Dear Dr. Waterman,

あらためまして、コメントありがとうございます。

あまりにも見事な日本語であるため、最初、あなたがアメリカの方だというのを簡単には信じられませんでした。 しかし、もし本当にそうであるなら、海外からのレスポンスをいただくというのは、まったく予想もしていなかった、とても嬉しい出来事です。

さて、、、

すっかり遅くなってしまいましたが、いただいたコメントについて、二つにわけて話をさせてください。

(1)
コメントをいただいたエントリ では、まくらにテロの話題をもってきたため、それを書いた際にわたしの念頭にあった事柄が、あなたをはじめとして読者の皆さんに うまく伝わらなかったかもしれません。

私の主たる関心は、昨今のテロそのものではなく、いわゆる 「 開発問題 」 でした。

最初にはっきり申し上げておきますが、 テロ対策について、私は、ある程度明確な態度をもっています ( もっとも あなたほどの単純明快さは、相変わらず欠いていますが )。

おっしゃるように、今の日本において警察権力の見直し ( 場合によっては 強化 ) は第一の優先事です。 ご存知のとおり、戦前戦中、さらには戦後 ( とくに、マルクス主義運動への弾圧がはげしかった時期 ) の経験のゆえ、日本には、警察権力の強化に対する強い警戒心があります。 それを僕は、的外れで余計な心配だとは決して思いません。 しかしそれでもなお そのことが非常に重要な課題であることは 完全に認められます。 国家暴力装置なくして いわゆる一般人の日常生活秩序が保たれうると考えるほどのアナーキストでは、僕はありません。

さらに、より大きな問題としては、自衛隊の法的形態と活動範囲を積極的にみなおす必要があります ( ただし、自衛隊の存在そのものが法的かつ歴史的、さらには 「 文化的 」 ですらあるような、複雑な諸条件に拘束されているのは、ご存知のとおりです )。 もちろん、在日米軍基地の問題はこれと不可分です。 冷戦期とは大きく様変わりしつつある日本の安全保障を冷徹にみきわめるべき時期が、今たしかに到来しています。

この分野ではどうしても受身に回らざるをえない日本ですから ( 「 受身 」 という表現は、後述する本便の主題に関わりますが、ともあれ 日本を 「 受身 」 にさせる第一の主導要因は、もちろん アメリカ政府の極東戦略です )、その作業はとても大変なものになります。 しかし、それでもなお、日本の外務省と防衛庁、および関係各省庁にはがんばってもらわなくてはなりません。

マスコミ、学者などの役割も非常に大きいことは言うまでもありません。 文学部の、しかも宗教学という、とかく浮世離れしがちな場所に身をおいている私ではありますが、こうした方面での知的な体力が試される時代に 自分が投げ込まれていることを、よく心得ております。

一方、このこととは明確に分けてご理解いただきたいのが、次のテーゼです ―― 干渉や介入は いつも問題含みである。 いよいよこの点こそが、本便の主題になります。

近代化、民主化、自由平等、人権、、、 いろんな価値観で正当化されててさ、まぁそれも分かるんだけどさ、やっぱりさ、「 よそ者 」 による干渉と介入は 「 大きなお世話 」 「 ありがた迷惑 」 なんだよなぁ、、、困っちゃったなぁ、、、

あまりにも日本語的なこの言い回し、ニュアンス、、、 あなたにならきっとご理解いただけると思います。

念のため、ちょっと具体的に申し上げます。

あなたは、日本の戦後民主主義を 「 当時のアメリカン・エリート 」 の功績とお考えですね。 苦笑を禁じえないのは、こうした立場が、日本の側の主体的な関与には全く触れないという点で、典型的な half truth であることです。

しかし、その点についてここで議論するつもりはありません。 ただ、「 苦笑 」 と書いたけれども、私はもちろん、全体主義から解放されたばかりの日本が ( 赤化されることなく ) 急速に民主化しえた事実に 「 アメリカン・エリート 」 が大きく関わっていたことを完全に認めるものである ―― このことははっきり申し上げておきます。

さてしかしながら、これらの全てにも関わらず、歴史上におこったそうした出来事を 立派な功績である と ( あなたが実際になさっているように、あるいは少なくとも 意図されているように ) 単純に言い切ることは、私の考えでは、誰にもできません。

