの 宗教と政治の関係は、 まったく悲劇的なもののように思われた

宗教への真摯なコミットメント、 政治に翻弄される人びと――

その結合が どのように破壊的な事態を、 世代を超えて (!!) 再生産するか

僕は、 そのことを身にしみて知るようになった

====================

アジアの近現代は 宗教と政治を単純に二分しきらなかった

「しきれなかった」 というよりも、 「しきらなかった」 !

それにはそれ相応の 歴史的な理由がある

インドもそうだし、 日本もそうだ

専門的な憲法解釈を云々せずとも、 公明党が政権与党を担いうる

これこそが 紛うかたなき現代日本の現実である

繰り返すが、 それには歴史的合理性がある

こうした観念=制度=価値観の歴史的な構築過程は、 まだ

十分に明らかにされたとはいえない

それをすることには 大きな意義があることだろう

しかしこの問題において、 僕たちに問われているのは 理念 である――

このことが忘れられてしまっては、 「仏作って・・・」 になってしまう

その 理念 とは 実に単純なことだ

  • 僕たちは どのような正教関係をほっするのか

これである

順番を間違えてはいけない

この問いは憲法にどう書かれてあるとか、 どう解釈されるとか

当面、 その課題とは関係がない

最初にあるべき問いは

この政治社会において、 宗教には一体どういった役割が与えられるのがよいのか

である

====================

僕にもまだ それへの解答が出ていない

専門家を称するかぎり、 出すべきだとは思うが、 出せていない――

早朝の松戸駅にて 真理 幸福 実現党のパンフレットを片手に

そんなことを繰り返し考えていた

【お詫びと訂正】 何をどう間違えたか、 「真理」 実現党と表記していました。 訂正しますm(_ _)m [090616記]

| | コメント (1) | トラックバック (0)

幸福実現党 (1/2)

先日 (6月2日) 朝7時、 松戸駅東口にて

真理 幸福実現党」 のチラシをもらった

来る衆議院選挙に向け、 新宗教団体 「幸福の科学」 が設立した党である

千葉県は 「幸福の科学」 が強い、 と耳にしたことがあったが

本当にそうみたいだな、 との印象を与えられた

チラシは A4版の三つ折、 上質の紙で カラー印刷

安いものではなさそうだ

チラシには公約が掲げられている

景気回復! 日本を元気に!

株価上昇2万円台!

いじめ追放! 学力アップの公教育!

正義の教育で 「いじめ」 のない学校

塾へ通わなくてもOK! 教師の 「指導力」 アップ

憲法改正! 核のない世界へ!

国を守る 「外交力」で あなたと家族の 幸福防衛

核兵器のない 世界平和を実現!

簡単なチラシなので 具体的な方策は書かれていない

実現されれば 大変素敵なことである

====================

さて、、、

問題は 無論! 政教分離の原則 である

<つづく>

【お詫びと訂正】 何をどう間違えたか、 「真理」 実現党と表記していました。 訂正しますm(_ _)m [090616記]

| | コメント (0) | トラックバック (1)

ライシテの歴史

<買う本>

  • ジャン・ボベロ 『フランスにおける脱宗教性 (ライシテ) の歴史 (三浦信孝・伊達聖伸訳, クセジュ文庫, 白水社, 2009年)

括弧内の 「ライシテ」 は 「脱宗教性」 に付いたルビ

こちらのエントリ で触れた ボベロ先生と 伊達さんの仕事

どう考えても大事なものでしょうっ!

| | コメント (3) | トラックバック (0)

宗教と資本主義

大変興味深い 「宗教学」 のページをみつけた Test_4

http://charm.at.webry.info/theme/459b760b51.html

若き心理カウンセラー、 Es Discovery の 本松良太郎さん のブログ

その中のテーマ 「宗教学」 のページである

日本史の講釈と、 参考文献の紹介で構成されている

僕としては、 宗教と資本主義 をつなげて論じようとしている点に

とくに興味を引かれた

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【報告】 インドの世俗主義

こちらのエントリ にて ご案内していた研究会が終了しました

参加者は、 私も含め 8人

2時過ぎから4時半まで 休みなしで、 ミッチリ! 議論しました

大変勉強になりました

力尽きて、 中途半端なレジュメになってしまったこと

参加者の皆さんに お詫び申し上げます

本日お配りしたレジュメ ―― 下記よりDLできます

「インドの世俗主義」 文献表も入っています。 ぜひどうぞ

http://sites.google.com/site/aurabuddhiprakash/Home/happyou--kouen

次回の月例懇話会の予定 ――

6月20日前後、 次の本の書評会をしようと思います

南アジアに興味のある方、、、 だけでなく、 宗教に興味のある方も

ぜひぜひ ご参加ください m(_ _)m お待ちもうしあげております

  • 外川昌彦 『宗教に抗する聖者: ヒンドゥー教とイスラームをめぐる「宗教」概念の再構築』 (世界思想社, 2009年)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【再掲】 インドの世俗主義

明日 (23日) 午後3時 午後2時 より、 研究会で発表させていただきます

場所は 日本女子大学目白キャンパス です

アクセスマップはこちら ⇒ http://www.jwu.ac.jp/grp/access.html


どなたでも参加になれる研究会です

お時間のある方、 ぜひお越しくださいませ

====================

宗教学にとって 「世俗主義」 (secularism) が問題、、、

というのは しばらく前から 気づかれていた

アサドの翻訳は、 その気づきを 確定するものだった

しかし問題は、 世俗主義の問題とは どのような問題か 、、、 ということだ

この点を明確に指摘するのは、 意外と 難しい

こんな感じになる

  • そもそも 西ヨーロッパの歴史のなかから出てきた、 完全にヨーロッパ的な 世俗主義なんてものが
  • 政治理論の用語として 普遍的に通用させられてきて
  • さらに それが各地域で 独自に それなりの定着をみてきた、、、 のだが
  • いまや その根本範疇である 宗教と世俗とが 「鏡像関係」 (こちら 参照) にあること
  • つまり 世俗を確立するための宗教なるものが、 じつは 世俗によって確立されているという 入れ子状態にあること、、、 が明らかになりつつある

これは 相当 複雑な情況なわけだ

こういうとき、 文系学問がやるべきことは 個別具体的な事例を 調べてみる――

これに尽きる

====================

ということで、 東大の東洋文化研究所の 羽田正先生 のグループが中心になって

シンポジウム 「21世紀世界ライシテ宣言とアジア諸地域の世俗化」

が 08年11月28日に開催された

僕は 同僚の 伊達聖伸さん に声をかけていただき、 そこで発表をさせていただきました

インドのセキュラリズムの行方――インド憲法、ガンディー、ヒンドゥー・ナショナリズム

伊達さん>  いつもいつも 本当にありがとう。 あなたのおかげで、 僕は ホントに救われてます

このエントリ、、、 僕のペーパーの宣伝でもあるのですが

上のサイトから リンク先をどんどんサーフしていただきたい、 というのが主旨です

このシンポジウムの成果と、 それを主催する東大のこのグループの仕事に ご注目いただきたいのです

とっても有意義な研究が コツコツ と積み重ねられています

【メモ】

上記ペーパーを増補改定したものを 下の研究会 (5/23 @日本女子大学 ) で発表させていただけることになりました

小さな集まりです  どなたでも参加いただける、 インフォーマルな集まりです

どうぞお越しくださいませ

<詳細は 以下>

続きを読む "【再掲】 インドの世俗主義"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宗教、階級、差別

<注目記事のフォローアップ> 前便は こちら

====================

http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/world/20090508-567-OYT1T00068.html

豚全頭処分のエジプト、 養豚の少数派キリスト教徒は猛反発

2009年5月8日 (金) 00:34 YOMIURI ONLINE

【カイロ = 加藤賢治】 新型インフルエンザ (豚インフルエンザ) 対策として、 エジプト政府が始めた豚の全頭処分に対し、 豚を飼育する少数派のキリスト教一派コプト教徒が猛反発している。

 同教徒は、 豚を不浄とみなすイスラム教徒による差別だと訴えるが、 政府は 「飼育環境が不衛生で、 野放しにできない」 と処分を進めている。

 「感染者が出ていないエジプトで、 なぜ豚を処分するんだ」

 カイロ西部マンシーヤ・ナセル地区で、 豚約100頭を飼育する男性 (33) は、怒りをぶちまけた。 住民の大半は廃品回収業のコプト教徒で、 生ゴミで豚を飼育、 副収入にする貧困層だ。 3日には処分に反発する住民と治安部隊が衝突した。

 「新型」ウイルスは、 人から人にうつる型に変異しており、 感染拡大に豚はもはや無関係。 それでもエジプト政府は、 国内の推定30万~40万頭の豚を処分する計画だ。

 新型インフルエンザの世界的な広がりは、 日ごろから不衛生な豚飼育を駆逐する機会をうかがっていた政府に、 絶好の口実を提供したとの見方が広がっている。

====================

2009年5月10日付け 朝日新聞 (朝刊) から 補足する

エジプトで養豚は、 ごみのリサイクルと裏腹だ。 市街地で集めるごみを分別し、 残飯のみ豚に与えて飼育。 豚は食肉工場に、 分別した残りのごみはリサイクル業者に出荷する。 人口の1割と言われるコプト教徒のうち約3万5千人が、 この地区でごみ処理と養豚で生計を立てており、 1日にトラック2千台分のごみが運び込まれ、 約6万頭の豚が飼育されているという。

この事実が示唆するのは、 問題は 単純な宗教対立ではない ということだ

どういうことか・・・

宗教帰属にもとづく共同体と 階級・階層と 差別の社会構造とが すべて重なっているということ

<コプト教徒 = 都市最下層民 = キタナイ・ロクデモナイ連中 >

こんな等式が スンナリ成り立っていて、 しかも

その三つの項が、 すべて同等の重みをもっている ――

このことは、 僕がやっている インドの事例からも 十分推測できる

だから、 次のようなムスリム (男性イスラーム教徒) のコトバが

同じ記事のなかで紹介されていたとしても

それに とらわれすぎはいけない! のだ

カイロ在住のイスラム教徒で退役軍人のムハンマド・ラシドさん(60)は、 「エジプトはイスラム国家。 そもそも豚を飼うべきではない」 と政府の全頭処分を支持する。

ラシドさんを苛立たせているのは、 もしかしたら、、、

<都市下層民 (スラム住民) のゴミ拾い> であり

その人たちが 図らずも体現することになってしまった体現させられている

エジプトという国の停滞と混乱であり

そんな国を作った 「政治家」 「官僚」 「知識人」 などなど、、、

であるかもしれない

繰り返す、、、 問題は 宗教ではない!

【メモ】

「コプト教徒 抗議 インフルエンザ 豚全頭処分」 でGoogle! →

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ガンディーとエリアーデ

エリアーデが面白い ので、 読書メモを連続投稿してみます

内容的に、 <連載 中沢新一論> と かなりリンクします

ご興味のある方、 カテゴリ からご参照ください

====================

ガンディーの敬愛者は 当時のヨーロッパにたくさんいた

有名なところは ロマン・ロランだ

彼の評伝 『マハトマ・ガンディー』 は、 広い読者層を獲得した が、 それは

オリエンタルなもの、 インド的なもの、 神秘的なもの、 古代的なもの、、、 などに対して、 当時のヨーロッパ人が、どれだけの関心を もうすでに もっていたかを示す

ちなみに、 知識層だけでなく、 かなりの民衆層にも それは浸透していた

世界でいまも最もよく知られた宗教学者、 ミルチア・エリアーデもまた ガンディーに惹きつけられた若者のひとりだった、、、

ということを 今回はじめて知った

  • エリアーデ 『迷宮の試煉』 (作品社,2009年) より

ガンディーを見たこともあり、 声を聞いたこともありますが、 遠くからで、 よく聞こえませんでした。 そのころスピーカーもありましたが機能していなくて。 カルカッタで、 ある講演で、 非暴力デモのときでした・・・・・。 でも私は彼に感服しています ―― みんなと同じに。 私が携わっていたのはほかの分野でしたが、 彼の非暴力キャンペーンの成功にはおおいに関心を惹かれました。 もちろん私は一〇〇パーセント 反英 でした。 スワラジ の闘士に対するイギリスの弾圧に私は苛立ち、 憤慨しました。

74頁。 傍点が付された部分は、 太字で示した

インド留学中のエリアーデが見たのは、 (1930年 ということだから)

あの有名な 「塩の行進」 によって再びインドの民族運動の先頭に立った ガンディーの姿だった

政治に関心をもったのはインドに来てからです。 なぜかというと、 ここで抑圧を見たからです。 私は考えました。 「インド人はまったくもっともじゃないか!・・・・・」。 そこは彼らの国で、 彼らの求めるのはある種の自治でしかなく、 彼らの示威行動は完璧に平和的なもので、 だれを挑発することもなく、 自分たちの権利を要求していたのです。 しかも警察の弾圧は不必要に暴力的でした。 そのためにカルカッタで私は政治的不正を意識し、 同時にガンディーの政治活動の精神的可能性を発見したのです。 打撃への抵抗と無反撃を可能にするこの精神的規律。 それはキリストに等しいもので、 トルストイが夢想したものでした・・・・・。

76頁

対話相手の クロード=アンリ・ロケ が聞きなおす

◇ では無抵抗運動に心も精神も奪われたのですね・・・・・。

◆ 暴力的運動にも! たとえば、 私はある過激派の話を聞き、 もっともだと思いました。 いくらかの暴力も必要だということが私にはよく分かっていました。 でも結局のところ、 私は非暴力運動に非常に惹かれました。 次に、 それはただ並々ならぬ戦術であるだけでなく、 みごとな大衆教育であり、 自己統御を目指すみごとな民衆教育法でした。 まったく、 それは政治以上のものでした。 現代政治以上、 という意味です。

同。 「R」 がロケ、 「E」 がエリアーデ である

ガンディーに対するエリアーデの手放しの賛美、、、

この言葉は、 70年代半ばのアメリカにおいて吐かれたものだから、、、 つまり

アメリカにおける公民権運動や反戦運動や反核運動を背景として吐かれたものだから、、、

ちょっと 差っぴいて聞かれるべきだろう。

エリアーデが どの程度まで ガンディー主義者だったかはさておき

二人が共有した時空間には 大いに興味をかきたてるではありませんか!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イスラエル

臼杵陽先生が 新書を 上梓なさった

  • 『イスラエル』 (岩波新書, 岩波書店, 2009年)

「イスラエルはユダヤ国家である」 という言い回しは、 民族・エスニシティ・宗教・宗派などの観点から多様なイスラエル社会の現実を見えなくしてしまう。 だからこそ、このような多様な現実を見ていくという立場からイスラエルを考えていこうというのが、 本書の基本的なスタンスなのである。

しかし、なぜわざわざこのようなスタンスを取る必要があるのか。 それはイスラエルの多くの人びとが今後もずっと 「ユダヤ国家」 であり続けようと望んでいるからである。 イスラエルはユダヤ人のための国民国家でなければならず、 そのためにはユダヤ人がイスラエルで多数派を占めなければ 「ユダヤ国家」 という看板をはずさなければならなくなってしまう。

「はじめに」 iv頁

イスラエルを論じた本書の特徴は、 イスラエルが事実上、 ロシア系やエチオピア系などの多様なユダヤ人のエスニック・グループのみならず、 民族的マイノリティとしてのアラブ人をも包接するたぶんか主義に向かっていることを議論の前提にしていることである。 逆に言えば、 イスラエルのたぶんか主義的性格のゆえに、 イスラエル国民の多くはその反動として、 ナショナリズム的な行動をとる傾向にある。 ・・・ [中略] ・・・ したがって、 ユダヤ人内部のエスニックな多様性をもつイスラエルの現実を述べ、 民族的マイノリティとしてのアラブ人問題も 「ユダヤ国家」 の将来を考えるための素材として正面から取り上げた。

「あとがき」 223-4頁

====================

まだ読了していないので、 感想等は別の機会に

あしからず

間違いなく名著となっているでしょう!

【メモ】

同じく 臼杵先生の 『中東和平への道』 (世界史リブレット,山川出版社,1999年) も読みやすく、大変ためになった

| | コメント (0) | トラックバック (1)

豚インフルエンザとイスラーム

【 注目記事 】

http://news.nifty.com/cs/world/worldalldetail/yomiuri-20090429-00616/1.htm

====================

トンだ災難…エジプト政府、国内飼育の豚を即時処分

2009年4月29日(水)22時43分配信 読売新聞

【カイロ=加藤賢治】 エジプト国営テレビによると、同国政府は29日、新型インフルエンザの感染を防ぐため、国内で飼育されているすべての豚を即時処分することを決めた。

 推定頭数は30万~40万頭。新型インフルエンザの国内感染例は報告されていないが、予防的措置を講じた形だ。

 エジプトの国教であるイスラム教は豚肉を食べることを禁じているが、国内ではキリスト教一派のコプト教徒らが豚を飼育、特定の店で豚肉も販売されている。

 複数の地元メディアによると、農業・土地開拓省は豚の所有者への補償金として総額5億ポンド(約85億円)の支払いを検討。すでに県知事の指示で処分が始まった地域もあるという。

 同国人民議会(国会)は28日、豚の即時処分を政府に要求。イスラム原理主義系の議員は本紙に、「宗教上の理由で豚の飼育に反対しているわけでない」とした上で、「エジプトには設備が整った養豚場がない。住宅街に近い、不衛生な環境で豚が飼育されており、危険だ」と説明した。

====================

  • また、、、 大量虐殺だ、、、 せめて食べるのなら、 と思う。 このジェノサイドに対する感性を 失わないようにしたい!
  • 朝日新聞 (09年4月30日付) によれば、 「エジプト人の約9割が信仰するイスラム教では豚は不浄な動物とされ、 主にキリスト教の一派コプト教徒が飼育している。 このため、 国民の間で豚に対する嫌悪感からパニックが起きたり、 コプト教徒への反感が高まったりすることを防ぐ狙いもあると見られる」。

この種の大量虐殺をするのは、 エジプトだけではない。 イスラーム圏だけのことではない! (狂牛病のときのことを 想起すべし)

政治が まったく世俗化されていない というのは、 何も エジプトだけのことではない。 イスラーム圏だけのことではない!

