こんな囀りをした
適宜添削をほどこしたもの 再録します
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今回 6年ぶりに印度に行ってみて思った――
あのクニは変わったようで変わってない
変わってないようで 変わった いや
変わったようで 変わってない いやいや
……以下無限ループ……
我ながら
こうしたいかにもな印度特殊論しか口に出せないのは
地域研究者として いかがなものかと思うのだが…
素直な感想はやっぱりそうなのだ
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ここで「印度特殊論」とは
いかなる変化や影響も 受け止めきってしまい(!)
結局は 何か印度的なるものの連続性が保たれる――
そういった印度理解の型のことだ
深いところで印度は変わらない 印度はいつまでも印度だ――
あの土地柄はたしかに特徴的なので
そのような見方も 必ずしも間違っているとばかりは 言えない
しかし、それを強調しすぎれば
単なる特殊主義者の主張に堕する
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こうした逡巡は バカバカしいものだ、と思われる向きもあろう
しかし、僕が特殊主義に敏感なのは
ナショナリズム研究をやってきたからなのだ
≪印度的なもの≒ヒンドゥー的なもの≒印度国民国家原理≫
という ナイーブな想定!
保守主義が普遍的な悪だなんて
僕はもちろん これっぽっちも考えていない
とくにヨソサマの社会や政治に変革を促しうる
倫理的に正当な立場性を確立するのが いかに難しいことか――
阿呆な僕でも よく承知している
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さてこのように 僕は
印度研究でオマンマを食べさせていただいている身として
印度旅行の感想ひとつを口にするのにも
ノイローゼ的なこだわりと思案をば
織り重ねないわけにはいかないのであります
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印度のことに 話を戻そう
印度社会から受ける不易流行の印象 という話だった
どんな地域でも どんなクニでも
おそらく同じことが言えるだろう
変わったといえば変わった、変わらないといえば変わらない――
でも、僕の言いたいのは そんな当たり前のことではないのだ
二段階にわけて 囀ってみたい
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第一に、 印度には ホントにピンからキリまで あらゆるものが
素のままで明け透けに ギュッと押し込まれて現前している
恰好つけや 建前や 嘘なんかすらも
実に判りやすく そこにある
だから 変化が生じたとしても、 それが
印度のいつかどこかにあったもののように思われて仕方ないのだ
配置や強度が変わっても やはり常に類似の印象を与える
そう それはまるで万華鏡のようなのだ
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第二に、 言うまでもないことだが 印度は変化している
細部の変化のことではない
そんなのは単に当たり前なだけだ
総体的な変化のことが言いたいのだ
例えば 経済構造の変化
(構造は単体的実在ではないので、変化捕捉には理論と方法論が欠かせない)
例えば メディア上の共通経験の変化
(記憶と慣習のレベルの変化なので、捕捉条件は上に同じ)
例えば 社会的威信の源泉の変化
(同上)
印度の変化はどうしても
印象論的、あるいは表層的にしか とらえられない
ということになりがちだ
そしてそうした印象は
印度の 《本質における》 不変化という観念に すぐ通じてしまう
だからこそ社会変動論の常に倣って
理論と方法論をいつも反省しながら
しっかりとした論述をしなくちゃいけない
とても面倒で 一見バカバカしい程に細密すぎる注意の払い方だ
と思われようが、 ただそれだけが
有意味な地域/クニ理解を与えてくれるだろう
そして 地域研究者ってのは そういうことをする人をいうのだろう
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以上のようなことを 囀りました
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