「 ありがたいことなんだろ。それは分かってるんだろ。だったらウニャウニャ言わず 黙って受け入れてりゃぁ いいんだよ 」

こうした立場は、政治的には有意味でも、倫理的には無意味です。 有害ですらあります。

そこから僕がすぐに想像するのは、小学校の教室でのイジメッ子 ( とくに、腕力ではなく理屈と正義を振りかざし、クラスの皆をじわじわと支配しているタイプのイジメッ子 ) の姿です。

物理的暴力を必ずしも伴わないような、巧妙に仕組まれた、加害者もそれと気づくことのない、ときに被害者すらもそれと気づかない、制度的で構造的な、心と体に染み入ってくる暴力 ―― インドのある政治学者は、サンスクリット文化の強制力に言及する文脈で、これを pedagogic violence ( 教導的暴力 ) と呼んでいます ( これは単純にヘゲモニーと呼んでもいいのですが、この言葉ではもはや そこに含まれる倫理的なジレンマを言い表すことができないように思われます )。

政治的のみならず、文化的にもヘゲモニーを獲得してしまっているもの ( 上のもの、イジメッ子 ) には、その圧力のもとで少しずつ声を奪われ、自分を見失いそうになっているものたちの、モヤモヤとした、当て所ない苛立ちや焦りに 気づくことは、かなり難しいでしょう。

もちろんこれは、アメリカだけを念頭においた発言ではありません。 まったく同じことは、諸国に対する日本の姿勢にもあらわれています。 沖縄やアイヌや同和に対する大和人の姿勢にも、オンナに対するオトコの姿勢にもあらわれています。 その他にも、私の日常生活の各所に、それはあらわれています。

あなたのコメントから、私はそうした点に関する感性の乏しさを読みとりました。

政治的な正当化言説を、倫理的なジレンマから引き離しておくことが必要だ、と私は確信しています。

私は、無為主義にも諦観主義にも不可知論にも組しないのはもちろん、知識人の役割を批判にだけ限定するようなタイプの批評家にもなりたくありません。 しかし それと同時に、 倫理的な原則をないがしろにしてしまう 「 現実主義者 」 にも なりたくはありません。

行動に対するコミットメントと、倫理的な感性を同時にもちつづけることを、僕は大事にしていきたいのです。

======

さて、、、

最後に言い添えておきますが、上で述べたような感性は 決して 「 日本的 」 なものではありません。 私はむしろそれを 欧州やインド、そして一部のアメリカの学者から学びました。

これが、私のコメント返しにおける二番目の話題です。 すなわち、あなたが多用されている「日本」「日本人」という表象を問題視する、ということです。

しかし、もうすでに十分長いお返事となりました。 項をあらためて 書かせていただきたいと存じます。

とりあえずのお返事まで

コンドウ

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死 ・ 破壊 ・ 笑い

生死や破壊をメディアでみて、カタルシス――

それって ドウナノカナ・・・と思う。 ましてそれが、映画や漫画のような娯楽になってくると、複雑な思いが どうしてもする。

こんなんでいいのかなぁ・・・ 俺ってなんなんだろう・・・ いつからこんな奴になったのかなぁ・・・ あぁそうか、小学校低学年で もうそうだったなぁ・・・ こんなんでいいのかなぁ・・・

正論を言ってしまえば、やっぱり!!そういう娯楽は 正しくない のでしょう。

正しくない、、、正しくない、、、

そう思いつつ、これまた正直なところ言ってしまえば、そういう映画や漫画を 僕はやっぱり好き なのである。

この辺りが全然整理できていない。

映画 『 デッドコースター 』『 ターミネーター3 』 を観て、大笑いした僕。もちろん、映画館で笑っていたのは僕と連れのふたりだけ。

ネット上のコメントは どうも生真面目なものが多いけど、こちらの二作品、明らかにお笑いだと思う。 製作サイドも どこかで、あるいは意識して、お笑いをやろうとしているでしょう。 

いったい これってどういうことなんだろう?