【メモ】

「豚 インフルエンザ エジプト 処分」 で Google ⇒

こちらのエントリ もご参照ください

| | コメント (0) | トラックバック (0)

近代とはなにか、近代性とはなにか

ついでに ウォーラーステインからもう一丁。

「近代」とは、資本主義的世界=経済のなかで発達した習慣、規範、実践のなにもかもをそこに放り込んで表現するための言葉である。 近代とは定義上、真の普遍的価値(ないしは普遍主義)の体現であるため、それは、単に道徳的善であるだけではなく、歴史的必然性であるということにもなった。 非ヨーロッパの高度文明には、近代、そして真の普遍主義へと向かう人類の歩みとは両立しないものがあるにちがいない、ずっとそうであったにちがいないというわけである。 ヨーロッパ文明――それは本来的に進歩的だとされた――とはちがって、他の高度文明はその発展の軌跡のどこかで〔進歩が〕凍結してしまい、したがって外部の力による(つまりヨーロッパによる)指導がなければ、どのみち近代へと自己を変革していくことはできないにちがいないということだ。 (イマニュエル・ウォーラーステイン『ヨーロッパ的普遍主義:近代世界システムにおける構造的暴力と権力の修辞学』山下範久訳,明石書店,2008年,74頁.)

僕の考えでは、もう少し 近代としての特徴というものは、実在すると思うのだが、ともあれ とても参考になる一節。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

近代性と資本制

久しぶりの、きわめて!久しぶりの投稿で、いきなりなんですが、メモの一部を切り貼り。

資本主義的な世界=経済の諸々の特殊性のひとつに、固有の認識論の発達がある。 資本主義的な世界=経済は、それがシステムとして機能しつづけられるための、鍵となる要素として、その認識論を採用した。 私がここに論じてきた認識論、モンテスキューが『ペルシア人の手紙』で指摘した認識論、サイードが『オリエンタリズム』であれほど激しく論難した認識論は、まさにこれのことである。 二項対立、特に普遍主義(それは、支配するものの側の諸要素に具現化されていると主張される)と個別主義(それは、支配されているものの側に帰属せしめられる)のあいだの二項対立を実体化したのは、近代世界システムにほかならない。 (イマニュエル・ウォーラーステイン『ヨーロッパ的普遍主義:近代世界システムにおける構造的暴力と権力の修辞学』山下範久訳,明石書店,2008年,102-3頁.)

近代性と資本制 という ずっと悩んできた問題が ウォーラーステインの再読で、ちょっと切り口が見えたというお話です。

ここでのポイントとしては、私見では 「近代性」の根幹が 認識論にあるという。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

宗教と政治過程

先日から話題にしている『宗教と現代がわかる本2008』 (前便は こちら)。 力作ぞろいの論集だが、中でも面白かったもののひとつが

井上まどかさんの 「気になる人物の発言集」 (275-62頁)

人選といい、解説といい、これはセンスにあふれるエッセイだった。 すごく面白かった。 平成天皇をはじめとして、何人かの言葉が取り上げられているのだが、 私がとくに注目したのは

村上正邦氏 (元労働大臣・参議院議員)の項 (270頁)

「宗教と政治過程」 とでも名づけたらよいだろうか、、、 具体的な政治の場面において 宗教なるものがどう関わっているか ―― 宗教政治学の重要な視角になる。

関連の前便は こちら

ということで、井上さんの文章をば 少々長くなるが 引用させていただく。

======以下引用(ただし、一部書式を引用者改定)======

神の御心にかなう政治こそ、
日本人にとっての政治だったんです。
相食むものもなく、病むものもなく、
苦しむものもなく、乏しきもののない、
そのような邦を、
この日本に実現するために、
私は政治に命を懸けてきたんです

村上正邦
(元労働大臣・参議院議員)

=============

『証言 村上正邦――我、国に裏切られようとも』
(魚住昭著、講談社)より

 村上氏は20代後半に、9歳年上の故玉置和郎氏(元総務庁長官)と出会う。玉置氏は選挙に出るにあたり、宗教団体のなかでいちばん政治に熱心でありながら候補者を持っていない団体として、生長の家を知る。玉置氏は奮起して谷口雅春氏の『生命の實相』(全40巻)を読破、日夜合掌し、村上氏に「あんたは俺の心の影だ。女房以上の存在なんだ。だから、俺と一緒になって成長の家に入ってくれ」と熱く語る。そこで村上氏は、1962年、30歳にならんとする頃に10日間の練成を受けることになる。村上氏の父親は酒や博打にお金をつぎ込んでしまう人で、「父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」(成長の家の経典『甘露の法雨』より)と教えられても、とてもその心境に達せずにいる。が、練成の5日目に、ある思い出から父親の大変さや苦しさを実感し、「親父の実相は慈愛深い笑顔だった……私を生長の家の教えに導くために現れた観世音菩薩だった」と心からの懺悔と両親への感謝の気持ちに満たされるという体験を得る。謙虚な気持ちになり、自分が変わることで世界を変えていくという教えを得たと村上氏は語っている。玉置氏とともに入信したときには、票をとるために入ってきた「偽者」だとの謗りを教団内部からも受けていたが、「生長の家政治連合」の国民運動本部長を務めながら、日本の宗教界が結集した「日本を守る会」(1974年4月結成)の事務局の中心メンバーとして働く。その後「成長の家」の路線転換で、教団から離脱することになるが、「成長の家」の谷口雅春氏の思想を核とした政治や教育の改革運動に邁進した。2001年にKSD事件関連の受託収賄罪で逮捕される。1審、2審で実刑判決を受け、上告して現在も係争中。1932年生まれ。福岡県出身。

======引用おわり======

さて、、、
このエントリを下書きしていた昨日、村上氏の刑確定のニュースが飛びこんできた。 偶然が重なるときは こんなものである。

「KSD事件 上告棄却 村上元労相」でグーグル ⇒

【メモ】

井上まどかさんが、この「発言集」で「物故者」の一人として カール・ゴッチ を含めてくれたことは、個人的にツボである。 井上さんが引いているゴッチの言葉は

技術と精神は常に一緒だ。 決して嘘をつくな。 決してごまかすな。 そして決して放棄するな
『ザ・レスラー』(渡辺研著、JICC出版局)より

解説文もまたよい。 井上さんがプロレス好きだとは承知していないのだが、、、果たしてなぜゴッチがここに(笑)、、、嬉しい驚きだ

【リンク】

村上正邦氏のブログ ⇒

『証言 村上正邦』@アマゾン ⇒

生長の家のHP ⇒

| | コメント (0) | トラックバック (1)

榎本美樹さんの 「亡命チベット人の宗教と政治の現状」

とにかく面白く読んでいる 『宗教と現代がわかる本 2008』!!

渡邊直樹さん責任編集,平凡社,2008年.

渡邊さんと平凡社におかれましては (昨年の私のように、原稿締め切りをまったく守らない輩がいたりで) さぞご苦労が多かろうと思う。 しかし、ぜひぜひ このシリーズを継続させていただきたい。 (今度こそ、私もできる協力があれば、何でもさせていただきたい)

それぐらい面白い本だと思うのだ。

この本全体の特徴のひとつが、「宗教と政治」の関わりについて、積極的に論考をくわえているところだ。

いくつかのエッセイがそのテーマを直接、間接に取りあげているのだが、その中でもとくに「宗教政治学」の真ん中を突く一節をみつけた。

榎本美樹さんの 「亡命チベット人の宗教と政治の現状」 (100-103頁) の中の一節である。

榎本さんは「大阪商業大学 比較地域研究所 PD研究員」

以下の引用で [ ] は引用者注、です

======以下引用======

 宗教的価値観が牽引する社会規範を尊重する人人にとって、政治という意思決定の場面では、アクターが持つ政治倫理が重要となる。 ゆえに信仰心が重視され、宗教者が政治に関わることに対する抵抗を軽減する。 むしろ宗教的レベルの高い者の方が将来や物事の本質を観ずる力を持つため、政治に限らずあらゆる意思決定をより適切になすことができると考えられている。

======引用おわり======

非常に繊細に、宗教と社会と文化と価値観と政治との絡まりあいを解きほぐしてくれる文章だと思う。 フィールドに密着していなくては、こうした文章はなかなか書けない。

もちろん本当は 「絡まっている」 のでもなんでもない。 ただ、宗教・社会・文化・価値観・政治などなどの概念が、それぞれ別のものとして設定されているからこそ、そのように 「見える」 だけ、そのように 「書くしかない」 だけなのである。 既成概念がまずあって、私たちの知的な活動を制約している ―― 現代宗教研究では、いつもいつも問題になる点だ。

さて、、、
上の一節は、チベット人 (主に亡命チベット社会) の現状を念頭に、一般的な用語で書かれたものだ。 チベット人たちの現状について、関連する部分を ご参考までに書き抜いておく。

======以下引用======

 …… ダライ・ラマに決断を委ねる [チベット人の] 思考は、彼が観音菩薩の化身として人間を超越した存在であると考えるチベット仏教の思想と無為関係ではないだろう。 多くのチベット人は、彼は未来を観ずることができ、一切衆生のために最善の決断が下せると信じているのだ。

[中略]

 亡命チベット社会の場合、政治倫理とは多分に仏教的価値観から導き出されるものである。 CTA [Central Tibetan Administration: 中央チベット行政府] のような政治形態は、物心両面で閉じた社会の中では独裁に繋がる政体だが、指導者が有能で、開かれた社会として存続し、普遍的価値観を提示できる限りにおいて、国民国家よりも柔軟性がある人間集団の統合を推進し得る。 哲人政治が最善かどうかはチベット人自身が判断することだが、現時点で絶対的権威を持つ指導者ダライ・ラマ一四世が、今後も非暴力と平和を掲げ、民主化を推進する中で民衆が覚醒することを見守るのが支援する側に求められるだろう。

======引用おわり======

短いエッセイであるので、ぜひぜひ読んでいただきたいと思います。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

日本の政治家は「宗教」というコトバを

日本の政治家が宗教をどう考えているか――正確には、「宗教」というコトバをどう使っているか―― 私たちはこれをほとんど知らないと思う。

創価学会と公明党の関係はいうまでもないが、、、 「神の国」発現、新宗連と自民党の関係など、私たちがもっている情報や理解は、かぎりなく断片的だと思う。 私が知る範囲にかぎっても、政治の現場ではもっともっと複雑な力学がはたらいているのが実情だ。

それをしっかり調べるだけでも、大した研究になると思うのだが(ちょうど私がインドでやっているように)、なかなかそういう研究は出てきそうにない。 若い世代の宗教研究者、政治研究者に期待したい。 誰か、そういうことに興味をお持ちの方はいないものだろうか。

ということで、、、

ひとつの事例を紹介したいと思う。 日本の政治家は「宗教」というコトバを どう使っているのか……その実例である。

=============

自民党のチラシに『自由民主』というのがある。その平成20(2008)年3月4日付けの号、「衆議院 法務委員長・衆議院議員 下村博文さん特集号」(No. 3?) を入手した。

裏面に、同議員の書評が転載されていて、そこに「宗教」や「神」というコトバがたくさん使われている。 

資料の性質上、全文引用しても、大きな問題にはならないと判断しましたので、そうさせていただきます。あしからず。

しかし、、、これも孫引きになるのだろうか、、、

======以下引用======

『自由民主』2月12日全国版より
下村博文 この一冊
「宇宙からの帰還」 立花隆・著 中公出版

傷心旅行で座右の銘とした忘れ難き一冊

======

 本書は私の人生の最大の挫折体験の思い出とも重なる忘れ難き一冊です。昭和六十年、私は都会議員選挙に初出馬。ところが選挙運動の途中で家内が過労から急性肝炎を患い入院し、しかも選挙は落選してしまい、傷心を抱えてひとり北海道へ旅に出たのです。その時、携えていったのが本書です。

 米航空宇宙局(NASA)の宇宙飛行士たちの体験を取材した立花隆さんのこの著作はもともと五十六年に『中央公論』に発表されたもので、宇宙飛行士の多くが宗教家に転じていることなどその内容の一端は承知していました。考え方の中に求道的生き方を求める傾向があり、宗教にも関心を持っていた私はいつか読んでみたいと思っていました。自分の人生をあらためて考えてみようという、ある種、求道的な旅を思い立った時この本を買い求め、座右の書としたのです。

 夜行列車に乗り、朝靄の立つ網走を通過するその時、また知床半島を巡るバスの車中や遊覧船の戦場でずっと読んでいました。

 優れた最先端科学者でもある宇宙飛行士がなぜ、科学の対極にあるともいえる宗教家に転じたのか。宇宙体験を通じて彼らが得た「神と一体感を感じた」「神に包まれている」「宇宙から見た地球は生命体である。自分はまさに神に生かされていると感じた」といった感覚は実に興味深く、感銘を受けました。

 「神」という言い方はキリスト者などの表現で、それは仏陀の言うところの宗教的悟りともいえますし、そこでは地球意識のようなものが芽生えるのではないかと思います。

 自然との共生、地球の中における人類。そういった広い視点で人間の生き方を考えなおさなくてはならないのではないか。地球温暖化が問題とされ、今日、当時本書を読んで感じたこういう思いと、旅した北海道の美しい自然がオーバーラップして思い起こされます。政治家はもはやエゴの代表者であってはならない。有資源社会の時代にあって、国益だけを主張していたら地球温暖化などとても解決できません。今こそ宇宙飛行士が感じたと思われる「地球意識」のような宗教的感性、感覚を持って政治を考える必要があると思います。

======引用おわり======

この文章をどう読むか――宗教政治学の基本的なスタンスが問われるところだなぁ、と思うのでした。

【参考】

下村議員のサイトはこちら(↓)
http://hakubun.cocolog-nifty.com/main/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

万能細胞の出現と宗教者の立場

天理大学おやさと研究所 というところがある。

そちらでは、月刊の公刊物として 「 グローカル天理 」 を出している。

その2008年2月号の 「 巻頭言 」 は 「 万能細胞の出現と宗教者の立場 」 という記事。 筆者は 同研究所所長の 井上昭夫氏 。

同氏のブログは こちら

ここで 「 万能細胞 」 とは、iPS 細胞のこと ( こちら @ Wikipedia ) 。

この細胞の開発成功のニュースは 「 ノーベル賞級 」 として大きく報じられた。 そして、日本政府は 実に迅速にこれに対応した。

上記 「 巻頭言 」 において井上氏は、 iPS 細胞がもたらす衝撃について 天理教の教学の立場から コメントしておられる。

曰く、、、

宗教の教学は iPS 万能細胞の出現にどのような対応が迫られるのであろうか。

続きを読む "万能細胞の出現と宗教者の立場"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

世界宗教者平和会議

なんだか忙しくて うっかり忘れていたが、 そうそう 京都ではいま 「 世界宗教者平和会議 第8回世界大会 」 が開かれている ( 今日 閉会 )。

マスコミの取り上げもかなり大きくて、驚いている。 「 宗教 」 「 平和 」 ( ひるがえって 「 戦争 」 「 紛争 」 ) となると、今の日本では本当に関心が高い ―― そのことの表れだろう。

1970年に 第1回大会が やはり京都で開かれた。

ところで、、、 IAHR もそのようなものだったが、リンクしているのだろうか。 IAHRの方では実行部隊の一員をやっていた僕だが、そういった話は聞いたことがないが・・・

さて、、、 正直、この会議は評価がむずかしい。

悪口を言うのは 簡単だろう。

こんなんやってもしょうがねぇよぉ・・・(黒笑)

何の役に立つんだよ・・・チッ・・・

偽善じゃねぇのぉ・・・・?!?!

しかし、これは言っても仕方のないことだ。

こういう動きをちゃんと応援していかないといけない。 だって、どんな理由や正当化論理があるにせよ、殺し合いを奨励するたぐいの宗教者は、誰もほしくないから。

下記メモの3点目、ご参照ください

<メモ>

  • 小原先生の初発レポートは こちら
  • 同会議 日本委員会のHPは こちら
  • より分かりやすいプロファイルは、むしろ こちら で見ることができる。 これは、あの有名な Rel Net の1頁である。 主幹兼代表の 三宅善信さん は、金光教の教師であられると同時に、世界宗教者会議の評議員でもいらっしゃる。 同会議の活動とは、要するに こうした方々の日々の積み重ねにこそ意味、実態がある。 世界大会そのものは、要するに 「 祭り 」 なんだろうから。 こういうところから、こうした大会の意義を考えていきたいのものである。

| | コメント (14) | トラックバック (0)

ユナイテッド93

映画 『 ユナイテッド93 』 を 友人3人とともに 強行軍で 観にいく。

ど深夜の六本木ヒルズ。 半分以上は客席が埋まっていて ビックリ。

まだ公開直後なので、立ち入ったコメントはいたしません。

ただ、これは DVDではなく 、映画館の大スクリーンで観るべき映画だ、と思いました。

僕としては 今のところ 今年1番 の映画です。

<メモ>

  • アメリカで大学を出た韓国人の先輩に この映画、お勧めしたら 「 見たくねぇーーーー 」 との反応。 理由は 「 思い出すから 」 とのことでした。
  • 映画館には、見た目 アラブ系の方 が二人いました。憮然とした表情に見えたのは、気のせいでしょうか。 悪い映画ではないのですが、もちろんこれは アメリカとその同盟国の体制とマジョリティの側から見た9・11の一部です。 ここで評価が分かれるでしょう。
  • 宗教対立 」 「 宗教紛争 」 という、宗教学者なら できるだけ使いたくない概念があるが、そういった見地からは この映画はつくられていない。 ただ、一箇所だけ 製作者サイドが 明らかにそれを意識したシーンがある。 ドキリとした。 そして、なんだか イヤーーーな気分 になった。
  • 公式サイトは こちら

| | コメント (1) | トラックバック (2)

お気軽お手軽

こちらのエントリ への補足。

ケペルの単純化、、、ということだが、たとえば 次のような一節も参照。

五〇年代以来、科学や技術によって達成されてきた進歩派いくつかの確信を生みだしたが、 その確信が底をついた という情況で、これらの運動 [ 宗教的アイデンティティ再確認の運動: 引用者注 ] は出現した ( 323頁より引用: 強調引用者 )。

どう考えても、 「 底をついた 」 ことはなかろう!!

