Dear Dr. Waterman,
あらためまして、コメントありがとうございます。
あまりにも見事な日本語であるため、最初、あなたがアメリカの方だというのを簡単には信じられませんでした。 しかし、もし本当にそうであるなら、海外からのレスポンスをいただくというのは、まったく予想もしていなかった、とても嬉しい出来事です。
さて、、、
すっかり遅くなってしまいましたが、いただいたコメントについて、二つにわけて話をさせてください。
(1)
コメントをいただいたエントリ では、まくらにテロの話題をもってきたため、それを書いた際にわたしの念頭にあった事柄が、あなたをはじめとして読者の皆さんに うまく伝わらなかったかもしれません。
私の主たる関心は、昨今のテロそのものではなく、いわゆる 「 開発問題 」 でした。
最初にはっきり申し上げておきますが、 テロ対策について、私は、ある程度明確な態度をもっています ( もっとも あなたほどの単純明快さは、相変わらず欠いていますが )。
おっしゃるように、今の日本において警察権力の見直し ( 場合によっては 強化 ) は第一の優先事です。 ご存知のとおり、戦前戦中、さらには戦後 ( とくに、マルクス主義運動への弾圧がはげしかった時期 ) の経験のゆえ、日本には、警察権力の強化に対する強い警戒心があります。 それを僕は、的外れで余計な心配だとは決して思いません。 しかしそれでもなお そのことが非常に重要な課題であることは 完全に認められます。 国家暴力装置なくして いわゆる一般人の日常生活秩序が保たれうると考えるほどのアナーキストでは、僕はありません。
さらに、より大きな問題としては、自衛隊の法的形態と活動範囲を積極的にみなおす必要があります ( ただし、自衛隊の存在そのものが法的かつ歴史的、さらには 「 文化的 」 ですらあるような、複雑な諸条件に拘束されているのは、ご存知のとおりです )。 もちろん、在日米軍基地の問題はこれと不可分です。 冷戦期とは大きく様変わりしつつある日本の安全保障を冷徹にみきわめるべき時期が、今たしかに到来しています。
この分野ではどうしても受身に回らざるをえない日本ですから ( 「 受身 」 という表現は、後述する本便の主題に関わりますが、ともあれ 日本を 「 受身 」 にさせる第一の主導要因は、もちろん アメリカ政府の極東戦略です )、その作業はとても大変なものになります。 しかし、それでもなお、日本の外務省と防衛庁、および関係各省庁にはがんばってもらわなくてはなりません。
マスコミ、学者などの役割も非常に大きいことは言うまでもありません。 文学部の、しかも宗教学という、とかく浮世離れしがちな場所に身をおいている私ではありますが、こうした方面での知的な体力が試される時代に 自分が投げ込まれていることを、よく心得ております。
一方、このこととは明確に分けてご理解いただきたいのが、次のテーゼです ―― 干渉や介入は いつも問題含みである。 いよいよこの点こそが、本便の主題になります。
近代化、民主化、自由平等、人権、、、 いろんな価値観で正当化されててさ、まぁそれも分かるんだけどさ、やっぱりさ、「 よそ者 」 による干渉と介入は 「 大きなお世話 」 「 ありがた迷惑 」 なんだよなぁ、、、困っちゃったなぁ、、、
あまりにも日本語的なこの言い回し、ニュアンス、、、 あなたにならきっとご理解いただけると思います。
念のため、ちょっと具体的に申し上げます。
あなたは、日本の戦後民主主義を 「 当時のアメリカン・エリート 」 の功績とお考えですね。 苦笑を禁じえないのは、こうした立場が、日本の側の主体的な関与には全く触れないという点で、典型的な half truth であることです。
しかし、その点についてここで議論するつもりはありません。 ただ、「 苦笑 」 と書いたけれども、私はもちろん、全体主義から解放されたばかりの日本が ( 赤化されることなく ) 急速に民主化しえた事実に 「 アメリカン・エリート 」 が大きく関わっていたことを完全に認めるものである ―― このことははっきり申し上げておきます。
さてしかしながら、これらの全てにも関わらず、歴史上におこったそうした出来事を 立派な功績である と ( あなたが実際になさっているように、あるいは少なくとも 意図されているように ) 単純に言い切ることは、私の考えでは、誰にもできません。
「 ありがたいことなんだろ。それは分かってるんだろ。だったらウニャウニャ言わず 黙って受け入れてりゃぁ いいんだよ 」
こうした立場は、政治的には有意味でも、倫理的には無意味です。 有害ですらあります。
そこから僕がすぐに想像するのは、小学校の教室でのイジメッ子 ( とくに、腕力ではなく理屈と正義を振りかざし、クラスの皆をじわじわと支配しているタイプのイジメッ子 ) の姿です。
物理的暴力を必ずしも伴わないような、巧妙に仕組まれた、加害者もそれと気づくことのない、ときに被害者すらもそれと気づかない、制度的で構造的な、心と体に染み入ってくる暴力 ―― インドのある政治学者は、サンスクリット文化の強制力に言及する文脈で、これを pedagogic violence ( 教導的暴力 ) と呼んでいます ( これは単純にヘゲモニーと呼んでもいいのですが、この言葉ではもはや そこに含まれる倫理的なジレンマを言い表すことができないように思われます )。
政治的のみならず、文化的にもヘゲモニーを獲得してしまっているもの ( 上のもの、イジメッ子 ) には、その圧力のもとで少しずつ声を奪われ、自分を見失いそうになっているものたちの、モヤモヤとした、当て所ない苛立ちや焦りに 気づくことは、かなり難しいでしょう。
もちろんこれは、アメリカだけを念頭においた発言ではありません。 まったく同じことは、諸国に対する日本の姿勢にもあらわれています。 沖縄やアイヌや同和に対する大和人の姿勢にも、オンナに対するオトコの姿勢にもあらわれています。 その他にも、私の日常生活の各所に、それはあらわれています。
あなたのコメントから、私はそうした点に関する感性の乏しさを読みとりました。
政治的な正当化言説を、倫理的なジレンマから引き離しておくことが必要だ、と私は確信しています。
私は、無為主義にも諦観主義にも不可知論にも組しないのはもちろん、知識人の役割を批判にだけ限定するようなタイプの批評家にもなりたくありません。 しかし それと同時に、 倫理的な原則をないがしろにしてしまう 「 現実主義者 」 にも なりたくはありません。
行動に対するコミットメントと、倫理的な感性を同時にもちつづけることを、僕は大事にしていきたいのです。
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さて、、、
最後に言い添えておきますが、上で述べたような感性は 決して 「 日本的 」 なものではありません。 私はむしろそれを 欧州やインド、そして一部のアメリカの学者から学びました。
これが、私のコメント返しにおける二番目の話題です。 すなわち、あなたが多用されている「日本」「日本人」という表象を問題視する、ということです。
しかし、もうすでに十分長いお返事となりました。 項をあらためて 書かせていただきたいと存じます。
とりあえずのお返事まで
コンドウ
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