僕が 人でなし なだけなのかもしれない。でも、それだけではないかもしれない。

死 ・ 破壊 ・ 笑い には何かしら とても大事なリンクがあるように思えてならない。

でも、それが何なのか、まだわからない。

<メモ>

  • 死や破壊が関係するのは、笑いだけではない。爽快感 もまたそうだ
  • 死や破壊の暴く力、、、暴かれるなにか、、、その辺りが関係していそうだ
  • そして このリンクは、僕らの暴力と非暴力につながっている、間違いなく
  • 死と破壊が 単なる商品ではないような、どこかギリギリの場所・・・
  • メディアと情報と資本制の現代において、そこを見極めなくちゃいけない

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近代性とはなにか

非常勤で授業なんぞをやっていて、 ときどき聞かれる問いがある。

近代性とはなにか・・・

もちろん!!この問いに対しては、いろいろな偉い学者さんが ちゃんとした解答をもう用意してくれている。 しかし、いつもどうも納得しきれなかったので、僕なりに答えを出してみた。

近代性とは 「 人間主義、個人主義、合理主義 」 に支えられた観念と制度の体系である、と。

  • 神から人間へ ( 人間主義 )
  • 集団から個人へ ( 個人主義 )
  • 感性から理性へ ( 合理主義 )

こうした三種の価値観シフト ( 認識論的には、人間、個人、理性の概念化と定位 ) が、近代性をもっともよく特徴づけるのではないか。逆から言えば、 神なき個々人の理性中心主義 こそが 近代性の極致ではないか、、、そんなように考えているわけです。

ちなみに、上の三つのシフトはちょうどその順番で、西欧に起こったのではないか、と見通しをつけていたのですが、、、 西欧の哲学史・心性史を実際にたどってみると、そこまできれいには 流れていかないみたいですね。

しかし、である。

上の僕なりの答え、、、実は 国家論 が入っていない。 そこに国家論を入れると、とたんに 簡単ではなくなってしまう。

小杉泰先生 は次のように述べる。

「 近代国家 」 とは何かを問うならば、領域主権国家・国民国家・世俗国家と概括することができる。領域主権国家は一七世紀半ばのウェストファリア体制によって確立されたが、これは領土を持つ国家を主権の主体として、宗教を主権の主体から閉め出すものであった。ヨーロッパでは、三〇年戦争などの宗教戦争を経て、宗教は政治から次第に分離し始めたのである。それでもまだ、領土を持つ主権国家であるだけならば、絶対的君主を主権者として運営されることも可能であった。しかし、フランス革命を経て、その主体は国民でなくてはならなくなった。国民国家システムの成立である。さらに二つの世界大戦を経た現代では、国家の存立基盤は民族自決権であることが確認されているから、たとえ擬制でも国民を主体としなければ、国家は認知されえない。民族自決権が国家の源泉であることは、宗教的な権威によって国家権力を認証する理論が必要でないだけではなく、国民国家にとって有害であることを意味する。世俗国家とは、そのような国家である。近代国家は、かくして、主権・国民・世俗性を主たる属性とするようになった。

出典 :  小杉泰 「 宗教と政治―宗教復興とイスラーム政治の地平から 」 ( 池上良正・小田淑子・島薗進・末木文美士・関一敏・鶴岡賀雄(編)『岩波講座 宗教1 宗教とはなにか』岩波書店,2003年,241-72頁所収 ) 247頁. (→ こちら @Amazon)

主権 ・ 国民 ・ 世俗性 」 と 「 人間 ・ 個人 ・ 理性 」 、、、この二組の問題系を 僕はまだ上手に接合できないでいる。

<メモ>

  • 小杉先生については、このブログですでに紹介させてもらっている ( たとえば こちら
  • 上記論文、、、僕の論文を引用してくださる数少ないもののひとつ。ありがとうございます。もうなんだか 普通にうれしいです。

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世界のシェリフ

パレスチナでのハマス大勝、、、武装放棄拒否のニュースを聞きながら。

わけても軽視してならないのは、 犯罪者は裁判上および行刑上の処置そのものを見るというまさにそのことのために、 自分の行為、 自分の行状を それ自体において 非難さるべきものと感じることをいかに妨げられるかということだ。 というわけは、 犯罪者は、それと全く同一の行状が正義のために行われ、 そしてその場合は 「 よい 」 と呼ばれ、 何らの疚しさを感じることもなく行われているのを見るからである。 ( ニーチェ 『 道徳の系譜 』 木場深定訳、岩波文庫、95ページ、強調ママ )

具体的には、 「 警官や検事 」 が弄する 「 探偵・奸策・買収・陥穽 」、あるいは 「 刑罰 」 における 「 褫奪・圧制・陵辱・監禁・拷問・殺害 」 などのことである。

あぁ 世界のシェリフ よ、、、俄か靖国信者の宰相よ、、、

<メモ>

J-WAVE のニュース速報では ハマスは 「 イスラム原理主義組織 」 と言われていた。

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ロマン主義

中学生からの質問シリーズ!! 