こういう単純化された議論を読むと、どうしても僕なぞは 現代都市エリートの お気軽お手軽 ポストモダニズムを想起してしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

現世のユートピア

ケペルの議論 は 各論がよくできているのに対し、序論と終論の単純化が目立つ、という感想を、 こちらのエントリ に書いた。

それは たとえば 次のような一節にあらわれている。

戦後は、 現世のユートピア が勝利をおさめた。 旧大陸では、紛争と破壊の悪夢、ユダヤ人撲滅の恐怖を見いだした悪夢から脱して、過去の異常な幻覚を追い払うような新たな社会建設の時期がはじまった。 東側では社会主義が建設され、西側では消費社会が誕生する。 そうしたなかで、社会秩序の論理を神的なもののなかに汲みとろうとするイデオロギーの表現に、残された余地は ほとんどなかった 。 めざましい技術革新によってもたらされた生活様式の改善は、進歩に対する揺るぎない信仰を養った。 「 進歩主義 」 は一つの価値として参照されるほどになった ( 31頁より引用: 強調引用者 ) 。

これは どこまで 本当に そうだろうか?

その直前には 次のようにある。

いかに多岐にわたっていようとも、これらの運動 [ イスラーム、ユダヤ教、キリスト教の宗教再確認運動: 引用者注 ] が注目されはじめたのはすべて七〇年代なかばからである。 その大部分は以前から生まれてはいたが、どれもこの時期まで めだって耳を傾けられることはなかった 。 宗教運動が大衆を持続的に動かすことはほとんど不可能だったし、運動の理想やスローガンは、 社会的オプティミズムが全般に広がった という情況のなかでは、時代遅れで回顧的なもののように思われた ( 同上: 強調引用者 )。

「 全般 」 と書いてあるが、本当に 「 全般 」 だろうか?

第三世界の一般大衆は、当時 どうだったのだろうか?

この疑問については、次のような単純ドラマが語られる。

第三世界の独立国では、宗教はじつにしばしば 「 進歩 」 への障害物と見なされた。 新たな指導者のうしろに隠れて、民衆を動員するものと考えられたからである。 しかし植民地権力との闘争の過程で、宗教的帰属は 「 原住民 」 を 「 植民者 」 に大して結び合わせることができ、往々にしてひどく漠然としたものでしかない国民的アイデンティティを生みだすことを助けることになった。そのとき、進歩主義者でさえも宗教的帰属を振りかざした。 しかしいったん新たな体制が確固として指揮の座に居すわってしまうと、聖職者たちは自分たちの研究へと追い返され、その国の子どもたちを勝利へと伴っていった政治=宗教運動は、追いつめられ 絶滅させられた ( 32頁より引用: 強調引用者 ) 。

「 絶滅 」 ?

こうした現象の顕著な例として 次に引き合いにだされるのは 新興国エジプトなのだが、 「 新たな体制が確固として指揮の座に居すわってしまうと、、、 」 以下の文章が示すような事態が ( 仮にたしかに生じたとしても ) わずか3年 の期間なのである。

問いは単純である。

戦後第三世界の近代化とは どのようなものだったのか?

欧米先進諸国、あるいは日本などのような国民国家のあり方が、ケペルの議論には 勝手に投影されてはいないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

現代の宗教運動

もう10ヶ月も前のことだが、 こちらのエントリ で ジル・ケペル 『 宗教の復讐 』 を紹介した。

訳あって、この本をいま再読しております。

感想は 以前書いたものと ほとんど変わらない。

本便以降、 気になった文章、皆さんにとっても興味深いであろう文章を メモ風に抜粋しておきたいと思います。

======

現代の宗教運動 は、われわれの伝統的な宗教への考え方 [ 宗教に関するわれわれの伝統的な考え方 : 引用者注 ] に挑戦を投げかけている。今こそその挑戦に応じはじめなければならない ( 21頁 : 強調引用者 ) 。

いわゆる 「 宗教復興 」 現象を念頭においた言葉。

原著は1991年、日本語訳が92年の出版である。

ただし、ここでケペルは、 近代的宗教概念の再検討 という、われわれ宗教研究者にとって喫緊の課題については、おそらくさほど明確な注意をはらっていない、と思われます。

======

とりあえず ひとつだけ。

しばらく このシリーズ、続けたいと思います。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

イラン革命イデオロギー

いくつかの本で勉強したところによれば、 イラン革命イデオロギー は 世俗的近代性に対するかなり明確な反対だということで 一致している。

実際は どこまでそうなのか、本当に そうなのか、、、一次資料にあたっていない僕としては 疑問はもちろんある。

しかし、そこに 「 世俗的近代性への反対 」 と解釈しうる余地が かなり大きくあるというのは どうもたしかなようだ。

では、ヒンドゥー・ナショナリズムの場合は どうか?

僕の見方では、そこには (イラン革命について語られるほど強烈な) 世俗的近代性への反対は 見いだせない。

たしかに 彼らイデオローグは しきりに世俗的近代性への反対を語る。 しかし それは ( 言葉においても、行動においても ) いつもどうも不徹底だ。

反でも正でもないような、どこか中途半端な位置、、、ヒンドゥー・ナショナリスト・イデオローグは そんな位置取りを選択している。

いくつかの論文でこれまでも繰り返し指摘してきたことだけど、イランの事例を学んだことで それを再確認した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

パキスタンの現状

「 英旅客機爆破未遂事件 」 がパキスタン・コネクションであった との報道を受けて・・・

======

先月18日、 ダバ・インディア にて、大使館時代の友人2人と会った。

とても楽しい時間をすごせて、なんだかまたやる気がわいてきた。

本ブログのことも話題になったのだが、こちらのエントリ について、ありがたいコメントをいただいた。

それは こんな批判だった。

「 ムスリム自己責任論 」 を外部者が軽々しく口にしてはならない、、、そのことは分かる

分かるが、、、外部からの 「 刺激 」 がどうしても必要な場合、どうするのか?

たとえば、パキスタンのような国の場合がそうだ

内部からの建設的な批判、あるいは自浄作用が 構造的にどうしても うまく働かないのが、今のパキスタンである

そういった国では、ムスリム自己責任論を待つだけの姿勢というのは、とても誠実そうに見えて、その実 後ろ向きの対応ではないのか

むしろ ある一線を踏み越えたとしても、苦言を呈したり、アクションをおこしたりすることの方が 大事な場合があるんじゃぁないのか

なるほど・・・ この点はたしかに頭になかった。 考えてみるべきポイントである。 人の意見はいつもありがたい。

さて、、、

パキスタンの現状 は たしかにそのようなものだ、と聞き及んでいる。

  • 出版の自由が 基本的にない
  • 思想信条の自由は 影に日向に抑圧されている
  • 優秀な人材は 次々に国外へ移住していき、 「 祖国 」 から できるだけ距離をとろうとする。 勢い、指導層が空洞化する
  • これに加えて、深刻な経済危機がある。 社会生活のインフラはガタガタで、国家の機能はボロボロ。 心はすさみがちで、建設的な議論を ねばり強くくみ上げていく余裕が どうしてもない。
  • 外交の分野でも いいところなし。 一躍脚光を浴びつつある 隣国で宿敵のインドとは対照的に、アメリカからもすっかり見放されつつある

事実上の軍事政権下にある 現在のパキスタン はそんな国だ。

これはもちろん 途轍もなく残念なことだ。 幾人かのパキスタン人の友人の顔が思い出される

このような場所に 外国人として関わろうとする場合、 なるほどたしかに 自己責任論の自然な立ち上がりを待つというのは どこか不十分な態度であるかもしれない。

では どうするのか?

先に結論を言ってしまえば、、、

この問いに 僕は カッコヨク答えることが どうしてもできない・・・

なぜなら、次のような疑問が どうしてもわいてきてしまうからだ。

いったい・・・ 誰がどんな権限をもって パキスタンの現状に手をくわえ、その歴史のコースをつくっていける、つくってもよいというのか?

パキスタンが どのような国になれば、パキスタンの人々が幸せになったと言えるのか?

そもそも 「 幸せ 」 ってなんだ?

自分と自分の周囲の人の幸せならまだしも ( それだって 相当大変だけど、まぁともあれ) 、日本の片隅から パキスタンの人たちにとっての幸せがどのようなものか、 誰が どんな価値観にのっとって 言い切ることができるというのか?

これは なにも難しい問いではない。

アメリカの介入政策と介入文化を想起すればよい。 その 「 嫌味 」 加減は 誰の目にも明らかだろう。 要するに 大きなお世話なのだ。

しかしながら、その全てにもかかわらず、僕は 何もしないだけの諦観主義には堕したくない、と思ってしまう。 それは とても不誠実な態度のように思われるからだ。

でもやっぱり、、、、いやいや それでも、、、だからって それは、、、しかし そうは言っても、、、、、、、、、、、

こうして答えが出ないまま、このジレンマだけがぐるぐる回る。

回りすぎてとても苦しいのだけど、これしか今の僕にはできそうにない。

<メモ>

  • 南アジア専門家のお二人にも ダバの料理は大好評であった
  • 僕は 94年から96年にかけて、在インド日本大使館で専門調査員として働いていたことがある。96年の後半分は大病をして日本に帰国していた。仕事上でも生活上でも関係者の皆さまには、多大のご迷惑をおかけしたのに、一方ならぬお世話とご心配をいただいた。この場をかりて、あらためて御礼をもうしあげたい。ありがとうございました。
  • お二人にはいずれも本ブログを読んでいただいているとの由。いろいろご意見をうかがって、参考になった。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

真理性問題

こちらのエントリ への補足です。

話題はぜんぜん違うことなのですが、宗教政治学 にとっては大事なポイントだ、と思うので、別エントリにして書かせていただきます。

======

先のエントリで書きましたところを敷衍しますと、僕もカサノヴァも 次のように言っていることになります。

原理主義者や宗教ナショナリストの皆さん、あなた方は真剣に生き、それを 「 反近代 」 という言葉で表現なさっていますね。

しかし、それはしばしば間違った自己理解ではありませんか。

言い換えますと、

あなたご自身よりも 僕の方が あなたのことを よりよく分かっているのですよ

と、こういうわけです。

お気づきのように、こうした立場は、いかにも社会科学者らしい (人類学者的な 繊細さを欠いた) 傲慢 な言い方です。

ここで問われているのは、言明の正しさをめぐる哲学 ( 真理性問題 ) に他なりません。

認識論的には、ここに正解はなかなか見出せないでしょう。 「 知ること 」 の究極的な無根拠 があからさまにされています。

しかし、、、

僕はここで真理性問題に拘泥したり、最終的な沈黙を守ったりといった行き方を ( それはたしかに誠実な態度ではありますが、あえて ) とらないでおこう、と思っています。

その理由は、原理主義者や宗教ナショナリストの言葉や態度が、諸命題の単純な断定によっているからです。

そして、そうした断定の連続により、彼ら/彼女らは 広範な共感と支持をえているからです。

これは、政治的で論争的な場なのです。

認識論的に、あるいは現象学的存在論のうえで、どれだけ不誠実であっても、歴史形成に直接かかわろうとする者たちの言葉と態度を、僕は研究対象に選んでいるのであって、そこではときに反省不十分な、ときにアドリブの発言や態度が要求されているんだ、と考えています。

これは なにも抽象的な話ではありません。

僕は 研究のためにヒンドゥー・ナショナリストの人たちと接することが多いわけですが、 普段は 聞き手 に徹します。 これは、予断をまじえず、まずは相手のことをちゃんと理解するという、僕が受けてきた学問上の訓練を反映しています。

しかし、ここには 実は微妙なズレがあります。

  1. 相手は最初から論争を前提にはなしている。反論がくるのを予期して、コトバをくりだしている。
  2. インドという土地柄から ( とくに、インドの教育ある階層では ) 黙って話を聞くだけでは、ちゃんと意見交換 ( inter-view ) したことにならない。

つまり、 ちゃんと話を聞くというのは、必ずしも最良の手段ではない のです。

そのことに気づいた僕は、ある時期から 彼らへの反論を明確に口に出すようにしました。

すると、彼らはむしろ うれしそうにするのです。

日本人で こんなに自分の意見を言う奴ははじめてだ

なんて、嬉しそうにいわれたのも、一度や二度ではありません。

こうした実際の交流の場を、論文や高等発表の場でも、僕はなんとか再現できないか、と思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

反近代

次の記事が下書きのまま保存されてしまっていたのに気づいた。

手直しして、あわてて投稿。

======

こちらのエントリ で、 「 反近代 anti-modern 」 に触れるのを忘れていた。 「 留意点 」 の三つめに並べておくべきだったのに・・・

========

カサノヴァははっきり書いていた。

宗教の脱私事化は、反近代 ( アンチモダン ) の現象として理解することもできない (邦訳、290 頁)

こちらのエントリ 半ばあたり、二つを箇条書きにしてあるところ、後者の一文に 「 (分析レベルにおいて) 」 と書き添えた。

これで何が言いたかったのか というと、こういうことだ。

公共性、動員などを特徴とする 「 宗教ナショナリズム 」 「 原理主義 」 、およびその他の 「 公的宗教 」 は、 しばしば 「 反近代 」 を自ら任じている。

言いかえれば、自らを 「 反近代 」 として表象し理解し、ときにそれを確信している。

さらに言いかえれば、当の運動/現象をになう当人たちは 自分たちの生き方や問題意識を、「 反近代 」 という言葉/観念をもちいて、 ぼんやりとであれ はっきりとであれ、 書き語り、理解している、あるいはしようとしている。 

そして、そうしたご本人たちの言葉や態度は、しばしば分析者/観察者をミスリードする

ということである。 

「ミスリード」というのは ほかでもない。 

ご本人たちの 「 反近代 」 が 本当にどこまで徹底したものになりえているのか、、、 「 近代 」 という おおよそ訳のわからぬ巨大な複合物に対して 反対を挑むというのが、 掛け声どまりになってはいないか ―― こうした問いを、分析者/観察者が発しづらくなる

ということです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ムスリム自己責任論

ヨミウリ・オンライン で検索しても出てこないのだが・・・

7月3日付け読売新聞、国際面の 「 ワールドビュー 」 というコーナーに、「 穏健イスラムが語る改革 」 という記事がのっていた。記者は 寺田正臣さん ( アメリカ総局長 ) 。

マレーシアの元副首相・蔵相であった アンワル・イブラヒム氏 とのインタヴュー記事だ。面白かった。

記事によれば、アンワル氏は、「 マハティール政権下の98年に職権乱用・異常性行為で逮捕、解任され 」 、「 2004年9月に釈放されたものの公務への復帰の道は閉ざされたままである 」 。 現在は、米ジョージアタウン大学の客員教授。 同大 「 イスラム・キリスト教徒和解センター 」 在籍。

内容は、お定まりの ムスリム自己責任論 である。

以下、アンワル氏の発言を記事より引用。 (括弧づけママ)

イスラム諸国は自分たちの手で社会を変えて行かねばならない。米国や英国が ( 民主化などで ) 注文をつける前に動くべきである。教育、男女格差の解消、自由社会の実現などの改革は外からではなく我々自身の義務なのだ

準備がまだできていないとイスラム教徒は言う。しかしそれは違う。 ( 多くのイスラム諸国が独立してから ) もう50年もたっているではないか。2世代、3世代にわたって我々は何をしてきたのか

つまり、「 穏健ムスリムが語る改革 」 のススメ である。

なるほど納得させられる。ここで述べられているのは、たしかにその通りといえよう。ムスリムが果たすべき責任はたしかにある。

しかぁし!!

ぜひとも注意しておかねばならないことがある。

それは、 ムスリム自己責任論は、ムスリム自身が語るときにだけ有意味だ 、ということである。

僕らが、この記事に溜飲を下げて

そうそう そうそう!! まずは連中がしっかりしないとなぁ・・・

などと言ってはいけない。

問題は、極度に政治的で、歴史的である。当事者にもどうにもならない構造的矛盾や心理的ジレンマがある。

ましてや、いわゆるムスリム諸国とイスラーム表象には、 「 大国 」 の恣意的で、利己的な介入と干渉が、大規模かつあけすけな形で、ここ50年間ずっと繰り返されてきたのだ。

このことを思えば、部外者が外側から自己責任をもとめることが いかに不実、不誠実であることか。

読売新聞と寺田総局長が、どのような意図で この記事を執筆、掲載したかはわからない。しかし、そうした配慮は 記事の文面には皆無 である。

いわゆるイスラーム問題の混迷ぶりに うすうす気づきつつある日本国籍保持者たちが、このような記事で、責任を当事者にだけ押しつけて スッキリしよう なんて、考えたりしないだろうか。

それが心配。

歴史と政治と宗教の複雑さに堪えうるような、粘りづよい知性を養うこと・・・

それが、 国際政治における成熟 ・・・ というものだろう。

えっ?! そんなこと興味がないって?!

では、ハヤリコトバでもって 言い直しましょう。

そうしないと、日本の国益 がかえって損なわれてしまうのではありませんか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宗教復興とグローカル化 (6)

前便は こちら

======

 グローバル化は 第一義的には、経済の問題 である。

すなわち、後期資本主義に内在的な力学と機構にしたがって生じる、地球規模での資本統合とその投下・増殖・回収のプロセスである。

このように経済を決定的な基盤とみなすのは、政治や文化や意識のレベルにおけるグローバル化が、経済 ( 資本主義 ) のグローバル化によって先導されている、との観察にもとづく。

具体的には、おそらくは70年代後半から80年代にかけて、資本の地球規模での流動化と再編成、および 移民労働者の ( 絶対数というよりは むしろ ) 本国送金の増加がおこっている、と予想される。

これはもちろん、経済学者さんたちがすでに調べているだろうから、僕も日本語で読めるものをちょっと勉強すれば、何らかの見通しが立つだろう。

 グローバル化は、したがって、近代化の延長・深化というよりは、まずもって、近代資本主義の発展段階のひとつ である。

地球史におけるグローバル化段階の新規性は、このような意味でたしかに認められる。 そしてそれは、おそらく 「 グローバル化論とは語られねばならないものだ 」 という、多くの人たちの実感により証しされる。

私たちが今生きているのは、まさにそのようなハイパー近代の資本制の世界である。

 グローバル化は ナショナルなものを弱めもするが、強めもする

各地域の政治文化・政治体制、および資本制のあり方によっては、グローバル化が ナショナルなものを媒介とせざるをえない場合がある。

インド国民国家は、その典型である。

 グローバル化は したがって、国際化 ( internationalization ) の過程を断ち切りはしないが、撹乱する

ネイション ( 国民/民族 ) と国民国家 ( ほとんど全ての近代国家 ) 、およびナショナルなものは、グローバル化のなかで新たな力を獲得する。 それらは消え去らない。 むしろ いつまでもしぶとく生き残って、グローバル化によって最も大きな恩恵をこうむる企業資本主義 ( 多国籍企業やオフショア企業体 ) を悩ませる。

 近代化/国際化からグローバル化へ、という変化において、真に新しい性格をもった変化は、 「 情報化 」 および 「 ネットワーク化 」 である。

近代資本主義の発展の一段階、と上に書いた。 しかし、90年代後半以降からは、いわゆる IT とその商業化、および国家によるインフラ整備があいまって、グローバル化には独自のツイストが加えられている。

この段階は、言葉の真の意味での 「 グローバル化 」 である。 また、情報化がネットワーク化を伴うことから、それは 「 ローカルなもの 」 の再活性化を引き起こす。

すなわち、ごく小さな ( 地理的にはローカルな ) 個人なり集団なりが、情報化とネットワーク化をインフラ ( = 下部構造 ) として、新たにチカラを結集するようになりつつある、ということ。 たとえば、新らしい社会運動や 少数民族の横の連帯 など。

 情報化・ネットワーク化としてのグローカル化は、したがって、 国民国家に挑戦する

これは、第二次世界大戦後、漸次的に確立していった 「 国際の inter-national 」 秩序に対して、チカラの再配分、チカラ構造の再構築をもとめる。

国民国家は、それに対して、多方面での対応をする。

======

ポイントはまだ他にもあろうが、とりあえず 思いついたものだけ、6点でした。

では、こうした見通しが、独立インドとヒンドゥー・ナショナリズムの理解にとって、どのような意義をもつのか。 インドや 「 ヒンドゥー原理主義者 」 は、上のようなグローバル化論のうえで どのようなものとして理解されるか。

<次便につづく>

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宗教復興とグローカル化 (5)

前便は こちら

======

インドにおけるナショナルなものの強大なるプレゼンスと、その再活性化 ( 具体的には、ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭 ) を、グローバル化という文脈のなかで整合的に読みきろうとする ―― そうした立論自体が、間違っていた

解けない問題を 勝手に立てていた。

3+2=6 これはなぜか? みたいな立論だった。

これが 私が I 先生のおかげで 新たに獲得した立場である。

では、あらためて、、、

グローバル ・ ナショナル ・ ローカル という図式をもとに、「 ナショナル 」 なものを グローカル化 ( グローバルなものとローカルなものの直接的結合と活性化 ) の撹乱要因、阻害要因ととらえる――

ここでのミソはおそらく、ナショナルとローカルをはっきり分けてしまうこと である。 こうすることで、グッと見通しがよくなる。僕の見方では、「 情報化 」 と 「 ネットワーク化 」 という、グローカル化の真に新しい段階が、これによって、より理解しやすくなる。

こうした立場から得られる見通しを、より仔細に検討してみよう。

先に言い訳させてもらいます。

以下の検討は、専門家でもなければ、ちゃんと勉強もしていない者が記した 単なる備忘録、よくてせいぜい 初期作業仮説 であるからして、 チャンチャラオカシイ という突っ込みは、もぉなんというか・・・ 無し!! でお願いします。

僕は、僕のなかにある グローバル化論に関するトラウマ を払拭したいがために、思索のこうした途中段階を吐露しております。 これは、自己心理療法なのです。

とまぁ 言い訳はこれぐらいにして、、、

======

<以下 次便>

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宗教復興とグローカル化 (4)

すっかり間が空いてしまったが、前便は こちら

======

きっかけは I 助教授 ( 創価大学 ) のコメントだった。

お名前を出してよろしければ、ぜひにご連絡をくださいませ > I 先生

私なりに要するに・・・

「 ヒンドゥー 」 を多数派として一枚岩につくりあげようとする 「 ナショナリスト 」 のことが、グローバル化論のなかで うまく議論できないのは、 むしろ当然のこと ではないか。

I 先生のこうしたご主旨の発言が、僕には メカラウロコ であった。

「 国民 」 の多数派であること ( あるいは、多数派形成により 「 国民/民族 」 を実体化し強化しようともくろむ人たちであること ) 、ナショナリストであること ( すなわち、国民国家へのコミットメントを強く強く有する人たちであること ) ――

僕の研究対象のそうした性格からいって、グローバル化論がうまく議論できないのは、 あらかじめ決まったこと ではないか、というのである。

なるほど!! 正解はいつもごく簡単なところにあるものだなぁ、と思った。

グローバル化の流れを多方向へと分散させ、その力の収斂をあいまいにしてしまうような水準、 「 ローカル 」 と 「 グローバル 」 の間にあってその両者のあらたな結合と活性化に水を差す 「 ナショナル 」 なものの強大な生命力 ――

ヒンドゥー・ナショナリズムはむしろ、第一義的には これらに対応する現象/運動とみなすのがよかろう。

これが 僕にとっては 本当にあたらしい発見 であった。

なにを当たり前のことを、とおっしゃる方もおられよう。しかし、 ウニャウニャ している頭 は、往々にして単純なことを発見できないものなのだ、、、と言い訳 ( 恥 )

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宗教復興とグローカル化 (3)

前便は こちら

======

グローバル化理論について 勉強不足、、、わからない、、、 と書いてきた。

しかしもちろん、何もわかっていなかったわけではない。

前便に書いた 三つのQ は、典型的な ( 大方 単純素朴な) グローバル化理解をなぞったものだ。 つまり、なぞれる程度なら、僕にも僕なりの理解があったのだ。

その他にも、少なくともふたつ わかっていたことがある。

  1. グローバル化は画一化ではない。 ローカルなものは かえって活性化される。 そして、こうした二局面に注意をうながすため、 「 グローカル化 」 というコトバが提出された。
  2. グローバル化は 国民国家を 必ずしも弱化させない。 前便で 「 Q: グローバル化は国民国家を 相対的に弱化する? 」 と書いたのは、わざとである。 また、前便<メモ>に記した 粟津さんご紹介の議論も、 ほんとうは 知らなかったわけではない。

僕が本当にわからなかったのは、 

ローカルを活性化し、国民国家を温存する過程 を 何故に わざわざ 「 グローバル化 」 と呼ばなくてはいけないのか・・・・

その意味で、それは 近代化 ・ 国際化 ( internationalisation ) の延長 にすぎないのではないか・・・・

ということなのでした。

ここが どうしてもスッキリしなかった・・・ のだけど、6/9の研究会 では そこに風穴をあける視角を得ることができました。

<つづく>

======

<メモ>

長い前置きは 本便でおしまい。

ひっぱりすぎ、とのご感想もありましょうが、ともかく 僕の ウニャウニャ感覚 をお伝えしないかぎり、 「 新しい発見 」 というときの 「 新しさ 」 がお伝えできない、と思ったのでした。

そのため、うっとぉしい程の連続投稿になりました。すいません。

いよいよ!!次便から 僕の得た新しい知見、、、をご紹介していきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヴェド・メータ 『 ガンディーと使徒たち 』

日本女子大学で ガンディーと非暴力 についての講義をもたせていただいている。 (→ こちらのエントリ 参照 )

そこで先週、次のようなプリントを配った。

本ブログにTBをはっていただいている 植村昌夫さん の翻訳本を、ぜひ紹介したいと思ったからだ。 

こちらからもTBをはらせていただきます> 植村さん

プリントには、この訳書を読むにあたって注意してもらいたい点を、次のように示した。

======

ヴェド・メータ 『 ガンディーと使徒たち: 「 偉大なる魂 ( マハトマ ) 」 の神話と真実 植村昌夫訳,新評論,2004 ( 原1976 ) 年,20頁より.

[ 注: 同上書の表題中 「 マハトマ 」 は 「 偉大なる魂 」 にふられたルビである。本ブログにルビ機能がないので、括弧内にて示した ]

ガンディーが残した数万の著作と演説に展開されている彼の思想の核心は、貞潔と清潔を通じて、人間のあらゆる精神的肉体的欲求と機能の統御を通じて、個人と社会の衛生の追求を通じて、神を求めることであった。

[以下、近藤のことば]

※ 上の引用文について

  • ガンディー思想の全体を非常によくまとめた文。 これだけ手際よいまとめを、私はほかに知りません。 ひとつひとつの言葉 ( 概念 ) をよく吟味しながら、理解するとよいと思います。

※ 上の訳書について

  • この翻訳は、とてもよくできています。 お勧めの一冊。
  • ただし、翻訳はどこまでも翻訳です。 たとえば、上の引用分中で 「 著作 」 とあるのはミスリーディングです。 原語を確認していませんが、おそらくは writings かなにかでしょう。 しかし、ガンディーには著作と呼べるものは1冊しかありません。 2部に分かれている自伝を入れても3冊です。 writings は「書き残したもの」、さらにその後の 「 演説 」 は 「 語ったもの 」 ぐらいの意味にとるべきでしょう。
  • また、 「 衛生 」 という言葉がありますが、これもミスリーディングです。 こちらも原語を確認していませんが、おそらく hygiene や sanitation ではなく ( いずれも医学的な言葉 ) 、 health でありましょう。 だとすれば、それは単なる 「 衛生 」 なのではなく 「 健全さ 」 という意味ももっているわけです。
  • 他にもあります。 「 貞潔 」 はブラーフマーチャリア Brahmacharya 、すなわち性的禁欲を中心にした禁欲の行全般を、そして 「 清潔 」 は浄 'subha; 'suddhi 、すなわち霊的にケガレのない状態を、それぞれ含意するでしょう。 つまり、古代から連綿とつづく南アジア思想を背景にして、これらの言葉は読まれないといけない、ということです。
  • もう一つの注意点。 この本は、ガンディーとその 「 使徒たち 」 の、隠された暗部をあばく著作です。
  • これだけ読むと、ガンディー思想というよりもガンディー 「 現象 」 というものが、インドでなぜあんなにも急速に衰退してしまったのか、よく分かります。 また、ガンディーという人が取り組んだかなり独自な、悪く言えば 「 奇人的な 」 行動が分かります。
  • しかし、もちろんガンディーはそうした面だけで尽くされません。 彼の人生と思想の偉大さとの対比のなかで、この本は読まれるべきでしょう。

======

以上が 学生さんにお配りしたプリント ( 一部 ) でございました。

<メモ>

ガンディーについての前便は こちら

| | コメント (7) | トラックバック (0)

宗教復興とグローカル化 (2)

前便は こちら

======

グローバル化理論について、僕がどのように グニャグニャした 感覚をもってきたか、当日の発表レジュメから 結論部 ( 一部 ) を 補足のうえ 再録してみましょう。

もちろん!!そうしたグニャグニャ加減は、僕の勉強不足 のせいなわけで・・・

あえて!! 薄っぺらな理解 を披瀝してみた理由は、前便に書いたとおりのところです。

======

Q: グローバル化は国民国家を 相対的に弱化する?

A: インドではそうでもない

インドにおいて ネイションと国家はいずれも 最重要の制度=実在である

  • ナショナリスト運動のすえ建国されたインドにおいては、ナショナリズムと国家への忠誠心は 支配的な政治文化である
  • インドでももちろん 「 グローバル化 」 は進展しているが、そのプロセスにおいては 実際上も政策上でも 国家の介入と主導が不可欠である

Q: グローバル化は 「 トライバル 」 な、あるいは 「 エスニック 」 な紐帯を強化する?

A: インドではそうでもない

独立インドの政治文化において正統的なのは、 「 民族 」 としてのネイション理解

  • ネイションを 「 国民 」 と理解しうる ( しようとする ) リベラルの立場は、インドにももちろんある
  • もちろんあるが、きわめて少数。 都市インテリの 「 左派 」 に限られる
  • つまり、インドの公共性は 全然リベラルではない

私的領域はもちろん、公共領域においてすら 宗教は尊重されてきた

  • 独立インドの世俗化は 表面的なものにとどまった

インド国民の私的、公的生活は、大半、地縁と血縁でがんじがらめ

独立インドでは ずっとそんなんだったのだから、いまさら グローバル化でどうのこの、グローカル化でなんだかんだ、、、と言われたって、ピンとこない

Q: 遠隔地ナショナリズムが とくに活性化した?

A: そういう面はたしかにある。 しかし・・・

ヒンドゥー・ナショナリズム理解にとって、そして
独立インドの政治経済・社会の変容過程の理解にとって
それがどれほど重要かは 大いに疑問

   ↓

むしろ そんなんじゃなくて、、、

  • 低開発、不平等、不正に満ちたインドの状況
  • ナショナリスト国家たる縁起
  • 宗教、エスニシティの変わらぬ影響力

これらが 独立インドの政体HNの勢力拡大・維持 を説明する

   ↓

近年の情報化/ネットワーク化としてのグローバル化は そこに付け加わった新ステージではないのか・・・

  • 例えば、IT開発にきわめて積極的なインド人民党
  • しかし、これはIT企業の大成長期に たまたま インド人民党が政権与党であったため
  • 90年台初頭の経済自由化の開始期には 「 反グローバリズム 」 が強かった
  • 今や その力関係は完全に逆転
  • インド国民国家の発展が第一目標であり、グローバル化がそれに有効なら、それを追求する ―― ヒンドゥー・ナショナリストとは 結局 そういう人たちなのだ

======

とまぁ こんな感じで

既存のグローバル ( グローカル ) 化理論 を インドとヒンドゥー・ナショナリズムの事例に、どういう風につなげたらいいのか、、、

ぜんぜん見通しが立っていなかったわけです。

<つづく>

======

<メモ>

  • もうお一人の発表者だった粟津さんのブログ、 こちらのエントリ ご参照
  • そこでご紹介いただいた訳書では、僕の ウニャウニャした疑問など、綺麗さっぱり 議論されずみ ということのようです。
  • ねっ!! だから 勉強不足だ って言ったでしょ ( 恥 )

| | コメント (2) | トラックバック (0)

宗教復興とグローカル化 (1)

前便 からの続報です。

======

グローバル化 ( グローカル化 ) 理論 が、、、いつも引っかかっていた。

大事なのは分かるけれど、インドのこと 、とりわけ ヒンドゥー・ナショナリズムのこと をどうしてもうまく説明できない、、、と感じていたから。 

現代世界の都市インテリ・エリート について それはよく当てはまるだろうけど、、、 「 第三世界 」 については どうなんだろう、、、 そんなものが 「 いまの、これからの世界 」 の姿だと言われたって、どうもピンとこない、、、理論の立て方が間違っているのか、、、「 グローバル化/グローカル化 」 なる概念自体がぐにゃぐにゃなのか、、、いやいや、僕の理解が間違っているのか、、、一体どういうことなんだろう、、、

そんな感覚をもっていた。

これは7年前からの感覚であった。 「 宗教と社会 」 学会 の第7回学術大会 ( 1999年 ) でのシンポジウム 「 グローバル化とアイデンティティ・クライシス 」 で発表をしたとき以来のことだ

(→ こちら より 「 過去の学術退会 」 参照。ただし、大会の詳細は未記載 )

あの時は、既存のグローバル化理論に対する 僕の強烈な違和感 を、上手に伝えられなかったように思う。 だからこそ、その後 グローバル化論をぜんぜん勉強しなかった。いやな気分がして、意図的に避けてきた。 はっきり言えば、、、トラウマになっていた。

今回、 グローカル化研究会 での発表を引き受けたときも、だから グローカル化について論じるつもりは 全然なかった 。 インド内在的な文脈の紹介をして、質疑応答のなかで なにか出てくればいいなぁ、、、と思っていた。 もぉ、参加者の皆さんだよりだぁ、、、と。

しかし、レジュメを作っていくなかで、 「 それでは あんまりだ 」 との思いを強くし、 思い切って この不勉強なままの違和感 を吐き出すことに決めた。

僕はもぉ、、、こんなにも ワケワカンナイ 状態におちいっております。

そんな告白をするつもりで、 「 宗教復興とグローカル化 」 という大テーマを掲げることにした。

そしたら この目論見は大当たり。 新しい視点を 僕は得ることができた。

<つづく>

| | コメント (0) | トラックバック (0)

原理主義というコトバを私なりに

かつて 「原理主義」という言葉には注意が必要だ、というエントリ (→ こちら ) を書いたところ、いろいろな方から反応をいただいた。 

それに対して、お返事をなにも書かないでいました。 申し訳ありません

遅ればせながら、こちらの新エントリでお応えすることにいたします。

======

私は こちら の論文 ( 86-87頁 ) で、 原理主義というコトバを私なりに 四重の広さで定義してみました。

  • 原義 ・・・ 聖典の無謬性/直解主義と千年王国思想の結合
  • 狭義 ・・・ 失われた理想の過去に直接由来すると観念される知識と実践に、唯一無謬の真理性と真正性と正義を付与する傾向
  • 広義 ・・・ 宗教と政治経済・法曹・知識技術の一致/調和への断固たる志向
  • 比喩的用法 ・・・ 対話を拒否ないしは回避する、独善的で攻撃的な傾向