ロマン主義 って なんですか?

明治大正期日本の文芸運動のなかに出てくる 「 ロマン主義 」 のことなのだが、、、 そこで 北村透谷、島崎藤村、与謝野晶子、青木繁 などの名前を出して お茶を濁しては、 哲学科出身の名がすたる。

僕は こう答えました。

お金でもない。 理屈でもない。 直感とか感情とか、そういうのを大事にしていこうっていう考え方だよ。 

ロマンって言っても、 男と女の恋愛ロマン、、、じゃないからね。

<メモ>

  • 中学生からの質問シリーズ第一段は こちら
  • ロマン主義については、 こちらのエントリ でも述べたことがある。 ちょっと文脈は違うが。

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交通信号の倫理

いつも拝読し ときどきTBもさせていただいている川瀬さんのブログに こんなエントリ があった。 そちらと同様の関心を、ホアン・マシア先生先のエントリ でご紹介ずみ ) も表明なさっているので、ご紹介。

いわゆる 交通信号の倫理 、 赤だったらとまる。 青だったら、じゃあ線を引いて。 赤でも注意して信号を無視することがあるでしょう。 たとえば 子供を救うためにね。 逆に、青であっても、危ないから止まることもある。 そういう 交通信号のメンタリティ しかないと、[妊娠]一四日前だからなんでもいいと。 逆に、生命が始まって三ヶ月であっても、たとえば手術の途中で、ほっておけば母親も胎児も死ぬというような時には、もっとも厳しい伝統的な倫理学者でさえも、「 こういう時は出してもいい、これは中絶と呼ぶべきではない 」 と。 交通信号の線引きの考え方をもっていますと、なんでも許されるような操作と、何かの理由がある時でさえも、いや、もう始まってるからいけない、という両極端になる。 ( 『 現代宗教2003 』 国際宗教研究所編、東京堂出版、159頁: 強調引用者 )

( 正直 僕には最後の方の意味がうまくとれないのだが、まぁそれはさておき ) 生命倫理、、、というよりはむしろ、ご自身の言葉にしたがえば 「 生と死を見つめる哲学 」 ( 155頁 ) についての議論のなかでの発言である。 排他的ナショナリズム批判という川瀬さんの文脈とは異なるのだが、僕らがいま公的な問題について 頭を使うとき、なにをどう注意すればいいのか という点で、両者は共通している と思った。

上の引用文にすぐにつづけて次のように言われる。

このような話は、医療とか、生物だけの話ではなく、また、宗教だけではない。 そこに 哲学 のようなものの考えかたも入れたいですね。 交通信号、線引きのような考え方――今のデジタル時代の考え方ですね――、 [ 〇か ] 一しかないというようなこういうデジタル化した考え方ではなく、哲学 のものの考え方もする必要があるんじゃないか。( 同: 強調引用者 )

ここで 「 交通信号のメンタリティ 」 に対置される 「 哲学 」 なるものを、司会の 島薗進先生 はすぐに 「 生きていることの複雑性をそのままに受け止めるような考え方 」 と言い換えている ( 同 ) 。

僕も こうした考え方に賛成だ。 現時点では どう考えても、こうした複雑性の哲学で 決まりだ。

では次に、実践は? 

そこで 司会の島薗先生は、< 複雑なことを重視していると同意形成ができない > というお定まりの批判を紹介し、対談者の二人に意見を質すのである。 まずは マシア先生が応えて、両論併記 の重要性を説く。 次に 伊藤道哉先生討議プロセスの開示パブリック・オピニオンの収集・開示 の重要性を説くのである。

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下衆な思想

行きつけの台湾料理屋での出来事。

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夜12時。 僕はひとりで砂肝のピリ辛炒めを食べていた。

一人のオヤジが入店し、僕の背後に座る。 年のころ50過ぎ。 サラリーマン風ではない。 中小企業の社長かなにか、そんないでたちだ (まぁ、そりゃそうでしょぉ。平日の夜中12時に、餃子で焼酎をかっくらいはじめたんですから)