さて、こうした概念規定をおこなうに際して、要点は少なくとも三つあります。 繰り返しになりますが、、、あらためて、、、

  1. コトバは自由に使う場合 ( 日常語 ) と、ちゃんと定義して使う場合 ( 用語 ) がある。 「 原理主義 」 はいま、ちょうどその境にある。 用語としての 「 原理主義 」 というのも ちゃんと鍛えていったらよい。 もちろんその場合、日常語としての 「 原理主義 」 が ダメだ ということにはならない。
  2. ただし、 「 原理主義 」 はきわめて侮蔑的なコトバであるので、それで誰かを名指しするときには、とても慎重になった方がよい。 本当にひどい人や集団がその名で呼ばれるのはかまわないけれど、 コトバの使い方によっては そうでない人や集団まで 一緒くた にされてしまうことがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

近代性とはなにか

非常勤で授業なんぞをやっていて、 ときどき聞かれる問いがある。

近代性とはなにか・・・

もちろん!!この問いに対しては、いろいろな偉い学者さんが ちゃんとした解答をもう用意してくれている。 しかし、いつもどうも納得しきれなかったので、僕なりに答えを出してみた。

近代性とは 「 人間主義、個人主義、合理主義 」 に支えられた観念と制度の体系である、と。

  • 神から人間へ ( 人間主義 )
  • 集団から個人へ ( 個人主義 )
  • 感性から理性へ ( 合理主義 )

こうした三種の価値観シフト ( 認識論的には、人間、個人、理性の概念化と定位 ) が、近代性をもっともよく特徴づけるのではないか。逆から言えば、 神なき個々人の理性中心主義 こそが 近代性の極致ではないか、、、そんなように考えているわけです。

ちなみに、上の三つのシフトはちょうどその順番で、西欧に起こったのではないか、と見通しをつけていたのですが、、、 西欧の哲学史・心性史を実際にたどってみると、そこまできれいには 流れていかないみたいですね。

しかし、である。

上の僕なりの答え、、、実は 国家論 が入っていない。 そこに国家論を入れると、とたんに 簡単ではなくなってしまう。

小杉泰先生 は次のように述べる。

「 近代国家 」 とは何かを問うならば、領域主権国家・国民国家・世俗国家と概括することができる。領域主権国家は一七世紀半ばのウェストファリア体制によって確立されたが、これは領土を持つ国家を主権の主体として、宗教を主権の主体から閉め出すものであった。ヨーロッパでは、三〇年戦争などの宗教戦争を経て、宗教は政治から次第に分離し始めたのである。それでもまだ、領土を持つ主権国家であるだけならば、絶対的君主を主権者として運営されることも可能であった。しかし、フランス革命を経て、その主体は国民でなくてはならなくなった。国民国家システムの成立である。さらに二つの世界大戦を経た現代では、国家の存立基盤は民族自決権であることが確認されているから、たとえ擬制でも国民を主体としなければ、国家は認知されえない。民族自決権が国家の源泉であることは、宗教的な権威によって国家権力を認証する理論が必要でないだけではなく、国民国家にとって有害であることを意味する。世俗国家とは、そのような国家である。近代国家は、かくして、主権・国民・世俗性を主たる属性とするようになった。

出典 :  小杉泰 「 宗教と政治―宗教復興とイスラーム政治の地平から 」 ( 池上良正・小田淑子・島薗進・末木文美士・関一敏・鶴岡賀雄(編)『岩波講座 宗教1 宗教とはなにか』岩波書店,2003年,241-72頁所収 ) 247頁. (→ こちら @Amazon)

主権 ・ 国民 ・ 世俗性 」 と 「 人間 ・ 個人 ・ 理性 」 、、、この二組の問題系を 僕はまだ上手に接合できないでいる。

<メモ>

  • 小杉先生については、このブログですでに紹介させてもらっている ( たとえば こちら
  • 上記論文、、、僕の論文を引用してくださる数少ないもののひとつ。ありがとうございます。もうなんだか 普通にうれしいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宗教復興・ナショナリズム・世俗主義

こちらのエントリ で紹介した 小杉泰 論文、、、

そのなかで、小杉先生は 1960年代以降の イスラーム復興 の 「 史的展開 」 を、9点にわけて略述している。

その第7番目に示されているのが、次の一段落である。

⑦ 民族主義が衰退し、世俗主義との対立が先鋭化する局面――イスラーム復興がアラブ民族主義をはじめとする民族主義の諸潮流と亀甲していることは言うまでもない。 歴史的な流れとしても、アラブ民族主義が衰退してイスラーム復興が隆盛した。 それは一九七〇年代、八〇年代と進んできたが、一九九〇~九一年の湾岸危機・湾岸戦争で、民族主義の衰退は決定的となった。 それまで退潮するアラブ民族主義を支えていたイラク政権が弱体化し、影響力も衰えたからである。 そうしたなかで、民族主義者が起死回生を願ってイスラーム派と対話する場面も現われるようになった。 これは、民族主義が世俗主義を捨てて、宗教的文化を吸収しようとする動きにつながる。 この局面のなかで、イスラーム復興運動も世俗主義を主要な敵とみなすようになった。 八〇年代後半以降の中東のイスラーム思想は、世俗主義に対する批判を非常に強めている。(29頁:強調引用者)

イスラーム復興の歴史についてもそうだが、やはりここで僕が興味をもつのは、 「 宗教復興・ナショナリズム・世俗主義 」 の三者関係である。

イスラーム復興とナショナリズムとの両義的な関係 (場合によってはくっつき、場合によっては離れる、という関係) は

  • 酒井啓子編 『 民族主義とイスラーム: 宗教とナショナリズムの相克と調和 』 ( 日本貿易振興会アジア経済研究所,2001年 ) 巻頭の酒井論文 (→ @アマゾン
  • 池内恵 『 現代アラブの社会思想: 終末論とイスラーム主義 』 ( 講談社現代新書,講談社,2002年 ) (→ @アマゾン

ですでに学んでいた。実際、こちらの拙稿 (→ @アマゾン) では そうした文脈で酒井論文を引いた。

小杉先生の上の一節で気になったのは、 「 世俗主義 」 という概念の使い方である。

この辺りをどのように整理していくかが、 宗教政治学 の大きなポイントになるだろうなぁ。

そしてもちろん、世俗主義概念を鍛えなおす作業は、宗教学者が担うしかない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

6/9 グローカル研究会

久々に 研究会で発表をさせていただきます。

グローカル研究会 」 というもので、詳細は こちら ご参照ください。

発表題目に 「 概論 」 と銘打ってますが、、、 これは なかなか発表内容のイメージが固まらなかったからです。 

そこに書かれているとおり、主催者側の問題意識は、次の2つです。

  • グローバル化のもたらす「国民」意識の相対化
  • 「国家」概念の再構築とナショナリズムとしての展開

こうした大きな問題設定のなかで、インドの事例を僕がしゃべったら、ご参加の方々がそれをどのような関心でお聞きになり、どのような問題をえぐり出してくださるのか、、、

むしろ 僕の方がそれをうかがいたいと思い、それで 「 概論 」 としたわけです。 他地域の研究者の方々から、忌憚ない意見やアイディアをお聞かせいただけたら、と願っています。

(平日の夕刻なので、ターンアウトはちょっとよくないかもなぁ・・・)

まぁしかし 問題提起一切なし ではあんまりだ、、、と 自分でも思いますから、後半部では いくらか理論的な話題を出したい、と考えています。

すなわち、、、

インドの世俗化と公私区分という文脈からみたヒンドゥー・ナショナリズム

という問題設定です。

国民社会の世俗化、、、宗教の脱私事化、、、このふたつこそ、比較宗教的な現代宗教論にとって もっとも重要な点である、 との理解がそこにはあります。

以上、お知らせでした。 お時間のある方、ぜひともおいでくださいませ。

<補足>

今年秋に予定されている2つの学会での発表とコメントも 上と同様の関心からおこなおうと考えています。 それらの学会とは、、、

前者のパネル発表では、宗教社会学の視点から (とくに社会経済的要因に注目して) 80年代以降のインドのいわゆる「ヒンドゥー化」について 再考します。

後者では、現代フランスの公共宗教論のパネルに 「 司会 」 として登壇させていただく予定。 公共性について、フランスはおそらく インドとは対極にあります。 そうした事例から、いわゆる 「 宗教復興論 」 の再検討をおこなうパネルということで、 僕にも勉強になるところ大です。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

イラン革命

現代宗教論にとって宗教復興論は 核心的に重要である。

そして、いまさら言うまでもないことだが、、、

宗教復興論にとって イラン革命は きわめて重要な出来事である。

ということで、、、

前便 まで紹介してきた 『 増補 イスラームに何がおきているか 』 (16-41頁 )所収

小杉泰 「 脅威か、共存か? 「第三項」からの問い」  より、一段落を抜粋。

イラン革命直後から一九八〇年代前半には、百家争鳴の議論がなされた。今にして思えば、専門家もかなりあわてふためいていた。イラン革命が予測できなかった一因は、近代化を推進すると世俗化が進み、宗教は衰微する ( つまり、イスラームの政治的・社会的役割は消滅する ) という認識が強すぎたことにある。 実際この認識のために、イラン革命のみならず、イスラーム復興全体がながらく無視されることになった。 これは、近代化論の功罪の 「 罪 」 のほうに数えるべきかもしれないが、地域に固有な文化や価値システムの力を過小評価していた面もあるし、また、近代化すればどこでも西洋型の社会になるという単線論的な発展観が災いしたともいえる、ただ、その反動か、イラン革命を地域の文化的特殊性だけで説明する考えがだされたのも、やはり的はずれであった。つまり、イランはシーア派であり、シーア派というものはその成立時 ( 七世紀! ) から 「 反体制的 」 であった、というたぐいの議論である。(24頁: 強調引用者)

この段落で僕が注目したい点は ふたつある。

  • イラン革命がイスラーム復興とイスラーム主義に 大きなドライブを与えたこと。 ひいては、イスラーム以外の宗教復興運動にも インパクトを与えた ( と思われる ) こと。

これはまぁ、衆知のことである。

ただし、、、わざわざ「 と思われる 」 と書き込んだ点には、どうかご注目いただきたい。

「 イラン革命のインパクト 」 と簡単に言うけれど、それって具体的にはどういうことなの? 個別の事例をちゃんと見ていけばいくほど、どうもその辺りがあいまいになりそうなのである。

たとえば、ヒンドゥー・ナショナリスト運動の場合 、イラン革命直前直後の一次資料に目をとおしてみると、当時この事件にはさほど大きな注目が与えられていなかったことがわかる ( そもそも、彼らの仲間うちで、イラン革命はほとんど話題になっていないのだ。それよりも、共産主義に対する警戒心の方が 何倍も強い。インドはそういう時代だった) 。

ヒンドゥー至上主義イデオローグたちが、イラン革命や 「 イスラーム原理主義 」 を問題視するようになるのは、やや時間がおくれて、1981年から82年以降のこと、それが過熱化しはじめるのは、さらにおくれて、83年頃からである。

インド的な、国内的な事情があって、そうしたタイムラグが生じたことが推察される。

この辺りの事情を細かに見ていかないといけない。 そうしないと、 「 ヒンドゥー復興 」 の実相が全然わからない、、、というか、 < イラン革命 → ヒンドゥー復興 > という単純な図式に陥ってしまう。これではダメ。

ということで、この方面については、先行研究がほんとにもう全然ありませんから、いま 自分でコツコツ研究しています。。。しかし、、、毎度のことではありますが、忙しくて忙しくて、、、まったく進んでおりません。

第二に、、、

  • イスラーム復興は 「 ながいこと 」 そこにあったのに、観察者・分析者がそれを見落としていたこと。

これまでの宗教復興論では、次の問いがどうも弱かったように思う、、、

宗教復興という言葉で示される 「 現象 」 とは、誰のどんな目に現れ出ている像なのか、、、

特定の 「 現象 」 について論じる場合、論者はそれを外的事実ととらえているのか、内的像ととらえているのか、、、 現象学的思索の質 はここで決まってくるわけですが、、、これまでの宗教復興論は、その点がどうも心許ないように思われます、、、

この点に関連して 「 無視 」 を明確に指摘したことで、小杉先生は、宗教復興論がしばしば陥ってしまう落とし穴を、見事に看破している、と評価できるわけです。

ちなみに、、、このブログですでに何度も紹介させてもらっているように、拙稿 「 宗教復興と世俗的近代 」 (→ こちら ) は、小杉先生と同様の関心をもとに書き上げたものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イランの四つの宗教性

前便 で紹介した『 増補 イスラームに何がおきているか 』 (118ー37頁 )所収

吉村慎太郎 「 イスラーム革命と民衆文化: イラン政治変動の底流 」 からの一節。

「イスラーム」という呼称で一括することは便利であるが、 多様性・動態性の現実を覆い隠す危険性をも秘めている。 この点をフィールドワークを通じて十分確認したためであろう、 米国の人類学者フィッシャーは、 主要なイラン・イスラームのスタイルとして、 (一) 宗教指導者が訓練される教育機関での学問的宗教、 (二) 村やバザールでの民衆宗教、 (三) 既存の社会的諸価値に対抗する神秘的なスーフィズム、 (四) 上流階級の個人に還元された倫理的宗教、 の四つを指摘している。 (119-20頁)

ここに示された イランの四つの宗教性 は、他地域の研究にとってもかなり参考になる。

(インドなんかは これと よ~~く似ている)

比較宗教的な現代宗教論の整理枠組みのひとつ、、、として記憶しておきたい。

なお、参考文献は注記されていない。ただし、巻末の文献表によれば、ここで参照されているのは

  • Fischer, M. M. J. Iran: From Religious Dispute to Revolution. Cambridge: Harvard University Press, 1980.

であるようだ。 目を通してみないとなぁ、、、

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イスラームに何がおきているか

ブログ再開の第一弾はこれ↑↑↑

数ヶ月、このブログをのぞきもしなかったら、、、コメントもいっぱいいただいていた。

ちゃんとお返事を書くようにいたします。すいません。

======

イスラーム復興についての本は、日本語でもすでに た~くさん あり、はっきり言って どれを読んでいいのか分からない 状態だ。

そこで、、、

  • 小杉泰編 『 増補 イスラームに何がおきているか 平凡社,2001年

を、僕はお勧めしたい。 (→ こちら@アマゾン

集められた論考は、各国、各地域におけるイスラーム復興の具体相を、個別にとりあげている。短めの論考ばかりで、とっても読みやすい。

ただし、南アジアの事例が欠けているのは残念。バングラデシュは、インドネシアにつづいて、世界第2位のムスリム人口を抱える国なのに。パキスタンはもちろん、インドだって、イスラームを論じるにあたっては、とっても重要である。

しかしながら、編者の小杉先生の名誉のために言っておくと、南アジアのイスラームの重要性を、小杉先生はとってもよくわかっている。 こんな本 に 「 イスラーム研究と南アジア 」 という論文を寄稿なさっているぐらいだ。概論だが、文献表はすごく充実している。

『 増補 イスラームに何がおきているか』 は、冒頭から通読する本というよりも、辞典のように使える本だ。 つまり、なにか気になる事例に出会ったら、その国や地域の章を読む、、、という具合にである。

こうした読み方をすると心底納得するのだが、イスラーム研究は、現代における比較宗教の可能性を示す。 メガ地域横断的な 「 比較 」 が ここまでちゃんとできるのは、本当にうらやましいことだ。 イスラーム研究は、現代の宗教学者の必須科目だ、と僕は確信している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「 原理主義 」 という言葉

宗教学や宗教研究、あるいは中東地域研究者のあいだでは、 「 原理主義 」 という言葉 を、できるだけ用いないようにしよう、というのが 広い合意を得ています。

その理由は、この言葉には、あまりにも否定的なニュアンス ( 狂信的で、破壊的で、暴力的で、、、云々 ) が つきまとっているからです。

特定の運動/現象をこの言葉で名づけてしまいますと、もう最初っから バカにした感、、、頭がおかしくて、粗暴で、野蛮な連中といった前提、、、があからさまになってしまう、というわけです。

日本語で 「 原理主義 」 だと、まだよいのです。

問題なのは、欧米語です。 fundamentalism なんて言う場合です。 欧米諸語の語感からしますと、上のようなバカにしたニュアンスはかなり強くなってしまいます。 つまりそういった場所では、この言葉は ハナッカラ 悪口、蔑称 なのです。

学会内では 比較的早い段階から この言葉づかいの問題が指摘されておりました。

そのせいかどうかは知りませんが、最近になって、マスコミもそれに同調しつつあります。 たとえば、テレビ・ニュースや大手新聞などで、ハマスは 「 イスラム過激派組織 」 と言われるのが、最近の通例です。 これは さほど悪くない呼称だ、と僕などは思うわけです。 

さらに専門的になりますと、 「 イスラーム主義組織 」 などとなりますが、業界外の方には なんだか 分かったような分からないような 言葉でありましょう。

※ イスラム、、、ではなく、イスラームである点にも注意

※ 「 イスラーム主義 」 という言葉の説明は こちら 参照。

留意点:

  1. もちろん、蔑称だと分かって、この言葉を使うのなら、それはそれで いたし方のないことです。ただ、言葉のニュアンスがあまりよく理解されていないのだとしたら、問題があります。
  2. 「 イスラム原理主義 」 という言葉が、最初から暴力性を前提としているため、より平和的な部分への注目が、自動的に弱くなってしまうことは、大きな問題です。 たとえば、ハマスに社会福祉部門があることはよく知られたことです。パレスチナは極端な事例なので、なかなか 「 平和的 」 ということが言いにくいのですが、他のイスラーム諸国、諸地域には、かなずしも暴力的ではないような 「 イスラーム復興 」 の潮流もあり、それが 「 イスラーム主義 」 (政治的で、ときに過激化するイスラーム的運動 ) と重なりあっています。 「 原理主義 」 という言葉は、そういった側面を、なにか付け足しのような、二次的なものとしてイメージさせてしまいかねません。

こうした背景がありますので、先便 で J-WAVE が 「 原理主義 」 という言葉をためらわずに使っていた、とご報告したわけです。

※ J-WAVE の名誉のために言っておきますが、僕は このラジオ局の報道センスを、さほど疑ってはいません。その他の番組などでは、実に丁寧なニュースj解説がなされています。まぁ、、、全体的に保守的なのは仕方のないことですが、、、

言葉狩り は実にくだらないことです。

僕も 「 原理主義 」 という言葉を一切使うな!! なんて言いたいわけではありません。

※ むしろ、この言葉を、比較のための分析概念として定義しなおそうとした、臼杵陽 『 原理主義 』 ( 岩波書店、1999年 ) を、高く評価する書評を書いたこともあるぐらいです。 

ただし、、、

  • 言葉づかいが誰かを苦しめる場合があるわけで、そのあたりの事情だけは、ちゃんとおさえておくべきだ、、、と思います。
  • 言葉づかい次第で、よりよい理解が遠くなったり近くなったりするので、ちゃんと考えておいてもよいだろう、、、と思います。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

政治学はちゃんと

前便 にいただいた大田さんからのコメントへのお返事である。

ところで 大田さん> こんなところでなんですが、S先生、T先生流れで 翻訳をば 大田さんにお手伝いいただけるとうかがっていますが、、、間違いないでしょうか? そろそろ詰めていかないといけませんねぇ。 すいません、僕が忙しくしてて、仕事をにぎり込んでしまっています。

========

大田さんよりは、二つのご指摘をいただきました。

本エントリでは、一つ目について お返事をいたします。

  1. 政治学はちゃんと 宗教のことを論じてきたのではないか、、、 

まずご確認いただきたいのは、 「 政治学の領域においても 「 宗教 」 に関する認識が欠如している 」 とは、私 「 断言 」 などしておりません。

政治学は宗教について多くを語っているだけでなく、 非常に厚いオリジナルな蓄積 をもつ ―― このことを、私も完全に認めるものであります。

さらには、最近 いくつかの新しい展開がはじまっていることも、わずかながら 知っています。

たとえば、政治理論の古典を自分で勉強しなおさねばならなかった僕にとって、梅田百合香さんの近著 『 ホッブズ政治と宗教 ― 『 リヴァイアサン 』 再考 』 ( こちら @アマゾン ) などは 期待大の作品です。 お金がなくて 買えなくて 未読ですけどねぇ。 

なお 付言すれば、そういったレベルに限っていえば、 宗教学にも政治について論じてきた伝統がないわけではありませんね。 たしかに心もとない系譜であったかもしれませんが、 宗教社会学の重要な分野として、すくなくとも70年代までは、大きな関心がそこにはあったのだ、と了解しています。

全くのコトバ足らずでしたが、、、僕の不満は ちょっと違うところにあるのです。

すなわち、、、80年代以降、とくに21世紀に入って 従来型のパラダイムが有効でなくなった のではないか、、、ということです。

実際、現代宗教論 ( とくに、いわゆる宗教復興論 ) において、宗教と政治の関係を 従来の政教関係 ( 正確には、国家=教会関係 ) の延長で、 あるいは自由論の延長で論じたもので、 深く納得できたことが 僕にはありません。

また、 勉強が足りないだけなのかもしれませんが、 政治学系の先生方や友人に 参考文献を求めても、なかなかこれといったものに出会えたことも、 残念ながら 今のところ ありません。

さらに、 とくに現代の世界情勢に鑑み、 宗教についてどのように語ったらよいか、、、政治学関係の集まりで、そのような戸惑いのコトバを 僕はこれまで何度も投げかけられてきました。

言うまでもなく、これを僕は 「 宗教学、情けないぞ! 」 という叱咤の嘆きとして聞いているわけです。

このような現状理解から、宗教学のみならず、政治学に対してもキビしいコトバを吐いたわけなのです。

間違っているでしょうか・・・? 正直、僕にもまだよくわかりません。

僕の勘違いや無知があれば、ぜひ教えてください。

これは心からのお願いです。 徒手空拳、孤軍奮闘の期間が長すぎて、 ちょっと視線が曲がり、視野が狭まりはじめているかもしれませんから・・・

これからも どうぞ宜しくお願いします。

========

| | コメント (1) | トラックバック (0)

宗教=世俗的近代性

以前、こちらのエントリ で、宗教政治学宣言 をした。 このブログにも 「 宗教政治学 」 のカテゴリを立て、関連するエントリを書きためてきた。 ( まぁ、ささやかなものですが・・・ )

今日は、ちょっとだけ踏みこんだ話をば。

========

宗教学と政治学がほとんど全く ( 本当に!ほとんど全く ) 切り結ぶことのない現状 ―― これは、いまの世界情勢からしますと あきらかに異常です。 

正確に言いますと、 「 切り結ぼう 」 という努力は たくさんあるのです。 あるのですが、それはまだ始まったばかりで、成果はなんとも心もとない、という現状。

それはなぜか・・・ この問いが、本エントリの主題になります。

「 異常 」 というのは、現実の説明として、あまりに シドロモドロ、、、宗教学者は政治が語れず、政治学者は宗教が語れない、、、

実際問題、僕たちの社会と世界では、宗教と政治の境界がどんどん曖昧になっていっている。 なっているのに、それをどう考えればいいのか、誰もわからない、と。

どうしたらいいんだよっ?! という疑問は、当然あります。

そういう具体的な行動指針をもとめる声には、プロとしてぜひ応えていきたい。 しかし、その前に・・・

どうしてそうなのか?! という疑問を、まずは考えてみたい。

こうした理論的で哲学的な設問は、単に、私コンドウの趣味にすぎない、、、ということではありません。 そこには ある必然性があります。

僕の考えでは、宗教学と政治学のあまりに顕著な乖離は、 近代世界 の根本にある 聖俗二元論 のゆえなのです。

聖俗二元論とは、ちょっと分かりにくいコトバですが、、、要するに、、、

聖なるものと、俗なるものを くっきり分けて、僕らの世の中のすべてのことを、その二つのどちらかにふりわける、、、

はっきりさせられない事象は、その二つの 「 混合 」 ということですませる、、、

そういう考え方、 深ぁーーいところにある考え方 のこと。

政治は俗事であり、宗教は聖なること、、、この二つはきっちりと分け る方がよい 、 分け るべきだ 、分け なければならない 、、、僕らの日常生活では、そうした態度が当たり前になっている。 誰に教えられるわけでもないけれど、僕らは そういうものとして毎日を生きている。

この考え方/態度に対応する政治制度、社会制度が、 政教分離の原則宗教の私事化 なわけです。 宗教は決して政治と混ざらないこと、、、宗教は自分でやるのは構わないけれど、他人に干渉してはならないこと、、、

一人一人の心身の深いところにある考え方から、社会や政治の制度までが、きれいに 聖と俗に分離されている状態 ―― これが 「 近代的 」 と呼ばれ、無反省に (= いちいち考え直さなくてよい、当たり前のこととして ) よいこととされている。

したがって、一般には、近代性は世俗的なものと考えられていますが、実はそれは正しくない。

宗教と世俗を二つに分けるところに、近代性の本当の特徴がある。

だから、僕はそれを 「 世俗的近代性 」 ではなくて、 「 宗教=世俗的近代性 」 と名づけているわけです。

だから、学問の世界も、政治学と宗教学は別々にがんばっていけばよい、、、と。

二つの学問領域を橋わたしするというのは、こういうところから考え方を変えていかねばならない。 そうでないと、すごく底の浅い、単なる 「 結合 」 になってしまう。

ではあらためて、どうしましょうか・・・?

この問題が、ここでやっと出てくるわけですが、長くなってしまいますので、また別の機会に。

<メモ>

  • ここで書いたことは、この論文 で論じたことです。 そこで明らかにしたアイディアを、宗教政治学という枠組みに位置づけなおしたのが、上のエッセイです。
  • このエントリを書こうと思い立ったのは、昨日 ( 16日 ) 、島田先生と話をしているなかでのこと (→ こちら )。 昨年末にお会いしたとき (→ こちら ) にうかがっていた、先生の 「 宗教政策学 」 構想に刺激された。 宗教政策学について、先生は近々に論文をまとめたい、とおっしゃっていたので、そちらを待ちたい。
  • そして僕も 「 宗教政治学の可能性 」 とでも題した論文を、もう早めに書いてしまってもよいなぁ、と思った。 本エントリは、そのアイディアの初発メモになります。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

憲政と民俗

2006・読み初めの本として 津城寛文 『 日本の深層文化序説 ―三つの深層と宗教 』 ( 玉川大学出版部,1995年 ) を選んだ。 ずいぶん前に買い求めていたのに、斜め読みしかしていなかったのだ。 例によって例のごとき現状にあっては、いずれにせよ 電車のなか、風呂のなかしか読書の時間はとれないのだが、 できるだけ頑張っていこうと思う。

この本のテーマは 「 民俗 」 。 「 日本の深層 」 に関する諸学説を整理していくなかで、民俗という問題がしめる位置を見定めようとする本だ。 

民俗 は 僕にとって宿題みたいなものである。 津城さんは 本書のなかでこう書いている。

支配のイデオロギーは 「 民衆の生活世界 」 や 「 民俗世界 」 のリアリティに根ざすことなしには受容されない ( 333頁、注12 )

本書は 「 民俗主義 」 という独自の概念で 島薗進教授 をとても高く評価しているが、 僕はそのゼミの出身者である。 島薗ゼミでは、「 普通の人々のささやかだが尊い日常生活 」 へのまなざしが いつも問われていた。 そこではじめて宗教学を学んだ僕が、 いまやヒンドゥー・ナショナリズム研究を専門とし、宗教政治学を掲げている。 (→ こちら、 とくに こちら

諸事情から、インドのヒンドゥー教徒の民俗に直接切りこむような研究が 僕にはまだできていない ( その手の研究には できるだけ目を通すようにしてはいるが・・・ ) 。 エリートの言説分析 が主な仕事である。

しかし、憲政と民俗 とのあいだで蠢いているのが、 ヒンドゥー・ナショナリズムである。 そのことを 僕は誰よりもよくわかっている。 また、ヒンドゥー教において 民俗がいかに重大な意義を帯びているか、 ここであらためて述べるまでもない。

憲政と民俗 ―― この落差が 僕の研究に独自の緊張感をあたえてくれている。 たしかにそうは思うのだけど、 やっぱりいつももどかしい。 だからどうしても、政治理論の書よりは この津城先生の本のようなものを手にとってしまうのだ。

民俗を研究するのはどうしたらよいか、、、 この積年の疑問に なにか答えが見つかればいいなぁ、と思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

体験と理屈

こちらのエントリ への続報、、、というか 追加情報である。

========

先ほど電車のなかで読んでいた 『 現代宗教2003 』 ( 国際宗教研究所編、東京堂出版 )のなかから、 ホアン・マシア先生 の言葉。

宗教には理屈や考えることよりも 体験 が大事であり、それが根幹にあると私は思っています。 しかし、 体験 があった上で……あとで落ち着いて冷静に考える、わきまえるという面がないと、「 体験体験 」というように、原理絶対主義やイデオロギー化したり、熱狂して宗教のなで暴力を犯すということになる。 ただ、あまり理屈っぽく組織的に宗教のことを体系化しようと、非常に合理的になると、せっかくの 体験 も窒息してしまう。 その両極端を避けながら、体験 とよく考えることのかねあいをとるという立場に、いつも私は自分を置いています。(145頁: 強調引用者)

ここで言われているような 体験と理屈 の対比について、僕は 先のエントリ で 次のように書いた。

そうした規範の根づきによって失われる、健全なる狂気 もございましょう。 それはたしかに惜しむべきことであるかもしれません。 ですが、それならばせめて、信心の狂気が健全さを失ったとき、そのエネルギーの奔流を効果的におし留めたり、水路づけたりすることができるような、言説上、制度上の仕組みを 各教団にはご用意いただきたい、と願うばかりです。

僕が 「 健全なる狂気 」 と呼んだものを、マシア先生は、いかにも生の哲学を深く研究なされた方らしく、「 体験 」 と呼んでいるわけだ。

<メモ>

僕の 「 狂気 」 という言葉づかいは あきらかに 町田宗鳳先生 の影響による。

ご関心のある方は、町田宗鳳 「 ウラの共通感覚 」 ( 中村雄二郎・町田宗鳳 『 宗教: 21世紀へのキーワード: インターネット哲学アゴラ 』 岩波書店,1998年,22-29頁 ) をご参照ください。

  • 関係者の皆さん> こちらの論文、YONSHに載っております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

独善からの脱却

ちょっと間が開いてしまいましたが、 前便 の続報です。 ちゃんと書こうとしていたら、どんどんどんどん 長いものになってしまいまして、、、すいません。 お返事御無用につき、どうぞご容赦ください。  > 粟津さん

========

粟津さんは こう書きおこしておられました。

「自らの宗教的背景や価値観の客観視」 も必要な課題であるかと思います。

宗教は世界観であり、その意味でやはり一種のイデオロギーでもあるから、それを(意識的に)研究に紛れ込ませてしまってはフェアではないと思うからです。

「無宗教」を標榜する研究者のパラダイムへの批判は、前便に書いたとおりなのですが、 ここで粟津さんの念頭にあるのは、次の二つの種類の方々だとお見受けします。

  1. 特定の信仰を表明なさっている方による宗教研究の場合
  2. 自覚をもたないまま 特定の宗教の価値観と世界観に導かれている方による宗教研究の場合

2)の場合を入れたのは、「意識的に」 というコトバに 粟津さんが括弧付けされているからです。

それでは まず、1)の場合について:

「無宗教」 「世俗主義」 「 (ポスト) 啓蒙主義」 ではなく、教義 と呼ばれるような強い価値観や世界観をもった人、つまり 信仰者 であることが自他共に認められている人が 宗教研究をおこなうとき、、、

  • その人はどのような立場で研究をなしえるのか
  • その人の研究はどのように評価されうるのか
  • その人は誰に向かって、なんのために研究をおこなっているのか

これについては、実は 私は 責任ある立場からの発言 ができません。 というのも、私は特定の信仰を有しているものではないからです。

正確に言い直させてください。 特定の信仰をもちたいと思っていた20代の私は 自分なりの 求道 をおこなってきました。 自分で言うのもなんですが、それはとても真剣な態度でした。 しかしついぞ 人生を決定づけるような団体なり教義なりに 私は出会うことがありませんでした。 その結果、私は 学問の立場を意図的に選択しました。 それは、通俗的な意味での 非宗教的 ないしは 無宗教的 な生から、宗教に関わったり 関わらなかったりする、個人的な問題や 公共的な問題に対して、発言をしていく、ということを意味します。 そうした 回心 の体験を経て、現在の私は ここにこうして文章を書いているわけです。

特定の教団内での自己批判と自己相対化、有体にいえば 独善からの脱却 ―― 上のような立場をとる私には、これはとても好ましい傾向だ、と思われます。 それがどれだけ大変な作業であるか、 どれほど根本的なジレンマであるか、よく存じ上げているつもりです。 しかしそれでもなお そうした 穏健化 は 多元性をいよいよ増しつつある現代社会において、強く求められるものだと 私は確信しています。

ですから、そうした道をすすむ方々を (あくまで外部者としてではありますが) 私はぜひとも応援させていただきたい、と思っております。

しかし、ここでふと思い至るのですが、私の応援など 本当は必要ない のかもしれません。 というのも、学問の内部ではいまだに、自省と自己批判が中心的な規範として機能しているからです。 それができない人は、学会内では おのずと (いつの日か必ず) きびしい立場に立たされることになりましょうから、 私個人がなにかを言ったり行なったりする必要は、ないのかもしれません。

とくに宗教学は、 神学批判 を基盤としておりますことから、 自宗教の絶対視にもとづく研究に対して きわめて冷淡な処遇をくだします。 そのことを私は経験から知っています。 この規範は宗教学に最も根源的でありますから、易々と消え去りそうにはありません。 (東大宗教学のもっとも若い世代を見ていても、やはりそうです)

しかしながら (と、ここで再度 話を反転させねばなりません・・・) ここでも再び、「誰のための研究か」 という粟津さんの問いが生じるわけですね。 すなわち、、、

  • そもそもの初めから、実は 学問の世界が培ってきた価値観に対して あまり大きな敬意をもっていない方たちが 研究をおこなう場合
  • 有体にいえば、あくまでも教団内の特定サークル向けの知的作業が 「研究」 という名のもとになされている場合

それをどうすればいいか、ということです。

これについても、やはり私は 責任ある発言 ができません。 各教団の内部で、自省と自己批判という規範が (不可知論という誹りをなんとかまぬがれて) 根づくこと、、、 ただただそれを外部者として願わずにはいられません。

ここで 「外部者」 という自己規定が 単なる逃避や回避でないことは、もはやおわかりいただけるかと存じます。

そうした規範の根づきによって失われる、健全なる狂気 もございましょう。 それはたしかに惜しむべきことであるかもしれません。 ですが、それならばせめて、信心の狂気が健全さを失ったとき、そのエネルギーの奔流を効果的におし留めたり、水路づけたりすることができるような、言説上、制度上の仕組みを 各教団にはご用意いただきたい、と願うばかりです。

そうした用意は、意図的に作りあげたり、特定のグループが作り出したりできるものではないでしょう。 教団の規模が大きくなればなるほど 自己編成の力学は複雑になりましょう。 これらすべての困難を了解しつつも、 私は上で述べたような願いを抱くものであります。 このレベルに関するかぎり、 私などの 応援 も いくらか意味をもつかもしれません。

========

2)の場合について:

すっかり長くなりました (というか、アホみたいに 長くなりすぎました)。

これは次便に書かせていただくことにいたします。

========

粟津さん>

本当に長い返事になって、なんだかもう すいませんの一言です。 本気で お返事御無用 でございます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

系譜学の仕事

粟津さん>
お返事がおそくなりました。すいません。

こちらのエントリ に頂戴したコメントへのお返事を書いていたら、思いのほか 長いものとなりましたので、 僭越ながら こうして新たなエントリを立てさせていただくことにしました。 どうぞご了解くださいませ。

========

「無宗教」というイデオロギー/世界観について、宗教研究者がつとめて自覚的であるべきだ、というご意見に 私も大賛成です。

もちろん ここで問題となるのは、単に宗教学の問題ではありません。 近代学問の諸制度と諸規範が 「世俗主義」などをはじめとする特定のイデオロギー的配置のうえに 現になりたっている、という事実こそが真の問題です。 宗教学の場合、それが 神学批判という形で とくに明瞭になっているわけですね。