そのオッサンが、店員に向かって大声で話し始める。 馴染みの客のようで、先日話題にしたという後輩のことをまず口にした。

ほら、この前話しただろぉ。中国人の女とくっついたって奴。

「中国人の女」という言い方に、すでに下衆なものを感じる。 ここは台湾料理屋なのだ。 しかしまぁ、それぐらいなら、と思う僕。 口の悪いオッサンはどこにでもいるものだ。

突然、話がクワガタの話になった。 その後輩とテレビを観ていたら、ニュースで問題にされていたのだという。

なんだかよぉ、外国のクワガタが日本中で増えてるんだってよ。 ほら、台湾とかフィリピンとかあっちの方から、でっかいクワガタとか輸入されてんだろ。 あれが逃げ出してよぉ、日本のクワガタとできちまって、大変なんだってな。 日本のクワガタがいなくなるって、連れが言い出してよぉ。

ふむふむ、たしかにそうらしいなぁ、とうなずく僕。

そんで俺は言ってやったんだよ。 「なに言ってんだ。お前だって血ィ混ぜてんだろうが」ってな。 がっはっはっは。

厨房には二人の中国人コック。 日本語も少し分かる。 「中国の女」 「台湾やフィリピンのでっかいクワガタ」 「混血」 、、、でかい声で騒ぎ立てるオヤジ。

こういうのはやっぱりダメだ。 このオッサンが、そういう発想を、そういう言葉で表現するのには、なにか一定のプロセスがあったのだろう。 今日その場所でそんなことを言うのには、彼には彼なりの事情もあるのだろう。 自分が口にしていることが、どこまで攻撃的なものなのか、それすら気づいていないかもしれない。

しかし!! その全てにも関わらず!! こんな 下衆な思想 は、やっぱりダメだ。 それを理解しようとしてはいけない。 大学の先生だからって偉そうにしたいのではない。 ただもぉ、ひとりの近代的ヒューマニストとして、それは聞くにたえない雑言だった。

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ナショナリズムと生物学的人種主義が、こんなにもみっともなく、攻撃的に混じっているのを、僕ははじめて耳にした。 インドではそういう経験はときどきある。 日本でははじめてだった。 (あっ、、、 よく考えたら 「はじめて」 ではないか・・・)

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常識を疑うこと

哲学とはなにか、、、という質問を 中学生から受けた。

常識を疑うこと

と即座に応えた。 正確にいえば、これは 「 批判 」 ( クリティーク ) である。 しかし、いま中学生に身につけてほしい思索の態度として、 僕は 「批判」 を選んだわけである。

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西田哲学

朝日新聞の朝刊に 梅原猛が 「反時代的密語」 という 月一(ぐらい)連載をやっている。

昨日もそれが載っていた。 「 西田哲学 はロマンティシズムか」 と題されている。 その最後の二段落を 備忘録として書き抜いておく。 僕としては、京都哲学の(ひいては 戦前からつづく日本の言論界の)遺伝子、、、 というか 怨念 のようなものを、 強く強く思い知らされる一節である。

西田は、新しいロマンティシズムは自然科学の煉獄を経なければならないという。とすれば、それは東洋の知恵に学びつつ、また最近の自然科学の成果をもとり入れつつ、近代文明の自然征服の思想を徹底的に批判して、水爆あるいは環境破壊による人類の滅亡の危機を避け、人類の末永い安泰を図る哲学でなければならない。

西田哲学がそのような新しいロマンティシズムの道を行く哲学であったとすれば、私もその道を西田よりさらに遠く進みたいと思う。

梅原が 市井の日本人(とくに おじさん?) に 格段の人気のある「哲学者」であること。 この連載が 天下の大「朝日」でおこなわれていること、 などなど 僕らが ちゃんと考えるべき点は まだまだ多い。

もう一点。

このコラムで 梅原は、 西田の思索の生活を 次のようにまとめている。

彼は午前中の頭脳がさえている時間は専心思索をし、頭脳が疲れた午後の時間を読書にあてた。思索に疲れた西田が散歩した東山疎水沿いの道が、今は「哲学の道」として京都の名所になっている・・・

ここで梅原は 西田が朝から晩まで 哲学することができたように書いているが、 本当にそうなんだろうか・・・? なんだか うかつに信じられないけれど、 もしそうなら、 自分を ハンナ・アーレントになぞらえることで、 なんとか精神のバランスを保とうとしている 最近の僕などは、 こうした 生活の労苦をともなわない哲学には どこか空々しさを感じてしまう。 間違ってはいないのだろうけど、 当たってもいないのではないか・・・ そんな直感がはたらいてしまうのだ。 偏見だろうか。。。。 偏見だろうなぁ。。。。 