近代学問を成立させてきた/いる、そうしたイデオロギー上の基盤 (もっともそれらしいコトバを あえて一つ選ぶなら 「 (ポスト) 啓蒙主義 」 となりましょうか) を対象化することは、 系譜学の仕事 となるわけですが、 ご存知のように これはとても険しい試みです。 根源的な自己批判をおこなうわけですから、 失語症、ニヒリズム、反動的保守主義 などを結果してしまうわけです。

ちなみに、私自身は 失語症に悩まされました。 幸い、私は 南アジアという具体的な「事例」を得ることで、その危機をかろうじて脱することができました。

こうしたことの全てをわきまえつつも、 私は 「系譜学の試みは、いま 学問に真摯に向かい合おうとする者にとっては必要不可欠なものである」 と確信するものであります。 とても険しく、出口の見えない道ではありますが、それに真正面から取りくむ方を尊敬し応援しつつ、私もまた 自らの南アジア研究のなかに それを投影させていきたい、と願っています。

<メモ>

脱構築的批判理論と 対象学的方法論との 「緊張関係」、 および両者の結びつきが 個々の「事例」において そのときどきに結晶化するしかない との指摘については、 こちらのエントリ で紹介した 『宗教研究』 IAHR特集号所収の 深澤英隆 報告 (とくにその第四節 「若干の考察」 ) を参照。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脱・脱俗

前便 への追伸である。

『宗教研究』(第345号)で紹介されている、渡辺学先生 の発言 ( の 山中弘先生 による要旨紹介)。

ブランチ・デヴィディアン事件に対するアメリカの宗教学者の経験とオウム真理教事件に対する日本の宗教学者の経験とはまったく対照的だったように思う。 前者は新宗教運動の諸問題の適切な扱いを大衆や政府に表明してその見識を示したのに対して、後者は面子を失ったばかりか、マスメディアの激しい批判から大学の職を失ったものもいた。 私の印象では、日本の学界では、一方で、世俗的な学者が反カルトになりがちであり、原理主義的な宗教者もまたそうであったが、他方で、私も含めてリベラルな宗教者 [ママ] は沈黙を守りがちだった。 オウム真理教事件は、宗教の共感的な理解や解釈学的な再構成をめざす立場にあった宗教学者にとっても、かなりトラウマ的な経験だった。 (34頁)

この一節がどうも心にのこった。

宗教学者が社会的責任や使命を自覚して、道徳的ないしは社会的実践として、状況介入的な発言をおこなうべきときがきている――このIAHR特集号では、そうした認識が繰り返しかたられている。 渡辺先生の上記発言も、そうした文脈のなかで語られたものだ。 そして、そうした関心を 私も共有するものである。 

日本で宗教学を専攻しようとする人は、そもそも 「浮世離れ」 したい欲求が強いかもしれない。 良くも悪しくも、日本で宗教を研究するということは、これまで そのようなもの だったかもしれない。 政治やら経済やら、社会のしがらみやらからぬけ出た場所を得ること、すなわち 「 脱俗 」 ―― この観念こそが 日本における「宗教」なるものを、強く規定している、と言えるかもしれない。 宗教とは、要するに 俗なるものであるべきはないし、宗教のそういうところが好きだから、それを研究してみようか なんて奇特な考えをもつことがある、というわけだ。

それはそれで、とてもよく理解できる。

しかし今、そこから何らかの離脱をしなければならないのかもしれない。 脱・脱俗 の思想と制度が必要なときがきているのかもしれないのだ。

たとえば、宗教学の学生は、どんなに古い過去の、どんなに遠く離れた土地のことに興味があったとしても、あるいは 個人の心の動き、神秘体験などに関心をもっていたとしても、いくつかの 現代的で公的な課題 について かなり明確な認識をもつことを、自らの規範とせねばならないのかもしれない。

それは たとえば 次のような課題だ。

  • 首相の靖国神社参拝は 違憲か合憲か
  • 妊娠中絶は どのようにして正当化されうるのか
  • カルト問題への法的対処は どのようなものであるべきか
  • 暴力を正当化する教義を どのように評価するか

こうした課題を専門的に研究する者が 日本の宗教学界のなかから 一度に大量に輩出されるのは、現状では ほとんど期待できない。 また、そうした研究が 宗教学者に共通の義務であるとまでは 私には言いきれない。

しかし、大学、その他の機関で要請される宗教研究者の卵たちは、そうしたことを 心ひそかにでも 考えておくべきだ、考えておいた方がよい、とだけは言うことができる。 そして、彼女ら/彼らに、僕ら中堅世代は 上の課題を実際に投げかけてみるべきである。 おそらくは、そのような時が もうすでに訪れてしまったのだ。

<メモ>

この問題については

がとても充実している。 ご関心のある方、必読です。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

ごまかされたい人々

いつもお世話になっている粟津先生のブログに、なんとも深くうなずくエントリがあった (→ こちら )。 靖国参拝は 「心の問題」 だとする 小泉の強弁 に対する批判である。

僕がなにも言い加えることはない。 ただもう、粟津先生にハゲシクドーイである。

一言だけ、先生も当然お分かりのことを言い添えるなら、 「ごまかし政治」は ごまかされたい人々 がいるからこそ 成り立つのだ、ということ。

ポピュリズムがどんなに隆盛になろうとも、エリート批判をエリートが口にするのがどんなに当たり前になろうとも、 言うべきことは言わねばならない。 高圧的になりたくはないし、衝突が好きなわけでもないけれど、やっぱり そういうことは必要なのだ、と思う。

<メモ>

粟津先生> 遅々のレスで どうもすいません。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

popular religiosity

前々便 で、カサノヴァの近代主義的な議論からは どうしても「民俗」のレベルがぬけおちることになる 、と書いた。

ずっと精読している この 『近代世界の世俗宗教』 で、「民俗」 と関連が深そうな概念として目立つのは、 popular religiosity である。 第5章「ブラジル」のところに頻出する概念で、津城さんは 「 民間の宗教性 」と訳出している。

しかしカサノヴァは、最後までけっきょく 「民間の宗教性」 そのものを主題化することはない。 彼の議論で、それは ただひとつの資源 ――すなわち  「国家」 「政治社会」 「市民社会」 などのレベルが担う 正当なる 「公共の討議」 に与えられた ひとつの資源―― であるかのようだ。

「アフロ・ブラジリアン宗教」 という範疇も登場するのだが、 それも主題化されることはない。

こうした点は、前々便 でも書いたように、たしかに不満が残るのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

明確な近代主義の立場

前便 で、カサノヴァの 『近代世界の公共宗教』 が 「 明確な近代主義の立場 をとっている」 と書いた。

カサノヴァ自身の言葉でいえば、その近代主義とは 「 リベラリズム 」 ではない。 「リベラルの壁」 という表現が この本では繰り返しもちいられているが、それは 宗教と公的領域を絶対的に隔てようとする壁のことだ。 その「壁」が 経験的にも、思想的にも 無根拠であることを示すのが、カサノヴァの議論の要点である。 したがって、 カサノヴァは 「リベラル」 ではない

しかしカサノヴァは、ハーバマス的な近代合理主義者ではある。 そのことは たとえば、アメリカのカトリックについて論じる章の結論部に出てくる 次のような概念によくあらわされている。

  • 公的討論 (邦訳 261頁)
  • 合理的な公的討論、論争上の倫理 (同)
  • 開かれた合理的な討論 (同 264頁)

これらはいずれも、同定された実体概念であると同時に、 規範的に措定された価値概念 でもある。 これらのものは、カサノヴァにとって、多元化という「近代化」の本質を形づくるプロセスにおいて確保された公共性確定の場として 正当化されうる 事実上唯一の選択肢 なのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

市民社会と民俗

たった今 前便 で市民宗教について書いたが、 そこでは実はまだ 僕がもともと書きたかったことに触れていない。 それは 市民社会と民俗 という問題だ。

カサノヴァ 『近代世界の公共宗教』の邦訳(→ 在庫切れながらも こちら )の「訳者あとがき」で 津城寛文さん は次のように書いている。 思い切って ちょっと長めに引用させていただく。

カサノヴァは、国家レベルの公共宗教、政治社会レベルの公共宗教、市民社会レベルの公共宗教がありうるという風に、公的領域のレベルに応じた公共宗教の諸形態を区別しているが、私は……公共性・集合性をもった宗教には、これ以外の形態もあるのではないか、という気がしてならない。前著 『日本の深層文化序説――三つの深層と宗教』(玉川大学出版部)で、日本(人、文化)論のイデオロギー性に言及した際、イデオロギー批判に解消されない宗教性が民俗的レベルに存在することを示唆しておいたが、カサノヴァの「公共宗教」論を参照することで、国家的、政治社会的、あるいは市民社会的ななんらかの動員をめざす公共宗教とは異なる、「深層文化としての宗教」の位置付けが、もう少しはっきりしてきたように思う。 (邦訳 389頁)

ここでの問題は二段階に分けてみるとわかりやすい。

  1. 市民社会と民俗 (公共性論のレベルで): 民俗とは どのような公共性/集合性なのか? それは 市民社会/政治共同体/社会共同体/国家などと どのような関係にあるのか?
  2. 市民宗教と民俗宗教 (宗教論のレベルで): 上の問題に応じて、宗教の様態や機能はどのようなものになるのか? その上であらためて宗教とはなにか?

これはとても面白い論点だと思った。 カサノヴァの議論自体が、ハーバマス以降の公共性論にのっかっている。 ハーバマスの批判的再検討をおこなっているとはいえ、カサノヴァ自身、 明確な近代主義の立場 をとっているのだ。 こうして 彼の議論からは どうしても「民俗」のレベルがぬけおちることになる。

僕自身、「民俗」をどのようにあつかっていいのやら、あまりよく分かっていない。 ヒンドゥー教のことを考えてみれば、まさに「民俗」と呼ぶべきものが 巨大な役割をはたす一方、 ヒンドゥー・ナショナリズムは 国家、政治社会、市民社会などに本質的にかかわる。 これらの間には、 断絶とともに連続がある としか、いまの僕にはいえない。 

ここをちゃんと説明できれば、とっても素晴らしいとは思うのだが・・・

<メモ>

津城先生の著作一覧は こちら

| | コメント (0) | トラックバック (0)

市民宗教

最近ずっとつづけている カサノヴァ 読解(前便は こちら )。 メモを作ってあった論点が ひとつあったのだが、 ちょうどそれについて書くきっかけができた。 いつもお世話になっている 川瀬さんのブログこちらのエントリ に 次のように書いてあったのだ。

市民宗教 」とは、社会学の用語で、明確な輪郭を持った教団宗教とは違い、いわば「常識」という言葉でカヴァーされるような、その社会の価値体系を構成しているもの、といってよいと思うが(間違いや補足があればご指摘ください)、例えば日本の場合では「私は無宗教です」と言いながら初詣や墓参りは欠かさなかったりするのも、一種の「市民宗教」と言ってよいだろう。 [強調は引用者]

こうした市民宗教論は 欧米のものとは やや強調点が異なっている。 いわば、日本的な理解だ。 欧米で「市民宗教」と言われる場合、それは もっともっと「政治的」なもの だ 。 カサノヴァから一節を引く。

「市民宗教」という近代的な概念は、ルソーの著作にはじめて現われてからロバート・ベラーによって磨きあげられるまで、古典的な共和主義的美徳の伝統と、およびその伝統がもつ近代のリベラルな政治的伝統への不信とに、密接なつながりをもっている。ベラーによるアメリカの市民宗教論においては、この共和主義的な伝統は、契約宗教的で政治的な共同体のカルヴィニズム的伝統と融合し、またデュルケーム派の規範的な機能主義的な伝統とその道徳概念――利己主義的、功利主義的、非機能的な個人主義に対置された機能的個人主義――と融合したものになった (邦訳 79頁)

つまり、市民宗教論には 「市民」という概念の重みがそのままかかっている、とみなさねばならない。 それはもちろん、日本語で言うところの 「 常識 」とか「 世間 」 の次元を含んでいる。 しかしそれだけではない。 それは、 とくに国家との関連において政治的に生きるヒトの宗教 なのである。

デュルケームからベラーへの「社会レベル」における「社会学的」な市民宗教論は、あくまでも そうした「古典的な共和主義の伝統」の近代における残存と変容という文脈において 意味をなす。

とまぁ、、、そんなところで どうでしょうかねぇ・・・

| | コメント (3) | トラックバック (0)

過大評価

またまた カサノヴァの本から 印象的な箇所を引用します。 ([  ] は引用者補注です)  最近、ちょっとカサノヴァづいております。

その1

・・・ 根本主義者の潜在的な力に関する過度の誤解が、共感する者にも反対する者にも、さらには社会科学の多くの分析家にも、広く共有されている ・・・ (邦訳 205頁)

その2

よく組織された声の大きい少数派は、その予期以上の動員力によって、すべての人の不意をついた。その構成員はもっとも多めに見積もっても、人口の二〇%には決して達しなかったが、多くの人の心には、信じられないほど驚異的な多数派(マジョリティ)となって映ったのである。 (邦訳 206頁)

その3

彼ら[根本主義者]が思いもかけず公的領域に帰ってきたとき、居合わせた者たちは初めはびっくりし、やがてその内の幾人かは、根本主義者の公共マナーは「無作法」だと考え、彼らを外に追い出すべきだと思った。しかし根本主義者たちは公共広場に店舗を構えており、彼らの多くはそのままとどまる計画だった。何人かは、政府の建物やパーティー[政党]本部のきわめて近くに、店を出していた。 (邦訳 210頁)

ここに書かれていることは、 僕が この論文 に書いたのと、同じ見解だなぁ、と思いました。 原理主義勢力、宗教ナショナリスト勢力の台頭についての 一般的な 過大評価 という問題です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

信仰と宗教的動機

前便 の続報である。

========

1960年代のブラジルのカトリック教会について論じる箇所で、 カサノヴァは、 「資源動員論」と「動機」との対比を 「道具主義的な分析」 と 「 信仰と宗教的動機 のダイナミックス」 と言い換えている(邦訳 155頁)。 関連する議論は 邦訳151頁の最終段落から ずっとつづいている。

ここでは、前者の有効性をしっかりと認めたうえで、その限界を画する局面として 後者が導入されている。 こうした慎重で丁寧な議論のおかげで、 ここでもやはり 説得力がぐっとアップ している。

<メモ>

それにしても 「道具主義」とは どうもこなれない訳だ。 完全な通訳になっているわけだが、、、 もうちょっと マシな訳はないものか、、、 と思案してみるが、すぐには思い浮かばない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人の心のパワー

こちらのエントリ で 資源動員論についてカサノヴァが述べていることに触れた。 その続報である。

========

資源動員論の限界を指摘したあと、カサノヴァが議論をすすめるのは、社会運動(とくに成功した運動)のオーガナイザーたちの「 動機 」についてである。

「動機」というのはつまり、「 やる気 」である。 人の心のパワー である。 特定の運動が成功する場合、そのリーダーとなるべきオーガナイザーが どれだけ「 やる気 」をもって、どれだけ「 本気 」で 運動の拡大を志しているか が大事だ という見方である。 カサノヴァの言葉では 「 決意そのもの 」、「 精神と心の変化 」と書いてある(邦訳 189、190頁)。 表現はともあれ、オーガナイザーの「 やる気 」の量と質は、資源動員論では説明できないというわけだ。

実際にカサノヴァが取り組むのは、モラル・マジョリティのジェリー・ファウエル の精神史を簡単にたどってみせることだ。

分離主義的で、自足的、 その意味で「狂信的」だったファウエルらの「根本主義」のセクトが、1970年代半ばに 政治、教育、法律などの公的事象に積極的に参与しようとする立場へと 「回心」したのだという。 そして、その内的転換こそが、「プロテスタント根本主義」の公的台頭の契機となった、と カサノヴァはどうやら言いたいらしい。

資源動員論について 明確な立場が示されているおかげで、 上記のような「回心」論は  なかなか説得的 なしあがりになっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

資源動員というパースペクティヴ

カサノヴァの本(→ こちら )から 印象的な一節をば 再び (前便は こちら )。なお、[ ]は引用者注である。

1970年代から80年代にかけてのアメリカでの「プロテスタント根本主義」の台頭を論じる箇所から。

資源動員というパースペクティヴ は、諸運動がいかにして組織され、成長し、衰微するかということに関して、もっともらしい記事を提供できる一方、このパースペクティヴ、とくにその「組織上の支流」というパースペクティヴは、 人々がなぜ最初にある運動をはじめようと望むのか 、その理由を説明するのには、あまり役立たない。人々を集団的行動へと動かした不平の原因と動機、権力への意思、認知され受け入れられたいという要求――これらのことを、その理論は定数とみなし、そしてそれらは定数として、当然のこととみなされるのである。さらにそれらは、もし不足の場合は上のほうから容易に作り出すことができる[とされる]。[また]人々が組織されずにいるのは、周囲の好条件の欠落、資源の乏しさ、組織化に関する技術の不足によることは、まったく明らかである[とされる]。これにより古い諸理論が、原因として不平や相対的剥奪を強調していたこと、また社会運動の発生をそれらの原因で説明できると信じていたことに対して、 資源動員というパースペクティヴ は過剰に反応して、それらを無視するか、あるいは単に組織されるべく待機している資源とみなすことを好んでいる。(邦訳 188頁: 強調引用者)

この一段落は、資源動員論の有効性を数頁にわたって論じてきたあと、あくまでも その限界を示すものである。 こうしたことは、僕も ヒンドゥー・ナショナリズム研究をやってきて 明確に気づいていたことであり、実際 いくつかの論文にも そう書いてきた。

僕の論文と違って、カサノヴァのこの本が すでに「古典」の域に達しているのは、 自らの理解を ちゃんと社会運動論の先行研究を注記することで示している点だ(上記引用では 注は除いてある)。 こういうのを 本当の研究 というのだろう。

さてしかし、 問題は 上の指摘のつづきである。 資源動員論でなにが説明できて、なにが説明できないか を 明らかにしたうえで、 「 では 現実の諸運動/現象の動態を どのように説明しなおすのか 」 というわけだ。 ここが 本当にむずかしいところ であり、僕も そこでかなり微妙な議論を強いられてきた。

はてさて カサノヴァは それをどう処理しているのやら・・・? もう少し 熟読してから 僕なりの理解を得たいと思う。

<メモ>

邦訳者の 津城寛文さんは、 fundamentalism を一貫して「 根本主義 」と訳出している。 そうした訳語の選択は、カサノヴァのこの本で、この語が アメリカのプロテスタントのそれにのみ充当させられているからであろう。 そのことは 理解できる。きっと苦肉の訳出であったのだろう。 しかしそれでもやはり、「 原理主義 」という訳語の方が よかったのではないか・・・ とも ちょっと思った。

実際、、、

  • 6章の注1には、「世界のすべての宗教における今日のさまざまな根本主義的運動」という一節がある(324頁)。
  • 津城さんの「訳者あとがき」に 「原理主義・根本主義」という表現がある(388頁)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

現代の宗教性

カサノヴァの本(→ こちら )から 印象的な一節をば。なお、[ ]は引用者注である。

宗教の脱私事化は、反近代(アンチモダン)の現象として理解することもできないし、ポストモダンの現象として理解することもできない。私の見る所、近代の私事化された種類の宗教性が、ポストモダン状況の真の先触れであるが、ここに示された宗教現象[すなわち、宗教の脱私事化]はどれも、その意味深い例として見ることはできない。 ・・・・・・ ポストモダン的なものと宗教の公的復活[脱私事化]との間に、直接のつながりあるいは偏った親和性を見出そうとするのは、難しいだろう。すでに示したように、ここで分析された宗教の公的干渉[脱私事化]という現象は、近代の制度化がとる特定の形態を、近代の規範的パースペクティヴから内在的に批判したもの、とみなすのがより適切であろう。 (邦訳、290~1 頁)

ここで「ポストモダン」は、「 ハイパーモダン 」と書いた方が 誤解がなかっただろう。 

「近代の規範的パースペクティヴから内在的に批判」 とは、要するに 「近代の近代による近代のための近代に対する批判」であるから 単に 「 モダン 」 ということである。

つまり、 一般に 「 現代の宗教性 」 という問題を 仮に掲げたとすると、 そこでは 次の二つのことが区別されねばならない、 ということだ。

  • 私事性、拡散などを特徴とする「宗教なるもの」「宗教性」は ハイパーモダンに対応する現象である。
  • 公共性、動員などを特徴とする「宗教ナショナリズム」「原理主義」、およびその他の「公的宗教」は (分析レベルにおいて) モダンに対応する現象である。 ただし、ここでのモダンは 「リベラル」ではないし、ましてや「啓蒙主義」ではありえない。

留意点をふたつ。

1)

上で箇条書きにした二点のうちの後者を、多くの社会科学者は なかなか承認しないであろう。

モダンで公的な宗教なんてものがありうるのか???

というわけである。

しかし、カサノヴァは それは完全にありうるし、現にあるし、これからもあるだろう、という (もちろん 僕もそれに 全面的に賛成だ)。 その論証こそは この本の全体が行っているところであるから、納得できない方は ぜひとも その全体を通読してみてほしい。 いずれにせよ、 この文脈であらためて、 この本が 「 近代世界の公共宗教  Public Religions in the Modern World 」 と題されていることを 想起すべきである。

2)

現代宗教論において 「 宗教復興 」という問題設定をした場合、あまりにもしばしば、上で箇条書きした二つの傾向が 混同されてしまう。 「復興する宗教」というあいまいな観念が、それを呼び込んでしまうのだ。

しかし、これらは はっきりと区別された方が より豊かな現代宗教論が書けるように思われる。

たとえば、『現代宗教 2005』(→ こちらこちら )に載った イアン・リーダー先生 の論文は、そのお手本だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

インドの爆弾テロ

ずっと「下書き」状態になっていて なかなかアップできなかった。 インドの爆弾テロ の話。

29日、インドのデリーで 爆弾テロがあった。 先日までの死者は61名にのぼるという。 秋の大きなお祭りであるディーワーリーをすぐにひかえて、楽しげに買い物する市井の人たちをねらったものである。 爆弾が炸裂した3箇所は、いずれも 下位中間層の家庭が 日用品やらなにやらを買い求める 庶民のマーケット地区 である。 僕もよく 買い物にいった。 また、ひとつの地域は デリーの安宿街、 バックパッカーならだれでも知っている メインバジャールであった。 

犯人はおろか、犯行グループの背景もまだ特定されていない。 日本の新聞の記事では、パキスタンに拠点をおく イスラーム過激派組織のひとつによる犯行ではないか、、、カシュミールで活動する 同様のグループの犯行ではないか、、、などと書かれていた。 今回の大地震 を契機とする 印パ融和ムードをこころよく思わない者たちの凶行だ、との見方である。

その可能性は たしかに排除できないものの、 まだそれは単なる予測にすぎない。 事態の推移を冷静にみまもるようにしたい。

ところで、、、

日本のテレビは この事件を 実に小さくしか取り上げていない。 イラクとインドネシアでの爆弾テロがあまりに目立つせいだろうか。。。 その間の地域への注目が すっかり弱くなっているように思えてならない。 インドは ムスリム人口が世界第二位の国である。 南アジア地域ということであれば、 圧倒的に世界一だ。 もっと注目が集まってもよさそうなものなのに・・・ (タイでも イスラーム過激派によると思われる陰惨な事件が起きたばかりである → こちら

<メモ>
日本外務省の渡航情報は こちら
とりあえず目についたものとして、日経の報道は こちら
僕がTBさせていただいたブログは こちら 。 そして こちら

| | コメント (0) | トラックバック (0)

小泉靖国参拝 #3

なかなかしっかりと書く時間がとれない、、、 小泉靖国参拝 の憲法問題としての側面。

高橋哲哉  「 首相の「靖国」参拝─何が「問題」か 」 は、まずはぜひ読んでいただきたい記事です。

<追記>

先々便 「 小泉靖国参拝 」 (→ こちら ) コメント欄での かんたさんとの意見交換は さらに継続中です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

小泉靖国参拝 #2

もしや お気づきでない方もいらっしゃろうかと思い、 まったく老婆心ながら お知らせいたします。

先便 「 小泉靖国参拝 」 (→ こちら )のコメント欄にて 「かんたさん」と かなり突っ込んだ議論をさせていただいております。 

ご関心のある方は どうぞご覧下さい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

小泉靖国参拝、および公明党

小泉靖国参拝、および公明党 の問題 (ただし、いわゆる 学会バッシング ではない。 責任与党としての公明党についての 真っ正直な評価と批判) に関連して、 先日もご紹介した 先生のブログで 立てつづけにエントリがあった。

いずれも短いものではあるが、参考になる。 僕としては、とくに後者のエントリに 強く印象づけられた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

小泉靖国参拝

宗教政治学宣言 をかました身としては、 はやく書かなくちゃ、はやく書かなくちゃ、、、と 気ばかり焦っています。 小泉靖国参拝 問題!!

時間がないので 要点だけ。

  • 首相、閣僚の靖国参拝に 断固反対
  • 外交問題、憲法問題だけに 反対の理由を限定してはならない、と考える (もちろん 双方とも 本質的に重要な問題ではあるが、、、)
  • 戦争責任、不戦の誓い、、、そういうものへの 態度不十分さが問題だ! と提言したい
  • 次の条件がクリアされて はじめて、 首相の靖国参拝の当否を議論することができるようになる 、と考える (ご注意: してよい、、、すべきだ、、、ではない!!)
  • すなわち、隣国、世界各国の 「追悼施設」 「戦争記念施設」 への 「 公式 」 参拝を、継続的に 日本の首相、閣僚がおこなってきた という実績が積み重なること
  • それについて 各国の (反日過激派 以外の ) 良心派とのあいだで 一定の理解が積み重なること 
  • 外交問題、憲法問題も、、、行政+民間のこうしたイニシアティヴにより 大きく様変わりするだろう
  • しかる後に、 国内の問題として 憲法論議(主として 政教分離、信教の自由、良心の自由)をすることができるだろう。

走り書き ご容赦ください。 大して煮詰まってもいないアイディアの羅列です。 また必ず、これについては書きます。

<リンク>

いつも回覧しているブログでは まだ全然 議論がもちあがっていない。 現時点で 素早い反応を示したのは、次のエントリのみでした。

  • おそらくは 公明党支持者/共鳴者だと思われる 大学の先生による エントリ → こちら
  • 政治問題についていつも迅速な反応を示し、なおかつ 明確な立場を決して崩さない リベラル派の大学の先生による エントリ (日記形式のもの) → こちら

| | コメント (13) | トラックバック (0)

宗教が強すぎて

先日 千葉市女性センターでおこなった講義(→ こちら)の感想が 担当の方から届いた。

ふむふむ、、、講義は どうやら好評だったみたいですね。よかったです。

いただいた感想のなかで 気になるポイントが三つあった。

  1. 宗教が強すぎて 、国民を支配している」
  2. 「宗教と政治が結びつくのはとても恐ろしい」
  3. 「インドの女性がかわいそう」

二つ目と三つ目の点は 別便で書くことにして、 ここでは第一のポイントについて ちょっと書かせていただきたい と思う。

受講者の方々> もし このブログを読んでおいでなら、質問なり反論なりを ぜひともお寄せください

「宗教が強すぎて、国民を支配している」というのは インドの現状を表わすコトバとしては、 半分当たって 半分ハズれ ている、と僕は思います。 日本と比べて インド人の日常生活において宗教がとても重要な役割をはたしている、というのは その通りでしょう。 でも、強 すぎる というのは どうでしょう? まして 支配している という とても否定的な言い方は どうでしょう?

それは とても素朴な感想です。素朴で率直な感想なのですから、僕もそれを尊重したい。バカにしたり、無碍に否定したりは 絶対にしない。しかしながら ですね、 外国のことを理解するためには、そういった単純素朴な感想は むしろ障害 になってしまう、、、僕は このことを強調したいのです。

「宗教が強すぎて、国民を支配している」というのは 日本人が日本人の感覚で インドのことを 勝手に 判断して、 勝手に 評価している、、、そんなコトバではないのかな、、、と僕には思えるのですが、いかがでしょうか。

二つのことを申しあげます。

  • 宗教を弱めてしまえば、インドの人たち(とくに ここでは女性)は解放されるのでしょうか? 幸せになるのでしょうか? 宗教(この場合、とくにヒンドゥー教)は たしかに人を「支配」したり、不幸にしたりしています。それはそのとおりです。 しかし、 それが宗教のすべてでしょうか ? もっと複雑で、色々な方向へと向かう道筋が そこには含まれているのではないでしょうか?
  • 私たち現代日本人は、何かに「支配」されてはいないでしょうか? 私たちの日常生活もまた 何か「強すぎる」ものによって「支配」されてはいないでしょうか? 宗教以外にも 、人間は多くの「強すぎる」ものに「支配」されている、、、それが実は普通のことではないでしょうか?

素朴で、良心的な(つまり、インドの人のことに 真剣に同情する、そうした)気持ちが、むしろ 私たちの知らない世界を バカにしてしまうことがある、、、ここで ふんばれるかどうか、、、それが外国のことを学ぶキーになるでしょう。 要するに、 自己反省が先にあるべし ということです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ホセ・カサノヴァ 『近代世界の公共宗教』

ホセ・カサノヴァ 『近代世界の公共宗教』 (→ こちら @アマゾン) を読みなおしている。 言うまでもなく、 宗教政治学のお手本 の一冊だ(→ こちらのエントリ も参照)。

まだ1章を読んだところだが、 自分がどれだけ強く この本に影響されていたのか 気づいて、びっくりしている。

最初に読んだのは、 出てすぐのことだから もう7~8年前。 そんなに熱狂して読んだわけではなかった。 でも、、、 基本的な主張、 細かな論旨展開、 記述のスタイル、、、 今の僕と すごくよく似ている 。 とくに 最近の自信作 「 宗教復興と世俗的近代 」が まるでカサノヴァ的であるから、 自分でも ちょっととまどっている。 

全面的に絶賛、、、というわけではない。 注文を二点 つけておこう。

  1. カサノヴァ本人も認めていることだが、あまりにも「 西洋中心 」すぎる。 なんてったって、キリスト教のことしか書いてないのだから。。。 僕の研究は、カサノヴァの理論枠組みを ヒンドゥー・ナショナリズムの事例から検証するもの、、、という位置づけができそうだ。 同じ疑問は、 矢野秀武さん からも提出されている( こちら @アマゾン)。 カサノヴァの議論では、タイの仏教のことがさっぱり分からない、 というわけだ。 さもありなん。
  2. 宗教概念の定義問題 が 完全に脇におかれている。 これはマズい。 この問題は、宗教復興論、世俗化論、「公共宗教」論の本質に関わる。 僕自身、上記拙稿で これらの諸問題のリンクを ほのめかすだけでおわっている。 一度、ちゃんと論じておかないといけない。 来年の宗教学会ででも 発表させていただこうかしら・・・

こうした注文はあるけれど、 やっぱりよくできた本だ。 カサノヴァの頭の良さが サラリと表されている。 これからも しばしば読み返すことになるだろうなぁ。。。

なお、2004年9月、カサノヴァさんが来日した折の動向については、 川瀬貴也さんがレポートしてくれている(→ こちら )。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

宗教政治学宣言

現代においてマジメにものを考えている宗教研究者なら、 一度は頭をよぎったことがあるだろう 「 宗教政治学 」 というこのコトバ!!

こうした学問分野は いまだない!! ガンディー研究をやり、ヒンドゥー・ナショナリズム研究をやっている僕は、 そうした学問分野の必要性と可能性を痛感しているのだが、 そして この分野の確立を 専門家も非専門家も 皆が願っていることを知ってもいるのだが、 やはり 宗教政治学なんてものは 地球上のどこにもない!!

僕自身、研究をはじめた当初は 「宗教政治学」というコトバは ぜんぜん頭に浮かんでいなかった。だけど最近、 これまでやってきたことをまとめると、、、どうやら そういうことになるのかなぁ、、、 と思う。

新しい学問分野を立ち上げるというのが 一体どういうことなのか、、、 僕にはさっぱり分からない。 しかし、これまでの経験から、とにかく お手本になる(のっかれる)先行研究が全然ないので (これは 本当に見当たらないので、ご存知の方があったら むしろぜひ教えていただきたい)、 理論から方法から 自分でいちいち 作りあげなくてはいけない、、、 というのは 承知している。

かなり大変な作業になりそうだ、、、 というのも うすうす分かっている。 これまで宗教政治学が生まれ育まれてこなかった理由も、 おおよその見当がついている (これらの点については、いずれ 別のエントリにて)

さて どうしたものか・・・? 

おそらく近道は、モノグラフをきっちり ものにすることだろう。 僕であれば・・・

  • ヒンドゥー・ナショナリスト・イデオロギーを徹底的に分析した 博論の出版  (← お話はあるのだが、 とにかく 生活のための塾のバイトが忙しくて、まったく手がついていない)
  • 独立インドの近代化/世俗化 の形態を具体的に論じた 歴史社会学的な本を書くこと  (← これも構想はあるのだが、方法論的に とても困難なので、とにかくまったく進んでいない。とりあえずは ミーナークシプラム「事件」についての論文を書くことから始めてみよう、と思っている。その後は、インドの新宗教の研究をサーベイしてみよう、と思っている。 ・・・時間がほしい・・・)

これらの著作を通じて 「宗教政治学」なんてものに可能性があるのかどうか、世に問うてみないといけない、そうするのが近道のはずだ。 薄っぺらな内容ではない、ガッチリとした調査と論証にもとづいた、面白い モノグラフ――これを書いてしまえば、 同志が声をあげてくれるのじゃないか、、、と夢想する。 

まだ時間はかかるかもしれない。単なる僕の妄想なのかもしれない。しかし、これが 僕の 宗教政治学宣言 です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宗教復興と世俗的近代

現代宗教 2005 』が出版されました。今号の特集は「宗教復興の潮流」です。 (業界外の方> これは 国際宗教研究所 が編集し、年一回、東京堂出版から発行されている雑誌です。一般書店で購入可、公立図書館にもおいてあることもあります)

私そこに 「 宗教復興と世俗的近代 ――現代インドのヒンドゥー・ナショナリズムの事例から」 という論文を載せていただきました(83-105頁)。 (原稿執筆では、締め切りを大幅におくれ、編集の方には 大変なご迷惑をおかけしました。 本当にすいません >関係各位)

これまで出されてきた宗教復興論は どれも どうも納得いかないところが多かった。完全な的外れとは言わないけれど、インドや日本、アメリカや中近東など 世界各地の事例を 思いおこしてみると、 どうも それらがうまく説明できていないんじゃないか。。。 ハズレじゃないけど、アタリでもない。。。 そんな感覚が 僕には非常に強かったのでした。

もうこうなったら、自分で 理論的なレベルから (つまり、世界各地の細かな 細かな事例を、ここ数十年のスパンでまとめあげるような) 全体的な見取り図を描いてみよう!! と思って 書いたのが この論文です。 つまり、僕なりの 宗教復興論の基礎論 ということです。ここから この分野がうまく発展していけばいいな、、、という願いをこめました。

したがって、どうしても 宗教研究業界の専門家向けの論文になってしまいました。おそらくは その筋の方でないと、何を言ってるんだか よく分からない・・・ ということになるでしょう。 (この点でも 編集・出版サイドにはお詫び申しあげます。当初、「一般の方にも読んでいただけるようなものを書きますよぉっ!!」 と豪語していたくせに、、、 すいません >関係各位)

そのような欠点があるにはあるのですが、内容的には かなり気合を入れて、出せるものはギリギリまで出しつくして 書いた論文ではあります。 どこかでお手にとっていただき、なおかつ もしもご感想など寄せていただける なんてことがありましたら、、、本当にうれしいです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)