ただし、 思索と読書で生活がなりたってしまう哲学者は、 「マハトマ」ガンディーやマザー・テレサとは全然ちがうし、 (マルクスはさておき) 立派な社会主義者たちとも違う ―― それだけは たしかだ。

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自分作り

「習い性」 という言葉があるが、 研究者の習い性といえば、 ものを書いたり言ったりするとき そこに「 なにか新しいこと 」が入っていなくてはいけない、、、と考えてしまうこと があげられるかもしれない。 「研究者」 というのが 広すぎるくくりだとすれば、 少なくとも 僕には そういう自己抑制の傾向がある。 「なにか新しいこと、 面白いことを 言わなくちゃ」 という 強迫観念である。 「 プロの仕事 って そんなもんじゃないの・・・?」 という 思い込みが 僕にはあるのだ。

こんな話から説きおこしたのは、他でもない、 これから下で 「もうすでに 多くの人が 多くの場所で 書いたり言ったりしていること」 を 書こうと思っているからだ。 変な職業意識、 独りよがりの自己抑制 を かなぐり捨ててでも、 言葉にしておきたい、、、今朝 アイスコーヒーをすすりながら、 僕はそう思ったのです。

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人生いろいろ と言ったのは、 我らが宰相であったが、 政治的な当不当 ・ 人間的な好悪 を別にすれば、 言い得て妙である。

人生はいろいろである 。 本当にいろんなことがある。 思うにまかせない出来事が たくさんおこる。 イライラすること、不当だと思われること、言い訳したいこと、悲しいこと、つらいこと。。。

そんなとき、僕は どうしても 「周りの人や事との関係」  で行動/コトバ/思いをおこす、、、または 「周りからの刺激」 に対して ただ素朴に反応する。 当たり前のように 反射的にそうする。 しかし そうすることで 僕は、、、なんだか 自分を見失っていくような気がする

それに気づくと、 「自分」ってなんだろう と思う。 なんだか 周りに流されて、 周りの刺激に反応するだけの ひとつの物体 であるような感覚になる。 

他の人の心のなかは ホントは よく分からないのだけれども、 「 自分探し 」という観念が 現代日本で (いくらか下火になったとはいえ、なおも) 根強い人気を誇るのは、 そうした 僕のような精神状態が 広く共有されていることを 証しているのだろう。

でもおそらくは 「自分」は 探してみつかるもの ではないのだろう。 どこかに隠されてあるものではない。 どうしてそう言えるんだ、、、と問われても 答えはないのだけど、、、僕にとっての「自分」とは そのようなものではない、 あるいは 僕の「自分」がそういうものだとすれば、 僕は ぜんぜん救われない。

「自分」とは (探し出すのではなく) 作り上げるもの である -- そう言った方が 僕にはどうもしっくりくる/美的に満足する/コミットメントを生ずる (なんだか やる気がでる、 ほのかな希望がみえる)。 

一昔前 「自我」 批判 が流行し、 今や それが当たり前になってしまっている。 自我という 内面世界の強すぎる中心が、 もろもろの苦しみの原因なのだ・・・と。 たしかに そういう面もあろう。 でも、それだけじゃない のではないか。 固くない、閉じていない、他者という陰画を勝手に作りあげることのない、 だけども頼りになる 、、、そんな自我こそが いまの僕の願いであるし、、、また 他の多くの人にとっても そうじゃないのか、 と思うのだ。

具体的にいえば、 そんなに大したことを言っているのではない。 自分にとって何が大切で、 何を変えないか、、、 柔らかくても 倒れない 失われない 何か 、 僕のなかの軸、、、そんなことだ。

たとえば 僕にとって それは 「 修行 」 というプロセスの観念、 「 利他 」 「 」 という究極の理想 (あこがれとしての高み) として もうすでにそこにある 。 それを見失わないことが きっと 僕にとっての 「 自分作り 」 であるのだろう。

そして、、、きっと 何人かの人々にとっては そういう方向に心と体を向けることが 大切なことなんじゃないか、、、と まぁ そんなことを思う。 もちろん ここには、 思想的ニヒリズム と 実践的ショーヴィニズムの直結 という、 僕なりの時代判断もあるのですが。。。

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